敬虔なクリスチャンの大園俊子は、元鎌倉夫人であった。
彼女の父親は元日銀の支店長までなった。
いわゆるお嬢さん育ちで女子高校から東京渋谷の女子大へ通っていたので、恋愛の機会、経験もなく父親が勧める結婚をした。
当時の大蔵省に勤める夫はエリートでハンサム。
鎌倉の教会での結婚式では8㍉カメラが3台。
教会の外でも撮影が行われたので、通りかかった人たちは、芸能人の結婚式かと思ったほどである。
俊子も美貌であり、羨むほどの美男美女のカップルに映じたのだ。
だが、皮肉なもので長女が5歳、二女が3歳の時に、夫の博幸が鎌倉駅で電車待ちをしていたところ、よろけた人に押されてホームに入って来た電車に跳ね飛ばされたのである。
即死であった。
23歳で結婚した俊子は29歳で未亡人になってしまった。
夫の3回忌法要の席で、俊子は従弟の三浦春夫と再会した。
俊子の結婚式以来であった。
俊子の母親の弟の三浦寅雄は元共産党員で、戦後は大田区で区民向けの新聞を発刊していた。
息子の春夫は大学卒業後、大手の出版社に勤務していたが、上司とぶつかることが多かった。
我が強く、人に使われるタイプではなかったのだ。
彼は、父親の真似をして、新宿でタウン誌を始めた。
「俊子ちゃん、家に居ても、つまらないだろう。うちへ来ないか?」と春夫は言葉をかけた。
「私に務まるかしら?」俊子は勤めた経験がなかった。
「電話番でもいいよ。気楽な気持ちでくればいい」春夫は情が深い男であり、若くして未亡人になってしまった俊子に同情していた。
鎌倉から新宿まで通うのは大変と思っていたが、春夫は「10時出勤でいいよ」と特別に扱ってくれた。
わずか5人の会社で家族的な雰囲気で俊子は気が楽になれた。
2年後、俊子は鎌倉の家を売って、東京・世田谷成城のマンションを買った。
国鉄がストの日、小田急線は動いていたので、俊子は出勤できた。
大田区の蒲田に住む春夫、経理の大畑絹絵は中央線の阿佐ヶ谷、記者の久保一郎は船橋から通勤していた。
3人は已むなく欠勤であった。
もう1人の記者の私は中野に住んでいたので、歩いて出勤した。
私はその日、俊子と初めて2人切りになれたのだった。
思うに国鉄ストがなければ、俊子とは親密になれなかっただろう。