は〜るばる来たぜ伊平屋島〜!
さ~かまく波を乗り越えて~♪
伊平屋(いへや)島は沖縄県最北端の島。緯度は鹿児島県最南端の与論島とほぼ同じ。今帰仁村の運天港からフェリーで黒潮を横切り1時間20分。海上から見ると起伏に富んだ神秘的な姿をしていて北から田名、前泊、我喜屋、島尻、野補の5集落に約1200人が住む。
那覇でレンタカーを借り、朝8時過ぎに出発、10時過ぎに運天港に着く。運天港近くの民間駐車場にレンタカーを預け、11時発の連絡船に乗る。船は午前と午後の2便がある。
12時20分、伊平屋島・前泊港着。8年ぶりに帰ってきたぞ~。
フェリーターミナルの向かいにあるレンタカー屋さんでレンタカーを借りる。ボロボロの軽自動車。沖縄は潮風が強いので車がすぐ痛む。そういえば昔は床に開いた穴から道路が見える車などいくらでもあったなあ。すこし懐かしい。でも、どこか苦しそうなエンジン音に舎長はビビっている。
とりあえず、島一周ドライブに出発。どこにも立ち寄らなければ1時間もかからずに一周できる狭い島だが、見るところはけっこう多い。
おお、田んぼでは、3月半ばなのにもう田植えが終わっている。伊平屋は山が連なり水が豊富なので古くから稲作が盛んだ。ここは田名地区。私の祖母の出身地。
島の最北端、クバ山。クバは南九州ではビロウと呼ばれる椰子科の植物。沖縄ではクバ笠、クバ扇などの他、さまざまな民具に加工される。一面クバに覆われた岬のてっぺんには灯台が立つ。
この海岸沿いに巨大な岩壁がそそり立っていて、階段を登っていくと中腹に小さな岩の裂け目がある。
そこから中に入ると、奥に拝所(うがんじゅ)がある。クマヤ洞窟と呼ばれ、天の岩戸伝説もあるという。拝所で手を合わせ、入口に戻る私を、背後から舎長が写真に撮った。
後で画像を見て舎長が騒ぎ出した。「一反木綿が写ってる~」
この写真にもぼんやり青い影が…
そして外へ出ようとする私の背後にも…
一反木綿てなことはないだろう。ここは沖縄の聖地なのだ。琉球の精霊に違いない、ということにしておこう。(まあ、ただのハレーションなんだろうけど)
琉球の精霊にも後押しされながらドライブは続く。おお、ヤギもいる。
車を停め、名もない浜に出てみる。ユウナ、アダン、ヒルガオと続く海岸林を抜けると、砂浜と海が広がる。
海と空と風の音だけ。何もない沖縄。私の原風景。
ふと、考えが浮かんだ。この島にとりこと舎・伊平屋支舎を作れないか。京都のとりこと本舎とは別に。
観光ルートから外れたこの島に、宿は、工事関係、役場関係、墓参りの帰省客など向けの小さなビジネスホテルと民宿が数軒だけ。ここに旅人(旅すること自体を目的とする人)向けの、あるいは体や心を休めたい人向けのゲストハウスがあれば、どんなに素晴らしいか…。うちのお客さんも喜ぶに違いない。
などと考えながら、伊平屋一周ドライブも最終目的地、舎長が強く見学を希望した「屋蔵墓」へ。
初代琉球王、尚巴志(しょうはし)のご先祖、屋蔵大主(やぐらうふぬし)の墓。
王祖の墓にしては、海岸沿いの岩穴を石で塞いだだけの素朴な墓だが、昨晩、ゼンコーさんから伊平屋には琉球王尚巴志のご先祖の墓があると聞いて、舎長が何故か興奮しはじめたのだ。後でわかったのだが、尚巴志を尚ヒロシと聞き間違え、うちのヒロシにも縁があるかもしれないと早とちりしたようなのだ。
そうとも知らず、私は8年前の記憶をもとに、海岸沿いの遊歩道を行こうとしたが、嵐で道が流されたようでたどり着けない。そのとき、墓の方に人影が見えた。マイクロバスを降りた団体が墓の上の方に付けられた道を歩いている。私たちも戻って、その道を降りて墓に向かった。
墓に手を合わせ、帰ろうとしたとき、マイクロバスの一行のなかの40代くらいの男性に声をかけられた。
「伊平屋には何度か来ているの?」と。
私は亡父が伊平屋の出身であること、祖父の名前は金城徳栄で野甫の出身ということなどを告げた。するとその男性が、墓の下の方にいた年配者に声をかけた。
「村長~、金城徳栄って知ってるか~」
実は一行は、伊平屋村長と村議会の面々で、現在開会中の村議会で議題になっている、遊歩道の損壊状況を視察に来ていたのだ。
私は「金城」では知られていないかもしれないと思い「父は新嶋徳正と言います」と付け加えた。その言葉に村長が反応したのがわかった。
「新嶋?」「金武にいらした新嶋先生の家には行ったことがあるが…」と村長は言った。(続く)
右が伊礼幸雄村長。現在3期目。
藍染⁇ 瑠璃色⁇
どんな意味あるんだろ〜