カヤとトチが相次いで死んだ。どちらも突然死だった。
10月20日午後、夏野菜を始末した後の畑へトチとカヤを入れて茂った草などを食べさせていたところ、1時間ほどでカヤが座り込んでしまった。あの食い意地旺盛なカヤにしては変だなとは思ったのだが…。
舎長によると、ヤギたちを小屋に戻すとき、他のヤギたちは走って小屋に戻ったが、カヤは立ち上がろうとせず、舎長に引っ張られて小屋に戻ったそうだ。その夜9時40分ごろ、寝入りばなを舎長に起こされてヤギ小屋に駆けつけると、呻き声を上げながらカヤが小屋の外に横たわっていた。荒い息を吐き谷じゅうに響き渡るような声でウー、ウーと呻いている。なすすべもなく「カヤ! カヤ!」と呼びかけながら腹をさすっていたが、やがて口のまわりにうっすら泡のような唾液を残してカヤは息絶えた。9時55分だった。
それから4日後の10月24日、舎長と外出し夜9時ごろ帰宅すると、小屋の中にトチが横たわり既に息絶えていた。トチの体にはまだ微かにぬくもりが残っていた。出かける前までトチはごく普通だった。トチもカヤも死んだ翌日に京都府・南丹家畜保健所に運んだ。
トチが生まれたのは2016年5月7日。クリの最初の子だった。父親は同じ南丹市内にある「るり渓やぎ農園」のオス山羊・チューボー(こちら)。
ピョンピョン飛び跳ねる真っ白な子ヤギだった。「真っ白な子ヤギ」というのは同義反復みたいなもの。「ピョンピョン跳ねる子ヤギ」もそう。子ヤギというのは(ザーネン種であれば)どの子ヤギも真っ白でピョンピョン跳ねるのだから。
そんなトチは、生まれてから何度も「痛い目」に遭ってきた。
最初の痛い目は、除角。生まれて11日後、るり渓やぎ農園で角の核を電気ゴテで焼き切ってもらった。悲鳴をあげながらの除核だったが十分に焼き切れていなかったようで、後に除角が失敗だったことを知る。何か月が経ったころ核の部分から柔らかく歪んだ角が生えてきたのだ。その角が伸びて来るたびに、鉄製の網や柵などに引っかけて根元から角が取れ、顔を血だらけにしてトチは泣いた。
次に、生後3か月弱のころ獣医の三浦先生に去勢してもらった。オス山羊の家畜としての価値は、種オス、食肉用、草刈り用(去勢)しかないが、わが舎の場合、ひとりぼっちのクリの「お連ヤギ」として、オスであれメスであれ生まれた子ヤギを飼い続ることに決めていた。本で読んだのだが、スイスではヤギを1頭だけで飼うと動物保護法で処罰されるのだという。群れで生きるヤギを1頭だけで飼うのは虐待になるという。1頭では可愛そうと思い、もう1頭いないかと探しまわったが子ヤギを得ることはできず、結局、クリに子を産ませ、生まれた子をお連れにしようということになった。結果、オスが生まれ、飼い続けるために去勢した。基本的に産業獣医の外科手術は麻酔など使わない。トチと舎長が悲鳴をあげるなかタマタマ切除手術が執刀された(こちら)。
第3、翌年の冬に脚の腱を切った。
大雪の日で、車に乗りたがらないトチにクリが付き添って三浦先生のところへ連れていった。
その後は角が取れかかったり、歪化した角が伸びて頭蓋骨に突き刺さってきたため切断したりということもあったが、概ね大過なく成長し、
わが舎の人気ヤギとして、特に女性のお客さんから熱い支持を受けてきた。
カヤは、トチと1年違いの同じ日、20017年5月7日に生まれた。双子で生まれたオス山羊(タブ)は近所の酪農家へもらわれていった。
生まれてすぐに母ヤギのクリが足を痛め授乳が困難になり、人間用の哺乳びんで与えようとしたが、うまくいかず、
搾った乳を洗面器に入れて飲ませた。
幼いカヤは牧瀬里穂に似た可愛い子ヤギだったが、メンタルは強かった。
よくトチ兄ちゃんにいじめられたが、大人のヤギたちに混じっても決してひるむことなく、よく食べ成長していった。
節分の日、年の数の豆を食べる一家。
トチ、カヤ、短い間だったけれどありがとう。世話の焼けることもあったけれど、私たちやお客さんにたくさんの笑顔をくれたね。
カヤが死んだ翌21日、お客さんが発たれた後、家畜保健所に運んだが、法定伝染病の疑いがなければ解剖はしないと言われた。だが4日後、トチも急死したことで翌25日に保健所が解剖してくれることになった。
解剖の結果、腸炎が原因だろうと言うことだったが、なぜ腸炎が起きたかについては、細菌や寄生虫の影響かもしれないという程度で、立て続けの2匹の急死に納得いく説明は得られなかった。
クリは再び一人になった。
大事に育てていきたい。
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