カキぴー

春が来た

「人間万事塞翁が馬」

2010年10月25日 | 小説
作家で精神科医の加賀乙彦氏が、36年も前から軽井沢・追分の住人であることを始めて知った。 実は僕のブログで時々紹介する「軽井沢に別荘を持つ友人」は、長く旧軽井沢で過ごしていたが、湿気が多く、賑やかにになり過ぎたのを嫌い、昨年自然の多く残る「追分」に居を新築して移り住んだ。 信濃追分は軽井沢町西端に位置し標高1000メートル、軽井沢の一部ではあるが軽井沢の華やかさはなく、美しい森と広大な畑と宿場町としての歴史と堀辰雄や立原道造などの文学がある。

加賀氏は81歳、すでに日本人男性の平均寿命を上回り、一日に原稿用紙一、二枚を書き上げるのがやっとの状態。 2年前奥さんに先立たれ、自身も心臓に持病を抱える。 老いた者、弱った者にとって自然が与える喜びはかけがいない、今は追分の大いなる自然の中に身を置きながら、小説を書ける限り書き続けるのが最高の幸福だとおっしゃる。 そんな中で昨年末に書き上げたのが 「不幸な国の幸福論」。

「幸福を定義してはいけない」 これは氏が80年の人生の中で読書を重ね、自分なりに考えた果てに気ずかされたこと。 幸福について誰かがした定義を鵜呑みにしてはいけない、幸福とはこういうものだと考えた途端、その定義と自分の状態とを引き比べ、何かしらのマイナスを見つけてしまう傾向が人間にはあるからだ。 「そもそも幸福とは定義できないもの」  もっと乱暴な言い方をすれば、幸福や不幸などというものは世の中に存在しない。 ただ人間がそういう言葉を作り、ある状態に対して評価をしてるだけ。

自分の置かれている状況に対する本人の評価が低ければ、別な人にとって幸福だと感じる状況でも不幸と思える。 何を幸せだと感じ、何を不幸と感じるかはその人の捉え方、受け止め方によって異なるはず。 また長い人生においては「万事塞翁が馬」の故事が示すように、幸福だと思ったことが不幸に転じ、不幸だと思ってたことが幸福に転ずることもしばしば起こる。 また 「禍福は糾える縄の如し」と言うが、時にはほんの一瞬のうちに幸と不幸が逆転することもあり得る。 要は「幸も不幸もその人の考え方次第」 考え方ひとつで幸せにも、不幸にもなる。

僕がこれまでの人生を振り返って思うことを、加賀氏は文章にまとめてくれたように思う。 30歳で創業し、女房の協力も得ながら会社を大きくし、息子も経営に参画して、念願の株式上場まで果たしたら倒産。 ところがこの倒産で命を救われた。 厭世状態となって居を移し、ゼロから始めた田園生活が僕の肉体と精神を作り変え、治らないはずの「前立腺がん」を克服できたらだ。 倒産の後始末を終え東京へ出て行った息子も、逆境を乗り越え強くなり、独立し事業を始めた。 農業の傍ら趣味となったブログを豊かな自然の中で執筆しながら、人生まさに「塞翁が馬」・「禍福は糾える縄の如し」を実感している。 そして「神は耐えられないような苦痛を人に与えない」ことも。


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