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春が来た

「南極飛行観光」と、ニュージーランド航空901便墜落事故

2011年12月05日 | 航空機
地球上で最も行くのが困難で、行った人もごくも少ない場所「南極」。 観測基地を除いて人を寄せつけない厳しい気象条件と、自然環境保護のため国際条約によって永くヴェールに包まれてきた最果ての地に、強く惹かれる人は少なくない。 しかし現実として南極旅行は誰もが簡単に行けるわけではないし、多額の費用を払って南米からのツアー船で行っても、ゴムボートで上陸してからの滞在は僅か2時間。 そこで考え出されたのが飛行機を利用した「南極飛行観光」。 航続距離が飛躍的に伸びたジェット旅客機の進化で、南極に比較的近いオーストラリアやニュージーランドから出発する飛行ツアーが可能となった。 

フライトは南極本土まで飛び、着陸せずにそのまま出発した空港に戻るというチャーター便で、所要時間は11~14時間、そのうち大陸の上空を飛ぶのはおよそ4時間。 ニュージーランド航空による全行程11時間のガイド付き南極飛行観光は、初フライトがが1977年2月で、同年11月、翌1778年11月と実施された。 さらに1979年の11月にも4回のフライトが行われ、901便が最後の便だった。 ニュージーランド・オークランド発、クライストチャーチ帰着のスケジュールで、DC-10-30型機の機長・副操縦士は、南極飛行の経験はなかったものの充分な飛行実績と技量を持っていた。 フライトプランによる中間点通過後のルートは、南極・ロス島西側のマクマード湾を南下して湾内の中間点で左旋回し、米合衆国マクマード観測基地上空を通過後、左手にロス島を眺めながら北上し、帰途につくもの。

ニューュージーランド航空の作成したフライトプランには、マクマード基地の「TACAN](航空機の位置から目標地点までの距離・方位を測定する航空支援設備)の経度の座標などに誤りがあり、これら誤った情報によって「INS」(慣性航法装置)のプログラムが作成され、これに基ずいてシュミレーターによる乗員の訓練が繰り返し行われていた。 会社側は2週間前から誤りに気ずいていたが、修正されたのは飛行当日であり、しかもこうした事実がパイロットに知らされてなかった。 マクマード基地を通過した901便は悪天候の中、雲の切れ目を見つけマクマード湾に向けて降下を続けたが、実際にはロス島・エレバス山(標高3794m)の方向に向かっていた。 

フライトエンジニアは、マクマード基地との「VHF」(超短波で、航空無線・船舶無線・FMラジオなどに利用される)交信が頻繁に途切れてしまうことから、自機との間に高い山が存在する可能性を感じたようで、「気に入らんな」という不安な言葉をヴォイスレコーダーに残している。 その直後に「GPWS」(対地接近警報装置)が激しく鳴り出したため、機長はエンジン出力を「ゴーアラウンド」にして機首上げ操作を行ったが、ときすでに遅く、11月28日午後12時49分エレバス山の山腹斜面に墜落、乗客237人・乗員20人合わせて257人全員が死亡。 日本人の犠牲者は24名でニュージーランド人に次いで多く、医師・登山家、今井通子さんの両親も含まれている。

発見された機体の残骸は1・6km以上の範囲にわたって散乱しており、その状況から水平飛行に近い姿勢の巡航速度で激突し即死したとたと推定される。 救助隊の到着に11時間を要したことと、全員死亡の間に関連性はないとされた。 ニュージーランド運輸省の事故調査委員会は1980年の報告書の中で、事故原因は視界が確保されない状態で低空飛行を行ったパイロットミスと結論ずけた。 しかしその後乗員に知らされることなくINSの変更が行われたことや、マクマード基地の管制が事故直前に降下を許可していることなどが明るみに出たため、パイロットの責任を否定し会社側に主たる責任があることを認めた。 11月に行われた4回のフライトのうち、3回は天候に恵まれ乗客は南極の風景を満喫している。 あくまで私見だがあいにくの天候の中、最後のフライトでも乗客を喜ばせたいという機長の想いが、悲劇に繋がった可能性があったかもしれない。 


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