カキぴー

春が来た

伊豆諸島・「御蔵島」と、大奥スキャンダルとの関係

2012年03月10日 | 日記・エッセイ・コラム
小型機で仙台から八丈島までのフライトはおよそ2時間、スモッグで視界の悪い東京都内を抜け江ノ島上空まで来ると伊豆大島がぼんやり見え、ここからは眼下に伊豆諸島の島々が次々と切れ間なく姿を見せてくれる。 大島を過ぎ神津島を右手に見ながら利島、新島の先に三宅島が現れ、そのすぐ先(19km)に在るのが御蔵島(みくらじま」。 東京からおよそ200km周囲17kmのちいさな円形の島で、海岸周辺は高い絶壁に囲まれ島全体が豊かな原生林に覆われる人口300人弱の小島。 東海汽船の船便で東京から葯8時間かけて辿り着く孤島のイメージがこの島の魅力だったが、その後ヘリポートができて大島や三宅島の空港経由で簡単に来れるようになってしまったのは少々残念。

僕がこの島に興味を持ったのは、作家の有吉佐和子が島に長期滞在して執筆したという「海暗」を友人から借りて読んだからで、それから島の上空を飛ぶたびに一度来てみたいと思いながら、ついぞ実現できなかった。 さて御蔵島の歴史上重要な人物として「奥山交竹院」なる男が登場するが、彼こそが江戸時代に大奥で起きたスキャンダルに連座し、御蔵島へ島送りとなった大奥御殿医で、この島のためひと働きすることになる・・・。 そもそもスキャンダルとは江戸中期、江戸城大奥御年寄りの「江島」と歌舞伎役者の「生島新吾五郎」ら多数が処罰された風紀粛清事件。 江島らは前将軍家宣の墓参りの帰途、懇意にしていた呉服商の誘いで芝居小屋・山村座で生島の舞台を観た後、生島らを茶屋に招いて宴会をしたが、大奥の門限に遅れてしまう。 

このことが城中に知れ渡り評定所が審理するところとなり、江島は死一等を減じて高遠藩お預けとなったが事実上の流罪、旗本であった江島の兄は斬首、生島は三宅島への遠島。 山村座は廃座となり座長は伊豆大島へ遠島、そして江島の取り巻きで利権を被っていたとして奥山交竹院は御蔵島へ遠島となった。 事件の背景には大奥における勢力争いがあったと言われるが、多くの連座者が出て最終的には1500名の関係者が罰せられた。 ところで江戸時代の1683年から御蔵島は三宅島の属領となり、役人の過酷な搾取や不当な支配の時代になると島民の暮らしは困窮を極め、さらに島の人口が増え食糧問題はますます深刻となる。

当時の島の神主・加藤蔵人は、農作物を島の外から買い入れる資金を得るため、材質が硬く印材・版木・将棋の駒・数珠などの素材となる島の特産「ツゲ」や、繭を自前の船で江戸に出荷するため船の購入を代官所に申し出ていたが、1730年これが許可される。 御蔵島は伊豆諸島で最初に廻船を持つ島となる。 廻船を持っようになった御蔵島は三宅島の属領から脱して幕府の直轄になるべく代官所に申し出るが、これは一筋縄に行く話ではなく加藤は思案の末、大奥に影響力のある人脈を持つ流人、奥山交竹院の力を借りることになる。 島でとくに厚遇を受けていた奥山は、かっての同僚で江戸城内の御殿医桂川甫築に幕府へ取り成しを依頼し、交竹院の死後であったが遂に御蔵島は43年ぶりに三宅島からの独立を果たした。

 しかしその後も近年まで物流・交通・観光など経済や生活面の多くを三宅島に依存してきた御蔵島だったが、2000年の三宅島噴火で状況は一変する。 三宅島との連絡船をはじめ既存の交通体系を失った御蔵島へ、代替として東京からの船便が大幅増便され、やがて毎日就航まで拡大された。 その間に宿泊設備を拡充させた御蔵島は、東京と共同でエコ・ツーリズムの推進を打ち出し、イルカや原生林など動植物の保護と観光を一体化する政策を実現しさせ、御蔵島の名前を全国区に押し上げることに成功する。 その結果三宅島としては重要なマーケットを失い、その立場は逆転した。 かっては三宅島の属領として搾取され、その後も大きな影響下に置かれていた御蔵島は、300余年を経て本当の自立を果たしたのだ。 



   
















     


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