カキぴー

春が来た

北周りヨーロッパ線のパイオニア「スカンジナビア航空]と、DC-7型機

2012年03月05日 | 航空機
日本とヨーロッパを結ぶ航空路は、1950年代後半まで東南アジアや西アジアと中東を経由するのが主要ルートだったが、50時間を越す所要時間の長さとそれに伴う乗員管理・南方特有の気象状況・寄港地国の空港の不備・政情不安などで問題視されていた。 最も短い航空路ははソビエト上空を飛ぶルートだったが第二次世界大戦後の冷戦下、ソビエトは西側諸国の航空機が自国上空を飛行することに厳しい規制を実施していたため航路の開設は不可能だった。 当時のジェプセン・チャートには 「ソビエト領空を審判した場合、無警告で撃墜される恐れがあります」 と赤字で記述されていた。 1978年には航法ミスで領空進入した大韓航空のボーイング707がソ連機にコラ半島上空で銃撃され凍結湖に不時着、2名が死亡し、1983年には同じ航法ミスで領空侵犯した大韓航空のボーイング747が、サハリン上空で撃墜され乗員乗客全員が死亡する惨事が起きている。 

そうした状況下ソビエトの連邦上空を迂回して、日本とヨーロッパを結ぶ北極圏ルートの開設に一番乗りしたのは英国航空でもなく、エールフランスでもなく、ルフトハンザでもなく 北極を拠点とする「SAS・スカンジナビア航空」(スエーデン・デンマーク・ノルウエー3国の出資によるナショナル・フラッグキャリア)で、かって「兼高かおる世界の旅」スポンサーとしてお馴染みの企業。 北極圏を横断する場合、子午線の間隔が次第に狭くなりやがて北極の一点に達する従来のチャートでは、ナビゲーターがフライト中つねにコースの是正を繰り返さなければならない。 とくに春分や秋分の薄暮の季節には星や太陽の位置が測定できず、また磁北極はチャートの北極点より1600kmずれているため、これまでの磁気コンパスでは常に南を指してしまい、正確に方位を把握することが極めて難しかった。 

航路開発に当たりSASがまず取り組んだのは従来のチャートに代わる北極地図。 グリニッジを南にして子午線の0度を通し、アラスカから南太平洋に伸びる線を便宜上「北」にした、いわゆるポーラー・グリッド地図を完成する。 コンパスについては高速回転するコマの原理を用いて方位を知る北極専用のジャイロコンパスを開発、離陸前にセットしたへディングを20時間持続することができ、正確なフライトが可能となった。 1957年2月24日9時40分,SASの「DC-7C」ライダー・バイキング号が45名の招待客を乗せて羽田空港を離陸、アンカレッジ経由でコペンハーゲンを目指した。 実は同じ日にコペンハーゲンからもDC-7Cグトーム・バイキング号が東京へ向けて出発している。

両機は北極上空ですれ違う。 ライダー号の高度3900m、グトーム号は3600m、互いの機影が見えたタイミングで、デンマークのハンセン首相(当時)が北極宣言書を読み上げ、その声は21カ国に中継された。 コペンハーゲンから東京に到着したグトーム・バイキング号の所要時間は35時間37分。 ところでダグラスDC-7はアメリカ合衆国・ダグラス・エアクラフト社が開発した最後の大型レシプロ機。 当時DC-6Bを運行していたアメリカン航空は、ライバルのトランス・ワールド航空が運航するロッキードL-1049G・スーパーコンステレーション機に対抗して、アメリカ大陸無着陸横断飛行が可能な新型機の開発をダグラス社に依頼したことで、開発されたのがDC-7型機。

DC-6Bの胴体と翼を延長し、エンジンをより強力なライトR-3350・サイクロンに換装して1953年路線就航した。 スペックは長距離巡航速度441km/h、座席数36席(国際線用)~102席(国内線用)、航続距離(最大ペイロード)7450km。 DC-7は大手航空会社の主要路線に就航したが、エンジンの信頼性に問題がありさらに室内における騒音が酷かったため胴体に3mのストレッチを施し、主翼を胴体から3m延長して振動と騒音を減少させたのがDCー7C・セブンシーズ。 しかし後継機となるジェット機・DC-8の生産が1959年に始まったことから僅か5年間で生産が打ち切られ、計338機が製造されるにとどまった。 また北回りヨーロッパ線も航続距離が向上した新型機の出現と、冷戦終結によるシベリアルートの開放策で、日本航空は1991年この路線を廃止した。            







 
















  


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