「世紀末のウイーンに『黒い瞳の伯爵夫人』として、一人の日本女性が登場した。 クーデンホーフ・光子である。 彼女のあまりにもドラマチックな生涯は、二十世紀の欧州史に特異な光を放っているのである。」 評論家・寺島実郎氏は、著書「一九00年への旅」で彼女をこう紹介している。 東京府牛込で骨董屋を営む商家の三女として生まれた青山光子は、芝にあった超高級料亭「紅葉館」に座敷女中として修行に出される。 300名限定の会員制料亭は当時、不平等条約改正を睨んだ外国人接待の場、政治家・実業家・文人・華族・軍人などの社交の場として賑わっていた。
オーストリア=ハンガリー帝国駐日大使として東京に赴任した「ハインリッヒ・クーデンホーフ・カレルギー伯爵」は、紅葉館の席で光子に一目惚れし、周囲の反対する中、1892年(明治25年)に結婚、光子18歳、伯爵32歳。 光子は1896年伯爵が帰国するまでに二人の男の子をもうけ、夫と共にヨーロッパに渡り、ウイーンの社交界にデビューする。 やがて伯爵の広大な領地に立つボヘミアのロンスペルク城に落ち着いて10年、光子は次々と5人の子供を産み幸せな時を過ごすが、1906年伯爵は突然の心臓発作で急死。 1910年長男と次男がウイーの名門校に進学したのを機にウイーンに居を移す。
光子が最も愛し期待した次男「栄次郎」こそが、後にオーストリアの政治家として「パン・ヨーロッパ主義」を提唱した「リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー伯爵」で、それが起点となってEEC(欧州経済共同体)からEC(欧州共同体)へ、さらに現在のEU((欧州連合)へと発展したことから「EUの父」と呼ばれた人物。 さらに往年のアメリカ映画「カサブランカ」でナチスに追われる抵抗運動家ヴィクター・ラズロ(ポール・ヘンリード)がその人で、その妻イルザ・ラント(イングリッド・バーグマン)は、リヒャルトが19歳の若さで駆け落ち同然に結婚した13歳年上の舞台女優「イダ・ローラント」。
映画の終盤で、ラズロ夫妻がアメリカ人のクラブ経営者リック(ハンフリー・ボガード)の粋な取り計らいで、ナチス占領下のカサブランカ空港から、尾輪型の双発機「ロッキード・Lー12エレクトラ」でリスボンに飛び立つ場面を懐かしむフアンは多い筈。 ヒットラーにとって「パン・ヨーロッパ」の著者リヒャルトはまさしく敵であり、弾圧を逃れる彼は1938年ドイツのオーストリア併合後、チェコスロバキア・ハンガリー・ユーゴ・イタリア・スイスへ逃避行。 さらにフランスを本拠地として抵抗運動を続けるが、ドイツ傀儡のヴィシー政権になると、フランス領カサブランカから中立国ポルトガルのリスボンを経由してアメリカに亡命する。
寺島氏は説く、「欧州の統合」などといっても根のないところに花は咲かない、この主張がハプスブルク帝国の伯爵の血を引くリヒャルト・クーデンホーフによって主張されたことに注目したい。 ハプスブルク帝国にとって「大欧州」は、空想的理念ではなく歴史的実体だったのである。」 「パンヨーロッパ」は日本でも鹿島守之助の翻訳で出版され,リヒャルトに1967年鹿島平和財団より「鹿島平和賞」が贈られたことから、財団とNHKの招きで彼は来日している。 71年ぶりの帰郷であった。 寺島氏はこう締めくくる。 「『ひと粒の麦』という言葉が思い出される。 歴史とは、ひと粒の麦の連鎖がもたらす観察ではないのか。 光子という一人の明治の日本女性が残していったものに深い感慨を覚えずにはおれない」・・・・・。
オーストリア=ハンガリー帝国駐日大使として東京に赴任した「ハインリッヒ・クーデンホーフ・カレルギー伯爵」は、紅葉館の席で光子に一目惚れし、周囲の反対する中、1892年(明治25年)に結婚、光子18歳、伯爵32歳。 光子は1896年伯爵が帰国するまでに二人の男の子をもうけ、夫と共にヨーロッパに渡り、ウイーンの社交界にデビューする。 やがて伯爵の広大な領地に立つボヘミアのロンスペルク城に落ち着いて10年、光子は次々と5人の子供を産み幸せな時を過ごすが、1906年伯爵は突然の心臓発作で急死。 1910年長男と次男がウイーの名門校に進学したのを機にウイーンに居を移す。
光子が最も愛し期待した次男「栄次郎」こそが、後にオーストリアの政治家として「パン・ヨーロッパ主義」を提唱した「リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー伯爵」で、それが起点となってEEC(欧州経済共同体)からEC(欧州共同体)へ、さらに現在のEU((欧州連合)へと発展したことから「EUの父」と呼ばれた人物。 さらに往年のアメリカ映画「カサブランカ」でナチスに追われる抵抗運動家ヴィクター・ラズロ(ポール・ヘンリード)がその人で、その妻イルザ・ラント(イングリッド・バーグマン)は、リヒャルトが19歳の若さで駆け落ち同然に結婚した13歳年上の舞台女優「イダ・ローラント」。
映画の終盤で、ラズロ夫妻がアメリカ人のクラブ経営者リック(ハンフリー・ボガード)の粋な取り計らいで、ナチス占領下のカサブランカ空港から、尾輪型の双発機「ロッキード・Lー12エレクトラ」でリスボンに飛び立つ場面を懐かしむフアンは多い筈。 ヒットラーにとって「パン・ヨーロッパ」の著者リヒャルトはまさしく敵であり、弾圧を逃れる彼は1938年ドイツのオーストリア併合後、チェコスロバキア・ハンガリー・ユーゴ・イタリア・スイスへ逃避行。 さらにフランスを本拠地として抵抗運動を続けるが、ドイツ傀儡のヴィシー政権になると、フランス領カサブランカから中立国ポルトガルのリスボンを経由してアメリカに亡命する。
寺島氏は説く、「欧州の統合」などといっても根のないところに花は咲かない、この主張がハプスブルク帝国の伯爵の血を引くリヒャルト・クーデンホーフによって主張されたことに注目したい。 ハプスブルク帝国にとって「大欧州」は、空想的理念ではなく歴史的実体だったのである。」 「パンヨーロッパ」は日本でも鹿島守之助の翻訳で出版され,リヒャルトに1967年鹿島平和財団より「鹿島平和賞」が贈られたことから、財団とNHKの招きで彼は来日している。 71年ぶりの帰郷であった。 寺島氏はこう締めくくる。 「『ひと粒の麦』という言葉が思い出される。 歴史とは、ひと粒の麦の連鎖がもたらす観察ではないのか。 光子という一人の明治の日本女性が残していったものに深い感慨を覚えずにはおれない」・・・・・。
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