カウンセラーのコラム

山梨県甲府市でカウンセリングルームを開業している心理カウンセラーの雑文です。

息子と二人っきり

2007年08月27日 | 日記 ・ 雑文
妻が外泊しているので、今日は昼頃から息子(3歳)と二人っきりだ。
12時過ぎに昼ごはんを食べに近所のイトーヨーカドーへ。西館の地下1階にある「ポッポ」というお店で、焼きそばを2人前注文した。息子は3/4人前を軽々と平らげた。僕のほうは1+1/4人前を食べたので、二人とも十分な満腹感を得られたのだった。

食後にコーヒーとタバコが欲しくなったので、自動販売機で缶コーヒーとピーチティー(息子用)を買い、東館の裏にある広場へ移動した。この場所は息子のお気に入りの遊び場でもある。
二人でベンチに腰掛け、しばらくの間、お互いの飲み物を飲みながら“まったりした時間”を過ごした。日陰だし風も強かったので、わりと涼しかった。

やがて息子は1羽の鳩を見つけて、それを追いかけ始めた。いつもではないが、ここは時間帯によっては“鳩の群れ”がやって来る場所なのだ。だが今日は1羽しかしない。息子に追いかけられたその鳩は、すぐにどこかへ飛んでいった。
遊び相手がいなくなった息子は、今度は木の枝(棒)を集め始めた。植樹されている樹木の下に、たくさんの木の葉や枝が散在している。息子は4~5本の枝を集めては放り投げ、拾っては元の場所に並べ……というのを繰り返しながら、「おっきい棒あった! ちっちゃい棒あった!」などとしゃべっていた。

そんなことをしているうちに、やがてどこからともなく鳩がやって来て、20羽以上の群れが出来上がった。それを見つけると、今度は鳩の群れに向かって一目散だ。息子が走って近づくと、鳩の群れが一斉に小走りで逃げて輪のような形になる。
この追いかけっこは長く続いた。いつものパターンだと、結局最後は鳩が全員飛び立っていなくなるのだが、今日はなかなかそうならない。追いかけられた鳩たちが、あっちからこっち、こっちからあっちと、群れ全体で移動するだけだ。

ついに息子は根負け(?)したのか、今度は“砂遊び”を始めた。砂場があるわけではない。樹木の下の土がカラカラに乾いていて、ほとんど砂になっているのだ。
その砂を両手ですくい、自分が決めた一ヵ所に運んで積み上げていく……という作業を延々と繰り返していた。見る見るうちにそこが山になった。風が強くて砂が舞うので、手足だけでなく顔や全身が砂だらけ、真っ黒になっていった。

かれこれ1時間以上はその場にいただろうか? 僕は遠くから息子の姿を見つめながら、その姿に“人間が本来持っている健全さ(=自由な精神)”を感じ取り、畏敬の念を覚えたのだった。
「これこそが“人間本来の健全な姿”なのだ!」と直観し、「“人間の健全さ”とは、自然や動物と“遊ぶ”ことによって発露するのではないか?」とか、「その“遊ぶことができる能力”は、本来的には誰にでも備わっているのではないか?」などという思考が浮かんだ。

と同時に、「これが大人になるにつれて、“棒を投げるのは危険な行為だ”とか、“砂で手足や服を汚すのは良くない行為だ”とか、“鳩を追いかけるのは恥ずかしい行為だ”というふうに理解し、自分の内に在る“自発性・衝動性”を規制していくんだろうなあ……」とも思った。
だがそれは、人として生まれてきたからには背負わなければならない“宿命”でもあると、僕は思い定めている。「“教育”という名のもとで行なわれる何らかの規制」に対して、僕は大賛成しているわけではない。
そうではなく、“何らかの規制が存在してしまう”というのは、いわば“人間存在の宿命”であり、その規制から解放された分だけ、人間は“精神の自由”を獲得できるのであり、その獲得のプロセスこそが、“人間の成長・発展”のプロセスなのだ……という人間観を僕は保持しているのだ。
「人生とは、プロセスである」ということになるだろうか? そして我が息子も人間である以上、これの例外ではないのだ。

ふと我に返ると、僕は1時間以上もベンチに腰掛け、甘い缶コーヒーを飲みながらタバコを何本も吸っていた。そしてその間、生きる上では“どうでもいい”思考を巡らせていた。なんともまあ、“不健全の見本”のような姿だったのである(笑)。

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