カウンセラーのコラム

山梨県甲府市でカウンセリングルームを開業している心理カウンセラーの雑文です。

【告知】 カウンセラー養成コース開設のお知らせ

2008年04月30日 | 告知 ・ 案内
私が自宅開業しているカウンセリングルームTOMOKEN(東京都三鷹市)では、個人カウンセリング、電話カウンセリング、メールカウンセリングのほかに、新たな試みとして「カウンセラー養成コース」を設けました。

内容は、「カウンセリングの世界に興味・関心を抱いている方々」や、「カウンセラーとして活動中、もしくはカウンセラーを目指している方々」の現実的な悩み・要求・学習意欲などに応えていくための“一対一の個人セッション”です。

上述したような方々のニーズに応えているのは、現在のところ、いわゆる“カウンセリング講座”しか存在しないのが現状です。しかし、一般的な“カウンセリング講座”では、「1年間の受講料を前払いしなくてはならない」だけでなく、「開講日時も主催者側の都合で設定されている」のが当たり前です。

このことは、なにも“カウンセリング講座”に限らず、他のあらゆる“専門講座”や“専門学校”も同様のシステムで運営されているわけですが、例えば“英会話教室”などでは、受講者が「希望の日時・回数(チケット制)を指定できる」というシステムも最近は浸透してきました。また、受験勉強のために「家庭教師」を依頼したり、趣味やスポーツの分野でも「個人レッスン」を受けるなど、いろいろな学習形態がじつは存在しています。

といったような時代の変化や、“多忙で多様な現代人のニーズ”に応えていくための活動として、当カウンセリングルームTOMOKENでは、この“カウンセラー養成コース”を開設することにしたわけです。

先覚的な人々でしたら敏感に察知しているだろうと確信してますが、“優秀なカウンセラーを養成してゆくこと”は、現代という時代にとっての急務になってきております。この機会にぜひ、“自分の都合で日時・回数を設定できる個人セッション”を利用し、お互いに“カウンセラーとしての実力を養成してゆくこと”に取り組んでいきませんか。

詳細な案内はホームページに掲載してますので、興味・関心のある方はそちらをご覧ください。
http://www1.parkcity.ne.jp/iyamamot/yousei.html

以上、カウンセリングルームTOMOKEN代表、山本からのお知らせでした。

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カウンセリングルームTOMOKEN
代表:山本伊知郎
〒181-0012 東京都三鷹市上連雀3-12-4
Tel&Fax:0422-41-2803
Mobile:090-7230-8134
E-mail:tomoken2001@goo.jp
URL:http://www1.parkcity.ne.jp/iyamamot/
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カウンセリングと資本主義経済

2008年04月20日 | 日記 ・ 雑文
諸事情があり、『友田不二男研究(仮題)』という出版物の執筆&編集業務に現在私は携わっているのだが、そのせいもあって“お金の問題”という難題について思考をめぐらしている日々が続いている。
どうにもこうにも“頭の中に靄(もや)がかかっている”ような状態なので、この場を借りて自分の思考過程を整理してみようと思う。

キーワードは“友愛”という言葉だ。友田不二男は「カウンセリングが成立する基盤は“友愛”である」という言葉を残してあの世へと旅立っていったが、これはどういう意味なのか? 逆の言い方をすれば「“友愛”が無ければカウンセリングは成立しない」となるが……?
“友愛”を手元の辞書で引いてみたところ、
①友人に対する思いやりの気持ち。②兄弟間の情愛。
と書いてあった。となるとここで言う“友愛”とは、「人と人とが互いに助け合うことを可能にする精神、もしくは思想」と解してよいだろう。友田によれば、「この精神、もしくは思想こそが、カウンセリングの基盤である」となる。

次のキーワードは“資本主義経済”だ。こいつの本質・本性を暴いてゆきたいわけだが、そんなことのできる上等な頭脳を私は持ち合わせていないので、ミヒャエル・エンデ(ドイツの児童文学者・作家。『モモ』、『ネバーエンディング・ストーリー』などの作品が有名)に登場してもらおう。
エンデによれば、

1.世界に起きている諸悪の根源は、現在の“お金のシステム”と“経済システム”との不調和にある。
2.現在の経済システムは、“成長することが強制されている”という点で“癌”と同じ性質を持っている。
3.生活必需品を購入する代金としての“お金”と、株取引などに使われる資本としての“お金”は、じつは性質が異なる“2種類のお金”である。にもかかわらず、“同じお金”が使われているところに問題の根源がある。
4.人類が新たな“お金のシステム”を生み出すことができなければ、やがて人類はこの惑星上に生存できなくなるだろう。(参考資料:『アインシュタイン・ロマン6 エンデの文明砂漠』NHK出版)

となる。地球環境問題に敏感な人ならば、「(我々が手にする)お金によって、地球環境が破壊され続けている」という事実、すなわち「エンデの予言がすでに現実化している」ということは周知の事実であり、もはや議論の余地はないだろう。
どうしてこんな不幸なことが起きるのか? なにゆえ経済は地球環境が危機に瀕しているにもかかわらず、“拡大の一途”をたどるのか? 基本的・本質的には「資本主義経済で流通しているお金は、人々が“奪い合う”お金だからである」と、エンデは洞察していた。そこで次のような言葉を発している。

「経済生活の理想は友愛です。あえて私は友愛こそ近代経済に内在している掟だと考えます。生産と需要の自由なゲームを適用させれば、“万人の万人に対する戦い”になり、経済に弱い者がいつも割りを食うことになります。経済活動は本質的に社会連帯的なものなのです。(中略)資本の自己増殖を許す金融構造が、友愛の理想を破壊してしまったのだと思います」(『エンデの遺言 根源からお金を問うこと』NHK出版)

ところで、このエンデの主張は正しいのだろうか? 本当に「お金が増えなくても、人間は豊かな生活が送れる」のだろうか? それを確かめるために、簡単な思考実験を行なってみよう。
今ここに、Aさん、Bさん、Cさんの3名がいると仮定しよう。AさんがBさんにある仕事(もしくは物品購入)を依頼し、代金として千円札を手渡した。次にBさんはCさんにある仕事(もしくは物品購入)を依頼し、代金としてその千円札を手渡した。最後にCさんはAさんにある仕事(もしくは物品購入)を依頼し、代金としてその千円札を手渡したとする。ぐるっと1周して“最初の千円札”が、Aさんの手元に戻ったわけだ。
経済的な尺度で見ると、これで「3千円分の経済活動が行なわれた」ことになる。2周すれば「6千円分の経済活動」だ。これがGNPに換算されると「前年度より6千円分経済成長した」となる。これが経済というものの実態だ。
「アレ? なんか変だぞ?」と感じる人も多いだろう。だって「AさんもBさんもCさんも、千円札は増えていない」のだから。しかし、それぞれが2回分のサービス(もしくは物品)を得て、みんなの生活は豊かになった。そう、じつはこれこそが“経済的豊かさ”の正体なのだ。豊かさとは、“お金が流通すること”によって得られるものであり、“札束が増えること”によって得られるものではない、ということだ。
この考え方を基盤に経済活動を実践しているのが、いわゆる“地域通貨”というやつだ。上掲した『エンデの遺言』の影響もあり、一時期はブームを巻き起こしたが、最近はそのブームも去って縮小傾向にあるらしいが……。

本題に戻るが、エンデの洞察によれば、現在の資本主義経済システムには“欠陥がある”どころではなく、“諸悪の根源である”わけだ。確かに世界中で現に起きているテロや戦争(最近ではチベット問題)、環境破壊、貧困の問題などの根源に“お金の問題がある”ことを認識しないわけにはゆかない。私はその方面の専門家ではないので浅薄な知識しかないが、そう言い切ってしまって差し支えないだろう。
しかし、ここのところでジレンマに陥ってしまう。私もまた世の大半の人と同様に、資本主義経済の中で利潤を得ている一企業の社員であり、そこから支払われた給料でもって自分や家族を養っているのである。という意味で私という人には、「資本主義経済を批判する資格がない」のだ。そのような行為は“言行不一致”になる。偉そうなことを言ってみたところで、「言ってることとやってることが違いますよ」となるわけだ。
もっとも、世の中には“資本主義経済(お金)を捨てて、なんらかの問題に取り組んでいる人物”が存在しないわけではない。実名を出すのは控えるが、私が個人的に尊敬している人の中には、“私財を投げうって”平和運動に身を投じている人がいる。また、大学教授の職を辞して、ボランティアでカウンセリング活動を実践する計画を立てている人物も最近知った。
古くはお釈迦さんが有名だ。人間を救済するために王子の座を捨てて乞食となり、放浪生活を続けたのは誰もが知っているだろう。また、ノーベル平和賞を受賞したマザーテレサという人も、そういう類の人物の一人だった。
だが、そういう人たちと自分とを同一視するわけにはいかない。尊敬することはできても“真似はできない”のが、現在の自分の偽りない姿である。

友田不二男もまた、上述の偉人たちと質は異なるが、稀有な人物だった。友田は“掌風会”と称する団体を設立し、その活動を通じて「友愛を基盤にした経済システムを構築しようとした」のだ。無論、そのような発想ができたのは、“お金というもの”に対するエンデと同レベルの洞察があったからに他ならない。
掌風会のコンセプトは、“誰も投資しない。誰も儲けない。しかも会員の生活は豊かになる”というものだった。これだけだとなんのことやらさっぱり意味不明だが、その経済システムを説明するのは非常に難しいので割愛させてもらう。
結論だけ述べれば、掌風会によって行なわれた反資本主義的な性格を持つ社会変革運動は結局挫折し、現在は休止状態に置かれている。その挫折(分裂騒動が起こり、裁判沙汰にまで発展した)をもたらしたのは、資本主義経済の原理(=個人の損得勘定)を超えて“友愛”へとシフトできなかった一部の人間たちによってもたらされたのであるが。
晩年の友田は『エンデの遺言』に触発され、「カウンセリングからは一切身を退いて、残りの人生はエコマネーに取り組んでいきたい!」と宣言した。その心中は計り知れないが、友田がその生涯を通じて取り組んだのは、煎じ詰めれば「友愛を基盤にした社会と経済の実現」だったのだろうと私は想像している。“社会”と“経済”とは事実上密着しており、明確な境界線を引くことは不可能だが、便宜上“社会面”に焦点を合わせたときには“カウンセリング活動”になり、“経済面”に焦点を合わせたときには“掌風会”や“エコマネー”になったのだろう。どちらの活動も根源は“友愛”であり、友田はこの両者を「統合しようとした」と私は見ている。

“トランスパーソナル”を単なる学問の一分野ではなく、「個人(我)を超越して友愛へとたどり着くことを目指す思想であり、社会変革運動である」と定義した場合には、ここには“資本主義経済を超越できる”可能性があるように思える。もしもそうなら、この思想が“人類の危機”を救うことができるかもしれない。
がしかし、現実の“トランスパーソナル”を見聞きする限りにおいては、「楽観はできない」というのが正直な感想だ。もちろんそれは、「悲観している」という意味では決してないが。
結局のところ“この問題”を突き詰めると、「個々人の覚醒を待つしかない」のだろうと思う。それを友田は次のような言葉で示唆している。

「端的に申し上げれば、“誰かがなんとかしてくれるであろう”時代が急ピッチで終末段階に向かいつつある現代において、言わば“生命感覚”を頼りに己れの分をシッカリと見定め、己れの足で立ちかつ歩くことが、何よりも肝要な緊急事となっているのであります」

と。これは夏季ワークショップの案内文からの抜粋だが、あらためて「己の分をわきまえながら、“お金の問題”にも積極的に取り組んでいこう!」という思いを強くしたところである。そして“その思い”でもって、『友田不二男研究(仮題)』にも取り組んでいこうと思う。
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観客か? プレーヤーか?

2008年04月16日 | 日記 ・ 雑文
前回の日記の続きになるのだが、“野球というもの”を肌で感じるには、「テレビ観戦よりスタンド観戦のほうが優れている」という主旨の体験談を私は述べた。さらに言うなら、“野球というもの”の真髄をわかろうとするなら、「スタンド観戦するよりプレーするほうが優れている」ということ、言うまでもないだろう。
“カウンセリング”もまた同様である。“野球”の代わりに“カウンセリング”を入れても、なんら差し支えがないように思う。

インターネットは便利なツールだ。この世界には、ありとあらゆる文字情報が存在する。カウンセリングに関する情報だけを取り上げても、“一生かけても読み切れない”くらいの情報量がすでに存在しているだろう。
しかし、それらの文字情報によって“カウンセリングを知る”という行為は、いわば“テレビ観戦する”のと同じだ。野球のテレビ中継画面からは、球場全体の雰囲気、ボールの風を切る音、クロスプレーの迫力など、臨場感がほとんど伝わってこない。
という意味で、“カウンセリングを知る”ためには、“カウンセリング場面に身を投ずる”ことが必要不可欠である。……というのが私の持論だ。

“身を投ずる”ための現実的な手段・方法としては、「カウンセリング講座、もしくはワークショップに参加する」というのが一般的だろう。しかし、参加したからといって即“プレーヤーになれる”わけではない。というのは、現実的には「カウンセリングというのはどういうものなのか、眺めに来た」という人も、かなりの程度存在するのが実際だからだ。いわば「観客席に身を置いたままグラウンドに下りて来ない人」がいるわけだ。
そういう“身の置き方”に対して、「単純に批判するわけにはいかない」と個人的には思う部分もあるが、友田先生がある場面で、そういう人物に対して「観客席にいるな!」と、一喝していたのが同時に思い出される。

“講座に参加する”ということは、自分の時間を削ったうえで他の参加者と同額の受講料を支払うわけだから、「できればプレーヤーになってほしい!」というのが私の本心だ。カウンセリング場面は“最大限の自由が保障されている”場であるが、同時に「自分の学習を遂行する責任は、参加者自身にある」というのも事実だ。
このことは、ロジャーズが“責任の制限”という用語を使って明確に示しているが、カウンセリング場面では「学習を行なわない自由(=無責任な態度)は制限されている」のである。別言すれば、カウンセリングは「クライエント(参加者)が自分の学習を行なう」場面であり、決して「カウンセラーが教え、クライエント(参加者)が教わる」場面ではない。

このような書き方をすると、「“被教育者”ではなく“学習者”に身を転ずるのは、実際問題として、容易なことではないのではないか?」という印象を与えるかもしれない。もちろん、それが「いかに容易ではないか」は、誰よりも私自身が痛感しているという一面はある。
しかし、私自身の講座やワークショップでの経験を振り返ってみると、「思わず身をのり出してしまう」場面がしょっちゅうあった。とくに“自分にとっての関心があるところ”では、どうしてもだまっていられなかった。考える前に“口から言葉が出てしまう”のだ。
つくづく「人間というのは、本来的に“学習したい”動物なんだなあ。“教えてもらいたい”人間なんて、本当は存在しないのだろうなあ」と思う。
という意味では、本質的に私という人は、「もしも効果的なカウンセリング場面を経験したなら、きっと誰もが“学習したくなる”に違いないだろう」という考えを持つ楽観論者である。

新年度がスタートするので、あらためて「学習者であり、探求者であり、求道者である自分をさらに研鑚してゆきたい!」という思いを強くしたのだった。
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プロ野球観戦

2008年04月13日 | 日記 ・ 雑文
チケットを知人から譲り受けたのだが、家族3人で昨日(土曜日)、巨人対ヤクルト戦のナイターを東京ドームで観戦した。以前、NFL(アメフト)のプレシーズンゲームを観に訪れたことがあるので“東京ドーム”は二度目だったが、“プロ野球観戦”は生まれて始めての経験だった(学生時代に地元で一度だけオープン戦を観た記憶はあるが)。

感想を一言で述べると、「テレビで観るのと“生”とでは、ずいぶん違う」となる。ま、当たり前の話ではあるが、Jリーグ(サッカー)をスタンド観戦したときにはこれほどの違いを感じなかったので、やはり「特別な経験だった」と言ってよいだろう。

一番驚いたのは「ピッチャーの投げる球の速さ」だった。座席は外野席に近い一塁側の内野スタンドだったので、投球がほぼ真横から見えた。巨人の先発は高橋尚だったが、テレビで見るのとずいぶん違う。「こんな剛速球、自分だったら絶対に打てないな」と思った(当たり前か?)。テレビで観ていたときは、「こんな球(失礼!)がなんで打てないのだ?」とバッターに対して思っていたのだが……。

一度だけファウルボールがこっちに向かって飛んできたときには、思わず身体をのけぞってしまった。球は10メートル以上も手前に落ちたのに(苦笑)。やはり“生”は迫力が違う。
ラミレス(今年は巨人の4番打者なんですね?)のホームランを喫煙室のモニターで見たのは残念だったが、ヤクルトの外国人選手(名前忘れた)の特大ホームランを“生”で見られたのは大迫力、大興奮だった。

息子(3歳)が一緒なので最後まで観戦するわけにはゆかず、8時過ぎに球場を後にした。試合は完全に“巨人ペース”だったので「勝敗の行方にヤキモキする」こともなく、私たちにとっては好都合なゲーム内容だった。

帰宅したのは9時過ぎ。テレビ(G+)をつけたらヤクルトが大逆転しているではないか!? 妻は巨人ファンなので悔しがっていたが、私はつくづく「巨人ファンでなくてよかったなあ」と、胸をなでおろしたのだった(じつは私、阪神ファンです)。
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