カウンセラーのコラム

山梨県甲府市でカウンセリングルームを開業している心理カウンセラーの雑文です。

人間尊重の心理学

2008年11月29日 | 日記 ・ 雑文
カール・ロジャーズの翻訳本に『人間尊重の心理学 わが人生と思想を語る』(畠瀬直子訳 創元社)という出版物があるが、これから書くのはその書評ではない。「人間尊重とは何か?」という、とてつもなく深遠なテーマに挑んでみよう! ……という思いに至ったわけである。

よく知られているように(かどうか、本当はわからないが)、カウンセリングには「人間の成長を目指すカウンセリング」と「問題解決を目指すカウンセリング」との2つが存在し、現時点において「両者は矛盾・対立している立場にある」と言えるだろう。ひょっとすると「両者の立場を統合しようとしている試み」が存在するのかもしれないが、現時点においてそれは成功に至っていない……と私は見ている。
いずれにせよ、現在世の中には“○○療法”とか“××カウンセリング”とか“△△セラピー”など種々様々な心理療法やカウンセリングが存在し、互いにしのぎを削っているわけだが、いずれの立場(もしくは方法)も「人間の成長を目指すカウンセリング」か、そうでなければ「問題解決を目指すカウンセリング」かの、どちらかに必ず属しているわけだ。

最初に断っておくが、私自身は「人間の成長を目指すカウンセリング」を実践し探求し続けているカウンセラーである。したがって私が述べることは、「一つの立場からの一方的な言い分である」と承知しておいてほしい。「別の立場からすれば、様々な反論があるだろう」と予想しているが、両者の議論は結局のところ「水掛け論にしかならないだろう」とも思っているので、ここで議論するつもりはない。

さて、最初にこの小稿における結論を述べておくが、「人間の成長を目指すカウンセリングと問題解決を目指すカウンセリングとは、絶対的に矛盾する。一人の人間(カウンセラー)が、両方の立場のアプローチ法を使いこなすのは不可能である!」となる。
どうして「不可能である!」とまで言い切れるのか? そのことの理解を“人間尊重”というキーワードでもって深めてゆきたいのである。

よく知られているように、ロジャーズは「カウンセリング関係(もしくは場面)が成立するための、カウンセラーの3つの態度条件」を次のように述べている。

1.受容(無条件の肯定的関心)を経験していること。
2.共感的理解(感情移入的理解)を経験しており、それを最低限クライエントに伝えていること。
3.自己一致(純粋性)の状態にあること。カウンセラーは「自己の経験のみ」を語る。つまり、カウンセラーの言動には嘘や偽りがないということ。

と。誤解のないように付言しておくが、「3つの条件をすべて同時に満たしているとき」に、はじめてカウンセリング関係が成立するのである。
よく見かけるのだが、「自己一致」の条件だけを取り上げて、「カウンセラーは言いたいことを言えばいい。感じたことを感じたまま言えばいい。やりたいことをやればいいのだ」と勘違いしている人がいるが、そんな程度のことならカウンセラーでなくても、誰だって行為できるのではないか? いや、日常生活における私たち人間は、(意識的にせよ無意識的にせよ)かなりの程度、そのように行為しているのではあるまいか? そんなものは「カウンセリングとは無関係である」と私は言いたい。
少し脱線したが、要するに上述の3条件は、カウンセラーはクライエントとの面談中においては、「受容を経験しており、かつ共感的理解を経験しており、しかもその経験を伝える言葉に嘘や偽りがまったくない(=口先だけで受容的・共感的な言葉を発しているわけではない)。そのような人物を“カウンセラー”と呼ぶ」という意味になる。
意味を理解したところで、読者の皆さんはどのように思っただろうか? 「私には無理だな」という言葉が浮かんだだろうか? 私の感想を率直に述べるなら、「人間業とはとても思えない。神様仏様レベルだ。(ロジャーズのいう)カウンセラーという存在は」となるのだが……。
もしも、この3条件を満たしている状態でカウンセラーがクライエントの前に存在しているとしたら、それは「人間尊重を現実化している姿である」と言ってよいだろう。あるいは“人間尊重”の代わりに“クライエント中心”とか“来談者中心”とかいう言葉を当てはめても同じだ。それらの言葉が意味・象徴している「何か」は、まったく同じ「何か」であろうから。

これらを理解したところで、「カウンセラーになるのを諦める」もしくは「断念する」のは簡単だ。だが、私はそうしない。「人間尊重の態度をカウンセラーに可能にさせる“何か”とは、いったい何なのだろうか?」と、さらに深く探求していきたいのである。
この問いに対する答えのひとつは、「カウンセラーが積んできたトレーニングと経験(臨床経験を含む)による」となるだろう。言い方を変えれば、「カウンセラーは、クライエントとのカウンセリング関係(もしくは場面)によって、育成されるものである」というわけだ。
そして答えのもうひとつは、「カウンセラーの人間観による」となるだろう。もちろん「カウンセラーの人間観は、クライエントとのカウンセリング経験によって育まれる」という側面もかなりあるので、“人間観”と“経験”とは密接に結びついているのであるが……。

さて、となると、(人間の成長を目指す立場の)カウンセラーが基本的に保持している人間観とは、いかなるものなのか? ということが大問題になってくる。以下に掲載するのは、それの一端が示されている記述だ。少し長くなるが引用させてもらう。

 『世のいわゆる「非指示的見地」には、四つの「基本的仮説」がある、といってよいでしょう。もちろん、それらは、研究と経験とを蓄積するにつれ、ある仮説はいよいよますます強調されるようになり、反対に、ある仮説は重要視されなくなる、というように変化してきておりますが、その点については後述することとし、ここではまず、そもそもの「四つの基本的仮説」を記述することにしておきましょう。
 まず第一は、「人間は誰でも、生長し発展し適応へと向かう資質を持っている」という考え方です。申すまでもなく、この仮説は、「人間は誰でも、生長し発展し適応へと向かっている」ということではありません。見方によれば、「生長し発展し適応へと向かう資質を持っている」にもかかわらず、実際には、その「資質」を充分に発現できず、あるいは機能させきれずにいる、それが現実の人間の大半である、と言えるのかもしれません。が、現実の人間がどのような姿であるかはともかくとして、あるいは、現にどのような姿であろうとも、そのような「資質を持っている」ことそのことには、すべての人間についてひとしく言えることである、というのがこの第一の仮説なのであります。
 この仮説は、わたくしどもの一般的な考え方や在り方に即して言えば、その意味を、次のような例で端的に示すことができるでしょう。すなわち
(1)医者が患者を治すのではない。患者は、患者自身の中に、病気やけがを治す力を持っているのであり、医者はただ、その力を頼りとして、その力が、できるだけ効果的に機能し作動するように援助することができるだけである。
(2)教師や親には、子供たちを教育したり指導したりしつけたりすることはできない。ただ、子供たちが、いろいろの経験を通して学習し生長し発展してゆくのを援助することができるだけである。
(3)カウンセラーは、クライエントをカウンセリングするのでもなければまた、クライエントは、カウンセラーによってカウンセリングされるのでもない。カウンセラーはただ、その経験が、クライエントにとって生長の経験となり得るような、そのような「場」もしくは「関係」を、用意し、構成し、設定することができるだけである。
 と。もしもこのような言い方が、依然として抽象的すぎるというのであるならば、もっと端的に、次のように言ってもよいでしょう。
(1)どんな名医を連れてきても、生きる力を失った患者を助けることはできない。
(2)親や教師が、たとえどのようによい事を教えようとも、もしも子供の側で、それがそのまま受け取られないならば、子供にとってはなんらよい事にはならない。教育とか指導とかしつけとかいう言葉にまさしく該当する現象は、教育するほうの側に起こっていることではなく、被教育者の側に起こっていることである。
(3)カウンセリングの焦点は、カウンセラーが何をどうしたかではなく、クライエントが、何をどう経験したかにかかっている。
 と。以上のことは、さらに別の言い方をすれば、次のように言ってもよいでしょう。すなわち、「その個人についてもっともよく知ることのできる人間は、まさしくその個人自身である」と。この表現もまた、申すまでもなく、「もっともよく知ることのできる人間」ということと「もっともよく知っている人間」ということを、混同しないように受け取っていただきたいのですが、それはそれとして、もしもこの仮説に立つならば、わたくしどもの行動や考え方は、世間一般のそれらとは、正反対になると言っても言いすぎではないでしょう。なぜならば、もっとも究極的な意味において、
(1)患者のことについてもっともよく知ることができるのが患者自身であるならば、医者は、患者にとってもっとも好ましい在り方を、患者から学んでゆかなければならない。
(2)子供のことについてもっともよく知ることができるのが子供自身であるならば、親や教師は、子供に接する自己自身の在り方を、子供から学んでゆかなければならない。
(3)クライエントについてもっともよく知ることができるのがクライエント自身であるならば、カウンセラーは、クライエントに対する援助の仕方を、クライエントから学んでゆかなければならない。
 からであります。つまり、伝統的・一般的な意味における「専門家は最高の知者である」「成熟者はつねに未成熟者よりも正しく判断し行動する」という、いわゆる権威主義的な考え方を、根底的にゆさぶっている、といってよいでしょう。この仮説は、専門家や成熟者が選択し決定する目標や方法は、つねにもっとも正しくかつ確かであるという考え方とは、真向から対立していると言っても言いすぎではないでしょう。

 ところで、このような第一の仮説にもかかわらず、現実には、「社会的・心理的不適応者」とか、「ノイローゼ患者」とか、あるいは「非行青少年」とか「精神異常者」とかいう言葉で呼ばれる人びとが数限りなくおります。いったいどうして、そのような人びとが生じているのでしょうか?
 申すまでもなく、これは、今日なお、誰一人として確定的な解答を提出することのできない問いであり、したがって当然、これに対しては、文字どおりに種々さまざまな考え方や解答が展開されている状況であります。たとえば、「親の扱い方が悪いから子供が悪くなった」とか、「友だちが悪かったのでウチの子は不良化した」とか、「家庭が貧しいために盗みをするようになった」とか、「こんな世の中ではバカバカしくてマトモに働く気になれない」とか、等々。こういう考え方はすべて、いわゆる「環境」に「原因」を設定しておりますが、「生まれつき知能が低い」とか、「生来内気でひねくれている」とかいうように、いわゆる「遺伝」に「原因」をおく考え方もあります。
 この種の考え方は、申すまでもなく、常識的水準において、「いかにももっともらしく思える」という以上には、ほとんどたしかさを見出すことができず、専門的・科学的には、あくまでも「探究の方向」を示しているにすぎないのですが、この「確定的な解答を提出することのできない問い」に対する仮説として、ロジャーズは、第二の考え方を用意しました。すなわち、「この新しい療法は、より大きな重みを、知性的な面におけるよりも情緒的な要素、すなわち場の感情的な面に置いているのである」と。
 この仮説は、もともとフロイドによって提出された見解で、しかし、それにもかかわらず、フロイドが、「人間の感情に直接働きかけることは不可能である」と主張したのに対して、方法的にそれを可能にしたところにロジャーズの功績がある、と言っている専門家もありますが、それはそれとして、「不適応の原因は感情にある」というこの仮説が意味するところは、次のように要約されるでしょう。
(1)不適応は、個人が、それを知らないことによってもたらされているのではなく、不適応を維持し強化することが、その個人にとってなんらかの情緒的な満足をもたらしていることに由来している。
(2)感情的・情緒的な満足は、説得、説諭、叱責、訓戒というような知性的手段によって解消されるものではなく、「できるかぎり直接に感情や情緒の王国に働きかけ」なければ解消され得ない。なぜならば、感情的・情緒的な満足は、あらゆる知性的な手段・方法を、その満足の範囲内に拘束してしまうから。

 第三の仮説は、「問題となって表面化し現象化している事柄ではなく、パーソナリティー全体の再体制化が必要である」という考え方であります。たとえば、「夜尿の子供」に対して、その「夜尿」を治そうとするのでもなければまた、その「夜尿」を治させようとするのでもありません。あるいは、盗みをするからといって、その「盗みをすることそのこと」をやめさせようとするのでもなければまた、その「盗み」を問題にしようとするのでもありません。「勉強がきらいである」とか「横着である」からといって、「勉強が好き」になるようにしようともしなければ「働き者」にしようともしませんし、「勉強ぎらい」とか「横着」とかいうことを反省・改善させようともいたしません。
 ロジャーズの表現を借りれば、この「新しい方法は、特殊な問題を解決するのが目的ではなく、個人を助けて生長させ、現在の問題および将来の問題に対して、より良く統合された方法で対抗できるようにするのが目的」なのであります。
 問題の焦点は、「主訴」とか「徴候」とかいう言葉で呼ばれている現象ではなく、そのような現象をもたらしている現在のパーソナリティーそのものであり、ロジャーズに即する意味でのカウンセリングの焦点は、その現在のパーソナリティーを再体制化することなのであります。わかりやすく言えば、もしも「夜尿のある子供」が「夜尿しないようなパーソナリティーの子供」になれば、「夜尿」はおのずからにして消失してしまうでしょうし、もしも「盗みをする子供」が、「盗みなどしないようなパーソナリティーの子供」になれば、「盗み」というような行為は展開されなくなる、という考え方なのであります。
 ついでながら、ここで付記しておきたいことは、「問題の解決」とか「問題を解決する」という一般的な考え方についてであります。先に引用したように、ロジャーズの考え方は、見方によれば、このような考え方とは正反対であるといってよいでしょう。端的に言えば、人生には、問題がないということは絶対にあり得ず、もしも人間が、「問題を解決すること」に焦点を合わせるならば、絶えず同種同質同様の問題に追いまくられてしまうでしょう。
 もっとも本質的な意味において、人間にとって重要なことは、自己のパーソナリティーを不断に再体制化し、かつては非常な努力を払って対処した問題を容易に処理できるようになり、かつては直面することさえできなかったほどの困難な問題に対処してゆくことができるようになる、ということであります。つまり、「問題解決」ということは、より二次的であり、「個人の生長」ということこそ、一次的かつ本質的である、というのがロジャーズの考え方であるといってよいでしょう。

 第四の仮説は、「個人の過去におけるよりも現在の場面を重要視する」という考え方であります。今日、一般的には、個人を理解しようとする場合には、何よりもまず、その個人の過去を明らかにすることが肝要であり、もしもその個人の過去を明らかにすることができるならば、現在の状態・特質・傾向を知ることができる、という考え方をしております。いやいや、単にそのような考え方をしているというだけではなく、それこそ「正しい考え方」であり、「科学的」である、と信じこんでいるようです。もしもそうであるならば、この第四の仮説もまた、一般的・伝統的な考え方もしくは信条とは正反対であるといってよいでしょう。
 個人の過去を問題にし、そこに原因を探るということは、「研究」としては十二分に意味のあることでしょう。しかし、臨床的には、単に重要でないばかりでなく、有害無益でさえもあります。なぜならば、「生きる」ということは、「刻々の現在」におけるできごとであり、「変化し発展する」ということは、「将来」へと向かってのみ遂行され達成されることであるからであります。のみならず、一般的・世間的な意味においての「不適応者」や「異常者」は、明確に意識するしないにかかわらず、心の奥底において、「過去からの脱出」を企図しており、過去に触られることに脅威を感じるからであります。重要なことは、個人を対象物として研究することではなく、「刻々の接触」が、クライエントにとってまさしく「治療的経験」として経験されることなのであります。』(非指示的療法 友田不二男著 P.4~8)

引用が長くなったが、もしもこれらの仮説を保持している人(カウンセラー)が存在するならば、その人は「問題解決を目指すアプローチ法を行なうのは不可能である」ということが了解できるだろうか?
わかりやすい言い方をすれば、人間の成長を目指すアプローチを行なうカウンセラーにとって、「問題は問題ではない」のである。焦点はクライエント自身が、クライエント自身によって問題を乗り越えて(カウンセラーの助力は必要かもしれないが)、「飛躍・成長・発展を遂げられるか否か?」にかかっている。カウンセラーの仕事は「クライエントの成長を援助すること」であり、「問題や障害を解決したり、除去すること」ではない。
さらに言うならば、人間の成長を目指すカウンセラーにとっては、「クライエントが抱えている問題は、クライエントがそれを乗り越え、飛躍・成長・発展を遂げるために必要不可欠な大切なものである」という言い方もできよう。私自身の例で言うなら、「私はうつ病になったおかげで飛躍・成長・発展し、今日までの人生プロセスを歩んでこれた」となる。

「人間の成長というもの」に関するこのような問題提起は、やや宗教っぽいというか、正確には「心理学ではなく、スピリチュアリティーの領域に属する問題」となるだろう。となると、ここでも上述の見解(=人間観)に対する「肯定派」と「否定派」とで、意見が分かれるのだろうが。
私自身は、「人間は魂の成長のために、“この世”と称される過酷な場所に宿命を負って生まれてきた」という考え方を信じている。そして、もしもこのような考え方を信じる人ならば、その人は「人間の成長を目指す立場のカウンセリング」に対して心底から共感的に理解できると同時に、深くうなずけるのではないか? とも思う。
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