カウンセラーのコラム

山梨県甲府市でカウンセリングルームを開業している心理カウンセラーの雑文です。

送別会

2011年03月27日 | 日記 ・ 雑文
先日、昔勤めていた会社の仲間たちが送別会を開いてくれた。“昔”と言ってもカウンセリングと出会う以前のことなので、今から15年以上も前のことである。当時一緒に仕事をした仲間たちと久しぶりに再会できたのだった。
こんな会合が実現できたのはmixiのおかげだ。その会社を辞めたあと、私はまったく異なる業界(もちろんカウンセリング業界のことである)に転身したので、その業界(ゲーム業界だが)の人々と接触する機会はまったくなかった。それが1年くらい前、現在もその会社に勤めている仲間のひとりが偶然にもmixiで私を発見したのだった。
すぐさま意気投合して「再会しましょう!」となり、10数年ぶりに再会したのが一昨年の12月だったと思う。それからはmixiでつながっているわけだが、私が今年の年賀状で引っ越すことを伝えていたことから、送別会が開催されるという成り行きになった。

当初の開催日は3月11日(金)に設定されていた。そう、地震が起きたあの日である。あの日あの時間、私は息子(6歳)と吉祥寺にある幼稚園の近くの公園にいた。最後の登園日だったこともあり、息子を迎えに来ていたのだった。
いつものことだが、幼稚園が終わったあと、公園にはたくさんの幼稚園児たちとその母親が残っていた。私も残って子どもたちと一緒にサッカーに興じていた。と突然、子どもたちがゲームを中断して母親の元にサーッと引き上げた。何が起きたのか理解できなかった私は子どものひとりに「どうしたの?」と尋ねた。「地震だよ!揺れてるでしょ!」。それを聞いて、ようやく地面の揺れが体感できたのだった。
ずいぶん長い間揺れていた。何かにつかまっていないと立っていられないほどだった。目の前のアパートから慌てて外に飛び出す人を見た。公園だったので何かが倒れてくる心配や恐怖はなかったが、少なくとも「これはただ事ではないな」と思った。自宅が心配だったので大急ぎでクルマで帰宅した。帰路の途中で街並みや人々の様子を注意深く観察したが、普段と異なるところは何もなかったので少しほっとした。
帰宅後はテレビのニュース報道に釘付けになったが、それを視ながら「今夜は新宿で飲み会があるんだよなあ……。それまでに電車が復旧するかなあ?大丈夫かなあ?」と考えていた。結局、中央線も総武線もその日は動かなかったので送別会は中止(延期)になったが、それにしても今振り返ると「ずいぶんと“のんき”だったなあ」と思う。もしも中央線が動いたら新宿まで行こうと考えていたのだから(苦笑)。もっとも、そんなふうに思った背景には「私のためにたくさんの人が集まって送別会を開いてくれるのだから、その私が行かなかったらマズイよなあ」という思いもあったわけだが。

話がさらにそれていくが、私がこれほどまでに“のんき”でいられた要因のひとつに「テレビ報道というものには限界がある」という事実が大きく関与しているように思う。私は帰宅してから数時間、テレビの前に座りっぱなしだった。津波の様子はヘリコプターからのライブ映像で視た。たくさんの家やクルマが押し流されていった。倒壊した建物も視た。都内各所(新宿駅など)で混乱している群衆の映像も視た。救急車のサイレン音、飛び交う怒号、それらを伝えるアナウンサーの緊張した声、も聴いた。
だが、私には東北地方と茨城県(とくに太平洋側)がこれほどの大惨事になっているとは、まったく想像できなかった。地震当日夜の時点では「きっと死者が100人以上は出ただろうな。だとしたら大惨事だなあ」という程度にしか想えなかったのである。なぜなら、テレビが伝えていたのは震災全体のほんの一部(比率にすると0.1%程度か?)だけ、だったからだ。
ここに私たちが“学ばなければならないこと”がたくさん含まれていると思う。そのひとつは、「テレビが伝えているのは事実・実態・真相全体のほんの一部分だけに過ぎない」ということだ。私はここで人々の不安を煽りたいわけでは決してない。が、現在の原発事故報道にしても「伝えられているのは事実全体の一部分だけである」ということを肝に銘じておかなければならないだろう。もちろん、報道されている内容に関しては“科学的データに基づいたものである”ことは承知している。だが、原発の核心部に入って現状を確認した人は誰もいないのだから、その意味では“現在どんな状態にあるか”を正確に突き止めるのは不可能である……と言えるだろう。
念のために付言しておくが、これは「報道を信じるな!」という意味ではない。私たちは原発の状態を自分の目で見ることはできないわけだから、これは即ち「私たちが所有している情報収集能力には必然的に限界がある」という意味になる。

本題に戻ろう。テーマは送別会だった。
まあそんなわけで、日程を2週間後の25日(金)に設定し直すしかなかった。よって私は当日、引っ越し先の甲府からクルマで新宿の会場に向かった。帰路もクルマを使わなければならないので、アルコール類は一切飲まなかった。もともと飲めないタイプなので、それはまったく苦にならなかったが。
会の中心メンバーとは1年前に顔を合わせていたが、10年以上会っていなかった仲間が3名も来てくれた。とにかく、なにもかもがみんな懐かしかった。「たまには思い出話に花を咲かせるのもいいなあ」と思った。と同時に「ずいぶん歳をとってしまったんだなあ」としみじみと思った。
こういう類の会合だと珍しくないだろうが、当時の恋愛話が出るとかなり盛り上がる。「○○さんっていたよねえ? 今どうしているのかなあ……」と話を振られてハッとした。すっかり忘れていたその女性とのホロ苦いエピソードが、鮮明な記憶となって即座に甦った。と同時にそれ以外の恋愛にまつわるエピソードも、まるで数珠つなぎのように次々と思い出された。
差し障りがあると困るので詳しくは書けないが、当時、20代前半~後半にかけての私はたくさんの人に恋愛感情を抱き(“同時に”という意味ではない)、それと同じ数だけの失恋を経験した。成就したケースは一度もない(苦笑)。
ほとんどのケースはどれもみな“懐かしい思い出”とか“大切な経験”になっているが、ひとつだけ、思い出すと今でも胸のあたりがズキズキと痛むエピソードがある。いわばフラれるような格好で失恋したのは私のほうだったし、その私は現在では妻子に恵まれて幸せな家庭生活を送れているわけだから、理屈の上では私が胸を痛める必要はないハズである。が、感情というものは、理屈通りに働いてくれないものらしい(笑)。

送別会を終え、クルマを飛ばして深夜2時前に帰宅した。相変わらず胸のあたりがズキズキと痛んでいたが、布団に入って隣に寝ている息子の寝顔を見たら、私の心に空いた傷口が少しづつ塞がれていくような気がした。
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引っ越し完了!

2011年03月18日 | 日記 ・ 雑文
昨日(17日)の午後、甲府市への引っ越しが完了した。大きなトラブルもなく順調に進められたが、その日の18:30頃から計画停電が実施され、すべての暖房器具を電気に依存している新居での夜間の寒さは身にこたえた。
身体を温めるためには布団にもぐるしか方法がなかったので、20:00には一家全員で就寝した。普段は家族3人バラバラの時間に就寝しているが、たまには家族が揃ったところで寝るのもいいなあ……と思った。
翌日(今日)は早朝5:00に目が覚めた。寝室からリビングに移動して即座に暖房を入れたが、部屋が暖まるまでの間、寒さが身に突き刺さるようだった。身体を震わせながら、ふと「こういう経験、以前にもあったなあ……。どこだったかなあ……」というようなことをしばらくの間、ぼんやりと考えていた。
「あっ!亀山山荘だ!」。それを思い出すまでに多くの時間はかからなかった。

故・友田不二男先生が健在だった頃、千葉県の山奥にある亀山山荘(友田先生は1週間のうち、大半はここで暮らしていた)では、ほとんど毎週のように土日合宿講座が開催されていた。夏を除けば時期も季節も関係なく、ほぼ1年中あった。私は土日合宿の“常連”と呼べるほど熱心な参加者ではなかったが、それでも多いときには1ヵ月に1~2回は亀山山荘に通っていたと記憶している。
この合宿の最大の特徴は「2日目(日曜日)は早朝5:00からスタートする」という点にある。夏ならともかく、真冬の早朝5:00は非常にキビしかった。「身を切るような寒さ」という言い方があるが、まさにそんな感じだった。

ここまで書けば話がつながってくると思うが、私が今朝思い出したのは「亀山山荘で真冬に開催された土日合宿講座での早朝の寒さ」だったのである。そのときの講座内容なんてまったく覚えていないが(苦笑)、身体が経験した“あの時のあの感じ”は、数年後の現在でも確かに身体が記憶していたのだった。
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