カウンセラーのコラム

山梨県甲府市でカウンセリングルームを開業している心理カウンセラーの雑文です。

“お金”中心から“人間”中心へ……

2010年09月24日 | 日記 ・ 雑文
「誰も投資しない、誰も儲けない、しかも会員の生活は豊かになる」。
これは故・友田不二男氏が1963年に設立した“掌風会”という団体のコンセプトを示したキャッチフレーズである。この団体がどんな活動を展開し、どのようにして会員の生活が豊かになったのか、という点については、昨年秋に発刊された単行本『友田不二男研究 ~日本人の日本人による日本人のためのカウンセリング~』内の論文中に記したので、ここでは言及しない。もしもこの点について関心があったら、上記書籍を読んでいただきたいと思う。(この本について詳細は私のホームページ内でも紹介しているので下記ページをご覧ください)。
ホームページ内の本の紹介コーナーはこちら≫

ここで私が問題にしたいのは、「このようなキャッチフレーズを掲げながら、ある種の経済活動を展開した友田氏の目には“人間社会というもの”がどのように観えていたのだろうか? また、その心中はいかなるものだったのだろうか?」という点である。
もっとも、このような問いはいくら問うてみても、「結局のところ、真相は本人しか知らない」となるだろう。が、私はそれを承知の上で同氏が書き残した数々の記録と私の記憶から、「友田不二男という人は、“お金”中心ではなく“人間”中心の社会を現実化しようと努力・奮闘した人物である。すなわち“人間中心の”思想・哲学こそが、同氏の中核であり基盤であった」と評したいのである。

このようなことを記述したくなったのは、つい最近の経験から「本当にその通りだよなあ。人間社会の本来の姿は“人間が中心”であるはずだよなあ。全面的に“お金が中心”となっている現代社会の在り方は、社会とその基盤である個人との間に存在する問題をますます深刻化していくに違いないだろうなあ!」という思いに至ったからだ。
理想論になるだろうが、“地球的規模の環境破壊”、“テロと戦争”、“貧困や食糧危機”などに加えて、“不登校やひきこもり”、“心的不適応”、“いじめや虐待”、“犯罪”などが存在する遠因として、根源には「人間が人間として尊重される社会が現実化していない」という一面があることを私は主張したい。
余談になるが、“人間の心というもの”は、個人の外側(環境・状況・他者など)との関係において機能するもののはずだ。ゆえに問題のすべてを“個人の心の問題”に還元しようとする考え方には、私は反対の立場である。さらに言えば、“社会と個人”をテーマにする際に「片方が原因であり、もう片方が結果である」という因果論的な発想自体を疑ってもいる。因果論だと「社会が○○だから個人が××である」となるか、もしくは「個人が××だから社会が○○である」のどちらかに帰結してしまうだろう。したがって私は「社会と個人とは相互に作用している。片方が原因でもう片方が結果である、というようなことは事実・実態としてあり得ない」と考えている。

余談ついでに別の観念が浮かんだので記しておくが、「人間が人間として尊重される社会が現実化していない」を推進していった要因のひとつに、“科学の誕生”(=ニュートン物理学の登場)を挙げることができるだろう。それ以降、人類は“科学性”と“客観性”を価値付けるあまり、“人間性”というものを排除していく方向に進んでいった。……というのが私の歴史観である。ゆえに私には「失われた“人間性”を回復していきたい!」という理念を持って、微力ながらカウンセリング活動に身を投じている……という側面もある。
なんだか話が“宗教っぽく”なってきたが、誤解を恐れずに言うならば、仮に現在の社会において“人間性を回復できる場”があるとすれば、それは“宗教の世界”か、もしくは“カウンセリングの世界”しかないだろうとも考えている。もっとも、私にとっての“宗教の世界”とは、仏教を含めた“東洋思想の世界”になるわけで、こういう方向からの人間へのアプローチこそが、「……その“地獄への進路”を、できるだけ早く、かつ、効果的に閉塞すべく勇気を振い起こすことであり、さらには新しい創造的・開拓的な活動へと、人それぞれの分に応じて参加し参与してゆくこと」(日本カウンセリング・センター主催:夏季ワークショップスの「目的と特質」から引用)に結びついてくると確信しているわけである。

さて、話を本題に戻そう。8月9日~11日にかけて開催された夏季ワークショップ・東京会場でも、上述した問題、すなわち“お金の問題”が話題になった。キッカケは参加者の一人から「友田先生が投じた“エコマネー”というものに関心がある」という意味の発言があったことだったと記憶している。
知らない人のために説明を加えておくが、友田氏は晩年に「カウンセリング活動からは一切身を退いて、今後の人生は“エコマネー”に取り組んでいきたい!」と公の場で発言した。(このあたりの詳細な経緯も『友田不二男研究』に収録されているので、関心がある方は併読していただきたい)。
この発言は多くのカウンセリング関係者にとって“爆弾発言”だった。友田不二男という人物は、日本にカウンセリングを導入し(ロジャーズの著作を最初に翻訳した)、創意・工夫を重ねながら、その普及・発展に貢献したカウンセリング界の第一人者である。その人物が「カウンセリングをやめる」と言い出したのだから、周囲の人たちが仰天したのも無理ないだろう。かくいう私も、これを本人の口から直接聞いたときには少なからず動揺したのを覚えている。
正直に告白すれば、このときの同氏の心境というものが、当時の私にはまったく計り知れなかった。いや、現在でも計り知れないのであるが、少なくとも「人間が中心の経済システムを創造・開拓したかったのではなかろうか? それを現実化していくための手がかりと可能性を“エコマネー”に見い出したのではなかろうか?」という想像ができるレベルにまで、“この私”もようやく育ってきましたよ……と言いたいのである。それが本稿を執筆しようと思い立った動機だ。

夏季ワークのときにも話したが、晩年の友田氏は“現代社会とお金の問題”について、機会があるたびに熱弁をふるっていた。例えば資本主義というものについて「資本主義がはじまったのは“資本家の誕生”に起因する。資本家がどうやって生まれたのかと言えば、ある時ある人物が地球上に四角く線を引っ張って“ここは俺のものだ!”と宣言した。それが資本家となった」という説を述べていた。
こういった話というのは、人によっては“信じがたい”かもしれない。というのは、この説が信じられる人・納得できる人というのは、物事を観るときに視点をずーっと上のほうに持っていって、あたかも“人工衛星から地球を眺める”ように観ることのできる人物に限られてくるからである。宇宙から地球を見れば、私有地どころか国境さえ存在しないのは誰の目にも明らかだ。が、逆にこういった視点で物事を観ることができない人物には、“エコ”というものが絶対に理解できないだろうと思うし、ましてや“トランスパーソナル”などというものになると、“夢のまた夢”に過ぎないであろう。

別のエピソードとして友田氏は、「現在の日本人というのは全員が“お金教”の信者である」とも述べていた。紙幣を取り出して「これは印刷された“紙”でしょう。“紙”だから“神”になったんだよ」とダジャレ(?)を交えながら、熱心に語っていたのが思い出される。
バブル崩壊後の経済的な衰退もあり、また、中国の経済成長が著しいこともあって最近はすっかり呼ばれなくなったが、かつての日本人は世界中の人々から“エコノミック・アニマル”と呼ばれていた。諸外国の人々から見れば、当時の我々日本人は“お金教の信者”に映っていたかもしれない。
確かに私たちは“お金の力”を絶対的なものだと信じているようである。が、それは本当に、“神”と同じ程度に、“信じる”に値するものなのだろうか? ……という問題になってくると、根源的には人間の“信じるという行為”そのものが問題になってきそうである。
そうそう。すでに私は“科学というもの”に対する否定的な見解を述べた。(もっとも、科学と科学技術によって、便利・快適な生活が私たちにもたらされている事実を認めていないわけでは決してないが)。この主張はもちろん友田氏の影響によるものだが、同氏は教育問題を取り上げた際に、「学校の先生というのは、“科学教の信者”をこしらえるためにせっせと活動している、いわば“牧師さん”なんだよ」と、ユーモアを交えながら述べていたのを思い出した。つまり、同氏にとって“科学というもの”は“科学という名の宗教”であり、“信仰されているもの”であった。
ここにも根源的問題として、人間の“信の問題”が提示されているが、この問題はかなり奥が深いので、別の機会にあらためて論じてみたいと思っている。
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原点

2010年09月15日 | 日記 ・ 雑文
日本カウンセリング・センター主催の土曜講座「東洋思想とカウンセリング PARTⅠ」で使用しているテキスト中に、気になるというか妙に引っかかる部分がある。それはこの記録(座談会の模様が逐語的に記されている)の出席者である先生たちが、「カウンセリングに身を投じていく際の“原点”が何なのか?」を問題にしている箇所である。

           * * * * * * * * * * *

佐治:教育界にしても産業界、あるいは看護婦さんたちでも、もともとの風土のなかにカウンセリングに近い考え方がないとはいえない。――だからナマかじりにカウンセリングを知ると、ひどく安易にカウンセリングの考え方を適用しようという動きになるんですね。実際にカウンセリングにまともに直面する以前に、こうなんだと思い込んでしまう。あるいは、カウンセリングと近いとその人が誤解している考え方でもって、わかった気持ちになってしまう。カウンセリングの出発は、人間性そのもの――人間そのもの、への関心からはじまると思うのだが、人間性そのものに対する関心というものは、どこまでも深められるし、一方でひどく浅いところでとどまりもするんですね。そういう意味じゃ通俗哲学的な受け取り方をされる危険がありますね。(中略)それから、外からの観察者ではなくて、相手の世界に自分が入り込むということの魅力が、浅いところで人をひきつけるんですね。一見、自分は相手の共感者であるかのような態度をとって、相手の世界に入ってるんだっていう錯覚をもちたくなるんじゃないかしら。そう錯覚させている本質的なところでの誤解というのもある。
伊東:それはむしろ、今、カウンセリングをやっている人に多いのではないですか。
友田:このごろ集まる人たちは、カウンセリングがはやりだしたからとか、お前いって勉強しろ、っていわれたからとかで入ってきますね。わたくしなんか“Counseling and Psychotherapy”を読んで、ストレートに自分のなかに入ったところで、ピンと感じて一体になったところではじめていますね。伊東さんなんかそうじゃない、確かめ、確かめ、確かめしながら、きていますねえ。それは、現象的にはわたくしとは正反対のように見えるけれど、基盤というか、基本的な姿勢というか、“原初的な状況”といえるところでは完全に通じていることを、わたくしは感じているんですよ。わたくしは、この原初的な状況というものが、かなり後までプロセスを展開する原動力になっているのではないかと思いますね。
佐治:カウンセリングに飛び込んだ最初のドライヴが問題になりますね。ロジャーズ的な考え方に対して、本質的なところでね、基本的に共感して、最初から飛びつくことが割合できやすい人と、反発・抵抗を感じる人とがいると思うんですよ、誤解とか理解とは別にね。そういう批判とか反発をもういちど考えてみたいですね。
友田:そこのところですけどね、わたくしは日本的とかなんとかいうよりも、人間の基本構造みたいなものとして、ナマ身の人間と概念との関係で、最近はそこを考えてみているんですけどね。(後略)
(ロジャーズ全集第18巻 岩崎学術出版社 1968年 P.416-417)

           * * * * * * * * * * *

引用文が長くなったが、佐治先生にせよ友田先生にせよ、“カウンセリングに飛び込んだ最初のドライヴ”をなにゆえこれほどまでに問題にするのだろうか? ――という疑問が私の脳裏から離れないのである。ひょっとすると、この二人の目に映っていた日本のカウンセリング界(当時)の状況は“惨憺たるもの”であったのかもしれない。が、それは単なる私の想像に過ぎないので、真相となるとまったく不明である。
……という難しい問題は一時棚上げすることにして、この記録を読むと、なにかしら読み手である私自身の“基本的な姿勢や構造”あるいは“原初的な状況”が問題にされているような気もしてくる。そこで自分に向かって「お前がカウンセリングに飛び込んだ最初のドライヴは何だったのか?」と問いかけてみた。

私の場合、それは過去日記で書いたしホームページ内の手記にも書かれてあるが、自分自身のうつ病経験からカウンセリングに関心を持つようになった。詳細な過程はここでは省くが、要するに「私のように精神的な病や障害に悩まされ、苦しみ続けている人々が世の中にはたくさんいるはずだ。だが、そういう人たちに対する“実際のサポート”となると、極めて貧弱なものしか提供されていないのが現実である。ゆえに“実際のサポート”をもっともっと充実させ、十分なものにする必要があるはずだ。いや、そうしなければならないのだ!」というような志を抱いたわけである。
もっとも“このような思い方”は、極めて表層的な意識レベルでの“思い”だったに違いない。なぜなら、私が真の意味で“カウンセリングの世界に身を投じる”ようになったキッカケは、これも過去日記に記したが、日本カウンセリング・センター主催の入門講座(第1回目の終了間際)で、とても重大な経験を得たことに起因している。そこで私は“気づきを得る”という稀な経験をしたわけだが、と同時に「こういう経験がこんな短時間で得られるということは、“カウンセリングというもの”に何か重大な秘密があるに違いない!」と確信したのだった。
それ以降、私の“思い”は「カウンセラーになって、たくさんの人々を援助できるような人物になりたい」というよりもむしろ、「カウンセリングの秘密(と勝手に名付けた)を探求していきたい!その秘密を究明したい!」にシフトしたのだった。

「以上二つの要素がミックスされたものが、私にとっての原点である」と言えるだろう。が、つい最近、これらの“思い”とはまったく次元が異なる別の要素が浮かび上がってきたので、そのときのエピソードも加えておこう。
それは先日開催された“友田研究会”での出来事だった。“友田研究会”とは、私の自宅で毎月1回定期的に行なっているカウンセリング学習会の名称である。メンバーの大半は、日本カウンセリング・センターで知り合ったカウンセリング学習者たちで構成されているが、この日は参加者の中に初対面の人物が一人いた。
このときの様子や話し合われた内容を詳細に記すのは控えるが、初参加だったその人の体験談や現在の気持ちなどを聞いているうちに、私の脳裏には禅のテキスト『十牛図』の絵が浮かんできた。その後どんな展開があって、私にどのような内面的プロセスが生じていたのか記憶が定かではないが、ある場面でその人の発言を受けた私は次のように語った。
「私もうつ病になってからカウンセリングと出会うまでの2年間はそうでした。その頃の気持ちを言葉にするとどうなりますか、“救いを求める”という表現が一番近いでしょうか。いや、たぶん今も“救いを求めている”んだろうと思います。ただ、今はそういう明確な意識が浮上してきていないだけなんでしょう。――(少しの間)――今言っている“救い”というのは、もちろん宗教的な意味での“救い”のことですよ」と。
このようなセリフが自分の口から飛び出したのは、まったく思いがけないことだった。カウンセラーとしてクライエントさんと面談していると、予期も予測もまったくしていない発言が咄嗟に“自分の口から出てくる”ということをしばしば経験しているが、このときもそうだった。なぜなら、“救いを求める”などという言葉(もしくは観念)は、このセリフを述べる瞬間まで、私の頭の中には微塵も存在していなかったからである。つまり、このときの自分の動きを理屈っぽく解説すれば、私は「自分が思ってもいなかったことを述べた」となるわけだ。

こういった類の奇妙なこと(?)が起きるのは、“カウンセリング場面ならでは”のことだと思っている。が、それはそれとして、私がカウンセリングに身を投じるようになっていった“本質的・根源的な何か”は、じつはこのあたりにあるのではいか? という気がしている。
ただし、こういう次元の問題を正確に表現しようとすると、もはや主語として「私は」とか「私が」という言葉は使えなくなってしまうだろう。すなわち、もしも文章化する際に主語が必要ならば、そのときには「魂は」とか「魂が」と表記しなければなるまい、と思うのである。
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“自発協同学習”について

2010年09月10日 | 日記 ・ 雑文
前回の日記で紹介した“自発協同学習”という名称の学習法を用いて、「実際にグループ学習会を開催しましたよ!」という報告(ブログ記事)が、私のカウンセリング仲間からありました。
あまりにもタイムリーなブログだったので、ここで紹介させてもらうことにします。
ブログ:「第6回 老子を読む会」自主学習会を終えて

まあ、実際に体験したことがなければ、その効果や面白さなどは決してわからないでしょうが、このブログ記事を読めば、少なくとも“雰囲気ぐらい”はつかめるだろうと思います。
なお、“自発協同学習”に関する理論的な側面、たとえば“典型的な進め方”や“こういう学習法を実践する意図”などに興味・関心がありましたら、私個人のホームページに掲載されているコラムを併読していただけると幸いです。
コラム:「自発協同学習で学ぶ」はこちら≫
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