カウンセラーのコラム

山梨県甲府市でカウンセリングルームを開業している心理カウンセラーの雑文です。

夫婦喧嘩

2008年01月22日 | 日記 ・ 雑文
印象に残った帰省中の出来事をもうひとつ。母の通夜が執り行なわれる数時間前だったと思うが、川越から来ていた妹夫婦が夫婦喧嘩を始めたのだ。暴力はなかったが、凄まじい怒鳴り合いとののしり合いの応酬だった。
この戦いが勃発した背景には、それこそ長い長いこれまでのプロセスとたくさんの要因や環境・状況が複雑に絡まっているのだが、それらを説明するとプライバシーの侵害に当たるので割愛させてもらう。要は自分たちの息子(7歳)に対する“教育法をめぐって”の口論だ。
この争いにたまたま同じ部屋にいた私の父も参戦し、と同時にそもそもの震源地である当人(私の甥に当たる男の子)もワーワー泣きわめくので、戦いはますますヒートアップしていった。「妹+甥っ子」VS「妹の夫+私の父」という構図で両陣営が衝突したのだった。

私は初めから終わりまで隣の部屋にいたので参戦しなかったが、全員が怒鳴り声を上げていたので内容はよく聞こえた。客観的な立場でこの口論を聞いていると、“人間と人間との間で争いが生じるということの真相”が見えてきた。
断っておくが、私は“口論することそれ自体に反対”の立場ではない。“口論”とは“話し合い”のひとつの形態だ。“話し合いがまったく無い”のと比べたら、たとえ“口論”でもやったほうがいいと思っている。ただ、同じ“話し合い”でも、“カウンセリング”と“口論”とでは、あまりにも違いが大きいように思う。「違いが大きい」というのは、「口論には、ほとんどまったく益が無い」という意味だ。

甥っ子を除いた3人の怒鳴り合いを聞いていて気がついたのは、3人とも「自分は正しい。相手は間違っている」という思想を基盤に言葉を発しているという点だ。別言すれば、全員が「自分にとっての正義を相手に振りかざしている」のだ。それが相手を非難し、批判し、罵倒する原動力となっている。非難された側は防衛せざるを得ないので、ますます「自分は正しい。相手は間違っている」を強化していく。その結果、相手に対する攻撃がよりいっそうの激しさを増してゆく……というわけだ。まあ、人間の心情から言えば、こうなってしまうのはむしろ自然な成り行きだろう。

これは家庭内戦争だが、もっと視野を広げれば、現在も世界中のあちこちで“本物の戦争”が繰り広げられている。こういう悲劇が起きるのも、根源は「自分は正しい。相手は間違っている」という思想に起因するのだろう。
もしもこの悪循環を断ち切りたいと本気で願うなら、まずは自分が「自分は正しい。相手は間違っている」という考えを捨てるしかないだろう。肝要なのは、“まずは自分が”ということである。“相手に捨てさせる”のではない。まず最初に“相手に捨てさせようとする”ならば、戦争の火の手はますます激しく燃え上がるに違いない。
だがしかし、これを文字通りに実践するのは「じつにじつに容易ではない」ということも私は承知している。なぜならこれを実践するということは、「自己を放棄する」のとまったく同意だからだ。そしてまた、それが“いかに容易ではないか”は、人類の長い戦争の歴史が証明しているだろう。

というように思考していくと“絶望的な気持ち”になるのがオチだが、唯一のわずかな希望があるとすれば、それは“カウンセリングの分野”ではなかろうか? 私は「カウンセリングによって戦争が無くなる」などという誇大妄想を抱いてはないが、少なくとも“カウンセリングのプロセス”は、“人間同士が争いを深めていくプロセス”とは正反対であることに気がついた。

カウンセリング場面においては、まず最初に大前提としてカウンセラーは“自己(=価値)を放棄”している。ゆえにクライエントが何をしゃべっても“相手を批判する気持ち”は一切生じない。カウンセラーがこのような状態で相手と向き合っていられたなら、自動的に“受容(無条件の肯定的関心)”や“共感的理解”を経験することと、その伝達が可能となる。(……と書くといかにも簡単そうだが、「これくらい困難なことない」とも言える。その難しさについては、機会があったらあらためて言及したいと思う)。
クライエントの側は、自分が何を述べても一切批判されず、カウンセラーから“受容され”、“共感的に理解されている”と経験する。そういうあたたかい、どのような言動でも許される自由な雰囲気の中で、少しずつ「自分は正しい。相手は間違っている」という類の考えに固執する必要が薄れてくると、「あれ? こういう考え方を持っている自分って、何なのだろう?」というような気持ちも生じてくる。以前はまったく疑いの余地がなかった自分の“正しい考え”に、“疑いの目”を向けられる余裕が出てくるのだ。
だが、ここのところでカウンセラーが「待ってました!」とばかりに、クライエントが気づき始めた新しい方向に強引に持っていこうとすると、とたんにヒュ~ッと身を硬くして再び元の防御体勢に戻ってしまうので要注意だ。「カウンセラーは、クライエントの歩調に合わせなければいけない」と言われるが、まったくその通りだと思う。
このようなプロセス全体を通して、はじめて人間は古い自己体制(=正しいと思っていた考え方や価値基準)に執着しなくなり、新しい自己体制(=新しい考え方や価値基準)を生み出すことが可能になるのではないか? これこそが人間の飛躍・成長・発展ではないか? と常々私は思っている。

妹夫婦たちの不毛な口論を聞きながら、「大人っていうのは、ぜんぜん成長しないものなんだな~。相変わらずだな~」とつくづく思った。というのも私には、過去に数回まったく同じテーマでこの人たちが同様の議論をしていた記憶があったからだ。そのときのそれぞれの主張と現在のそれとでは、まったく何も変わっていない。「同じ話をよくもまあ飽きもせずに繰り返せるものだ(笑)」と、内心では半ばあきれていた。と同時に「相手の言動を非難するのではなく、3人が3人とも“自分の側”を見直すことができない限り、この争いは今後も続いていくんだろうな~」とも思った。

他人事だからこうして笑えるが、そう書いている自分自身はどうなのだろう? 私だって他人から見れば、「相変わらずだな~。進歩・成長がぜんぜん見られないな~」と思われているかもしれない。だとしたら……、あー嫌だ。特定の思想や価値にのみ固執している“頭の固い大人”にはなりたくないものだ。常に進歩・成長・発展してゆける柔軟性を持った人間で在りたいものだ。
笑い話として書くつもりでいたのだが、なんだか笑えなくなってきた。
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母の死

2008年01月20日 | 日記 ・ 雑文
1月11日の深夜(正確には12日の1:00過ぎ)、母が他界した。9日から危篤状態となり、14日に葬儀・告別式を終えた。私が経験したその間の出来事のほんの一部をここに記しておきたいと思う。「ほんの一部」としたのは、全部などとても書けないし、書くつもりもないからだ。

9日の昼に私たち家族3人は甲府(山梨県)の実家に帰省し母を見舞った。この日の昼頃から容態が悪化していたのだが、夕方には完全にこん睡状態に入った。危篤だ。家中が緊張感に包まれた。父が大慌てで川越(埼玉県)に住んでいる妹夫婦に電話した。もう一人の妹(実家近くに住んでいる)の家族と私たちは覚悟を決めてスタンバイしていた。あとは川越の妹を待つだけだ。「なんとか間に合ってくれ!」と皆で祈った。
その祈りに母が応えてくれたのだろうか、夜9時頃に一時的な危機状態を迎えたが、川越の妹家族が到着した10時頃には容態は安定を取り戻してくれた。最後の命の力を振り絞っているようだった。間もなく主治医(女性)を含めた医療スタッフが家にやって来て、家族全員とで母のベッドを取り囲んだ。主治医が「お子さんたち全員が集まってますよ。よかったね」と声をかけると、母はニッコリ微笑んだ。
「一時的な危機状態は去ったので、しばらくは安定しているでしょう」という主治医の判断で、その場はそれで解散した。ただ、私たち家族は念のため、実家で一夜を明かすことにした。近所(クルマで5分くらい)に別宅があったのだが、この日は父が通常使用しているウォーターベッド1台に息子(3歳)を含めて3人でうずくまるようにして眠った。
翌朝、目が覚めると全身に激痛が走った。慣れないベッドの上に無理な体勢で寝ていたので、首・肩・背中を痛めてしまったらしい。この痛みは現在もまだ残っている。

話が前後するが、上述の舞台は両親の住居であり私が生まれ育った実家である。病院の集中治療室ではない。
半年ほど前に末期の肺癌(すでにリンパ節に転移していた)が見つかり、余命が半年ほどであることを知った母は、外科手術も化学療法も行なわず(足が不自由になったので放射線治療は施したが)、自宅で終末期医療(主に痛みや苦痛を除去する医療措置)を受けながら最期を迎えることを選択したのだった。いわゆる“延命措置”には「NO!」の態度を示したのだ。私を含めて家族全員がその決断を尊重し、賛成した。反対者は一人もいなかった。
前年11月下旬に脳梗塞を併発し、3週間ほど入院したが、このときも母の希望で退院し自宅で療養することに決めた。右半身と言語に不自由が残っていたので看病する側(父)は大変だったが、母の意志を尊重しての決断だった。入院中は食事にまったく手をつけなかった母が、帰宅したその日からモリモリ食べ出したのには驚いた。ただ単に“病院食がマズかった”だけでなく、“生命力をより効果的に機能させるような環境”が、母にとっては“自宅のほうに整っていた”のだろうと私は思っている。

そのような事情から、危篤になっても点滴は施さなかった。ということは、どんなに長くても「あと1週間しか生きられない」ことを意味する。自力で栄養を摂取することは不可能なのだから……。しかし、主治医の判断によるこの措置に異を唱える人はいなかった。家族全員の思いは「安らかに最期を迎えてほしい」というだけであり、「単なる延命措置には反対」の気持ちだったのだ。
片肺しか機能していないので酸素吸入器は一時的に使用したが、母はそれも嫌がった。チューブを鼻の穴に挿すと左手で何度も振り払った。人間の精神性や自立性という観点から言えば、このような行為は共感的に理解できる気がした。
この“自宅で終末期医療を行なって最期を迎える”という選択は、今にして思うと「本当に良かった」と言える。いや、「幸せだった」と言いたいくらいだ。その“幸せ”を一番に感じていたのは母本人だったに違いないが、家族にとっても住み慣れた我が家で母を看取れたことは幸せだったに違いない。病院の集中治療室で手足を縛られ、管だらけにされたまま死んでいくのと比べれば、その違いは容易に想像できるだろう。

さて、記述を元に戻すが、11日の夜9時過ぎに再び容態が悪化した。別宅に戻って入浴後だった私は知らせを受けると、妻と子どもを残してすぐに駆けつけた。
母の傍らで看病していた父と妹によると「うめき声のようなものを上げていた」らしい。家族が揃ったあと、しばらくしてやって来た主治医によると、「その声は喉の痙攣によるもので本人の声ではない」とのこと。しかし、「この症状が出たということは、いよいよその時が間近に来ている証拠だ」という。
喉の痙攣を抑える注射を打ち、それから小1時間くらい私たちはじっと母の動向を見守っていた。「注射を打った直後に亡くなってしまう人もいるので、よく誤解されてしまうんですよねえ(苦笑)」と主治医が言った。留まるべきか帰るべきか、主治医も判断に迷っているようだった。結局、「お母さんはまだ若いので、心肺が機能する力が強いのかもしれませんね」という話になり、この場は一旦解散することになった。11時少し前だった。私は体を痛めたあのウォーターベットで眠ることにした。「今度は自分一人だから大丈夫だろう」と言い聞かせて。

1時頃、父に起こされた。まだ眠っている体を引きずるようにして母の寝室に行った。一目見て呼吸が完全に止まっているのがわかった。ここ数日間は片方の肺だけで精一杯の呼吸を行なっていたので、胸が大きく上下に動いていた。しかし目の前にいる母の胸は微動だにしていない。死んだことがはっきりとわかった。と同時に「なんと安らかな顔だろう」と思った。仏教では死んであの世に行くことを“成仏する”と言うが、「まったくその通りだなあ」と思った。目の前の母の顔は“仏様”そのものだった。
しばらくして近所の妹と主治医たち医療スタッフが駆けつけて来た。主治医が法的な最終確認を行なったあと、家族に死亡が宣告された。この時刻が書類に記す公式な死亡時刻となる。
父の話によると、「亡くなるほんの少し前、ベッド脇の椅子に腰掛けながら『矢でも鉄砲でも降って来い。あとは神様仏様にすべてを委ねます』と独り言をつぶやいたところ、それからしばらくしてふと横を見ると呼吸が止まっていた。それを見て初めて『あれっ?』と思ったが、もしも隣のベッドで寝ていたら、きっと朝まで気がつかなかっただろう」ということだ。
主治医の先生が数日前に話していた。「人はみな、すべての準備が整ったところで、自分の意思で旅立っていくのです」と。ここで言う“すべての準備”の中には、“家族の側の準備”も含まれているらしい。「お母さんは家族全員の“心の準備”が整ったのを見届けて、そのタイミングでこの世に別れを告げたのでしょう」と先生が言った。私もまったく同感だった。理屈ではなく、「確かにそうだったのだろう」としか思えなかった。
これとは逆に「家族が揉め事を起こしたり、引き止めようとしたりして、死期を迎えた患者さんがなかなか旅立つことができないケースもある」という話も聞いた。

話はちょっと変わるが、この一連のプロセスをつぶさに見ながら、私が最も驚くと同時に感動したのは、“現在の終末期医療の進歩・発展ぶり”だった。母の“自宅で最期を迎えたい”という選択に対して私は賛同していたが、一方で「終末期医療といっても、しょせんは医術に過ぎない。そんなものがどの程度患者をケアできるのだろうか?」という疑問も抱いていた。私はこの方面に関してはズブの素人だったので、このような疑問を持ったのはむしろ当然だったかもしれない。
しかし母は、まったく苦しまずに、本当に安らかに死んでいった。「眠ったまま死んでゆく」という表現があるが、まさにその通りだったのだ。何よりもこの事実に強い衝撃を受けた。それを可能にしたのは“終末期医療”のサポートがあってのことだ。「ものすごい医療技術が現在の日本にはあるんだな」というのが正直な感想だ。
もちろん、その医術を施した主治医の先生の腕も超一流だったのは間違いない。私の母に最も適した施術を、その場その場で臨機応変に行なっていたのだから。「医者に必要なのは知識ではなく、臨床経験と患者を見抜く力なのだ」ということがよくわかった。
このことは“カウンセラー”にもそのまま当てはまると思うが、この先生は人格的にも魅力があるだけでなく、母の“カウンセラー”としても十分機能していた。「死期を迎えた患者の全存在に向き合いながら、長年プロフェッショナルな仕事をやってきた人物は、やっぱり格が違うな~」と脱帽した。
「それと比べて、私が行なってきたカウンセリングはどうだったのだろう? “全存在に向き合う”どころか、上っ面のところで軽くやってきたのではなかろうか?」という疑問が生じた。いったいどの程度“クライエントと仮に名づけられた存在”と“私という存在”とが向き合い、関わりを持てたのかは定かではないが、少なくとも「この先生と同程度の“人間を見抜く力”は、今の私にはまだ無いな」と悟った。

母の死後、「この先生が施した“終末期医療”は、母にとっては最高レベルのサポートだったのだ」と確信した。と同時に、「人間は本来、自然に近い形で安らかに死ぬことができる能力を持って生まれているのではないか?」という仮説が浮かんだ。医療技術はサポートに過ぎない。患者自身の中に“死ぬ力”がなければ、どんな高度なサポートだって役に立たないはずだ。
“死ぬ力”なんて言葉、使うのは生まれて初めてだった。カウンセリングの世界では、「カウンセラーは、クライエント自身が本来持っている“生きる力”に最大限の信頼を置く。これはカウンセリングが成立する基盤である」というような言い方をする。しかし“死ぬ力”なんて言葉は聞いたことがない。仮に“死ぬ力”があったとして、それは“生きる力”と矛盾対立するものなのだろうか?
熟考を重ねた結果、この“2つの力”は矛盾しないことに気がついた。主治医が母に行なってきた施術を振り返ってみると、どれもこれも“命の働きがより正常に機能するようになる”類の医療的援助を行なっていた。いわゆる“点滴漬け”にしなかったのもそういう理由だ。ということは、「患者自身が本来自然に有している“生きる力”が機能すればするほど、“死ぬ力”もまた自然に機能してくる」となるのではなかろうか?
このような観点からすると、現代医療における“延命措置”の問題点もより明確になってくる。集中治療室で行なわれるアレは、果たして患者自身が本来自然に有している“生きる力”を正常に機能させるような援助になっているのか否か? という問題点だ。

最後になるが、一言で言うなら私が経験した“母の死”は、「感動そのものだった」と言うより他ない。主治医の医療技術と母への対応に感動し、献身的な看病を続ける父の姿に感動し、決して母を引き止めることなく「安心して。私たちは大丈夫だから。心配しなくていいよ」と声を掛け続けた妹2人の援助的行為に感動し、そして母の“最期まで命の炎を燃やし続けた精神の高潔さ”に感動した。
それらは最終的に全体としてすばらしいハーモニーを奏でた。人によってそれぞれ音色(役割)は違ったが、最後には荘厳な交響曲に仕上がっていった。母はその交響曲を聞きながらあの世に旅立っていったのだと、私は思っている。

余談になるが、母が死んだ2時間後には葬儀屋が打ち合わせに来た。それから通夜、告別式&初七日法要を終えるまでの3日間は、まるで嵐のような忙しさだった。主催者としての打ち合わせと準備に追いまくられながら、喪服を用意するために甲府と三鷹を往復したりした。おまけにウォーターベッドで痛めた首・肩・背中のせいで、夜は度々目を覚ました。寝返りを打つ度に激痛が走るのだからたまらない。母の死に対する悲しみをしみじみと味わう余裕など、まったくなかった。
ただ、初七日の席で孫たちが『千の風になって』を合唱したときには、さすがに熱いものが胸に込み上げてきた。まるで母がその歌を歌っているかのように、私には聞こえてきたのだった。会場の一番後ろに一人で立っていた私の目に涙があふれてきた。
初七日終了後、一切の緊張から解放され、どっと疲れが出た。『千の風になって』に関しては“いい思い出になった”感があったが、それ以外は「大きなトラブルもなく、なんとか乗り切ることができた」という安堵感で一杯だった。
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