カウンセラーのコラム

山梨県甲府市でカウンセリングルームを開業している心理カウンセラーの雑文です。

決定論からの解放

2009年12月02日 | 日記 ・ 雑文
11月22日(日)に開催された日本カウンセリング・センター設立50周年記念シンポジウムにて、友田不二男氏が生前「易経はカウンセリングの真髄である」という言葉を残していたことを私は知った。
会場からのこの発言を聞いた瞬間、私の脳裏には様々な思考が駆け巡ったが、その内容を今ここで整理し、言葉で表現することは難しい。しかし、私の胸の内にはそのときの“その感覚”が、タイトルの「決定論からの解放」という言葉と結びついて、現在もまだ残っている。
“その感覚”をより明確にしてゆくために、ここで友田氏本人に登場してもらおう。以下の記述は、最近出版された『友田不二男研究』という単行本に記載されている、あるワークショップ中の友田氏のセリフだ。

『重大な問題というのはどういうことかと申しますと、いわゆる因果論、日本では因果論と言いますが、まあ、向うの言葉で言えば、デターミニズム(Determinism)決定論と言うのですが、因果論という考え方を、日本人は何かしら絶対視しちゃっている。これも一つの人間の考え方にすぎないんだ、という思い方がどうしても出来なくて、また因果論的な考え方が絶対に正しい事みたいに信じ込まされちゃっている。これ、この問題が大問題なんです。なんですと言っても、おそらく大勢の方々には、ピンと来ないんじゃないかと思うんですが。――中略――
大体まあ私が了解してる限りだと、人間が意識するというか、人間の意識に上る問題というのは、常に現在なんです。もう一般的に言って意識なんですがね、これは。思いませんか? まあ易経との関係で言えば、問題と言ったほうがピンと来るかもしらんが。これはもう問題に限らず意識一般が全てそうなんで、これは現在なんです。午前中の意識を今、しているわけじゃないんです。このいわば有機体がこう動いて意識するのは、常にその時点、時点なんです。その意識の中で易経に繋げて言えば、特に重要なのはこの問題になってきますよね。つまり正確に言えば問題意識というやつ、「このままでいいのかしら」と、「おかしな事やったんじゃない、昨日おかしな事やったんじゃないかしら」とか、そういう問題意識が今起こる。
そうするとその問題を解くべく、今日、常識化している動きというのはどういうのかと言うと、この問題はイコール結果になってきて、「原因はその前にあるぞ」という考え方するわけですよね。つまり過去に何だか知らんけど、気がつかんうちに何かとんでもない事やったのが、結果として今この問題になっていると。こういう意識の仕方。ですから何かあると、「その前どうだったんだと、昨日のよく調べてみろ」とか、「帳簿よく調べ直してみろ」とか、「お得意さん行って、昨日こんな事やったんじゃないか」と、「言って謝って来い」とか。つい過去へ過去へと原因を探って、この問題を解消しようとする。つまりここで因果論的思考をしながら、こうやるわけです。
ですからあの、現実的に言うと、問題だけが意識されていて、その原因がわからん連中が、まあ上司なら上司に言うと、経験豊富な上司はピンと来る事があって、「そりゃこうしたからだろう」、だろうがいつの間にか、こうしたからだ、になって大急ぎでその修正にとりかかる。子供が何かおかしくなって、学校に行かなくて困った、というのはこっちなんです。どうして困ったのかというと、いじめならいじめというのが浮かび上がって来て、それが原因となってこう繋がる。「ああわかった」ということになる。こういう発想、これがもう今日一般的な正しい発想になっちゃっている。単なる一つの発想にすぎない、思い方にすぎない、という思い方ができない。もうそれがまさに科学的な正確な正しい発想だ思い方だ、となっちゃう。申し上げてること通じますかな?――中略――
まあ個人的な事言えば、この辺のこと言い出したのが、うん十年前、かれこれ50年前ですか。まあ周り衆からコッテンパーにやっつけられて。「お前のは新興宗教の出来損ないだ」と、「科学が因果論を無視して、科学が成立するはずないだろう。非科学的な者は大学卒業者の資格ねえんだ」と、コッテンパーに怒られた。でも今になると、これがノーベル賞クラスの学者連中によって非常にはっきり否認され始めて、因果論で片付けるのはナンセンスだということにはっきりなって来ている。――中略――
最近の常識的な発想では、今この21世紀を目前にして大事なことは、人間のこの思い方、考え方、いわゆる思考の転換だと。思考の逆転が、これが、これ以外に人類を救う道はないんだと。こういうことがまあ、あちらこちらで言われ始めている。多分そういう言葉は、お聞きになっている方々大半じゃないかと思うんですが。ご記憶でしょうか、そういう言葉聞いた覚えあります? あるいは見た覚えありますか? 機会があるとよく言ってるはずなんですが。
こりゃあまあ、私に言わせてもその通りだと思うんで、もう発想を180度転換しないで、依然としてこの因果論的な、ニュートン物理学的な発想で行ったらば、もう人類全体が気違いみたいになるだろうことは、もう目に見えておる。オーム教のサリン事件みたいな、もうあんなのは当ったり前になって、あっちこっちでボカスカ始まります。そういう世の中が来ると言わざるを得ないんですよ。
こういう、今私がやってるような発想というのは、実を言うとこの問題から出発して、それへの対応を模索する動きなんです。非常に単純化して言えば、過去に原因を探るんでなくて、未来への転換を図る。原因なんかどうでもいい、理由なんかどうでもいい、人間が変われるしかないし、どう変わるかそれを発見してくのがもう、存続に関わる任務なんだと、人類の義務なんだと、言っちゃってもいいでしょう。あえてこんなこと今申し上げるのは、易経というのは、基本的に言って、こっちの考え方なんです。後者の考え方。発想の仕方が全部後者の線なんです。』(友田不二男研究 日本カウンセリング・センター編 P.217~229)

カウンセラーとして臨床経験を積み重ねていくにつれ、友田氏がこのようなセリフによって提起した問題は、私の中でも“大問題”として明確に意識されつつある。現在の私に言えるのはそれだけだ。
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