カウンセラーのコラム

山梨県甲府市でカウンセリングルームを開業している心理カウンセラーの雑文です。

“純粋性”ということ(2)

2007年08月25日 | 日記 ・ 雑文
昨年の夏季ワークショップ・亀山会場で、ロジャーズの面接場面を収録した『グロリアと3人のセラピスト』と題するビデオをグループで鑑賞する機会に恵まれた。このビデオは「3人のセラピスト」とあるように、ロジャーズ(クライエント中心療法)のほか、フレデリック・パールズ(ゲシュタルト療法)、アルバート・エリス(論理療法)と、3名のセラピストによるクライエントのグロリア(女性)との面接が収録されており、それぞれの立場の違いが比較できるという点でも興味深い作品だ(1964年制作)。

3名のセラピストの面接を一通り見終えた後、セッションに入った。いろいろな話題が提供されたが、最も大きな問題として指摘され、私も考えさせられたのは、ロジャーズの面接で終了近くに発せられるロジャーズの応答、

「私には、あなたはとってもよい娘のように思えますよ」

という箇所だった。果たしてこれは“純粋性(自己一致)”であるのか否か? というのが問題になったのだ。ロジャーズ自身は面接終了後の振り返りの中で、「彼女は本当にいい娘だと思いました」と語っており、“何の嘘も偽りもない純粋な自分を自発的に表現した”と言っているのだが……。
無論、この場面の印象や感じ方は、観る人それぞれで違うわけで、「これが正解!」というものが出てきたわけではない。ただ、否定的な意見の中に「何かが入り混じってるような……」とか、「ロジャーズの“人間としての弱さ”が出ているのでは?」とか、「何となく“エロティックな匂い”がする」とかいうのがあった。
私の“今現在の印象”を述べるなら、先に挙げた友田先生の応答、
「あんたぐらい嫌ったらしい人に出会ったのは初めてだ」
と比べると、“限りなく純粋に近い”のは間違いないだろうが、どうも“純度の違い”のようなものが漂ってくる。
でまあ結局、「確かに“純粋性(自己一致)”から出てくる応答かもしれないが、これでは“バラ売り”ではないか?」という話に至ったのである。

よく知られているように、ロジャーズのいうカウンセラーの態度条件は、「受容(無条件の肯定的配慮)」、「共感的理解(感情移入的理解)」、「純粋性(自己一致)」の3つである。この3つが統合され、すべて同時に満たされている場合に、その人を“カウンセラーと呼ぶことができる”わけである。
「はい“受容”ですよ。はい“共感的理解”ですよ。はい、今度は“純粋性”ですよ」と、ひとつずつバラバラに提供するわけではない。
カウンセラーは今ここでの関係の中で“受容”を経験しており、かつ“共感的理解”を経験しており、そして同時にそれらの経験がすべて“純粋”、すなわち“嘘や偽りは何もない”のであり、それを“クライエントに伝える”ということを行なっているのである。

ふと気がついてみると、この“バラ売り現象”は、講座やワークショップや個人面談の中で、随所に見られるような気がしてくる。そう言ってる私自身も己を省みてみると、“たくさんのバラ売りをやってきた”気がしてならないのだが……。

カウンセリング場面は“クライエントのため”のものである。クライエントは“自分のため”に、その時間を買うのである。そしてカウンセラーは“クライエントのため”に、徹底的に自己(=我)を抑制する。そうしなければ“話を聞く”などということは不可能だからだ。
“純粋性(自己一致)”だけを盾にとって(あるいは誤解して)、カウンセラーの側に起こったあらゆる感情やカウンセラーの行為を“正当化”するわけにはいくまい。なぜならカウンセリングの成否は、結局最終的には「クライエントがどう経験するか?」にかかっているのだから……。
カウンセラーがどんなに「良い応答ができた!」と自画自賛しても、クライエントから“ダメ出し”されたらそれまでである。逆に、「失敗した!」と思っても、それがクライエントから「私には適切な援助ですよ」と認められればOKなのだ。

……などということをあらためて考えてみると、「カウンセラーの資格はクライエントから頂きなさい!」というセンターの資格認定方針が、“ものすごく当たり前のこと”に思えてくる。

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