カウンセラーのコラム

山梨県甲府市でカウンセリングルームを開業している心理カウンセラーの雑文です。

3タイプの応答

2007年08月31日 | 日記 ・ 雑文
“自分というもの”をとらえるのは極めてやっかいである。仮に「これが自分だ!」と思えたとして、“そう思った(認識した)”のもまた自分である。そこで「これが自分だ! と、そう思った自分とは何か?」という問いが出てくると、次には「これが自分だ! と、そう思った自分とは何か? という問いを発した自分とは何か?」となり、結局どこまでいっても“堂々巡り”になって、収拾がつかなくなるのがオチだ。
「心理学というのは、目で目を見るようなものだ」という例えがあるが、みなさんにもこんな経験があるだろうか?

というわけで、私は自分の頭の中を整理するための“説明概念”として、“吾”とか“我”とかいう用語を使用している。これはあくまでも“説明概念”であり、決して“自分というもの”の実態・真相を示す言葉ではない。“自分というもの”の複雑性が“吾”と“我”の二語で片付けられるわけなど到底なく、究極的な意味においては、それを“言葉で表わす(言語化する)”こと自体が不可能であるとも思っている。
あるいは、「“自分というもの”を最も正確に言語化しようとするならば、“それ(it)”としか言えないであろう」という言い方もあるが。

前置きが長くなったが、この小稿を執筆するのは、“吾”と“我”という用語を使用しながら、「カウンセラーはクライエントの“何を”援助するのか?」という問題について、自分の頭の中を整理してみたいと思ったからである。
そこで、典型的なカウンセラーの応答を3タイプ挙げ、それぞれがクライエントの“何を援助することになるのか?”を、明確にしていこうと思う。(誤解がないように言っておくが、カウンセラーの応答が3タイプに集約されるわけではない。「“何を援助するのか?”をハッキリさせる」という主旨から、その他のタイプの応答は割愛しているだけである)。

私の臨床経験から言うと、クライエントの99%が「私は自分の○○○をイケナイ(または困っている、もしくは嫌だ)と思うのです」という主旨の陳述を行なう。いわゆる“主訴”というやつだ。
この○○○の中には、その人が抱えている具体的な問題、たとえば“神経症の症状”や“うつ病の症状”をはじめ、“やる気が出ない”、“会社(学校)に行けない”、“転職を繰り返してしまう”、“親(もしくは彼、彼女)から愛してもらえない”、“不倫が止められない”、“盗みを働いてしまう”、“嘘をついてしまう”、“人間関係が上手くいかない”などが入る。
無論、それが無ければ「カウンセラーに援助を求める理由も無い」わけだから、それを述べるのは当たり前のことであるが。

それに対するカウンセラーの応答は、主に次の3つがあるだろう。

タイプ1:「それはイケナイですねえ」
これは言外に(……私もそれはイケナイと思いますよ)という、カウンセラー側の“価値基準”が含まれている。○○○というクライエントが抱えている問題に対して、「その問題は、有るより無いほうが良い」という価値を保持しているカウンセラー(問題解決を目指す人)は、このタイプの応答をするだろうと思われる。

タイプ2:「あなたはそれをイケナイと思うのですね」
これは言外に(……私はそれを良いとも悪いとも思ってませんが、“あなたがイケナイと思っている”のを、私は理解できますよ)という言葉が含まれている。ここには問題に対するカウンセラー側の“価値基準”は一切無い。
ロジャーズ流(ノンディレクティブとかクライエント・センタード)の典型的な応答だと思うが、基本的・原則的に言ってこのタイプの応答は、“問題解決を目指す人”には難しいだろうと思われる。

タイプ3:「その“イケナイ”という思いは、どこからくるのでしょうねぇ?」
これは言外に(……その問題も含めて、“あなたという人全体”について、一緒に取り組んで行きませんか? 私はそうしたいのですが……)という思いが含まれている。問題だけでなく、“それを問題にしている自分”をも視野に入れるわけで、一段高いところから検討していくことを促すアプローチだ。
ただし、このアプローチはタイミングを誤ると大失敗するので、とても危険であることも付言しておこう。以下は私の失敗経験だが、「単純な“理屈付け”をされ、片づけられてしまう」ことや、「ポカンとした顔で、“なんでそんな当たり前のことを聞くの?”という態度を表わす」ことや、極端な場合は「“そんなこと知るか! それはあんたの仕事だろう!”と怒り出す」場合もある。
機が熟さないと意味がないどころか、むしろ“逆効果”になってしまうので、一口に「アプローチする」といってもかなり難しいのが実際のところだ。

さて、「カウンセラーはクライエントの“何を”援助するのか?」という問いに対する基本的な仮説をまずは提示しておくが、「カウンセラーはクライエントの“吾”が、“できる限り生き生きと生きられるようになる”ような、そういう類の援助を行なうのである」と仮定しておこう。異論があるかもしれないが、私は現時点でこの仮説を保持している。
このような観点から、タイプ1、2、3の応答を検討していくと、

タイプ1
これは“我”を援助することになっている。「○○○をイケナイと思う」のは“我”であるから、その価値基準に対してカウンセラーが同意し、肯定するならば、“我をさらに強化すること”につながるだろう。

タイプ2
これは中立であり、カウンセラーは“我”と“吾”のどちらの肩も持たない。しかも“我”に対して受容と共感の態度を示しているので、クライエントは“我”を一時的にカウンセラーに預けることができる。荷物をコインロッカーに預けるのと同様に。
“我”が自分の世界から一時的に消えれば、その分だけ“吾”が浮かび上がってきて働き出すであろうから、そういう意味では「“吾”に対する援助になっている」と言えよう。

タイプ3
これは“我”と“吾”を超越したところで“自分というもの全体”を見るように促すアプローチだが、間接的には「“我”を揺さぶる」もしくは「“我”を崩していく」効果を期待して行なわれる。が、カウンセラーが作為的にこれを行なうと、クライエントは敏感に“身の危険”を察知し、防御体制に入ってしまうので要注意だ。
しかし、二人の関係とプロセスがかなり進行し、機が熟したところで“自然発生的に”カウンセラーの口からこれが出てくるならば、そのプロセスは飛躍的に進行するだろう。……と、私の経験からは言える。

“人間の成長を目指す”立場のカウンセリングでは、“クライエントの問題”を問題にはしない。“問題にしているということ”そのことを含めた全体を問題にするのである。そこに疑問を持ち、そこにアプローチする。
カウンセラーは“クライエントの問題”を“悪”とは見なさない。むしろ「クライエントにその問題が訪れたことによって、飛躍・成長・発展を達成するための絶好のチャンスがやってきた!」と、肯定的に“観ずる”ことができる。
したがって、「問題を解決してあげよう!」などという思い上がった心は一切浮かばない。“問題を抱えたクライエントそのもの”を、“存在そのもの”を、大切にできる心が養われているのだ。

「カウンセラーの応答は、カウンセラーの“人間観”から発せられるものである」と、私は確信している。
しかしこの“人間観を育てていく”ということが、“とてもとても大変である”というのも、たくさんの失敗から実感している。これに対しては、「一にもニにも、経験と行を積むしかないのだろうな~」とは、思っているのだが……。

P.S.この長文を書き上げるのに4日間も費やしてしまった。「自分の頭の中を整理する」のが、こんなに骨の折れることだとは思ってもみなかった。
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息子と二人っきり

2007年08月27日 | 日記 ・ 雑文
妻が外泊しているので、今日は昼頃から息子(3歳)と二人っきりだ。
12時過ぎに昼ごはんを食べに近所のイトーヨーカドーへ。西館の地下1階にある「ポッポ」というお店で、焼きそばを2人前注文した。息子は3/4人前を軽々と平らげた。僕のほうは1+1/4人前を食べたので、二人とも十分な満腹感を得られたのだった。

食後にコーヒーとタバコが欲しくなったので、自動販売機で缶コーヒーとピーチティー(息子用)を買い、東館の裏にある広場へ移動した。この場所は息子のお気に入りの遊び場でもある。
二人でベンチに腰掛け、しばらくの間、お互いの飲み物を飲みながら“まったりした時間”を過ごした。日陰だし風も強かったので、わりと涼しかった。

やがて息子は1羽の鳩を見つけて、それを追いかけ始めた。いつもではないが、ここは時間帯によっては“鳩の群れ”がやって来る場所なのだ。だが今日は1羽しかしない。息子に追いかけられたその鳩は、すぐにどこかへ飛んでいった。
遊び相手がいなくなった息子は、今度は木の枝(棒)を集め始めた。植樹されている樹木の下に、たくさんの木の葉や枝が散在している。息子は4~5本の枝を集めては放り投げ、拾っては元の場所に並べ……というのを繰り返しながら、「おっきい棒あった! ちっちゃい棒あった!」などとしゃべっていた。

そんなことをしているうちに、やがてどこからともなく鳩がやって来て、20羽以上の群れが出来上がった。それを見つけると、今度は鳩の群れに向かって一目散だ。息子が走って近づくと、鳩の群れが一斉に小走りで逃げて輪のような形になる。
この追いかけっこは長く続いた。いつものパターンだと、結局最後は鳩が全員飛び立っていなくなるのだが、今日はなかなかそうならない。追いかけられた鳩たちが、あっちからこっち、こっちからあっちと、群れ全体で移動するだけだ。

ついに息子は根負け(?)したのか、今度は“砂遊び”を始めた。砂場があるわけではない。樹木の下の土がカラカラに乾いていて、ほとんど砂になっているのだ。
その砂を両手ですくい、自分が決めた一ヵ所に運んで積み上げていく……という作業を延々と繰り返していた。見る見るうちにそこが山になった。風が強くて砂が舞うので、手足だけでなく顔や全身が砂だらけ、真っ黒になっていった。

かれこれ1時間以上はその場にいただろうか? 僕は遠くから息子の姿を見つめながら、その姿に“人間が本来持っている健全さ(=自由な精神)”を感じ取り、畏敬の念を覚えたのだった。
「これこそが“人間本来の健全な姿”なのだ!」と直観し、「“人間の健全さ”とは、自然や動物と“遊ぶ”ことによって発露するのではないか?」とか、「その“遊ぶことができる能力”は、本来的には誰にでも備わっているのではないか?」などという思考が浮かんだ。

と同時に、「これが大人になるにつれて、“棒を投げるのは危険な行為だ”とか、“砂で手足や服を汚すのは良くない行為だ”とか、“鳩を追いかけるのは恥ずかしい行為だ”というふうに理解し、自分の内に在る“自発性・衝動性”を規制していくんだろうなあ……」とも思った。
だがそれは、人として生まれてきたからには背負わなければならない“宿命”でもあると、僕は思い定めている。「“教育”という名のもとで行なわれる何らかの規制」に対して、僕は大賛成しているわけではない。
そうではなく、“何らかの規制が存在してしまう”というのは、いわば“人間存在の宿命”であり、その規制から解放された分だけ、人間は“精神の自由”を獲得できるのであり、その獲得のプロセスこそが、“人間の成長・発展”のプロセスなのだ……という人間観を僕は保持しているのだ。
「人生とは、プロセスである」ということになるだろうか? そして我が息子も人間である以上、これの例外ではないのだ。

ふと我に返ると、僕は1時間以上もベンチに腰掛け、甘い缶コーヒーを飲みながらタバコを何本も吸っていた。そしてその間、生きる上では“どうでもいい”思考を巡らせていた。なんともまあ、“不健全の見本”のような姿だったのである(笑)。
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“純粋性”ということ(2)

2007年08月25日 | 日記 ・ 雑文
昨年の夏季ワークショップ・亀山会場で、ロジャーズの面接場面を収録した『グロリアと3人のセラピスト』と題するビデオをグループで鑑賞する機会に恵まれた。このビデオは「3人のセラピスト」とあるように、ロジャーズ(クライエント中心療法)のほか、フレデリック・パールズ(ゲシュタルト療法)、アルバート・エリス(論理療法)と、3名のセラピストによるクライエントのグロリア(女性)との面接が収録されており、それぞれの立場の違いが比較できるという点でも興味深い作品だ(1964年制作)。

3名のセラピストの面接を一通り見終えた後、セッションに入った。いろいろな話題が提供されたが、最も大きな問題として指摘され、私も考えさせられたのは、ロジャーズの面接で終了近くに発せられるロジャーズの応答、

「私には、あなたはとってもよい娘のように思えますよ」

という箇所だった。果たしてこれは“純粋性(自己一致)”であるのか否か? というのが問題になったのだ。ロジャーズ自身は面接終了後の振り返りの中で、「彼女は本当にいい娘だと思いました」と語っており、“何の嘘も偽りもない純粋な自分を自発的に表現した”と言っているのだが……。
無論、この場面の印象や感じ方は、観る人それぞれで違うわけで、「これが正解!」というものが出てきたわけではない。ただ、否定的な意見の中に「何かが入り混じってるような……」とか、「ロジャーズの“人間としての弱さ”が出ているのでは?」とか、「何となく“エロティックな匂い”がする」とかいうのがあった。
私の“今現在の印象”を述べるなら、先に挙げた友田先生の応答、
「あんたぐらい嫌ったらしい人に出会ったのは初めてだ」
と比べると、“限りなく純粋に近い”のは間違いないだろうが、どうも“純度の違い”のようなものが漂ってくる。
でまあ結局、「確かに“純粋性(自己一致)”から出てくる応答かもしれないが、これでは“バラ売り”ではないか?」という話に至ったのである。

よく知られているように、ロジャーズのいうカウンセラーの態度条件は、「受容(無条件の肯定的配慮)」、「共感的理解(感情移入的理解)」、「純粋性(自己一致)」の3つである。この3つが統合され、すべて同時に満たされている場合に、その人を“カウンセラーと呼ぶことができる”わけである。
「はい“受容”ですよ。はい“共感的理解”ですよ。はい、今度は“純粋性”ですよ」と、ひとつずつバラバラに提供するわけではない。
カウンセラーは今ここでの関係の中で“受容”を経験しており、かつ“共感的理解”を経験しており、そして同時にそれらの経験がすべて“純粋”、すなわち“嘘や偽りは何もない”のであり、それを“クライエントに伝える”ということを行なっているのである。

ふと気がついてみると、この“バラ売り現象”は、講座やワークショップや個人面談の中で、随所に見られるような気がしてくる。そう言ってる私自身も己を省みてみると、“たくさんのバラ売りをやってきた”気がしてならないのだが……。

カウンセリング場面は“クライエントのため”のものである。クライエントは“自分のため”に、その時間を買うのである。そしてカウンセラーは“クライエントのため”に、徹底的に自己(=我)を抑制する。そうしなければ“話を聞く”などということは不可能だからだ。
“純粋性(自己一致)”だけを盾にとって(あるいは誤解して)、カウンセラーの側に起こったあらゆる感情やカウンセラーの行為を“正当化”するわけにはいくまい。なぜならカウンセリングの成否は、結局最終的には「クライエントがどう経験するか?」にかかっているのだから……。
カウンセラーがどんなに「良い応答ができた!」と自画自賛しても、クライエントから“ダメ出し”されたらそれまでである。逆に、「失敗した!」と思っても、それがクライエントから「私には適切な援助ですよ」と認められればOKなのだ。

……などということをあらためて考えてみると、「カウンセラーの資格はクライエントから頂きなさい!」というセンターの資格認定方針が、“ものすごく当たり前のこと”に思えてくる。
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“純粋性”ということ(1)

2007年08月24日 | 日記 ・ 雑文
“純粋性”ということが現在の私の最大の関心事となっている。以前から気になっていたことも含めて、アレコレ書いてみたい。

“純粋性”という言葉を聞いて真っ先に思い出すのは、友田先生のあるクライエントとの面接経験(ケース)における一場面である。
私が先生から直接聞いたところを私の記憶に基づいて述べていくが、そのクライエント(男性)は精神病院に通院していて、そこの主治医からカウンセラー・友田不二男を紹介され、先生のところへやって来たのだった。
先生の側の経験を言うと、「1回目、2回目の面接は、まあどうにかやり遂げられた」が、「3回目の面接が始まってしばらくする」と、「もう、どうにも我慢ができなく」なり、「私は今までたくさんの人と面談してきたが、あんたぐらい嫌ったらしい人に出会ったのは初めてだ」と伝えた。先生曰く「まるで真綿でぐいぐい首を締め付けられるような感じ」だったという。
それを聞いたクライエントは、「初めて本当のことを言ってくれる人に出会えた!」と、えらく感激して涙を流した。そして面談の途中(30分以上は残っていた)だったにもかかわらず、ひとしきりお礼の言葉を述べた後、深々とお辞儀をして面接室を出て行ったのである。

有名なエピソードなので、ご存知の方もあるだろう。先生はこの体験談を述べた後、一方で“釘を刺す”ことも忘れなかった。
「しかし、これを“手”でやると、大失敗するのがオチである!」
と。さらに続けて、
「人能ク道ヲ弘ム。道、人ヲ弘ムルニ非ザルナリ」
と、『論語』の有名な一文を述べたのだった。

確かにその通りだろう。カウンセラーが面談中に「こういう人に対してこういう場合は、こう応答するの良いだろう」とか「こう応答してはイケナイのだ」とかいう考えがチラッとでも脳裏をかすめたなら、その瞬間、そのカウンセラーは“純粋”ではなくなる。
そういう考えは、「より良いカウンセリング関係を維持したい」とか「より効果的な援助を与えたい」とかいう、カウンセラーの“我欲”から生じてくるに違いない。したがって、カウンセラーのそういう状態は“不純である”と、言わざるを得ないだろう。

私は“純粋性というもの”をそのようにイメージしている。私の経験に基づいて言うなら、私が真の意味で“純粋である”のは、1時間の面接中でせいぜい1~2分ぐらいだろうか? 「3分間聖人」という言葉もある。ウルトラマンと同じで、“変身できるのはたったの3分間である”という意味だ。
あるいはほんの瞬間かもしれない。だが、“その瞬間”に、まさに“奇跡的な出来事が起こる”ということをたびたび経験しているのも事実である。……と、声を大にして言いたい。

まだまだたくさんの“述べたいこと”があるのだが、長くなりそうなので今日はこの辺にしておこう。続きはあらためて書くつもりだ。
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純粋性と真空

2007年08月22日 | 日記 ・ 雑文
「純粋性と真空」というテーマについて、内容や結論が定まっているわけではないが、自由連想式に、思いつくままに何か書いてみたい。

先日の夏季ワーク初日での一場面だが、参加者の一人が「ある体験談」を語ったとき、私の頭の中に「ロジャーズが言う純粋性(自己一致とも呼ばれる)とは、いったい何だろうか?」という疑問が生じた。
すぐに連想したのは、『ロジャーズ全集第18巻』に収められている、友田、伊東、佐治、堀の4名の先生による座談会の逐語記録だった。この中で友田先生がしきりに“純粋性を問題にして取り上げている”のが、どうも気になっていたのだ。もっと言えば、「どうしてそんなにまで“純粋性”にこだわるのか?」ということが、よくわからなかったのである。
しかもその座談会のテーマは、純粋性→カウンセリング関係→ブライアンの真空、という具合に進行しているのだが、どうも私には“底辺に何かひとつの流れのようなもの”が感じられて仕方がなかった。しかしその“流れのようなもの”が何なのか、ハッキリとつかめないでいたのだ。

2日目の朝、目が覚めると同時に、ある学習会での一場面がフッと思い出された。それは「ブライアンのケースを素材にした学習会」での場面だが、参加者の一人が世話人である友田先生に「先生はこの訳注(ロジャーズ全集第9巻に付されている訳注のこと)を執筆したとき、易経の“天人地”は頭にあったんですか?」と質問した。
友田先生は少しムッとした表情を見せ、「“天人地”が無ければ、“真空”が出てくるわけないでしょう!」声を荒げたのだった。
その時の私は「ヘェ~」という感じだったが、あらためて“天人地”の真ん中にある“人”が、問題としてクローズアップされてきた。「この“人”とは、いったいどんな状態の“人”なんだろうか? ひょっとすると“純粋性”と関係があるかもしれないぞ!?」という仮説が浮かんだ。

しばらくして、ハッと気がついた。「そうか! 東洋思想だったんだ!」。私の心に引っかかっていた座談会での“流れのようなもの”は、友田先生の根底にある東洋思想だったのだ。“純粋性”と“真空”とは、“東洋思想”でつながっていたのだ。(ご存知の方もいるだろうが、ブライアン氏が発した“真空”という言葉を、友田先生は「禅の“無”もしくは“空”と同一視できる」と断じている)。
私の連想はさらに発展し、『ロジャーズ全集第18巻』が、友田先生にとっては“ロジャーズからの脱却と決別”を意図して作られたものであるということを、(うすうす感ずいてはいたのだが)より明確に理解できた。大袈裟な言い方をすれば、『18巻』に描かれているのは、「ロジャーズに対して“宣戦布告”した友田先生の姿」なのである。

……というようなことをアレコレ考えていたら、“吾”と“我”という言葉が浮かんできた。どちらも中国の古典で“一人称単数”を意味する言葉として使われているのだが、“吾”については説明を要するかもしれない。
夏目漱石の『吾輩は猫である』の“吾”だ。これは一言で言うなら「生命レベルの自分」を意味する。現代科学流に言うと「DNAレベルの自分」となるだろうか。あるいは「約40億年分の生命記憶が蔵されている自分」とも言えよう。また、『自己の構造』(友田不二男著)には、「“自分”という名で呼び慣れてしまっている、あるひとつの生命ある有機体」という表現もある。
さらに言うと、「“我”は観念レベルの自分」、「“吾”は行動レベルの自分」という言い方もできるだろう。

話を元に戻すと、『18巻』の座談会の中で友田先生があれほどまでに“純粋性”にこだわったのは、「“吾”のレベルの自分というもの」をなんとかして言語化したかったからではなかろうか? という仮説が私の中に生まれたのだ。(もちろん当時は“吾”とか“我”という概念は、友田先生の中に無かった。それを概念化するのは、ずっと後になってからである)。
さて、そうすると、「純粋性=吾」ということになりそうだが、これはなかなか良さそうである。この仮説がどの程度確かなものか、今後も検証してゆきたいと思っている。

ところで、上述したアレコレと“真空”とが、どこでどのように結びついているのか? という問題についてだが、これは現在の私には難問過ぎると感じている。だから「よくわからない」としか言えない。あるいは「関係ない」かもしれない。

“真空”についてのみ述べるなら、夏季ワーク最終日に行なった易経の学習場面で、私はあることに気がついた。それは「易経の作業(筮竹をさばく行為)は、“真空中において”行なわれるのではないか?」ということである。
易経の占筮法は、太極を配置した後、天策・地策に二分し、右手の地策を下(地)に置く。「地から人が生まれる」という意味で、地策の中から“人”を象徴する1本の筮竹(人策と呼ぶ)を取り、左手の小指と薬指の間にはさむ。そして左手の天策を4本ずつ数えていき……というふうに進行する。
“人(=人策)”に着目してほしいのだが、天地を二分する際、“人”はまだ存在しない。生まれた後は、“人”は左手の小指と薬指の間にはさまれる。これは“人を除いたところで”占筮が行なわれるという意味だろう。ということはつまり、易経の占筮は最初から最後まで“人が関与しないところ”で行なわれるわけである。
この“人が関与しないところ(空間)”を、“真空”と呼ぶことはできないだろうか? 私的にはかなり“できそう”な気がしているのだが、はてさて……。

もしも、カウンセリングの真髄が“真空”にあるとするなら、易経の真髄もまた“真空”にあるのではなかろうか? そう仮定すると、カウンセリングと易経とが“非常に近いもの”に思われてくるのである。
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重荷を背負っている

2007年08月21日 | 日記 ・ 雑文
先日の夏季ワークで「フォーカシングを体験したとき」のことが、強い印象として残っているので書き記しておく。

世話人の一人がガイドを行ない、それに従って参加者全員が同時にフォーカシングするという場面設定だった。
「身体の感覚を味わう」ところから入っていった。足のつま先から始まって、ふくらはぎ、太もも、おしり、背中と、フォーカスするところが徐々に上がっていく……。
それが肩のところに来たとき、突然「ズシン!」と何かが載っかったような感覚が生じた。とくに左肩がそうなった。身体全体が左側に傾きそうなくらいの重みだ。
それがとても気になったので、しばらくの間そこにとどまって“それ”を味わっていたところ、
「重荷を背負っている」
という言葉が聞こえてきた。なんだか泣き出したくなるような、なんとも言えない気持ちになった。

「重荷を背負っている」という言葉は、私にはとても意外な言葉だった。最初はビックリして、「えっ!?」という反応が起きた。
日々日常の生活の中で私は、「しんどいな~」とか「キツイな~」とか「大変だな~」とかいう言葉なら、それこそしょっちゅう発していたのだが、「重荷を背負っている」という言葉で“私に経験されている世界”を意識化・言語化したことは、かつて一度もなかった。「まさか!」というのが正直なところだ。
そして反省した。身体を含めた“私という存在そのもの”は、まさに現在“経験されている経験そのもの”を私に伝えてくれたのだ。メッセージをくれたのだ。どうして私は“その声”に、ちゃんと耳を傾けてやることができなかったのだろう? と。
フォーカシングではよく、「身体に聞く」とか「身体に教えてもらう」とか言うが、「ああ、こういうことなのか!」と合点がいったのだった。

じつは私、フォーカシング体験は過去に一度していたのだが、そのときは「不思議な体験だったなあ」としか言えないようなものだった。「不思議な体験そのもの」は、それはそれで面白く、興味・関心も起きたのだが、「だから何?」とツッコミたくなる自分もいたのだ。
「確かに不思議なことが起きる。フェルトセンスへの対応が変わると、それも変化する。じっくり味わっていると、さらにそれがいろいろに変化する。こういうのを“体験過程”と呼ぶのだな。でも、それが何なの? それでどうなるの?」
というのが今までのフォーカシングに対する印象だった。そういう意味で今回の経験は、フォーカシングの意味と価値とをより明確に与えてくれるものになったのだった。

それからもうひとつ、理解することができたことがある。
「ブライアンのケースを素材にした講座」の一場面で、当時の世話人だった友田先生が、
「“我”から“吾”はよく見えるが、“吾”から“我”を見ることはできない。どうして“我”のほうから“吾”のほうに、手を差し伸べる気にならないんでしょうかねぇ……」
と発言したことがあった。
私は即座に「まったく、その通りだよなあ」と思った。そうすることが「人間の成長・発展のプロセスにおいて重要だし、セラピーの正しい方向を示している」と知的には理解したのだが、一方では「我”が“吾”に手を差し伸べる」ということの具体・実態・真相となると、それがどういう態度であり行為なのか、いまいちハッキリしていなかった。
ところが、フォーカシングのガイド役がよく使う言葉に「やさしく挨拶してみましょう」とか「フレンドリーな気持ちで味わってみましょう」というセリフがあるが、この“やさしく”とか“フレンドリーに”こそが、友田先生の言う「“我”が“吾”に手を差し伸べる」の具体であると気がついたのだ。
私はどうも自分の感じに対して“やさしく”というのは、なんか恥ずかしいような、照れ臭いような気がしていたのだが、それこそがじつは「極めて大切な態度である」ということが理解できたのだった。

ところで、「重荷を背負っている」という言葉の具体的意味に関してだが、それに何らかの解釈を加えることはしていない。というよりむしろ、「解釈しないほうが賢明だろう」と思っている。
「その重荷とはアレじゃないのか? いや、コレじゃないのか?」などと詮索し、その全体的意味を分解して“何か”に限定してしまうのは、まことに“愚かな行為である”と言えよう。
いや、“愚かである”以上にそのような行為は「“私という存在そのもの”に対する冒とくである」とさえ、言いたいところだ。
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夏季ワーク・亀山会場終了!

2007年08月19日 | 日記 ・ 雑文
3泊4日の夏季ワーク・亀山会場(資格認定者対象)が終わった。これでこの夏のイベントは全部クリアした。ほっとしたような、寂しいような、そんな心境だ。

参加するのは今年で3回目だが、今回はとても濃密で充実した時間を過ごすことができ、とても実りの多いワークショップだったと、私個人は経験している。
表面的なプロセスだけを述べると、エンカウンター・グループから始まって、ロールプレイ→フォーカシング→ミニカウンセリング→インタラクティブ・フォーカシング→易経と、多彩な変遷を遂げた。ミニカウンセリングとインタラクティブ・フォーカシングの面接場面は、ビデオカメラに撮影し、映像を見ながら再検討を加えることができたので、さらに効果的な学習ができたと思う。
これだけ聞くと、なんだか目がクルクル回りそうだが、私個人はワーク初日に“ある問題・課題”を明確に設定できたので、学習場面がいろいろに変わっても、私の“内面的プロセス”はその問題・課題から離れることなく進行していった。(ちなみに“ある問題・課題”とは、“純粋性と真空”という極めてやっかいなものだったのだが)。

学習した成果は、たぶん“部分的なもの”になってしまうだろうが、いずれこの場で発表したいと思っている。
今は身心ともに最大限に疲労しているので、とにかく「しばらくの間、休みたい!」というのが正直なところだ。
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復員兵と引き揚げ者

2007年08月15日 | 日記 ・ 雑文
今日は終戦記念日だ。この間の夏季ワーク・東京会場での一場面で、「戦中・戦後のこと」が話題になったのを思い出す。

恥ずかしい話だが、私、その場で初めて“復員”と“引き揚げ”という言葉の意味を知った。いや、正確に言えば“なんとなく”知ってはいたのだが、その二つの違いが明確ではなかったのだ。

説明するまでもないが、“復員”とは、海外に出兵した兵隊たちが終戦と同時にその任を解かれ、帰国することを差す。
一方の“引き揚げ”は、海外に滞在していた日本人(民間人)が、終戦とともに帰国するという意味だ。

私の父方の祖父母は(二人ともすでに亡くなっているが)、“引き揚げ者”のほうだった。
祖父は「満州鉄道の職員だった」と聞いている。それが終戦を迎えて、幼かった私の父(3~4歳)や娘(父の妹)を引き連れ、一家で命からがら逃げ延びてきたらしい。

最近まったく見られなくなったが、20年くらい前はテレビで「中国残留孤児の肉親探し」の報道が盛んに行なわれていた。テレビを見ながら父はよく、「ひとつ間違えば、自分もこうなっていたんだよなあ……」と言っていた。

祖母は戦中・戦後の経験からだろうが、その後は“平和運動”に熱を入れるようになった。“政治活動”にも積極的で、左翼政党を支持する活動を盛んに行なっていた。地元(山梨県)のテレビ局が制作した番組内で、“県知事と対談したことがある”ほどだ。
私自身は、物心ついた頃には“左翼嫌い”だったが、祖父母の家に行くと熱心に『赤旗』の漫画コーナーを読んでいた(確か見開き2ページ分あったと思う。当時はそれが“共産党発行”とは知らなかった)。

夏季ワークのその場面で気づいたのだが、私はそれまで「祖父母から戦中・戦後の話なんて、あまり聞いた覚えがないなあ」と思っていた。しかし、この思い方に疑問が生じたのだ。
「ひょっとすると、もっとたくさん聞かされていたのかも知れない。ただ、当時の私にとってはそんな話、“まるっきり別世界の出来事”のようで、実感はおろか“想像すること”すらできなかったのではあるまいか?」。
と、自分の思い方を改めたのだった。
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なないろラーメン

2007年08月14日 | 日記 ・ 雑文
妻と子どもがいないので寂しい毎日を過ごしているのだが、とくにつまらないのが“食事の時間”だ。
ほとんどをコンビニ弁当や冷蔵庫内の冷凍食品で済ましているのだが、ただ口にかき込むだけ。“胃袋を満たすための作業”と化している。
それにここ数日はほとんど外出していない。とくに何かに取り組んでいるわけではないが、なんとなく元気がない。詳しくは言えないが、プライベートである事情があって“うつうつした気分”でいることは確かだ。
一日中部屋にいると、タバコの本数ばかりが増える。吸い過ぎて頭が痛くなることすらある。

そんなわけで、気持ち的には面倒くさかったが、昨晩は外食することにした。
目的地は三鷹駅近くにある『なないろ』というラーメン店。ここは最近の僕のお気に入りなのだ。それ以外に「食べたい!」と思える店は頭に浮かばなかった。

店の前まで来ると「夏ラーメン」というチラシが目に入った。
「それも悪くないな。冷やし中華に挑戦してみようかな~」と思いつつ店内に入ると、冷房がキンキンに効いていて全身がこわばった。いくらなんでも寒すぎる。気が変わったので当初の目的だったこの店の看板メニュー「なないろラーメン」を注文。

「なないろラーメン」というのは、俗に言う「ねぎラーメン」のこと。ちょっと辛味が効いたとんこつベースの醤油スープに、わりと太目の麺がからんでる。その上にはトロトロなチャーシュー2枚、海苔、メンマ、そして“しらがねぎ”がどっさり載っている。
この“しらがねぎ”に一工夫があって、きざみチャーシューが和えられているのだ。これがこのラーメンの最大のポイントだろう。

摩り下ろしたニンニクをたっぷり入れて、ゆっくり味わいながら食べた。「うまい!」。あっという間にスープまで完食してしまった。
「ひょっとするとこのラーメン、三鷹市内で一番ではなかろうか?」と思った。いやいや、僕の中ではすでに「三鷹市内で一番のラーメン」に、勝手に認定されているのだ。(関係ないが、“勝手に認定”というと阿部寛のCMを思い出すのは私だけ?)。
昨晩は、久しぶりに“満足できる食事の時間”を過ごすことができたのだった。

以上、三鷹に立ち寄ることがあったら、一度は訪れてもらいたいと思うオススメのラーメン店、『なないろ』の紹介でした。
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“援助する”とは?

2007年08月12日 | 日記 ・ 雑文
ある人からの電話を受けて、つくづく考えさせられたことがある。それがこのタイトルだ。

「カウンセラーの仕事は、クライエントを援助することである」
このような言い方に対して、異論を唱える人はいないだろう。私自身もこの言い方は“正しい”と思っている。
がしかし、ここで言う“援助する”の具体・実態・真相は、いったいどのようなものなのか? それこそがじつは大問題であるはずなのだが、いったいどれだけの人が“この問題”を問題にしているのだろうか? どうも疑問を感じてしまうのだ。

私自身の諸経験から言えば、「カウンセラー(や世話人)が行なう援助とは、これこれこういうものである」と、観念的に“理解してしまっている人”が多すぎるように思う。“理解してしまっている”わけだから、問題にならないのも当然だ。
こういうタイプの人の場合、“自分が理解している援助”とは異なる類の“援助”をカウンセラー(や世話人)から受けると、「受容的じゃない」とか「共感してもらえない」とか言って、非難や批判をする。いや、実際にそれを口に出してもらえたら、カウンセラー(や世話人)としてはむしろ“援助できる可能性が広がるのでありがたい”のだが、口には出さない人が大半だ。
カウンセラー(や世話人)の立場から言わせてもらうと、こういうタイプの人くらい“やっかいな存在はない”と、言いたくなってしまう。

もちろん、同情や理解の余地がまったくないわけでもない。
我が身を振り返ってみると、私自身も受講生の立場だったとき、世話人の先生からの厳しい言葉や対応にうろたえ、動揺し、深く傷ついたことがあった。先生を非難し、恨んだこともあった。

また、カウンセリングルームを開業し、カウンセラーとしての活動を始めた頃の自分を思い出してみると、「“受容”と“共感的理解”の伝達ができれば、まあなんとかなるだろう」ぐらいの安易な気持ちだったことも確かだ。ロジャーズの3条件の一つ「純粋性(自己一致)」とか、「場面構成」などは、まったく頭になかった。
当然、こんな程度の浅薄な“カウンセリング理解”では、たちどころに行き詰ってしまう。クライエントを“援助する”ということが、いかに“困難な仕事であるか”をまさに痛感し、この経験によって「援助するとは、いったいどういうことなのか?」という問題が明確に意識化されたわけである。
今の私が在るのは、その時の私の力ではどうにもならなかった“やっかいなクライエントたち”に、未熟な私が“揉まれ続けてきた”からに相違ない。
逆の言い方をすれば、“クライエントたち”に打ちのめされ、失敗と挫折を繰り返し、その度に何かを“学び続けてきた”からこそ、“上述のような問題提起ができる私”にまでなっているのである。私を成長させたのは、カウンセラーである私に「あんたはダメだね」と、私に“自分の未熟さ”を教えてくれた親切な“クライエントたち”に他ならない。

このような意味において、“カウンセラー経験が乏しい人”に対して、より深い“カウンセリング理解”を望むこと自体が難しいということも知的には理解できる。がしかし、感情的にはどうしてもこう言いたい。
「“援助する”という行為の具体・実態・真相とはいったい何なのか? “何を”、“どう”援助するのか? それを問題にしてくださいよ!」と。さらには「その“援助する”が、実際にはいかに困難な仕事であるか、もっと理解してくださいよ!」と。

私見を述べさせてもらうなら、カウンセラー(や世話人)が行なう“援助”は、決して“受容”と“共感的理解”の二語で片付けられるものではない。誤解を恐れずに言うなら、カウンセラー(や世話人)の“援助”とは、
「“受容”とか“共感的理解”とかのあらゆる観念から解放されたところで、その人が本来持っているすべての力、“全身全霊”をフルに機能させて行なうものである」
となるだろう。

これはあくまでも“私見”であるので、「このような理解は、じつは誤りである」と、あえて言っておこう。“援助する”とはどういうことなのか、それがいかに困難な仕事であるか、ということを私は「理解して欲しい」のではない。「探求して欲しい」のである。

もしも私の文章を読んで、「なるほど。“援助する”とはこういうことなのか。カウンセラーって大変なんだなあ」と理解されるなら、はなはだ不本意だ。なぜならそれは“観念的な理解”に違いないから。
そうではなく、なるべく多くの人々に体験的・実感的に“自分の言葉で”理解(=言語化)してもらえることを私は望んでいる。私が求めているのは「カウンセリングの理解者」ではなく、「私たちと共に“カウンセリングというもの”への探求の道を歩んでくれる仲間」なのである。
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