カウンセラーのコラム

山梨県甲府市でカウンセリングルームを開業している心理カウンセラーの雑文です。

私の自己超越的“天の声”体験について

2010年07月18日 | 日記 ・ 雑文
前回の日記の続きだ。昨日までは別のテーマでコラムを執筆する予定だったのだが、気が変わったのでそれは後回しにすることにした。というわけで、今回は私が経験した“天の声体験”について書いていこう。
もっとも、これを書くのにはかなりの勇気を必要とするのも確かだ。なぜなら、これは“とても個人的な”体験なので、「同種同質の経験がない多くの人々から共感的・肯定的な理解を得るのは難しいのではないか?」という懸念があるからだ。また、別の懸念として「宗教やカルト、あるいは精神障害と混同されやしないか?」というのもある(笑)。

まずは前提条件として、当時の私がうつ病(しかも重症だったと思う)を患っていたことを示しておこう。うつ病になっていったプロセスについては割愛するが(詳細はホームページの「私とカウンセリング」と題した手記に書かれてあるので、興味・関心があったら併読していただきたい)、もっともひどい状態のときには、1日中(=目が覚めている間中)考えごとが止められなくなり、しかも何を考えても最終的には「……だから私は最低の人間だ」という結論に至る、という状態だった。それはかつて経験したことのない、とても表現しようのない、ひどい苦痛と強烈な自己嫌悪に間断なく苛まれる状態だった。
そんなある日、目が覚めると同時にこう思った。「あ~あ、また目が覚めてしまった。憂うつだなあ。このまま一生眠り続けられたらどんなにいいだろう。……ん!? 待てよ。そうか、死ねばいいのか! そうすればずっと眠り続けられるじゃないか!」と。次いで「どうしてこんな簡単なことに今まで気がつかなかったんだろう? 俺ってバカだなあ」と思い、自分のバカさ加減にいささか呆れながら、一縷の望みを発見したのだった。そう、私は自ら命を絶つことによって、この生き地獄のような日々から解放され永遠に眠ることができる平安を得る、という解決策を見い出したのだ。

数日後、どうやって自殺するか、その方法を具体的にアレコレ考えながら、ふと自分が死んだ後の世界を想像してみた。自分の葬式の様子などを思い浮かべたわけだが、ある種の違和感を感じたのは、普通なら「バカげている」と感じるはずのこういう想像に対し、「まったく奇妙に感じていない。むしろリアルさを覚えている」という事実だった。これにより「ああ、自分は少なくとも数日後には、間違いなくこの世にはいないのだろうなあ」と、死へ向かって確実に歩み出していることを私は確信したのだった。このときの心境はなんとも不思議な感覚で表現し難いが、“静寂”という言葉が一番近いような気がする。自分の死を目前にしながら、まるで他人事のような感覚だった。
次の瞬間、頭の後ろのほうで声がした。「あなたには、まだやるべきことがある」という声だった。「えっ?」と思って振り向いたが、そこには誰もいなかった。「気のせいか……」と思って前を向くと、再び「あなたには、まだやるべきことがある」という声がした。しかし、そのときの私は「もうこれ以上生きる意味なんてないし、やるべきことが何もないから死のうとしているのだ」という気持ちだったので、憤りとともにその声に向かって問い返した。「だったらそのやるべきことって何ですか? 教えてくださいよ!」と。しかしそれっきり、その声は何も答えてくれなかった。
返答がないのでガッカリしながら、ふと気がついた。「いや待てよ。ひょっとすると声の言う通りかもしれないぞ。俺はやるべきことなんて“ない”と思っていたけど、じつはまだ“知らない”だけなんじゃないのか?」と。そう思ったとたん、後頭部をハンマーで殴られたような、ドカーンという衝撃がきた。それは“静かな大爆発”と表現したい衝撃だった。俗に言う“コペルニクス的転回”が起きたのである。
「そもそも“自分は最低の人間だ”とか“自分を殺したい”とかいう様々な意識を働かすことができるのは、『命』が働いているおかげではないのか? 『命』という土台がまずあって、それが“自殺したいと欲すること”を可能にしてくれているのだから、意識のほうが『命』の働きを抹殺するのは本末転倒ではないか? 俺はなんというエゴイスティックな人間だったのだ!」と悟り、自分がとっても恥ずかしくなったと同時に、
「俺は自分のことを“世界中で最低の人間だ”と思っていたけど、ほんとうは人間に優劣などなかったのだ! 『命』のレベルでは、自分も含めてすべての人が同じだったのだ。優劣があるように思ってしまうのは、表面的なところしか見えてないからだ。いや人間だけじゃない。地球上のあらゆる生命に優劣はなく、ほんとうはみな同じひとつの『命』だったのだ!」と悟った。そして自分が溶けていくような感覚とともに、地球との、あらゆる生命との一体感を味わった。それは後にも先にも経験したことのない、ものすごいエクスタシー体験だった。
この体験のあと、「エゴイストはもうやめよう。自分の生死を自分で決めるのはもうよそう。どうせいつかは必ず死ねるんだから、それがいつかは神様に決めさせればいいじゃないか」という心境になり、この瞬間から死から生への方向転換が起きたのだった。

以上が“私の天声体験”である。じつはこのあとも様々な紆余曲折があって、結局は“カウンセリングと出会う”ことになったわけだが、詳細はホームページに掲載してあるので割愛させてもらう。現在の私に確かに言えるのは「もしもこの体験がなかったら、私は今この世に存在していなかっただろう」ということだけだ。したがって、上述のような体験における問題点(未解明な部分)は、まだまだたくさん残されている、というのが私の基本認識である。
もっとも大きな問題のひとつは「いったいどのような条件が揃えば、こういう類の人生が転換するような体験を得ることができるのか?」という点だろう。年間何万人もの自殺者が存在することからわかるように、「自殺を意図する人全員がこのような体験をするわけではない」と言えるからだ。

友田不二男氏はこういう類の体験全般を“おとずれ”と称していたが、私の体験から言っても“おとずれ”という表現はピッタリな気がする。また、道元の「自己をはこびて万法を修証するは迷いなり。万法きたりて自己を修証するは悟りなり」という言葉は、ここで言う“おとずれ”を意味しているのではないかと思っている。
そうすると問題は「人間がどのような状態、もしくは在り方をしているときに“おとずれ”がやって来るのか?」ということになってきそうである。このあたりが“真空”と絡んできそうな気がしているのだが、はたして真相は……? なお、上掲した私の体験談から言うと“静寂”と表現したところが、ひょっとすると“真空”だったのかもしれない。

最後に、今後このような方面への人間探求(=カウンセリング探求)を続けていくにあたって、手がかりとなりそうな友田氏の記述を紹介しよう。以下は『友田不二男研究』からの引用だ。

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このような場合、人間は、今日なお、「幸運」という以外の言葉を使いようがない。しかし、「幸運」とはいったい何なのか? 人間が、現に、その「幸運」にめぐり合うことそのことを現実化するところに、なんらの必然性もないのであろうか?――というような問題は、貧困な頭脳で、いくら思いめぐらしても、しょせんどうなることでもあるまいが、しかしとにかく、発見・発明・飛躍といったようなことには、何かしら人間そのものをも包含した巨大な大自然の法則が潜んでいることを、私はどうしても、感じないわけにはゆかないのである。さらに言えば、何かしら「幸運」は、随所随所にゴロゴロしているのだが、その「幸運」をして「幸運」たらしめることそのことのできる、「人間の態度・姿勢・構え・積み重ね・関心など」が、ありそうな気がして仕方がない。(友田不二男研究 P.31)

「人間」というものは、各人それぞれに、「持って生まれた本質」と言いますか、「生まれながらの本質」と言いますか、こうした言い方で表現できるような、「ある種の宿命」があるようです。この「宿命的な本質もしくは本領」とも言うべき「何か」は、世のいわゆる「性格」とか「性質」とかとは、およそレベルを異にする「何か」で、心理学などという科学では、それこそ「手も足も出ない何か」である、と私は言いたいのですが、そのような議論はともかくとして、忘れもしません、31歳の時(注:上述した“天の声を聞く”という体験時のことと思われる)、私は、「人間は、自分自身の持って生まれた本質もしくは本領に即して生きることができればできるだけ、それだけ幸福に生きることができるし、逆に、そのような本質もしくは本領から遠ざかれば遠ざかるほど、それだけ不幸になる」と思い定めました。(友田不二男研究 P.33)

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このような記述を読むと、筆者の脳裏にはC.G.ユングが“synchronicity”(シンクロニシティ、“共時性”と邦訳される)と称した概念や、東洋思想で言うと“易経”が浮かぶ。これらが“真空”を含めたこのあたりの問題を探求していく際の重要な手がかりになりそうな気がしてならないのである。

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