カウンセラーのコラム

山梨県甲府市でカウンセリングルームを開業している心理カウンセラーの雑文です。

“宿命”と“天命”と“真空”と・・・

2010年07月31日 | 日記 ・ 雑文
最近の楽しみのひとつにNHKの『龍馬伝』がある。私は日本の歴史や幕末に詳しいほうではないし、ましてや“龍馬の熱狂的なファン”でもないので、ドラマの内容を歴史的事実から見るとどうなるか、という点はよくわからない。だが、龍馬という人物の「ナイーブでシリアスな内面がよく描かれている」という意味では、良質なドラマ作品に仕上がっているという印象だ。
素人である私の坂本龍馬という人に対するイメージは、“破天荒”という形容がもっとも近かったのだが、青年時代の思い悩む姿に接すると親近感すら覚えるほどである。どれほど大きな歴史的偉業を成し遂げた人物でも、元をたどれば「ただの人なんだなあ」と、しみじみと思ったのだった。
龍馬だけでなく、幕末を駆け抜けた志士たちの姿には、たとえ思想や立場が異なっていたとしても、それぞれに心を揺さぶられるものがある。それはきっと、彼らの姿や生きかたに“志”(こころざし)を感じ取るからだろう。また、別の観点から言えば、「人間が生まれながらにして持っている本懐は、寿命ではなく“天命をまっとうすること”にあるのではないか?」とまあ、そんなことまで連想してしまうのである。

ここで我が身を振り返ってみよう。正直に告白すれば、現在の私には「社会の在り方を変革したい!」というような“大志”は何もないが、普通に暮らしている人々が持っているのと同じようなとても個人的な望みや願いだったら、もちろん人並みに持っている。
そこでふと思った。「どんなに小さな念願であっても、それを成就しようとする際に“お金と時間があればできるのに……”というような条件を設定したなら、その念願はきっと成就しないだろう」と。
人間が行為するための根源的な何かは“衝動”であって、条件や環境ではないはずである。吉田松陰、坂本龍馬、桂小五郎、西郷隆盛などなど、彼らは条件や環境に恵まれていたのだろうか? そうではあるまい。彼らを突き動かしたのは彼ら自身の内面的要因、すなわち“衝動”である……と私は見ている。

もっとも、これにいわゆる“天運”としか言いようがない何かが加わってくるので、話はそう単純ではない。彼らがあの時代にあの場所で“オギャーと生まれ落ちた”という事実は、どこからどう見ても「天運だった」としか言いようがないだろう。
“衝動”と“天運”……。このふたつの要素を掛け合わせると、果たしてどういうことになるだろうか? 友田氏が述べているように「発見・発明・飛躍といったようなことには、何かしら人間そのものをも包含した巨大な大自然の法則が潜んでいる」、また「何かしら“幸運”は、随所随所にゴロゴロしているのだが、その“幸運”をして“幸運”たらしめることそのことのできる、“人間の態度・姿勢・構え・積み重ね・関心など”がある」のだろうか?

現実に即して言えば、私を含めて人間はみな「ありとあらゆる様々な条件と環境に規制されている」のが現実の姿であるのは否めない。「強い気持ちや欲求さえあれば、どのような人間にもなれるのだ」という考えは、きっと幼稚な考え方だろう。なぜなら、人間は“オギャーと生まれ落ちた”その瞬間に、すでに“宿命”とも言える何らかの本質、別言すれば“他の誰とも異なるその人だけのオリジナリティー”を持って生まれてきているはずだからだ。幕末の志士たちがそうであったように。
そうだとすると、つまり人は、“己の宿命”もしくは“自分というものの本質や本来性”からは絶対に逃れることはできない。ゆえにそれを受け入れるしかない……となるだろうか?

ここのところで極めて厄介な問題が浮上してくる。それは、いったい何が“己の宿命”なのか? という点だ。私たちは人間社会の中で生活を営んでいる以上、他者からの様々な条件付け(“しつけ”とか“教育”と呼ばれているもの)を受け入れなければ生存自体が困難になる。ゆえにかなりの程度、不知不識のうちに“自分で自分を条件付けている”に違いない。これが私たちの“現実の世界”だとすると、理論的には「現実の世界においては、飛躍・成長・発展といったようなことは不可能に近い」となるだろうか?
もしもそうだとすると、人間が飛躍・成長・発展を遂げるためには「一切の後天的な条件付けが存在しない“非現実的な世界”が必要である」となりそうだ。さらに言えば「この“非現実的な世界”に存在するのは、己の“宿命”もしくは“本質・本来性”のみである」となるだろう。

以上で述べた“人間というものの真相”に関する暫定的な考え方が支持されるならば、ブライアン氏が発した“Vacuum”(真空)という言葉は、ここで言う“非現実的な世界”を意味・象徴しているように読めてくるし、また「人間が変化するのは、わかりやすくいうと“ひとりぽつんといるとき”である。人間と人間の接触があったり、現実の状況のなかでは、人間は変化しない」という同氏の提言には、絶大な洞察が含まれているようにも読めてくる。
……が、はたして真相は? もちろんそれは、今後の私たち自身の歩みによって探求されていかなければならない課題のひとつなのだろう。
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“人”に発して“人”に帰す

2010年07月26日 | 日記 ・ 雑文
前回の日記の続きだが、mixiに寄せられたたくさんのコメントのおかげもあって「何を問題にしたいのか?」が、少しづつハッキリと見えてきた。それがこの表題だ。“カウンセリングというもの”を探求していくにあたって、いや、カウンセリングに限らず他のあらゆる分野においても“求道者”として己の人生を歩んでいきたいならば、「“自分というもの”を問題にし、かつ探求できなければどうしようもない」と思うのである。
この“どうしようもない”は、まさに、真の意味で“どうしようもない”のであるが、そのことを言葉でもって表現できないだろうか? ……というのが本稿の主旨である。

と言ってみたものの、この難題にどう取り組めばいいのか、少々困惑気味でもある。そこでまず、“人”と対比できるものとして、“理論というもの”を取り上げてみよう。
カウンセリングの分野における主要な理論として、「ロジャーズの3条件」と呼ばれているものがあることは、多くの方々がご存知だろう。簡単に説明すると、①受容(無条件の肯定的関心) ②共感的理解(感情移入的理解) ③自己一致(純粋性) の3つの条件を一定の期間セラピストが同時に満たしているならば、ロジャーズ曰く「クライエントの成長への動きが必ず生起する」というのである。
「この理論がどの程度正しいか?」という点は、ここでは論じない。問題にしたいのは「この理論がどのようにして生まれたのか?」という点だ。ロジャーズは、上記3条件が示されている『パースナリティ変化の必要にして十分な条件』と題する論文で、次のように記している。

           * * * * * * * * * * *

数年の間私は、苦しみ悩んでいるひとびととのサイコセラピィをやってきた。最近では私は、そのなかに含まれていると思われる一般的原則を、その経験のなかから取り出すという仕事に、ますます大きな関心をいだくようになった。(ロジャーズ全集第4巻 P.117)

私は、私自身及び私の同僚の臨床的経験と、利用しうる適切な実験的研究とを考え併わせながら、建設的なパースナリティ変化を始動するのに必要であると思われる諸条件、そしてまた、全部一緒にしたとき、その過程を進行させるのに十分だと思われる、いくつかの条件を取り出してみた。この問題と取り組んでいるとき、私は、そこにあらわれてきたものが、あまりにも単純なものであることに驚いたのである。(ロジャーズ全集第4巻 P.118)

           * * * * * * * * * * *

以上から、ロジャーズはたくさんの臨床的経験に基づいて、自分自身の理論を導き出したことがわかる。すなわちこれは「理論が先に存在し、その理論通りにカウンセリングをやったら効果が生じた」というわけではないことを意味している。このことは、あまりにも重大な“事実と真相”を指し示しているように現在の私には思えている。つまり、「理論通りにやれば上手くいくはずだ」という発想の仕方は、「道が人を弘む」という思想とまったく同じではないか? と言いたいわけだ。
これらを要約すると、私たちカウンセラーにとってもっとも重要な課題は、一刻も早く“発想を転換”し、と同時に“学習者”、もしくは“探求者”(被教育者ではない)へと転じることであろう……となる。そしてこれこそが、故・友田不二男先生から与えられた(と勝手に思っているだけだが)、我々への提言である「己の足で立ち、かつ歩く」への現実化に結びついていくことを、現在の私は確信しているのである。

ここで話は一転し、“例え話”になるのだが、野球の世界にも“バッティング理論”というものがある。私は専門家ではないので内容は知らないが、少年野球チームの監督やコーチは、これを子どもたちに教えているのだろう(もちろん“子ども向き”の理論を、だろうが)。選手のほうは、教えられたその理論に自分の動きを近づけようと練習し、結果として近づけることができればできるほど、バッティングが上達するのだろう。
ところが……である。現に生きている人間の世界においては、理想的な理論(それがどういうものか知らないが)と完全に一致するバッティングを実際にやっている人間など、ひとりも存在しないのである。なぜなら、人によって体格・骨格・筋力・体力・反射神経などなど、あらゆる条件が異なるからだ。簡単に言えば、「ひとりとして同じ人間は存在しないから」となるわけだ。
このあたりは高校野球とプロ野球を見比べてみると、よりいっそう鮮明になる。高校野球の選手たちは、比較的どの選手も似たようなバッティング・フォームに見えるが(ということは、これがきっと理想的な理論に近いフォームなのだろう)、プロ野球の選手となると、どの選手もじつに個性的なバッティング・フォームであることがわかるだろう。
これはどういうことなのか? プロ野球の選手たちは、少年時代にコーチから叩き込まれたバッティング理論を忘れてしまったのだろうか? いや、そうではあるまい。これは勝手な想像だが、“プロの世界で通用するレベルの選手”というのは、他の誰とも異なる“自分という人間”にもっとも適したバッティング理論と方法を自分自身で探求し、発見し、創造し、試行錯誤を重ねながら、修得していったのであろう。(もちろん、悩んだときにはコーチの助言が必要だったかもしれないが)。それがあの、個性的なバッティング・フォームに結実しているに違いない。
これに心理学を持ってくると、彼らは「個性化のプロセスを歩んでいる」と言えそうだ。また、カウンセリングを持ってくると、「己の足で立ち、かつ歩く」の具体例のひとつを、彼らの姿に見い出すことができるのである。

このようなことが問題意識となり、同時に問題提起までしている“この私”もまた、プロ野球選手同様に自分のバッティング・フォームを生み出さなければならないのだろうか? 仮にそうだとすると、目の前に存在する大きな課題に圧倒されそうになる。「なんという困難な、骨の折れる道だろう。この道は……」というのが本音だ。
もっとも、ここのところで「自分は高校野球レベルの選手で構わないや」と言ってしまえば、このような苦労を背負う必要はないのだろうが……。現実に即したところで言えば、現在の私は“高校野球レベルの選手”かもしれない。というのは、友田先生をはじめとする老練なカウンセラーをたくさん知っているので、どうしても自分が小さく見えてしまうのである。だが、どんなふうに問いかけても「高校野球のレベルで構わないや」という気持ちは、どこからも生じてこない。私にはきっと「さらに飛躍したい。もっと成長したい」と欲する気持ちがあるのだろう。それがあるなら希望が持てる。

そうそう。本稿のテーマは“人”だった。上述の例え話で表現したいところは概ね記述できたと思うが、もうひとつの観点として“東洋思想”がある。東洋思想から“人”にアプローチするとどうなるのか? という問題だ。
東洋思想で言ったら「天地即自己」となる。これは夏目漱石の言葉(元ネタは老子だろうと言われている)だが、「天人地」という言い方もあり、これが易経の根本概念であることはすでに多くの人々に知られていると思う。他には「一即多、多即一」という言葉もあり(出典は華厳経だが、鈴木大拙や西田幾多郎も使用したらしい。私は友田先生から聞いた)、また般若心経の「色即是空、空即是色」という言葉も広く知られていると思う。
これらの言葉はどれもみな、人間を含めた宇宙の真相を意味・象徴しているように筆者には思えている。さらに言えば、現在物理学における最大の謎のひとつである“観測問題”も、この問題、すなわち“人間を含めた宇宙の真相”を解明していく際の手がかりのひとつになり得るだろう。
これを自己論(と呼べるかどうか微妙だが)に持ってくると、「私=私たち、私たち=私」という言い方ができそうだ。詳しくは知らないが、トランスパーソナル心理学の世界では、これに近い自己論があるらしいと聞いている。

以上から、私たちカウンセラーにとっての最大の課題は「“人”に発して“人”に帰す」という方向へ探求の歩みを続けていくことになるであろう。友田氏の言葉を借りれば「我々のこれから進むべき方向が、我々自身によって探求されていかなきゃならない時代に来ているんじゃないか」(カウンセリング研究VOL.17・18合併号 P.18)となるわけだ。いや、カウンセラーだけではない。教育や医療や福祉など、ありとあらゆる“対人援助を行なう分野”において、このことは絶大な課題を含んでいると言えそうだ。
もちろん実際には、私を含めてほとんどすべての対人援助に従事する人々が「道半ばである」ということ、すなわち「今の自分が未熟者である」という事実は、きっと否めないに違いない。しかし“この事実”は、決して絶望には値しない。なぜなら、私や私の仲間たちは「人間が正体不明である」ことを、別言すれば「人間には成長の可能性が内在している」ことを、信じているからである。
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土曜講座での一場面 ~人能ク道ヲ弘ム~

2010年07月20日 | 日記 ・ 雑文
日本カウンセリング・センターでは、今年度から“土曜講座”と称する新規講座を設けている。私は第3土曜日の「東洋思想とカウンセリング PARTⅠ」の世話人を担当しているが、“ある問題”を提起したいので、前回(6月19日)の講座での一場面を振り返ることにしよう。
とその前に、この講座の概要を説明しておこう。学習テーマは講座名からわかると思うが、「東洋思想とカウンセリングとの結びつきについて、よりいっそうの理解を深めていく」という設定だ。学習の素材となるテキストは『ロジャーズ全集第18巻』内に収録されている第6部・座談会「カウンセリングをめぐって」(出席者:友田不二男・伊東博・佐治守夫・堀淑昭)を使用している。
数あるテキストの中からこれを選んだ理由は、「友田氏が“東洋思想とカウンセリングとの結びつき”について公言し出したのは、この本(ロジャーズ全集)が出版された時期であることが判明した」からだ。つまり、“東洋思想とカウンセリングとの結びつき”という観点の最初の一歩、もしくは原点から学び直していこう! というのがこの講座の主旨である。

どういった成り行きでそういうテーマになったのか、まったく記憶してないが、ある場面で『論語』に収録されている「人能く道を弘む。道、人を弘むるに非ざるなり」という一文が話題に上がった。
この一文は、友田先生に師事したたくさんの受講生(もちろん私も含む)にとっては“耳にタコができる”くらい何度も何度も聞かされた言葉である。友田氏は、この言葉が“カウンセリングの真髄を示している”として、繰り返し私たちに伝えようとしたのだった。もっとも、結果として「それが伝わったか否か?」は、私たちの側の問題となるだろう。
余談になるが、『論語』という書物は、一般的には「儒教のテキストである」と認識されるのが普通だろう。このような認識が“誤りである”とは思わないが、友田氏によれば「『論語』には、道教の原点になっている言葉もたくさん見られる」らしい。なるほど、そう言われてみると上述の一文など、まさに「道教(タオイズム)である」と読めてくるから不思議だ。なお、余談ついでに友田氏は、晩年のある講演会で「老子という人物が実在したのかどうか、極めて怪しい」と述べた上で、「老子の正体は、じつは孔子だったのではなかろうか?」という爆弾発言(?)までしていた。

さて、話を講座の一場面に戻すが、上記した孔子が述べたとされる道教思想(タオイズム)と正反対の思想を示すものとして、次の一文が私の目に止まった。

友田:ロジャーズがさぐりながらね、“問題児の治療”から“Counseling and Psychotherapy”へいって、“Client-centered Therapy”へいって、そういう、彼が歩んでいる人間の姿というものを実感し共感しないでね、カウンセリングやそのテクニックを公式としてもってきて、それをあてはめればもう、ちゃんとゆくみたいな、そういうタイプの誤解もありますね。(ロジャーズ全集第18巻 P.415)

こういう発想の仕方というのは、私に言わせれば「道が人を弘む」という思想になる。平たく言えば、「ロジャーズ(もしくは誰々)が示したやり方を覚えてその通りにやれば、ちゃんとカウンセリングができるのだ」という考え方だ。もしもカウンセラーがこういう考えでカウンセリングに取り組んでいったとしたら、“いずれどこかで行き詰る”のは間違いないだろう。なぜなら、カウンセリングにおける真の問題点は、“やり方”(技法・療法・アプローチ法など)でもなければ、“クライエント”(のパーソナリティー・性格・気質・症状や障害の種類や程度など)でもなく、“カウンセラー”(である自分がどのような“人”であるか?)に尽きるからである。
もっとも、現代人の多くが“自分というもの”を問題にせず(ゆえに探求もせず)、「道が人を弘む」という思想を信じてしまう背景には“学校教育の問題”や、もっと大袈裟に言えば“社会全体の問題”があるような気がしているので、こういう人を単純に非難したり批判する気持ちにはなれないが……。
という意味で、私たちカウンセラーにとっての最大の難関は、学校教育によって身に染み付いてしまった“被教育者”から脱却し、一刻も早く“学習者”に転じることであり、かつ、学校教育によって不知不識のうちに“正しい”と信じ込んでいる思考形式のひとつ“決定論”(determinism、因果論とも呼ばれる)から解放され、一刻も早く“アタマを切り換える”ことに他ならない。そのためには“体験学習”こそが一番の近道だと、今の私は確信している。

最後に、“このあたりの問題”を問題として提起した友田氏の発言を引用しておこう。

           * * * * * * * * * * *

友田:(前略)何か西欧思想でいくと物心二元論、――唯物論と唯心論とは違うみたいな基本があってしまうけれども、じつは「これ、大間違いじゃないか?」と。「今、そんな時代がようやく芽吹き始めているな」ということを、私、しみじみと感じて、結局、一言で言えば「人能ク道ヲ弘ム。道、人ヲ弘ムルニ非ルナリ」と。茨城の方でしたらご存知でしょう。水戸の弘道館に藤田東胡が書いておりますが、原点になるのは論語の言葉。「人能ク道ヲ弘ム。道、人ヲ弘ムルニ非ルナリ」――。
医者が、医学を勉強した医者が「患者を治す」など、思ったら大間違い。医者という、たまたまそういうレッテルを張られた人が治すんです、元々は。もしも治すとすればですね。医者という肩書きなど無くても、治す人は治すんです。この辺のところが資格制度が流行ることによって、かなり怪しくなっている。資格を持った人は食べることはできる。食べていくには不自由しなくなるが、「治すほうはさっぱりだ」と言ったら言い過ぎかもしらんが、そういう現実がもう、あちらこちらの人の目に写っているんじゃないでしょうかと。――まあ、この辺のところで、我々のこれから進むべき方向が、我々自身によって探求されていかなきゃならない時代に来ているんじゃないかなと。――痛切に「来てるな」と、まあ一応、提案して、その辺の細かいことは、この要旨ならぬ付録みたいなもので、ひとつ探求していただけるとありがたいと思います。(カウンセリング研究VOL.17・18合併号 P.18)

友田:どうも今みたいな疑問がいろいろ出るのは、そもそもやっぱり私の未熟な表現が元でロジャーズが誤って伝わっちゃったところに、そもそもが起因しているかと思うんですが、この点は私がとやかく説明するよりもじつは、本の宣伝みたいにもなりますけれども、この階下に『人能ク道ヲ弘ム』と題した本がかなりだいぶ来ているはずです。この人のは、本人の表現では「友田から指導された非指示的療法のやり方でやった」というふうに伝わるような言い方があるんですけれども、彼が実際にクライエントと接している動きは、かなり指示的と言われるような動きがもうあるんです。それ気にした人は、すぐ「オカシイじゃないか」というような言い方をするんですが、オカシイと言えば、指示の非指示のなんていう区別を付けるほうがオカシイんであって、その人、その人の、そのときの“ありのまま”ということで言えば、みんな同じなんですよね。その辺の理解がどうもまだ、かなり不十分、不徹底じゃないかなという気がしております。(カウンセリング研究VOL.17・18合併号 P.46)
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私の自己超越的“天の声”体験について

2010年07月18日 | 日記 ・ 雑文
前回の日記の続きだ。昨日までは別のテーマでコラムを執筆する予定だったのだが、気が変わったのでそれは後回しにすることにした。というわけで、今回は私が経験した“天の声体験”について書いていこう。
もっとも、これを書くのにはかなりの勇気を必要とするのも確かだ。なぜなら、これは“とても個人的な”体験なので、「同種同質の経験がない多くの人々から共感的・肯定的な理解を得るのは難しいのではないか?」という懸念があるからだ。また、別の懸念として「宗教やカルト、あるいは精神障害と混同されやしないか?」というのもある(笑)。

まずは前提条件として、当時の私がうつ病(しかも重症だったと思う)を患っていたことを示しておこう。うつ病になっていったプロセスについては割愛するが(詳細はホームページの「私とカウンセリング」と題した手記に書かれてあるので、興味・関心があったら併読していただきたい)、もっともひどい状態のときには、1日中(=目が覚めている間中)考えごとが止められなくなり、しかも何を考えても最終的には「……だから私は最低の人間だ」という結論に至る、という状態だった。それはかつて経験したことのない、とても表現しようのない、ひどい苦痛と強烈な自己嫌悪に間断なく苛まれる状態だった。
そんなある日、目が覚めると同時にこう思った。「あ~あ、また目が覚めてしまった。憂うつだなあ。このまま一生眠り続けられたらどんなにいいだろう。……ん!? 待てよ。そうか、死ねばいいのか! そうすればずっと眠り続けられるじゃないか!」と。次いで「どうしてこんな簡単なことに今まで気がつかなかったんだろう? 俺ってバカだなあ」と思い、自分のバカさ加減にいささか呆れながら、一縷の望みを発見したのだった。そう、私は自ら命を絶つことによって、この生き地獄のような日々から解放され永遠に眠ることができる平安を得る、という解決策を見い出したのだ。

数日後、どうやって自殺するか、その方法を具体的にアレコレ考えながら、ふと自分が死んだ後の世界を想像してみた。自分の葬式の様子などを思い浮かべたわけだが、ある種の違和感を感じたのは、普通なら「バカげている」と感じるはずのこういう想像に対し、「まったく奇妙に感じていない。むしろリアルさを覚えている」という事実だった。これにより「ああ、自分は少なくとも数日後には、間違いなくこの世にはいないのだろうなあ」と、死へ向かって確実に歩み出していることを私は確信したのだった。このときの心境はなんとも不思議な感覚で表現し難いが、“静寂”という言葉が一番近いような気がする。自分の死を目前にしながら、まるで他人事のような感覚だった。
次の瞬間、頭の後ろのほうで声がした。「あなたには、まだやるべきことがある」という声だった。「えっ?」と思って振り向いたが、そこには誰もいなかった。「気のせいか……」と思って前を向くと、再び「あなたには、まだやるべきことがある」という声がした。しかし、そのときの私は「もうこれ以上生きる意味なんてないし、やるべきことが何もないから死のうとしているのだ」という気持ちだったので、憤りとともにその声に向かって問い返した。「だったらそのやるべきことって何ですか? 教えてくださいよ!」と。しかしそれっきり、その声は何も答えてくれなかった。
返答がないのでガッカリしながら、ふと気がついた。「いや待てよ。ひょっとすると声の言う通りかもしれないぞ。俺はやるべきことなんて“ない”と思っていたけど、じつはまだ“知らない”だけなんじゃないのか?」と。そう思ったとたん、後頭部をハンマーで殴られたような、ドカーンという衝撃がきた。それは“静かな大爆発”と表現したい衝撃だった。俗に言う“コペルニクス的転回”が起きたのである。
「そもそも“自分は最低の人間だ”とか“自分を殺したい”とかいう様々な意識を働かすことができるのは、『命』が働いているおかげではないのか? 『命』という土台がまずあって、それが“自殺したいと欲すること”を可能にしてくれているのだから、意識のほうが『命』の働きを抹殺するのは本末転倒ではないか? 俺はなんというエゴイスティックな人間だったのだ!」と悟り、自分がとっても恥ずかしくなったと同時に、
「俺は自分のことを“世界中で最低の人間だ”と思っていたけど、ほんとうは人間に優劣などなかったのだ! 『命』のレベルでは、自分も含めてすべての人が同じだったのだ。優劣があるように思ってしまうのは、表面的なところしか見えてないからだ。いや人間だけじゃない。地球上のあらゆる生命に優劣はなく、ほんとうはみな同じひとつの『命』だったのだ!」と悟った。そして自分が溶けていくような感覚とともに、地球との、あらゆる生命との一体感を味わった。それは後にも先にも経験したことのない、ものすごいエクスタシー体験だった。
この体験のあと、「エゴイストはもうやめよう。自分の生死を自分で決めるのはもうよそう。どうせいつかは必ず死ねるんだから、それがいつかは神様に決めさせればいいじゃないか」という心境になり、この瞬間から死から生への方向転換が起きたのだった。

以上が“私の天声体験”である。じつはこのあとも様々な紆余曲折があって、結局は“カウンセリングと出会う”ことになったわけだが、詳細はホームページに掲載してあるので割愛させてもらう。現在の私に確かに言えるのは「もしもこの体験がなかったら、私は今この世に存在していなかっただろう」ということだけだ。したがって、上述のような体験における問題点(未解明な部分)は、まだまだたくさん残されている、というのが私の基本認識である。
もっとも大きな問題のひとつは「いったいどのような条件が揃えば、こういう類の人生が転換するような体験を得ることができるのか?」という点だろう。年間何万人もの自殺者が存在することからわかるように、「自殺を意図する人全員がこのような体験をするわけではない」と言えるからだ。

友田不二男氏はこういう類の体験全般を“おとずれ”と称していたが、私の体験から言っても“おとずれ”という表現はピッタリな気がする。また、道元の「自己をはこびて万法を修証するは迷いなり。万法きたりて自己を修証するは悟りなり」という言葉は、ここで言う“おとずれ”を意味しているのではないかと思っている。
そうすると問題は「人間がどのような状態、もしくは在り方をしているときに“おとずれ”がやって来るのか?」ということになってきそうである。このあたりが“真空”と絡んできそうな気がしているのだが、はたして真相は……? なお、上掲した私の体験談から言うと“静寂”と表現したところが、ひょっとすると“真空”だったのかもしれない。

最後に、今後このような方面への人間探求(=カウンセリング探求)を続けていくにあたって、手がかりとなりそうな友田氏の記述を紹介しよう。以下は『友田不二男研究』からの引用だ。

           * * * * * * * * * * *

このような場合、人間は、今日なお、「幸運」という以外の言葉を使いようがない。しかし、「幸運」とはいったい何なのか? 人間が、現に、その「幸運」にめぐり合うことそのことを現実化するところに、なんらの必然性もないのであろうか?――というような問題は、貧困な頭脳で、いくら思いめぐらしても、しょせんどうなることでもあるまいが、しかしとにかく、発見・発明・飛躍といったようなことには、何かしら人間そのものをも包含した巨大な大自然の法則が潜んでいることを、私はどうしても、感じないわけにはゆかないのである。さらに言えば、何かしら「幸運」は、随所随所にゴロゴロしているのだが、その「幸運」をして「幸運」たらしめることそのことのできる、「人間の態度・姿勢・構え・積み重ね・関心など」が、ありそうな気がして仕方がない。(友田不二男研究 P.31)

「人間」というものは、各人それぞれに、「持って生まれた本質」と言いますか、「生まれながらの本質」と言いますか、こうした言い方で表現できるような、「ある種の宿命」があるようです。この「宿命的な本質もしくは本領」とも言うべき「何か」は、世のいわゆる「性格」とか「性質」とかとは、およそレベルを異にする「何か」で、心理学などという科学では、それこそ「手も足も出ない何か」である、と私は言いたいのですが、そのような議論はともかくとして、忘れもしません、31歳の時(注:上述した“天の声を聞く”という体験時のことと思われる)、私は、「人間は、自分自身の持って生まれた本質もしくは本領に即して生きることができればできるだけ、それだけ幸福に生きることができるし、逆に、そのような本質もしくは本領から遠ざかれば遠ざかるほど、それだけ不幸になる」と思い定めました。(友田不二男研究 P.33)

           * * * * * * * * * * *

このような記述を読むと、筆者の脳裏にはC.G.ユングが“synchronicity”(シンクロニシティ、“共時性”と邦訳される)と称した概念や、東洋思想で言うと“易経”が浮かぶ。これらが“真空”を含めたこのあたりの問題を探求していく際の重要な手がかりになりそうな気がしてならないのである。
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“真空”をめぐって (その2)

2010年07月15日 | 日記 ・ 雑文
前回の続きだが、その場における話題が一段落したところで私は口を開いた。
「少し前にAさんから、『友田先生は自分自身の経験に基づいてこれを書いているのだろう』という発言がありましたが、それを聞いた瞬間、ある考えがひらめきました。まあ当然のこととして、これと結びつくような人生経験がいろいろとあったに違いないでしょうが、とくに大きかったのはじつはこれではないか? と僕はにらんでいるんですが……」。
と述べて、『友田不二男研究』P.328、巻末に収録された人物史年表の「天の声を聞く」という項目を指差した。念のため書き添えておくが、これは友田氏がロジャーズ(の著書)と出会う前の出来事である。

           * * * * * * * * * * *

1948(昭和23)年 「天の声」を聞く。人生における一大転機。

自分の持った疑問になんの解答も与えてはくれない“心理学というもの”にすっかり失望し、「自分がこの先生きたとて、世の役に立つような何事がやれるのか?」、「ただ単に起きて喰って寝るだけの生涯になんの意味があるのか?」と、無力・無価値な己を自棄的に軽視して、ただもう鬱々とした日々を過ごしていた。そうしたある日、それこそもう考えるのも嫌になって、動くのも嫌になってしまって、縁側に干してあった布団の上にひっくり返って、いわば“夢現の境”をさ迷っていた時に“天の声”を聞いてしまう。「馬鹿だなァ、お前は。それはお前がやることなんだよ!」と。「馬鹿だなァ、お前は」という声を聞いた時点で意識は戻って、「それはお前がやることなんだよ!」をハッキリと聞いて上半身を起こし、“誰だ?”と、振り向いて左右を見ても誰もいないので、“あれっ?”と思ったとたんに“天の声”という言葉が意識を横切った。

           * * * * * * * * * * *

この、私が投じた問題提起に対して参加者からは様々な反応があった。ただし、その雰囲気はなんとなく「“真空”と“天の声”とが、どこでどう結びつくのだろう?」というような感触だったと記憶している。
その後、話題は多方面へと展開していったが、再び冒頭で記したテーマ「友田真空と諸富真空とのニュアンスの違い」へと移っていった。この場面で参加者の一人から、「山本さんは友田真空と諸富真空との違いについて、どう思っていますか?」という質問が飛んできた。
私はこのテーマに関する持論のようなものをまったく準備していなかったので、一瞬“虚を付かれた”ような格好になり、しばらくの間(1分間くらいだと思う)腕組みしたまま「う~ん……」と沈思し続けた。が、最終的には「自分の考えを思い切って話してみよう!」という気になったので口を開いた。

「そうですねえ。では、僕が個人的に“問題だと思っている問題”について、好き勝手にしゃべらせてもらいます。諸富さんの真空論のベースになっている体験というのは、あれですよね。学生時代に悩みや思いのアレコレを先輩の末武さんに向かってポツリポツリと話していたところ、次第に意識が宙をさ迷うような感じになり……、正確な表現はちょっと忘れましたが、そこで末武さんから『お前はそんなに偉いのか!』という一言があって、これが胸にずしんと響いたと。こういう体験があったわけです。
ところが、40周年(※日本カウンセリング・センター設立40周年記念・シンポジウムのこと)のときに末武先生が『私はそのセリフを言った記憶がない』と聴衆の前で述べました。これが後日、亀山山荘での土日合宿で世話人は友田先生でしたが、その場で問題になりましてねえ。『諸富氏が聞いたというあのセリフは、じつは幻聴だったのではないか?』と(笑)。
ですから、ひょっとしてひょっとすると、アレは“天の声”だったのではないかと。まあ、少なくともその可能性は十分あるだろうなと、僕は勝手にそう思っているんですが……」。

この、私からの問題提起は、その場の参加者にはかなり響いたような感触を得た。まあ、少なくともこの程度まで問題(=未解明な部分。探求の余地が残されているところ)を表現できれば、私が投じた「“真空”と“天の声”がどう結びつくのか?」という点が、より多くのカウンセリング関係者によって“問題として意識される”ことになるのではないか? と考えている。

本稿を終えるにあたって書き添えておくが、私が個人的な考えから“天の声”(と仮に名付けることにする。こういう類の何らかの神秘的体験)をカウンセリングと結びつけて問題にするのは、私もまた“天の声”と呼べるような体験を得ているからでもある。したがって、“この私の体験”についても、機会があったら書いてみようと思っているところだ。
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“真空”をめぐって (その1)

2010年07月12日 | 日記 ・ 雑文
前回の日記の続きだが、頭の中を整理するために、まずはカウンセリングとの関連で現在の私が気になっているキーワードを無作為に並べてみよう(括弧内は言葉の出所を示す)。
Vacuum(“真空”と邦訳される。ロジャーズ全集第9巻)、無・空(禅思想)、虚ハ心斎ナリ(荘子)、無為自然(老子)、無位の真人(臨済)、天地イコール自己(夏目漱石)、絶対矛盾の自己同一(西田幾多郎)、天人地(易経)……。
挙げていったらキリがないだろうが、これらの言葉(概念)はどれもみな、“ある何か”もしくは“ある方向”を指し示しているように私には思える。と同時にその“ある何か”もしくは“ある方向”には、“人間というものの真相”に関する絶大な洞察が含まれているようにも思えている。
仮にそうだとすると、私たちカウンセラーにとっての永遠の課題は、「これらの言葉が指し示している“ある何か”もしくは“ある方向”を手がかりにして、己の歩みによって“人間というもの”へのあくなき探求を続けていくことである。それがすなわち“カウンセリング探求”となる」と言えるだろう。
念のため断っておくが、私は上述したキーワードを単なる思考や想像のレベルで取り扱いたいとは思わない。基本的に言って“人間を排除したところ”で、これらの概念をアレコレ哲学したとしても、ほとんど何も得るものはないだろうと考えている。

というわけで話は一変するが、昨年12月に開催された冬季ワークショップ・仙台会場での一幕を記述しようと思う。このワークショップは「単行本『友田不二男研究』を読む」というテーマがあらかじめ設定されていた。
今となっては記憶が定かではないが、2日目のある場面で世話人の末武康弘先生(法政大学教授)から、「友田氏が投じた“真空論”は、それを取り上げた諸富氏の“真空論”によって手垢がついてしまったというか、やや矮小化されてしまったような気がする」というような問題提起があった。私のこの表現は若干正確さを欠いていると思うが、少なくとも「友田真空と諸富真空とのニュアンスの違い」というようなことが問題になったのは確かである。
これとの関連で『友田不二男研究』内のある部分が問題として取り上げられたので、少し長くなるが引用しておこう。というのは、筆者は友田氏が書いたこの文章に“友田真空のニュアンス”がにじみ出ているような気がしているからだ。

           * * * * * * * * * * *

第三のことは、この翻訳を遂行する過程において、だれよりも私自身が“はじめて気づかせられた”問題であります。もっと正確にいえば、“そこに重大な問題がある”ことは前々から感じていながら、しかもどうにも明確にならずにいたことが、ブライアン氏の表明をとおしてきわめて明確な問題意識となった、その“問題”であります。それについては、かなり入念に“訳注”をしたためておきましたので、ひとりでも多くの読者のご検討とご批判とを仰ぎたいのでありますが、それは、ブライアン氏によってまず提出され(ク452―215ページ)、やがてカウンセラーによっても取りあげられるようになった(カ515―250ページ)“真空(vacuum)”の問題であります。
今ここに、訳注以上に書きそえる必要を感じませんので、たんに問題の所在を示唆するだけにとどめますが、もしも今の私の仮説的な問題設定が支持されるとすれば、たんに私が経験している“カウンセリング”がいっそう明確になるばかりでなく、今日一般に“教育”とか“指導”とか“訓練”とかいう言葉のもとに遂行されている人間のいとなみは、基本的に独断であり、錯誤であり、迷妄である、ということになるでしょう。果たしてそうであるかどうか? 現在のいわゆる科学的方法では、おそらくとうていたしかめ得ない問題でしょうが、少なくとも“人間の基本的なあり方”に密着する“哲学”として、思考し究明すべき絶大な課題である、と私は思っております。
さらにいえば、これは、一般的・社会的に把握され、もしくは理解され、さらにしばしば信じられているとさえ思われる、東洋文化と西洋文化との有力な“かけ橋”ともなりうる手がかりを提出しているように思われます。現に、本書に登場しているカウンセラーに関する限り、この“真空(vacuum)”という言葉で呼ばれている何かに関しては明らかに否定的なのであります。そしてそのような認識は、たしかに、アメリカ社会における一般的・通念的な理解のしかたなのでしょう。もしもそうであるとすれば、今、アメリカ社会における文化形式がとうとうとして流れ込み、かつ、まんえんしている半面において、これと真っ向うから対立するかの様相を呈している東洋文化的な思考形式が入り乱れている日本の状況は、東西両洋の基本的な文化形式を総合しうる可能性をきわめて豊富に保有しているという意味において、まことに重大な意味を含んでいる、といえるでありましょう。(『友田不二男研究』P.53-54より引用)

           * * * * * * * * * * *

この文章が何を意味するのかが問題になった場面で、参加者の一人から「友田先生はきっと、自分自身の経験に基づいてこれを書いているんでしょうねえ」という発言があった。これを聞いた瞬間、ある考えが「ピカーン!」と脳裏にひらめいたのだったが、その後は別のテーマに話題が移行してしまったので、この「ピカーン!」を発言するチャンスはなかなか巡って来なかった。(つづく)
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善意と悪意

2010年07月08日 | 日記 ・ 雑文
「地獄への道は、善意が敷き詰められている」。
これは、日本カウンセリング・センター第二代理事長・故関口和夫先生(医学博士)が述べたと伝え聞いている言葉だ。この言葉には、ものす~ごく深いレベルの人間に対する洞察が含まれているような気がして私はずっと心に掛けていたのだが、最近面談したあるクライエントの話を聞き、「なるほどなあ。ほんとうに関口先生のおっしゃる通りだなあ」と、深くうなづくことができた。

親鸞(しんらん)が説いたとされる「悪人正機説」というのがあるが(正直に言えば、意味がよくわかっているわけではないが)、これもまた、絶大な洞察を含んでいる言葉なのだろうと思う。まあ、少なくとも悪人のほうが「自分は悪人である」と自覚しているという意味において、善人よりマシだろう。

「だったら善意ではなく、悪意を持って人と関わるほうがいいのか?」という疑問が出てきそうだが、そういう単純な話ではない。私もまた、長い間「善意の反対は悪意である」と思い込んでいたが、事実はそうではなく「善意(悪意も含む)の反対は無私の心である」ということを、上述したクライエントからつい最近教わったのだ。

さて、では“無私の心”とは何なのか? これは大問題だ。『荘子』の人間世篇に「虚ハ心斎ナリ」という言葉があるが、これがたぶん“それ”を指し示しているのだろう(という程度のことなら言えるが……)。
要するに私は、「これは大問題である」と認識していると同時に「“それ”こそがカウンセリングの真髄である」という感触を得ているのであるが、今日はここまでにして、この問題については別の機会にあらためて論考してみようと思っている。
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