カウンセラーのコラム

山梨県甲府市でカウンセリングルームを開業している心理カウンセラーの雑文です。

【告知】 平成22年度・夏季ワークショップのご案内

2010年06月30日 | 告知 ・ 案内
財団法人 日本カウンセリング・センターが主催する夏季カウンセリング・ワークショップの案内を、下記の通り告知いたします。今年度もたくさんの同好同志の方々のご参加をお待ちしております。


【第一会場 山形】
 会  場:青松館(山形県東根市東根温泉町1丁目20-1 電話:0237-42-1411)
 会  期:7月23日(金)14:00~7月25日(日)11:00まで(2泊3日)
 会  費:27,000円(研修費・宿泊費・資料代を含む)
 世話人:平河内 健治(当法人理事長・東北カウンセリング研究会会長・東北学院理事長)
      工藤 和仁(当法人評議員)
      阿相 金彌(当法人評議員・山形カウンセリング研究会副会長)
      井澤 英悦(当法人評議員・山形カウンセリング研究会事務局)


【第二会場 東京】
この会場は、現実的なご事情で合宿研修に参加できない方々のための「通いのワークショップ」です。
平成21年度より「月火水コース」と「金土日コース」(いずれも3日間開催)の2コースを設けましたので、参加可能なコースを選択していただけたらと存じます。なお、宿泊および昼食のお世話は致しかねますので、あらかじめご承知おきください。

 (1)金土日コース
 会  場:日本カウンセリング・センター(東京都新宿区下落合3-14-39)
 会  期:7月30日(金)~8月1日(日) 時間は3日間とも10:00~17:00
 会  費:18,000円(研修費・茶菓子代)
 世話人:山口 ゆき(当法人理事・久里浜少年院篤志面接委員)
      山田 弘子(当法人世話人)
      鈴木 喜代三(当法人理事) ※調整中

 (2)月火水コース
 会  場:日本カウンセリング・センター(東京都新宿区下落合3-14-39)
 会  期:8月9日(月)~8月11日(水) 時間は3日間とも10:00~17:00
 会  費:18,000円(研修費・茶菓子代)
 世話人:水野 明(当法人常任理事)
      山本 伊知郎(当法人理事)


【第三会場 大分】
 会  場:宇曽山荘(大分県大分市大字入蔵635-1 電話:097-588-0801)
 会  期:8月26日(木)14:00~8月29日(日)11:00まで(3泊4日)
 会  費:40,000円(研修費18,000円・宿泊会場費22,000円)
 世話人:田中 茂(当法人理事・学校臨床心理士)
      佐世 省吾(当法人評議員・日本文理大学非常勤講師・大分県カウンセリング研究協会)
      大塚 俊博(大分県カウンセリング研究協会)
      後藤 アイ(大分県カウンセリング研究協会)


【千葉会場 千葉】
 会  場:ホテルポートプラザちば(千葉市中央区千葉港8-5 電話:043-247-7211)
 会  期:8月20日(金)15:00~8月23日(月)15:00まで(3泊4日)
 会  費:33,000円(研修費・宿泊費、ただし食事は各自別)
 世話人:長屋 成明(当法人評議員・千葉カウンセリング・センター理事長) ※現在、病気療養中
      鳥宮 尚玄(千葉カウンセリング・センター常任理事)


<問い合わせ先>
財団法人 日本カウンセリング・センター ホームページはこちら≫
〒161-0033 東京都新宿区下落合 3-14-39 (JR目白駅より徒歩約10分)
TEL:03-3951-3637 FAX:03-3951-1808 メール:c_center@bz01.plala.or.jp

<申し込み方法>
参加希望者は、各ワークショップ開催日1週間前までに上記連絡先へメールまたは電話でお申し込みください。さらに詳細な案内はホームページをご覧ください。
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サポーター

2010年06月25日 | 日記 ・ 雑文
表題の“サポーター”とは、サッカーチームを熱烈に応援する人たちのことを指す。日本代表がワールドカップで一次リーグを突破したので、「我が家にもすばらしいサポーターが1名存在する」ということを紹介したいと思う。そのサポーターとは息子(6歳)だ。今日も起こしたわけでもないのに朝5時に目を覚まし(たぶん、隣の部屋のテレビの音がうるさかったのだろう)、試合終了までの残り30分を一緒に観戦した。

息子は週1回、近所のサッカースクールに通っている。通わせているのは母親だが、かなり熱心に取り組んでいるようだ。練習後、毎回集まった子どもたちで2チームに分かれてミニゲームを行なうのだが、帰宅した際に今日は勝ったか負けたかが一目でわかる。勝った日は上機嫌だが、負けた日は不機嫌になり、手が付けられない状態になるからだ(苦笑)。
ある日のミニゲームで負けた息子は、試合終了後、悔しさのあまりワンワン泣きじゃくったという。それを見たコーチが「今は同年代の他の子より下手でも、こういう子のほうが将来はずっと伸びますよ」と母親に伝えたらしい。そんなわけで、ここのコーチ(元ジェフ千葉の関係者らしい)に息子はずいぶん気に入られているようだ。こういった理解ある指導者に巡り合えたことが、息子にとっては何よりも幸運だったと思う。

いつ頃のことだったか、日本代表が韓国代表にボロ負けしたことがあった(ワールドカップ直前に0-2で負けたが、その数ヵ月前に行なわれた韓国戦のこと。スコアは忘れた)。この試合を息子とともに家族三人で観戦したのだが、試合終了と同時に何を思ったのか、息子がテレビの電源ボタンをパチリと切った。「何をするんだ!」。私はとっさに怒って電源を入れ直した。息子の顔を見ると目から大粒の涙があふれていた。この試合結果を見るのは耐え難かったらしく、その後は隣の部屋の布団に伏せたまましばらく泣き続けていた。その姿を見て、私はなんとも言えない複雑な切ない気持ちになった。私はこのとき、初めて「日本代表が負けると悔しさのあまり涙する人間の存在」を知ったのだった。
その後は、なるべく息子の前で日本代表の試合を見ないように心がけた。観戦したいときは別の部屋の小さなテレビで我慢した。理由は言うまでもなく「日本が勝つ可能性は低いだろう」と予想していたからだ。そしてこの工夫は功を奏した。したがって息子はワールドカップ直前の4連敗を知らない。

日本は一次リーグを突破して“歴史的な偉業”を達成した(フランスもイタリアも敗退したのだから)が、それを陰で支えているのはサポーターの存在であることを忘れてはなるまい。選手や監督やスタッフたちに「日本が負けると本気で涙を流す人たちがたくさんいるんですよ。息子もその一人なんですよ」と伝えたいと思うのが、せめてもの親心である。

ところで冒頭の場面の続きだが、我が家で日本の勝利に歓喜したのは大人二人だけで、息子のほうは結果に対する特別な反応を示すことなく、まるで「当然のことですよ」とでも言いたげな淡々とした表情だった。内心で「次の試合があるんだから、喜んでばかりじゃダメだよ」とでも思っていたのだろうか?
たぶん、息子は日本代表の実力を知らないので「勝つのが当たり前だ」と思っているのだろう。仮にそうだったとしても“大喜びしない”という態度を示すのは、ひょっとしてひょっとするとある意味で筋金入りのサポーターかもしれない……という気がする。
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“必要十分条件”についての考察

2010年06月17日 | 日記 ・ 雑文
先日の日記で示唆したように“カウンセリングにおける最も重要な問題点のひとつ”とも言えるカウンセリングの核心部分は、「カウンセリング関係(もしくは場面)において、いかなる条件が満たされればクライエントに建設的なパーソナリティーの変化が生じ、態度・行動の変化が起きるのか?」という問題だと筆者は考えている。
よく知られているように(かどうか、本当は知らないが)、カール・ロジャーズはこの問題に対し、『パースナリティ変化の必要にして十分な条件』(伊東博訳・ロジャーズ全集第4巻『サイコセラピィの過程』第6章)と題する論文において持論を展開している。ここに示されている“ロジャーズの考え”が、どの程度妥当なものであるのか、私自身の2つのカウンセリング経験(ひとつは初めての個人面談、もうひとつは初めてのグループカウンセリングであった「カウンセリング入門講座」での経験のこと。どちらもすでに日記に記した)に基づいて考察してみようと思う。
ロジャーズは『パースナリティ変化の必要にして十分な条件』(以下、“必要十分条件”と表記する)の中で次のように書いている。

建設的なパースナリティ変化が起こるためには、次のような条件が存在し、それがかなりの期間継続することが必要である。
① 二人の人間が、心理的な接触(psychological contact)をもっていること。
② 第1の人――この人をクライエントと名づける――は、不一致(incongruence)の状態にあり、傷つきやすい、あるいは不安の状態にあること。
③ 第2の人――この人をセラピストと呼ぶ――は、この関係のなかで、一致しており(congruent)、統合され(integrated)ていること。
④ セラピストは、クライエントに対して、無条件の肯定的な配慮(unconditional positive regard)を経験していること。
⑤ セラピストは、クライエントの内部的照合枠(internal frame of reference)に感情移入的な理解(empathic understanding)を経験しており、そしてこの経験をクライエントに伝達するように努めていること。
⑥ セラピストの感情移入的理解と無条件の肯定的な配慮をクライエントに伝達するということが、最低限に達成されること。
他のいかなる条件も必要ではない。もしこれらの六つの条件が存在し、それがある期間継続するならば、それで十分である。建設的なパースナリティ変化の過程が、そこにあらわれるであろう。

以上は要約部分であり、これにそれぞれの条件についての詳細な解説が加えられているが、ここでは割愛する。興味・関心を持った人がいたなら、ぜひとも上記論文を入手して、読者自身によって検討してもらいたいと願っている。

さて、まずは条件①だが、これは条件②~⑥が成立するための前提条件のようなものなので、詳細な検討は必要ないだろう。「条件①は満たされていた」としておく。
続いて条件②だが、これも「満たされていた」のは明らかだ。個人面談のときの私は「カウンセラーから厳しい言葉が浴びせられるのではないか?」と傷つくのを恐れて怯えていたし、入門講座の場面では――“不安の状態”という表現はあまり適切ではないような気もするが――、予想外の展開に目が点になり、ひどく動揺したという意味で「きわめて不安定な状態だった」と言えるからだ。
次は条件③だが、これはカウンセラー側の状態なので、私(クライエント)には判別不可能である。が、私の側の経験を述べるならば、「口ではそう言っているけど、腹ではぜんぜん違うことを思っているのではないか?」というような疑念は、カウンセラー(もしくは世話人)に対してまったく浮かばなかった。
個人面談のカウンセラーは(自分の興味・関心からだと思うが)、私が返答に困るようなことをしつこく尋ねてきたし、入門講座の世話人は、受講生の質問に苦笑いを浮かべながら困惑気味に本当のことを返答しているように見えた。どちらの人も「率直で正直な人物である」と、私に認識されていたのである。
次は条件④と⑤だ。「それぞれの条件が何を意味しているか?」という点は本稿の主旨ではないので、ここでは一緒に扱うことにする。もしもこの点に関心を持った人がいたなら、上記論文を熟読・吟味していただけたらと思う。
さて、④と⑤だが、これもカウンセラー側の経験について述べられているものなので、正確には判別不可能だ。私の側の“経験のされかた”を述べると、個人面談では「④も⑤もなされていた」となる。したがって「条件④と⑤は満たされていた」と判定してよかろう。
問題は入門講座での私の側の“経験のされかた”である。すでに記述した通り、2時間30分の時間内に私が発言したのは一度だけ、自己紹介の場面で名前を述べただけだった。これに対し、世話人から何らかの応答があったという記憶はない。とすると「条件④と⑤は無かった」ということになるのだろうか?
ここから先は憶測や想像の類がかなり含まれてくるが、入門講座で私の心に決定的な変化をもたらしたのは、「本当に自由でいいんですよ。話したければ話せばいいし、話したくなければ話さなくていいんですよ」という世話人の発言だった。これは言うまでもなく、“特定の個人に対して”ではなく、“参加者全員に向けて”の働きかけである。この発言による働きかけがなされる直前がどんな場面だったか、まったく記憶がないが、たぶん世話人はこの場における参加者たちの“存在の仕方”とでも呼べるような何か、あるいは“醸し出されている雰囲気のようなもの”を感じ取って、このような働きかけをしたのではないか? と想像できる。仮にそうだとしたら、このときの世話人の心中には「条件④や⑤に相当するような経験が生じていたのではないか?」という推測は十分可能だろう。
付け加えておくと、このセリフを聞いた瞬間の私は、何か“勇気をもらった”ような感じになった。講座が始まってからこの時点に至るまで、私の心中には講座や世話人に対する否定的・批判的な感情しかなく(次週からは欠席しようと考えていた)、ゆえにそのような気持ちを正直に述べるのは困難であり(基本的には他者との間に波風を立てることや、口論や喧嘩を好むタイプではない)、したがって口を固く閉ざしているしかなかったわけだが、「話したくなければ話さなくていいんですよ」は、「そのままでいいんですよ」という意味に聞こえたのだった。
というふうに“経験された”ということは、(他の参加者については不明だが)少なくとも私には条件④の「無条件の肯定的な配慮がなされていた」と判定してよかろう。ついでに述べておくが、条件⑤の感情移入的理解(共感的理解とも呼ばれる)については、それが私に対して「なされた」とはまったく経験していない(そもそも私は名前しか述べていないのだから)。ただし、他の参加者に対してはこのようなタイプの応答があったかもしれない、とは言える。
最後に条件⑥だが、これは明白だ。個人面談ではどちらも最低限は達成されていた、というふうに経験された。入門講座では片方(無条件の肯定的な配慮)のみ、最低限は達成されていた、というふうに経験された。

以上、ロジャーズが提示した“必要十分条件”がどの程度妥当なものであるかを検討してきたわけだが、結論としては「かなりの程度妥当である」と言ってしまってよいだろう。しかし、上述した“私の経験”に基づいて言うならば、この結論からさらに一歩進めて「建設的なパーソナリティーの変化が起こるためには、“カウンセラーがどのような条件を用意するか?”ということよりもむしろ、“クライエントがカウンセリング関係(もしくは場面)をどのように経験するか?”ということのほうにより大きく依存している」と述べたい。

と書いたところで、「あれ? こういう文章どこかで読んだことあるぞ」という思いが生じた。そこでちょっと調べたところ、『カウンセリングの技術―クライエント中心療法による―』(友田不二男著・誠信書房・初版1956、第2版1996)の中に次のような文章があった。

           * * * * * * * * * * *

われわれが経験を積んで前進してゆくにつれて、ある特定のケースにおけるセラピィの動き(therapeutic movement)の確率は、基本的には、カウンセラーのパーソナリティに依存するのでもなければ、また、カウンセラーの技術に依存するのでもなく、また、カウンセラーの態度に依存するのでもなく、これらのすべてが、その関係においてクライエントにより経験されるされ方に依存しているということが、きわめて明白となってきている。(拙訳『サイコセラピィ』87頁参照)

このロジャーズの言葉は、端的に、この間の事情を提示しているであろう。しかも、このロジャーズの見解は、私自身の臨床経験(clinical experience)ともまた、最高度に符合するように私には思われているのである。
このことは、ロジャーズの思考と方法につながる立場におけるカウンセリングを理解するにあたり、どんなに強く肝銘されてもされ過ぎることはないであろう。また、これを逆に言うならば、もしもこの点に対する認識なしにロジャーズを解するならば、とうてい、真の理解を達成することができないであろう。(以下略)

           * * * * * * * * * * *

う~む……。私は本稿の執筆を通して「新事実を発見した!」かのように思っていたが、私が発見したと思っていたその“事実”は、ロジャーズがかなり初期の頃に(年代は不明)、また友田不二男が1956(昭和31)年に示した見解とまったく同じだったのである(苦笑)。
もっとも、だからと言ってガッカリしているわけではない。なぜなら、ロジャーズや友田が示したその“見解”は、今や私自身の“血肉になっている”と思えるからだ。
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初めてのカウンセリング体験(入門講座編)

2010年06月09日 | 日記 ・ 雑文
先週の火曜日に日本カウンセリング・センターが主催する今年度第1回目の「カウンセリング入門講座(全5回)」が終了した。その詳細な内容をここに記すのは控えるが、世話人として参加した私の率直な感想を一言で述べると「じつに楽しい会合だった」となる。
センターが主催している入門講座は(入門講座だけでなく、他の講座も全部そうなのだが)、「世話人が講義をしない」というのが特徴だ。「講義をしないなら、じゃあ何をやるのか?」と問われれば、「文字通り“世話をする”のだ」という返答になる。“講師”の場合は“講義する”のが仕事になるが、“世話人”の場合は“世話をする”のが仕事になるわけだ。
このような説明で講座内容を理解できる人はまずいないだろうが、これ以上の説明をするのは難しい気がする。あえて蛇足を加えるならば、世話人は受講者ひとりひとりがそれぞれ“自分が学びたいこと”を学べるように“最大限に自由な学習場面”を設定する。したがって世話人が主導権を握って「○○というテーマについて、みんなで考えましょう!」というように、参加者をリードするような動き方は決してしない。どのような学習場面を展開していくかについては、参加者の側にゆだねられているわけだ。
するとどうなるか? 「じつにじつに興味深い“人間の動き”が現われてくるのだ」という表現が、私に“経験されているところ”をかなり正確に言語化していると思う。受講者が言語や態度で示す“戸惑い”・“困惑”・“疑念”・“憤り”・“失望”などなどを私は大歓迎する。私にはこれらの言葉や態度が、その人の“今ここでの嘘偽りない真実の姿”を表現しているように思えてならない。その人の“今ここでの嘘偽りない真実の姿”が垣間見えたとき、私はその人に対し“肯定的関心”を抱いてしまう。関心を持つように“している”のではなく、いわば自動的にそう“なってしまう”のだ。ここまで書けば、冒頭の「じつに楽しい会合だった」の意味が少しは伝わっただろうか?

とは言え、カウンセリング(正確にはグループカウンセリングだが)を経験したことのない人が、このような説明文でカウンセリングを理解するのは容易ではないだろう(と言うよりも不可能だと思う)。したがって、もしも“カウンセリングというもの”に興味・関心を持った人がいたなら、「ぜひ、身をもって体験してもらいたい!」というのが筆者の気持ちだ。その際にはきっと「人生において、かつて一度も経験したことのない経験をすることになる」だろうと思う。いや、そのような経験が得られることを保障してもいいくらいだ(笑)。
宣伝になるが、6月16日(水)から全5回の日程で「カウンセリング入門・昼間部」がスタートする。「カウンセリングを体験してみたい!」という人がいたら、ぜひ参加してもらいたいと思う。(詳細な案内は下記ホームページをご覧ください)

日本カウンセリング・センター
http://counseling.web.infoseek.co.jp/

さて、前置きが長くなったが、ここからが本題だ。私自身も上述した「カウンセリング入門」をかつて受講した人間のひとりである。そのときの衝撃的な(?)体験談を記しておこう。

平成8年9月某日、私の足は目白にある日本カウンセリング・センターに向かっていた。目的は1ヵ月ほど前に参加申し込みをした「カウンセリング入門」を受講するためだ。以前の日記に書いた通り、センターには個人面談を受けるために一度訪れたことがあったので道に迷うことはなかった。
開始時刻の10分ほど前に到着し、2階の教室に入ると、受講生がすでに5~6人いた。開始時刻になると参加者は総勢12~3人になったが、その間口を開いた人はなく、シーンと静まり返っていた。ものすごい緊張感が漂う雰囲気だ。

しばらくして、60~70代に見えるおじさんが階段を上がって教室に入ってきた。「この人が世話人だな」とすぐにわかった。と言うのは、この人だけ他の参加者より年齢が高く、落ち着き払った態度で“ベテランの雰囲気”を漂わせていたからだ。が、私は先生になるその人物の風貌を見て唖然とした。ペラペラの開襟シャツに普段着のようなズボン、足元は裸足でサンダルをペタペタ鳴らしながら歩いていたからだ。私は世話人というのを「パリッとしたスーツを着こなした大学教授のような人」だと想像していたが、目の前の人物はどう見ても、どこにでもいる“普通のおじさん”にしか見えなかった。私の胸中はこの時点ですでに「ガッカリした」のを告白しておこう。

世話人が着席すると講座が始まった。「はじめまして。○○と申します。どうぞよろしく」というような挨拶のあと、「どうぞ、ご自由に」と、その世話人が参加者に向かって言った。私は目が点になった。他の参加者も私と同様、固まっているように見えた。
沈黙がしばらく続いたあと、世話人が口を開いた。「他のグループだとこういう場合、まずは自己紹介をしましょう! となるんですが……。お互いに自己紹介をしたらいかがでしょう」と、参加者同士で自己紹介することを促すような発言だった。
これに応えて参加者のひとりが口火を切った。ひとり、またひとりと、挨拶を交えた自己紹介が進んでいったが、私は自分から進んで何かをしゃべる気にはぜんぜんなれず、最後のほうまで口を固く閉ざしていた。が、いよいよ残り2名となったとき「一番最後になるのは嫌だな」と思って慌てて発言した。何を言ったか覚えていないが、たぶん名前しか言わなかったような気がする。

この時点で私はこの講座に深く失望していた。1ヵ月ほど前の個人面談で“かつて経験したことのない貴重な経験”を得ていた私は、カウンセリングに対する猛烈な興味・関心と学習意欲を持ってこの場に臨んでいた。目の前の机に新品のノートを開き、鉛筆を握り締めて、世話人の講義を今や遅しと待ち構えていたのである。それが開口一番「どうぞ、ご自由に」と言い放たれ、続いて「自己紹介をしましょう」となったのだから……。
付け加えておくが、私がここに来た唯一の目的は「カウンセリングの専門家からカウンセリングを学ぶため」だったので、「他の受講生と知り合いになるとか仲良くなる」というようなことはまったく眼中になかった。ゆえに自己紹介などという行為は、私にとっては無意味・無価値にしか思えなかった。なんと言うか、このときの私の心境は、世話人に対する憤りや失望とともに、世話人から放り出されたような見捨てられたような気持ちになっていた。

参加者全員の自己紹介が終わると、その後は受講生の誰かが世話人に質問をし、それに世話人が答える、というようなやり取りが続いた。私と同様に他の受講生も「なにをどうすればいいのか、まったくわからない」ように見えた。受講生が発する質問は、どれもみな“苦し紛れ”のようだった。が、私のほうはそんな会話に真剣に参加する気にはぜんぜんなれず、特別な興味も関心も生じないままずっと傍観していた。
世話人の話の中には、いくつか印象深い内容のものもあったが、私の胸中は次のようなものだった。「あー、バカバカしい。こんなことが最後まで続くのなら、ここに来てもまったく意味はないな。今日は終了時間までここに座ってなんとかやり過ごすことにするけど、来週からは欠席しよう。参加費は全額支払ったのだから、何か理由をつけて休んでも文句は言われないはずだ。せっかくカウンセリングに興味・関心を持ったのに残念だなあ……」と。

こんな具合でふてくされながら、その場をやり過ごしていたのだが、終了時刻の10分くらい前に衝撃的なことが私の内面で起こった。世話人の「本当に自由でいいんですよ。話したければ話せばいいし、話したくなければ話さなくていいんですよ」という発言を聞いた瞬間、「自由ってなんだ?」という疑問が生じたのである。「今までの30年間の人生において、俺はかつて一度も“自由とは何か?”という疑問を持ったことがない。ということは、自由が何であるかを俺は知っていたわけだ。でも、よくよく考えてみたら自由とは何なのか、本当はぜんぜんわかってなかったではないか!?」という事実に気がついてしまったのだ。「なんということだ……」。私はこの事実に愕然とした。

時間が来て講座は終了した。結局私は自己紹介の場面で名前を述べただけで、それ以外は一切言葉を発しなかった。が、そんなことはどうでもよかった。講座や世話人に対するいろいろな感情もどうでもよくなっていた。それどころではない、尋常ではない心理状態に陥っていたのである。
参加者の多くは雑談などしながら駅までの帰路を集団で歩いていたが、私はその輪の中を挨拶もせずに通り抜け、ひとり早足で去っていった。もともと社交的なタイプではない私だが、ましてやこのときは“重大なこと”が心中に起きていたので無理もなかったと思う。こんな心理状態で他者と社交的な会話をするなんて、そんな気にはぜんぜんなれなかった。

私は“自分に起きたこと”がいったい何なのか、どうしてそれが起きたのか、考えずにはいられなかった。このとき私が“考えずにはいられなかったこと”とは、「自由とは何か?」という哲学的な問題ではなく、「30年間まったく気がついていなかったことに、どうしてたった1回の、しかも2時間半という短時間で気がつくことができたのか?」という問題だった。しかし、いくら考えてもわからなかった。結局のところ「カウンセリングというものに何か重大な秘密があるに違いない!」という結論を出すだけで精一杯だった。

ふと気がつくとそこは原宿駅だった。目白駅からJR山手線に乗ったあと、新宿駅で乗り換えなければならなかったのだが、考え込んでいるうちに原宿まで来てしまったのだ。私がどれほどこの問題に取り付かれていたか、また、どれほどの集中力で思考をめぐらしていたか、このようなエピソードを付け加えれば想像がつくだろう。

以上が私の「初めてのカウンセリング体験(入門講座編)」だ。このあと私が「よりいっそうの強い興味・関心を抱きながら、意欲的にカウンセリングに取り組む人物に変貌していった」のは言うまでもない。何しろ私は「カウンセリングには何か重大な秘密がある!」と確信してしまったのだから。
余談になるかもしれないが、このとき私が焦点付けした“カウンセリングの秘密(?)”については、現在でも「そう、そこのところがカウンセリングの最大の問題であり、カウンセリングの核心部分なのだ!」と思っている。という意味では、自画自賛になるが、「初心者のくせにそこのところに問題意識を持って焦点を当てたとは、なかなか良いセンスの持ち主だったのではないか?」と、過去の自分を振り返っている。
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