カウンセラーのコラム

山梨県甲府市でカウンセリングルームを開業している心理カウンセラーの雑文です。

甲府での生活

2007年09月28日 | 日記 ・ 雑文
先週から三鷹と甲府を往復する生活が始まった。一家全員で移動しなければならない苦労はあるが、甲府のほうの新居での生活に関してのみ言うなら、「思っていたほどの不自由さは感じない」というのが正直な感想だ。もっとも、妻や息子がどう感じているかは、別問題であるが。

ただ、「これはちょっと困るなあ」と感じている問題の一つに、“テレビのチャンネル数の少なさ”がある。1CH(NHK総合)、3CH(NHK教育)、5CH(YBS)の3チャンネルしか映らないのだ。これでは田舎町の温泉旅館よりヒドイではないか!?
山梨県にはYBS(山梨放送)の他にもう一局、UTY(テレビ山梨)というローカルテレビ局があるが、こちらはUHF帯の電波を使用しているので専用のアンテナを購入しないと見ることができない。だが、「アンテナを買うくらいだったら、いっそのことケーブルテレビ局に加入した方がいいかも?」という考えが頭にあるので、とりあえずは現状維持のままである。

しかしテレビを見ない分、我が家の夜は“ゆっくりとした時間が過ぎてゆく”ように感じられるのも事実だ。あらためて振り返ってみると、パソコンやテレビ(BSもCSも見られる)からの膨大な量の情報に身をさらしていた都会の生活は、じつに“慌ただしい”ものだったと気づかされた。
メディアからの情報を常に受け続けていると、何かしら“落ち着かない”ような感じが心のどこかで生じていたように思う。無論、メディアを利用“する”か“しない”かは、こちら側で決定できるに違いないが、例えばパソコンが家にあることによって「そろそろメールチェックしようかな~」という気持ちが自動的に生じてしまうのも事実だ。
それらの情報から一時的に解放された私のナマ身は、どこか“ほっとしている”ような気がする。

……と書いている現在の私の脳裏には、「三鷹に帰ったら、さっそく録画しておいた○○○を観よう!」という思いも同時に浮かんでいる(笑)。
人間というのは複雑で、矛盾に満ちている存在のようだ。
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蕉風俳諧

2007年09月27日 | 日記 ・ 雑文
最初に断っておくが、私は“蕉風俳諧”というものについて、何かを語れる資格など持ち合わせていない人である。というのは私の“俳諧のワーク”への参加経験は過去に4~5回ある程度であり、その理解の程度は“非常に浅薄なものである”という自覚があるからだ。
そんな私が「蕉風俳諧を取り上げてみよう」と思ったのは、前回書いた“自発協同学習”との関連が、私にはどうしても感じられてしまうからだ。知ってる人にはいまさらだろうが、“蕉風俳諧”は友田先生が心血を注いで取り組んだものである。信川先生の真髄が“自発協同学習”なら、友田先生の真髄は“蕉風俳諧だった”といっても、決して言い過ぎではないように思う。そしてこの両者に共通する“根底にあるもの”が、何かありそうな気がしてならないのだ。

念のため説明しておくと、“蕉風俳諧”とは、松尾芭蕉がその生涯をかけて取り組んだものである。芭蕉というと“俳句の名人”みたいに思われているふしがあるが、本当は“俳諧師だった”ことが近年明らかになっている。(ちなみに“俳句”とは、俳諧でいう“発句(ほっくと読む。最初の一句こと)”である)。
数年前に放映された『水戸黄門』(主演は石坂浩二だった)に芭蕉が登場していたが、そこでは“俳諧師”として描かれていたので、現在ではもう“俳諧師とする見方”は一般的なのだろう。
で、友田先生はこれを「蕉風俳諧は、江戸時代のカウンセリング(といっても“人間の成長を目指す”ほうの)である!」と断じていて、その探求と実践に邁進していったわけだが……。

話を元に戻すと、“自発協同学習”を初めて体験したとき、私には「これって“俳諧の世界”と同じだなあ」という感覚が生じたのだった。とくにそれを感じたのは、“自分の責任を放棄することはできない”という点においてだった。

俳諧の絶対的な基本原則は、“前句に付ける”ということである。付けた句を“付け句”と呼び、その“付け句”にまた“付け句”を付けて……という具合に進展してゆく。別言すると、俳諧とは“連句”なのだ。
そしてこの“付け句”が、カウンセリング用語だと“レスポンス”に相当する。クライエントの陳述に対する“カウンセラーの応答”の意だ。
俳句も俳諧も通常はグループで開催されるが、俳句が“個人プレー”であるのに対し、俳諧は“チームプレー”になる。俳諧用語で“膝送り”と呼ぶのだが、付け句を作る順番は参加者一人一人に必ず回ってくるので、自分の番が近づいて来ると心臓がバクバクと高鳴ってくる。そして自分の番がやってきたときにはもう、それこそ“地獄の苦しみ”だ。「何も浮かばなかったら、句が作れなかったら、どうしよう!?」という不安や、「私には何も作れませんでした……というわけにはいかないぞ。なんとかやり遂げなくては!」という重圧感や焦燥感とで、脂汗をびっしりとかく。
やっとの思いで「できた!」となったら、今度はその句を自分の手で黒板に書かなければならない。背中には参加者たちの鋭い視線が突き刺さる。しかもその中には、友田という“最高に恐ろしい人物”が座っているのだ。板書する私の手が震えるのも無理ないだろう。

これが私の“(膝送りでの)俳諧ワークショップ体験”だった。一言で言えば、「付け句を作る(=レスポンスする)という自分の責任からは、どうあがいても逃れられない」ということだ。
しかしこれを“カウンセリング場面”に置き換えてみると、当然のことにも思える。面接中においては、仮に「クライエントの陳述がさっぱり理解できない」と経験されたとしても、カウンセラーは何らかの応答をしなければならない。いや、“しなければならない”は言い過ぎだとしても、“応答が浮かばない”からといって沈黙を決め込むだけでは、カウンセリング自体が成立しないだろう。
そしてこの「自分の責任を果たす」ということと、“自発協同学習”で「参加者全員が自分の答え(プロセス)を発表する」ということとが、私の中では“まったく同じところを目指している”ように思えるのだ。

『花は自分でひらく』(センター刊)の中で友田先生は、「芭蕉と信川先生とが、私には同一視できる。両者の“態度・姿勢”はまったく同じである」という意味のことを述べているが、“蕉風俳諧”と“自発協同学習”を体験している私には、このような言い方がわかるような気がする。
これは私の勝手な推測だが、おそらく芭蕉も信川先生も“日本人というもの”の本質や特徴を、深く深く“洞察していた”のではあるまいか? そしてこの二人に共通する態度・姿勢を“洞察していた”友田不二男という人物もまた、この二人と“同レベルの人間だった”のではないか? と思えてくるのだが……。

芭蕉や信川先生や友田先生らが目指したものは、“人間の成長を目指す”カウンセリングであり、決して“癒し”のカウンセリングではない。“人間の成長を目指す”とは、換言すれば“人間を磨くこと”であると、“自発協同学習の体験を通して”あらためて認識させられたのだった。
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自発協同学習

2007年09月25日 | 日記 ・ 雑文
日本カウンセリング・センターが主催する講座「カウンセリング概論」では、本年度の4月から“自発協同学習”というものを取り入れて学習に取り組んでいる。
“自発協同学習”というのは、故・信川実先生(元広島県竹原市賀茂川中学校校長)が心血を注いで開拓・創造していった学習法であり、当時は全国的にも脚光を浴びていた学習法だが、現在ではその言葉すら聞いたことがない人がほとんどではないだろうか? かくいう私も“自発協同学習”という言葉を初めて聞いたのは、ほんの数年前のことなのだから。
その講座「カウンセリング概論」に私は、世話人の一人として参加しているのだが、この“自発協同学習”を初体験した感想を一言で述べるなら、「ショッキングだった」としか言いようがない。「私は今まで“カウンセリングで学習してきた”と思っていたが、本当に“学習していた”のだろうか? 私は本当に“学習するということ”、そのことが“できる人間”なのだろうか?」という思い方が生じたのだった。

“自発協同学習”の根本的な理念・精神は、「自分が学習したことを、参加者である皆さんにも分け与える」というものである。自分が学習したことを“自分だけのもの”にはしない。“自分だけ”が得するのは許されない。すなわち、「みんなで一緒に成長・発展していくこと」を目指しているわけだ。
これを現実化していくための様々な工夫があるのだが、際立った特徴は、カウンセリング用語で言うところの「場面構成を非常に明確に行なう」という点にある。
最も基本となるのは“自発学習”の場面。これは言い換えると“個人プレーを行なう”場面だ。何かの課題が設定されたとき、“個人でその課題に取り組む”ということが、この場面では行なわれる。
その次に大切なのが“協同学習”の場面。こちらは“チームプレー”に相当する。“参加者全員でその課題に取り組む”わけだが、具体的には「私はこれこれこういうふうに、この課題に取り組みました」という発表をする場面だ。もちろん、その個人発表に対する参加者の応答は自由になされるわけで、話題が思わぬ方向に展開していくことも稀ではない。
基本的にはこの二つ、“自発”と“協同”の場面が繰り返されるのだが、場合によってはある課題が提出されたときに、“にっちもさっちも動けなくなる”ということが起きる。「この課題に取り組むには、“自発(個人)”でやればいいのか、それとも“協同(チーム)”でやればいいのか? う~む。困った」という状況が発生したときには、「バズしませんか?」という提案が許される。
“バズ”というのは“私語”の意味で、学校での授業中にちょっと困ると隣の人をつっついて「ねえねえ。これって何なの?」とかやるが、そういう“私語”を「みんなでオープンにやりましょう!」という場面もあるのだ。これを“バズする”とか“バズ学習”と呼ぶ。学校でこれをやると「私語はやめなさい!」と先生に叱られるが、“自発協同学習”ではむしろ“私語を推奨している”わけだ。

“自発協同学習”は、上述の三つの場面で構成されるのだが、中でもユニークなのは“協同学習”の場面だろう。ここで“自発(個人)学習”したことを発表するわけだが、発表する順番に厳格なルールが設けられていて、「自信のない人から発表する」というのが決まりになっているのだ。
このルールにはいろんな意味があって、ひとつには「優等生が優秀な答えを最初に言ってしまうと、後に続く人が発表しづらくなってしまう」というのがある。これだと優等生は気分いいだろうが、他の人は“劣等感を味わう”ことにしかならないだろう。
もう一つの理由は、自信がない人の場合、「自分の発表をどう行なうか?」で頭がいっぱいで心臓はドキドキするし、とてもじゃないが“他の人の発表を聞ける余裕が持てない”というのもある。自分の発表を先に済ませてしまえば肩の荷が降りて、他者の発表を聞ける余裕も生まれるわけだ。

ここで大切なのは“必ず全員が発表する”というところにあると思う。どのような個人的な事情や理由があろうとも、“発表しない”という行為は許されない。もし仮に、「私は発表できません(したくありません)」という人を容認してしまったら、勇気を振り絞って、恥を忍んで発表した人が、“バカを見る”ことにならないだろうか?
……と言うと少し強すぎるかもしれないが、「自分が学習したことを参加者全員に分け与える」、すなわち「自分だけが得をしない」のが“自発協同学習”の根幹である。そして言うまでもなく、“自分の学習を自分自身で遂行する責任”を放棄することは、決して許されるものではない。たとえカウンセリングが“どうぞご自由に”という、最大限の自由を保障する場面であったとしても、だ。
カウンセリングには“責任の制限”というものがある。自由ではあるが、“自分の責任(学習を行なう責任)を放棄する自由”は与えられてないのだ。逆を言えば、“責任の制限”が理解できない人には、“自発協同学習”もまた理解できないだろうと思う。

そしてこのこと、すなわち「誰もが抵抗なく、自分が学習したことを発表できる場」を創造するためには、“他者を批判しないこと”や“他者を優劣で評価・判定しないこと”、そういう態度が参加者全員に求められてくる。
大切なのは“発表の中身”ではない。“○×を付けること”ではない。“正しい答え”も“間違った答え”もない。
本当に大切にしなければならないのは、“個人(自分も他人も)が、自分の学習を遂行していったプロセスそのもの”である。その“プロセスを大切にできる心”を参加者全員が養っていかなければ、“自発協同学習”は成り立たないだろう。そして“その心”を養いながら、自分を磨いていくための場として“自発協同学習”という名の道場があるのだ。……と、私はその学習経験から思っている。
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明日からの生活

2007年09月17日 | 日記 ・ 雑文
明日18日から、東京と甲府を往復する生活が始まる。家族内に諸事情があって、実家のある甲府で週の半分くらいを過ごすことになったのだ。もちろん家族3人で。

移動すること自体は、それほど大変ではないと予想している。東京三鷹から甲府までは、クルマを使えばわずか1時間半だ。東京だと通勤に片道2時間以上かけているサラリーマンは珍しくないので、それと比べれば楽勝だろう。それに“クルマで1時間半”というのは一般道だと、三鷹から池袋くらいまでに相当する(混雑具合を計算に入れるとそうなる)ので、それを思うと苦ではない。

問題は、週に3~4日とはいえ、生活環境が著しく変化するという点だ。何がどう変化するかは、実際に体験してみないとわからないが、現時点でわかっていることは「パソコンもケーブルテレビもDVDも無い生活になる」ということだ。
それがどういう影響を僕に及ぼすか、僕がどう感じるかは未知数だ。わかっているのは現時点ですでに、「あ~、今週はNFL(アメリカンフットボール)が観られないな~。DVDで録画予約しておこうかな」という思いが生じているということだ。

てなわけで現在、甲府の新居(といっても中古住宅だが)に持っていく物の荷作りをしている最中である。引っ越しではないので、決して大掛かりな作業ではないが、これはこれでまあ、それなりに大変な思いをしている。
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カラスとスピリチュアル

2007年09月16日 | 日記 ・ 雑文
“スピリチュアル”とか“スピリチュアリティー”とかいう言葉で呼ばれる“何か”が、テレビなどを通じてもてはやされているようだ。世の中のそういう傾向には、基本的には大賛成だ。というのも私は、“心理学”よりもはるかに強く“スピリチュアリティー”のほうに心を惹かれている人であり、『聖なる予言』や『神との対話』シリーズを(全部ではないが)読んで、深い感銘を受けた人でもあるからだ。

しかし、この言葉の理解のされ方(世の中への伝わり方)には、「?」が付くこともしばしば経験している。とくに「ひどいなあ」と思うのは、“スピリチュアル=霊能力”という捉え方だ。“霊能力”を“スピリチュアルの中に含める”のなら了解できるが、「=」で結ぶのには違和感を感じてしまう。

ちなみに『ウィキペディア』の解説によると、
【スピリチュアル (spiritual) とは、 material (「物質的な」あるいは「肉体的な、官能的な」)に対し、「霊的な、精神的な」と言う意味の形容詞で、とくにキリスト教における神の啓示、預言などを表す極めて神聖な意味である。近年テレビ番組などの影響で、霊を呼び出したり、守護霊の話をするような意味に使われることが多くなったが、実際にスピリチュアルとされる分野はとても多岐にわたる。】
とある。この説明は納得できる。

“スピリチュアル”と聞いて私が連想するのは、友田先生がよくしていた“カラスの話”だ。
「カラスというのはすごい能力を持っていて、畑に種を蒔いて土をきれいにかぶせておくと、種のある所だけを口ばしで突っついて食べる。決して間違った所(種の無い場所)をほじくり返さない」
という話だ。要するに、カラスには“見えないものが見える”という、そういう能力(感受性と洞察力)があるわけだ。

これを“人間界”で人間がやったらどうなるだろう? 「超能力だ!霊視だ!スピリチュアルだ!」と、大騒ぎされるに違いない。“超能力”とか“霊視”とか“スピリチュアル”とかが特別扱いされるのは、“人間界の価値基準”で見るから「すごい!」となるだけで、これが“自然界”だったら「当たり前のことを、当たり前にやってるだけのこと」なのだろう。ま、カラスにインタビューしたわけではないので、断言はできないが。
逆に、“自然界”から人間を見たらどうなるだろうか? ひょっとすると「人間というのは、劣等な生き物だなあ」と見なされているかもしれない……という思い方は大袈裟だろうか?

自然界から見れば、人間は劣等な生き物に成り下がってしまった(?)わけだが、そうなってしまった唯一の原因は、“文明の発達にある”と私は信じている。とくに近年になってすさまじい勢いで浸透していった“科学技術文明”は、人間が本来持っているはずの“能力”、“生命の力”を、著しく低下させているように思えてならない。
「科学技術文明が発達すればするほど、精神を病んでいく人が増加する」という説を誰かから(友田先生か?)聞いたことがあるが、私には十分にうなづける説である。
先ほど例に挙げたカラスが、もしも“種探知機”なる機械を発明したらどうなるだろうか? たちまちのうちに、あの「神技」とも呼べる能力は失われてしまうだろう。ま、カラスは賢い(?)から、人間と同じ道を歩むことを心配する必要はないだろうが。

“人間の成長を目指す”とか“行を積む”というのは、言い換えると「文化・文明に汚染されている体内(とくに脳内)の毒素を排出する行為である」とも言えよう。禅が“無”とか“空”を価値付けるのは、そういう意味もあるのだろうと思う。
そういえば信川先生は、「教材というのは磨き粉だ。それで磨いて垢を落とすと、中身(人間)がピカピカになるのだ」と言っていた。ところが現在の学校教育は、「垢をベタベタとくっつけることを一生懸命にやっている」というのが現実だろう。

……てなことを考えているうちに、「私も行を積めば、ひょっとすると“霊視”ができるようになるかもしれないぞ」という思いが浮かんだ。だが、次の瞬間には“この思い”が、“我欲”から出ていることに気がついた(苦笑)。“我欲”に動かされるようでは、道は遠かな、遠かな、である。
かくして、「今の自分では“霊視”なんて、とてもじゃないけど無理だな。今の自分に“できること”に力を傾けていこう!」と、思い直したのだった。
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よくしゃべる機械

2007年09月11日 | 日記 ・ 雑文
お風呂の給湯器が故障したので、つい先日、新品に交換した。機能や性能はほとんど変わらないが、これがよくしゃべるので驚いている。
例えば、残り湯を排水すると自動的に配管内に残っている古い水を排出する機能が付いているのだが、ここで、
「オフロノ配管クリーンヲシマス」と、カン高い人工的な音声で言う。栓をしてふろ自動ボタンを押すと、
「オ湯ハリヲシマス」と言い、沸き上がりが近づくと、
「モウスグオフロガ沸キマス」、そして沸き上がると、
「オフロガ沸キマシタ」とまあ、こんな具合だ。
ここまではまあいいが、ちょっとぬるいと感じて浴槽内の温度を上げるボタンを押すと、
「オフロノ温度ヲ41度ニ変更シマシタ」とくる。さすがにこれにはウンザリした。「そんなことまでしゃべらなくていい! 温度は見ればわかるぞ!」とツッコミたくなるのだ。
メーカーとしては、「便利さや親切さをユーザーに提供しよう」ということで“おしゃべり機能”を付けているのだろうが、ここまでやられると“不快感”を感じてしまう。
そしてこの私に生じた“不快感”について、「ひょっとするとこれは、人間が本来持っている“正常な感覚”ではなかろうか?」と、ふと思ったのだった。

確か『荘子』だったと思うが、「便利さ・快適さを求めてそれに依存してしまうと、人間が本来持っている全心身の働きが失われて、機能しなくなってしまう」という主旨の話があったと思う。(いや、記憶があいまいなうえに、ものすごく“自己流”に解釈しているので、これは客観的で正確な情報だとは思わないでほしいのだが……)。

この『荘子』の思想に符合する体験的事実が思い浮かんだ。それはカーナビだ。
私がクルマの免許を取って運転し始めたのは30歳頃だが、運転に自信がなかったので、最初のクルマには購入と同時にカーナビを付けた。その後、何台ものクルマに乗っているが、カーナビを外したことは一度もない。ということはつまり、私は“カーナビ無しのクルマ”は、ほとんどまったく運転した経験がないわけだ。
そのせいだと思うが、私はクルマを運転する際に“道を覚えること”が、ほとんどと言っていいくらいできない。何度も通っている道なのに、「アレ? ここを曲がっていいのかな?」というような思いが、度々脳裏をかすめるのだ。
カーナビを使えば(頼れば)、道を覚えなくて済む。機械が自動的に「100メートル先の交差点を右折してください」などと指示してくれるからだ。
私の脳の重要な働きの一つである“記憶力”は、(“道を覚える”ということに関しては)すっかり衰えてしまっている。もはや“機能不全”と言ってもいいくらいに。ま、実際脳を“使わない”のだから、そうなってしまうのは当然だろう。が、よくよく考えてみると、“この事実”は、“ものすごく恐ろしいこと”にも思えてくる。

話はここで一転して、“カウンセラーの成長ということ”について取り上げてみたい。
いろいろな細かいプロセスを省いて結論だけ述べると、結局最終的には「そういう人になるしかない!」というところに至る……というのは前回書いた。ここで「そういう人になるためには、どうすればいいのか?」という問いは愚問である。答えは「なるしかない!」のだから……。
しかしまあ、一歩譲って“何らかの道のりがある”と仮定するならば、それは“行ずる”ということになるだろうか? しかし、“行ずる”と言ってみたところで、それが具体的にどんな行為なのかよくわからない。
“修行”という言葉を聞くと、私の頭には即座に“座禅”とか“滝に打たれる”とかのイメージが浮かんでしまう。なんとまあ、貧弱な発想しかできない頭だろうか!? そんなものを思い浮かべたところで、「まあ自分には無理だな」と尻込みするのが関の山なのに……。

そこで発想を変えてみた。上述したことと結びつくのだが、
「そうか! 科学技術(便利・快適が得られるモノ)に依存しない生き方、在り方を探求・実践していくことも、“行ずる”に当たるのではないか?」と、ふと思ったのである。
そしてそう思ってみると、カウンセリングから農業へと転じた友田先生の心中が、ほんの少しだけわかってくるような気がする。すなわち、「友田先生は、全心身が機能する人間になるための“行”として、農業(もちろん機械も化学肥料も農薬も使わない)に取り組んだのではないか?」という思い方が、私の中で生まれたのだった。
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そういう人になるしかない!

2007年09月07日 | 日記 ・ 雑文
前回の日記は、「カウンセリング場面だと、どういうわけだか“本質的な自分”が動き出してしまう」というのが主旨だった。これは言い換えると“ごまかしが効かない”という意味でもある。そして“ごまかしが効かない”という言い方をすると、じつはこれが“大変な問題である”ということにも気が付くのだが……。

これは私の経験だが、クライエントに対して「恐い!」という感情が起きてしまう場合が稀にある。これは“本質的な自分”のところで起きるので、私にはどうすることもできない。瞬時にバリアーが張られ、防御体制に入ってしまうのだ。
こうなるともう、カウンセリングどころではなくなる。わかりやすい表現をすると、“膝を交えた話し合い”が現実化できなくなってしまうわけだ。
もっと極端な例で言うと、(現在のところ経験はないが)もしも“本質的な自分”が“命の危険”を感じたなら、そのときには私は目の前の人を、ブスリ! とやってしまうに違いない。ただし、この場合は法的には“正当防衛”に当たるので、咎められることはないだろうが。
ま、いずれにせよ“本質的な自分”とは、そういう性質のものである。“純粋”という言葉を使うなら、“これ以上純粋なものはない”と言えるだろう。

無論、私は自分が「どんなクライエントでも100%受容できる」とは思ってないし、「カウンセリングは万能薬である」とも思っていない。
そういう意味では、「私があるクライエントに対して拒絶反応を起こす」という事実は、「その時その場での“あるがまま”の私だ」と言える。しかし、だからといって「それが“あるがまま”の私なんだから、それはそれでいいのだ!」となってしまったら、それは俗に言う“あぐらをかく”ということになるだろう。あるいは“野狐禅”と呼ばれるだろう。

本気で“カウンセラーを目指す人”の場合、いつか必ずこの“根本的な矛盾”にぶつかるだろうと思う。そしてこの“根本的な矛盾”を解消するには、「“本質的な自分”を育てていくしかない!」という結論に達するに違いない。
カウンセリング講座の中に「純粋性(自己一致)の問題に取り組む」というテーマのものがあるが、それはこういう意味だ。カウンセラーを目指す人の場合には、“この問題”はどうしても避けて通れないのだ。

この“根本的な矛盾”にぶつかったところで、友田先生に「どうすればいいのか?」という問いを発する人がいる。そういう場面をこれまで何十回も経験してきたが、先生はその問いに対し、
「そういう人に、なるしかないでしょうなあ……」
と、毎回毎回、何十回も同じ応答をしていた。うんざりするくらい、同じ応答を繰り返していた。

これを書いている今、ふと気付いたのだが、友田先生はそのセリフを“問いかけた人や講座の参加者たちに対して”発していたというより、“自分自身に対して”発していたような気がする。
かつて友田先生に、「私たちから見ると先生は“カウンセリングを極めている”ように見えますが、どうして先生は“カウンセリングから足を洗わない”のですか?」という意味の質問をした人がいた。それに対して先生は一言、
「未熟者だからです」
と応えたのだった。

この「未熟者だからです」は、じつにじつに味わい深い言葉だと思う。私が個人的な感情や思想から“問題解決指向”を嫌悪し、“人間の成長を目指すカウンセリング”を愛するのは、「この一言にすべてが集約されている」と言っても過言ではない。
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“素の自分”と“本質的な自分”

2007年09月05日 | 日記 ・ 雑文
“自分というもの”を表現しようとするとき、“本当の自分”という用語を使う人が多いが、私はその言葉を好まない。というのは、その“本当の”が何を指すかによって、ぜんぜん意味が違ってきてしまうからだ。
そこで私は“素の自分”と“本質的な自分”という用語を使用しているが、人によっては“本当の”が“素の”ほうを指していたり、“本質的な”ほうを指していたりするわけだ。クライエントとの面談中にクライエントからこの“本当の自分”という言葉が出てきたときは(よく出てくるのだが)、「どちらを指しているのか?」に非常に注意深く、かつ敏感になっているので、「両方の場合がある」ということを私は経験的によく知っている。
私がその2つをどう定義しているかについて加えると、「素の自分=我」、「本質的な自分=吾」と置いている。

私の“素の自分”の主な特徴を羅列してみると、
物静か、無口、おとなしい、温和、引っ込み思案、小心者、非社交的、内向的、人見知りする、遠慮する、恥ずかしがり屋……などなど。
が挙げられる。これらは後天的に形成されていった自分であると思っている。すなわち、オギャーと生まれた時点から現在までの人生経験における何らかのプロセスによって、このような特徴が形作られたのだろう。

これに対し、私の“本質的な自分”のほうは、
よくしゃべる、積極的、物怖じしない、遠慮しない、大胆、アクティブ、社交的、外交的、恥も外聞もない……などなど。
の特徴がある。まるっきり正反対のようだ。
こちらはたぶん、オギャーと生まれた時点で“すでに持っていた”特徴やら資質なのだろうと思っているのだが。

言うまでもなく、日常生活の大半は“素の自分”で過ごしている。理由はいろいろあるのだろうが、“疲れない”というのもある。“素の自分”のほうが、精神的・身体的エネルギーの消費量が少なくて済むのだ。妻からよく「あなたは何を考えているのかわからない」と言われているので、かなり徹底してやっているらしい(笑)。そんな自覚はないのだが……。

ところがこれが、“カウンセリング場面”となると一変する。グループカウンセリングでも個人カウンセリングでも、“本質的な自分”のほうが動き出してしまうのだ。
“素の自分”からすると「大勢の人前で何か話す」などということは考えられないどころか“暴挙である”のだが、グループカウンセリングだとそれがやれてしまう。発言した後、我に返って「なんという大胆な行為をやってしまったのだろう」と、自分に驚いてしまう。極端な場合には、自分が“恐ろしくなる”ことすらある。
個人カウンセリングでも同様で、クライエントの思いや考え方に真っ向から反対する意味で、“私の持論”や“私個人の思い”をぶつけるようにして、長々と演説をぶちかますことがある。しかしこれは、決して“作為的に”やるわけではない。もうどうにも我慢できなくなり、言わずにはいられなくなってしまって、口から飛び出てしまうのだ。例えばこんな具合に……。

「(語気を強めて)あなたはそう言うが、私はそう思いません。確かに世間的な価値基準から見れば、“精神的障害を抱えて弱ってる自分”のほうは、“あいつは病人だ”とか“劣等者だ”とか見なされてしまうでしょう。そしてそのように見なしてるほうの連中は“自分は健全だ”と“優越感を抱いている”に違いありません。でも本当にそうなんでしょうか? 少なくとも私は“自分は健全である”と思っている連中を好きにはなれません。尊敬もできません。私に言わせれば、彼らは“自分の姿を鏡で見たことがない”だけです。極めて鈍感で、向上心のかけらもないのです。私はそういう人に対して“まったく、いい気なもんだ”と思ってしまいます。ま、“悩みがない人”というのが実際いるかどうかわかりませんが、仮にいるとしたらそうなるでしょう。
でも、あなたはそうじゃない。あなたは“よりよい自分”に成長しようとしているのです。“こんな自分はもう嫌だ”、“こんな自分から脱却したい”という切実な願いが、心の奥底にあるのでしょう? 私にはあなたのそういう声が聞こえます。そしてだからこそ、“壁にぶつかる”のです。人間がより大きくなろうとしたら“何らかの壁にぶつかる”のは当然です。“このままの大きさでいいや”と思うのなら、悩みや障害や問題は何も起きてこないでしょう。ま、それはそれで構いませんけどね。ですから私は、“世間的な価値基準”とはまったく正反対に人間を見ているのです。
私は職業柄、“悩みや障害や問題を抱えて弱ってる人”にたくさん会ってますが、そんなことが続けられるのは、“そういう人が好き”だからです。“そういう人が心から尊敬できる”からです。そうでなければ、カウンセラーなんてやってられませんよ。だって、職業とはいえ“自分が嫌いな、尊敬できないタイプの人々”とたくさん会わなければならないなんて、そんなの真っ平ごめんですからね」

と、こんな調子で一気にまくし立てることがある。相手のほうは目を丸くして「迫力に圧倒されました」という態度を示すのがほとんどだ。さっきまで「ウムウム。ハァハァ……」とやってた人が突然豹変したのだから、無理もないと思うが。

見方によれば、このようなカウンセラーの動き、アプローチに対して「ディレクティブ(指示的)じゃないか!」と批判的に見る人もいるだろう。だが私は、むしろ“このような批判”のほうに「?」が付く。ロジャーズはこういうのを「ノンディレクティブ(非指示的)なディレクティブ(指示)」と呼んでいるのではないか?
あるいは友田不二男の言葉を借りれば、「ロジャーズのノンディレクティブを訳すのに最も適切な言葉は、老子の“無為自然”ではないか?」という言い方もある。
少なくとも私の臨床経験においては、これをやって“失敗した”ケースは現在までに一度もない。むしろ“何らかの進展があった”り、“劇的な変化が起こった”場合がほとんどである。
……というのも事実だ。

カウンセラーである私が“このような動き”をとるとき、私の頭の中には“ノンディレクティブ(非指示的)”とか“受容”とか“共感”とかいう観念は一切消え去っている。身体全体が熱くなり(多分体温が1~2度くらい上がってると思う)、根源的なところから湧いてくるエネルギーに突き動かされてしまうのだ。
この“根源的なところ”が、“本質的な自分”であり“私の吾”であり“私の本領”であると思っている。“この状態になった私”は、“素の自分”とはまるっきり別人になってしまうのだ。
「カウンセリングとは、自分の本領をいかに発揮できるか? にかかっている」と言ったある先生の言葉が、私にはうなづける。そしてロジャーズが“純粋性(自己一致)”をあれほど強調するのは、こういう意味なのだろうと理解している。

ただし、「人真似は一切通用しない!(友田)」という言葉も付言しておこう。以前にも書いたが、『論語』の「人能ク道ヲ弘ム。道、人ヲ弘ムルニ非ザルナリ」とは、そういう意味だ。

ところで、「どうしてカウンセリング場面だと、“本質的な自分=吾”が働き出すのか?」という疑問も持っているのだが、じつはこれがよくわからない。ひとつ言えるのは、「“許容的な雰囲気”や“許容的な関係”と何らかの関係がありそうだ」ということだが、その実態・真相となると私の頭のレベルではどうにも理解しがたいのだ。
もちろんこの問題は、“カウンセリングというもの”対して抱いている私の最大の関心であり疑問でもあるわけだから、「今後も探求していきたい!」という気持ちがますます強まっている自分を感じているし、それだけは「確かだ」と言えるが……。
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