カウンセラーのコラム

山梨県甲府市でカウンセリングルームを開業している心理カウンセラーの雑文です。

“信”ということ

2011年01月28日 | 日記 ・ 雑文
真正面から取り上げるにはかなり難解なテーマだろうし、多少背伸びをしなければならないかもしれないが、思い切って“信”について言及してみたい。孔子は「信なくば立たず」という言葉を残したとされているが、「人間の行動と信とが密接に結びついている」という事実を疑える余地はまったくないだろう。もちろん問題は「何がどのように結びついているのか?」という点にあるわけだが……。
この問題を論じるにあたって、前回に引き続きクライエントのブライアン氏に登場してもらおう。(ブライアン氏とは、ロジャーズが有名になる以前に面接したクライエントの仮名であり、その面接記録は『ロジャーズ全集第9巻』に訳出されている)。私はカウンセラーとして「クライエントから学ぶ」という行為を実践していきたいので、ここでもそうさせてもらうことにする。

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<第6回目の面接>
15日 土曜日(約束の時間より10分遅れる)
カ416:今日は。
ク416:今日は。ぼくは少々ぼんやりしているようなんです――寝たのが今朝9時で――起きたのが1時15分なんですよ。
カ417:9時に寝た?
ク417:そうなんですよ。
カ418:それじゃあ少々ぼんやりしておられるでしょうね。
ク418:少なくともこちらに伺うだけの十分な動機づけがあったことはたしかですね、顔を出さない口実は十分にあったんですからね。(沈思)そのお、ぼくははっきりした変化にはぜんぜん気づいていないんですよ。なんだかスランプ状態にあるような気がするんです、ひとつだけ例外があるんですけれどね。――またマッチがなくなっちゃったのかな? たしかここにあると思ったんだが。
カ419:さあどうぞ。
ク419:すみません。ぼくはこの前の結論をちょっとばかり発展させてみたんですけれど、この前の――パースナリティの変化はですね、基本的な変化のことなんですけれど、とことんまで分析すると信念の飛躍のようなものになるんですよ。つまりですね、自分がよりよいものへと変化しているんだという信念をもっていて、そして――そのお、自分の知性の信念ですね――とぼくは思いますね、それは――かならずしも盲目的な信念ではなくしてですね、ところがぼくはどうも――ぼくは、信念に対して真剣に反対している傾向があるんですよ。それは、ぼくが思うには、ぼくにとっては宗教的な内包をもってるんですね。とりわけ、ぼくが実感しているところですと、ほとんどあらゆることが信念なんで――論理的な科学者でさえ、自分のデータを解釈しているときに、そりゃあ、知識をうるための最終的行為は、理性の行為であるよりはむしろ信念の行為なんですね。ですから知識が意味しうるのはたんに――そのお、知識は、僕が理解しているかぎりでは、ある特定の行為をとるということに対するあるひとつの信頼感なんですね。われわれは、いわばほとんどのことについては、たしかに限られたデータしかないんですから、そりゃあ、知識というものは、ぼくの考えだと、それは信念の行為だっていうことになるんですよ。つまりですね、われわれは、ある方向にそのデータを解釈しようとしていることを信じているわけですよ。われわれがそれを正しく解釈したと信じたがってるっていうのはもっともなことのようですね。(ロジャーズ全集第9巻 岩崎学術出版社 1967年 P.201~202)

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上記クライエントの陳述に対し、多くの読者は「一読しただけでは意味がよくわからない」という感想を持つのではないか? 私の場合、この部分は数年前から何度も何度も繰り返し目を通しているが、それでもなお「なるほど!よくわかった!」という感触を得るまでには至っていないのが正直なところだ。だが、仮に「意味がよくわからない」からといって、それでもって「だから耳を傾けるほどの意味や価値はない」と結論付けるわけにはいかないだろう。
確かなこととしてハッキリ言えるのは、「ブライアン氏がきわめて優れた知性の持ち主である」ということと、「たとえ自分よりも優れた知性の持ち主が世の中に存在したとしても、その事実は驚くに値しない」ということだけだ(苦笑)。

以上を踏まえた上で筆を進めていくが、私がとくに注目したいというか、より理解を深めたいと思っている箇所は「パースナリティの変化は、とことんまで分析すると信念の飛躍のようなものになるんですよ」というセリフである。いや「このセリフが意味・象徴している何かである」と表現したほうが適切だろうか。ともかく、現在の私にとってこのセリフは「特別な意味も価値もないな」と言ってポイっと捨てることなど、到底できないシロモノなのである。
それ以降の陳述は「どうしてそう言えるのか?」ということに関する、いわば説明みたいなものとして付言されているように読める。途中で「宗教的な内包」という言葉が出てくるが、これの内容説明はない。が、たぶん「神が絶対なので(絶対ではない)人間は信じられない」というような類の内包を持っているのだろう。
最後のほうは何かしら「科学に対する否定的な見解」を述べているように読めるが、このあたりの陳述は、現代物理学の最先端(量子力学など)を研究している人物が読んだら十分にうなづける内容ではないか? と想像している。平たく言えば「科学というのは、“科学”という名の宗教である」という意味になるだろうか。
これはあくまでも“現在の私”の読み方・受け取り方なので、人によってはまったく異なる読み方・受け取り方がなされるに違いない。が、それは大いに結構だと思う。なぜなら個人にとっての“経験のされ方”というのは、誰のセリフだったか忘れたが「みんな違ってみんないい」からだ。そこで“この私”も自分の意見を主張したいわけだが、ブライアン氏が述べた「パースナリティの変化は、とことんまで分析すると信念の飛躍のようなものになるんですよ」は、人間というものの真相に関するじつに重大な洞察を含んでいるに違いない!……と思えてならないのである。
そうすると、次に「信念の飛躍を可能にさせる“何か”は何か?」という問題が提起されてくるだろうが、この問題についても機会があったら論じてみたいと考えている。言うまでもなく、この問いこそが“カウンセリングの核心部分”であろう。

ところで、上述の読み方とはまったく別の角度から読む読み方もあるので付言しておこう。それは“カウンセラーの視点から読む”という読み方だ。例えばク418の「なんだかスランプ状態にあるような気がする」と、それ以降の陳述を関連付けると「このクライエントは“ないものねだり”をしているなあ」というふうに見えないだろうか?
このような見方・受け取り方はもっともで、事実このあとの記録、ク421では「ぼくは自分から進んで何かをしようとする前に、もっと多くのものを欲しがるようですね」というセリフが出てくる。よってこのような見方・思い方は間違いではないだろう。
これとは別に“クライエントの視点から読む”という読み方もある。クライエントの側に立ったらいったいどうなるのか? 以下は単なる私の想像だが、「カウンセラーさん、あなたは私に『もっと本気になれ!』と簡単におっしゃいますが、当人である私の身になって言わせてもらえば、それは決してナマヤサシイものじゃあないんですよ!」となるだろうか。
まあ、この部分だけでそれを感じ取るのは容易ではないかもしれないが、このケースは全体的にブライアン氏のカウンセラーに対する、もしくは現在のカウンセリング及びサイコセラピーのレベルに対する、“抗議の気持ち”があちこちににじみ出ているように私には思えている。
さらに言うならば、そういった“抗議の気持ち”がありながら、それでもなお、それら全部を乗り越えていった(8回目の面接で終結した)この人物に対して、同じ人間として心からの尊敬の念を覚えずにはいられない。

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