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カウンセラーのコラム

山梨県甲府市でカウンセリングルームを開業している心理カウンセラーの雑文です。

九の段

2012年08月05日 | 日記 ・ 雑文
我が家のトイレには九九表が貼ってある。小学生の息子がやっている進研ゼミ・チャレンジ2年生の付録だ。毎朝便座に座って用を足していると、正面に貼られたその表が自動的に目に入るという仕組みだ。
先日、その九九表を見ながら大発見(たぶん?)をしてしまった。

九の段を下に書いてみよう。
9×1=9
9×2=18
9×3=27
9×4=36
9×5=45
9×6=54
9×7=63
9×8=72
9×9=81

注目してほしいのは、答えの18と81、27と72、36と63、45と54。そう、すべてのペアの数字が逆さまになっているのだ(!?)。
ひょっとすると世の中的にはよく知られている“ネタ”かもしれないが、幸いなことに私は知らなかったので、「自分で発見した!」という喜びと興奮を味わっているところだ。言うまでもなく、その喜びと興奮とが、この日記を記す原動力になっている。

ここで話をカウンセリングに持ってくると、クライエントにとって最も大切なのは、カウンセリング過程においてクライエントが「自分で発見した!」というふうに経験されるところにある……と、私は確信している。
クライエントの99%は「カウンセラーは専門家なんだから、その専門家から教わりたい!」という気持ちでカウンセラーの元を訪れるに違いない。よってカウンセラーからなんとかして有益な情報を引き出そうとする行為は、――もちろん大半のクライエントがそのように行為するわけだが――、むしろ自然な動き方であろう。
しかし、ここのところで(仮にカウンセラーがクライエントの“教わりたい何か”をズバリ教えることが可能だったとして)、もしも教えてしまったなら、カウンセリング過程は一瞬にして崩壊し、すべて台無しになってしまうだろう……と言いたい。
その後はたぶん、カウンセラーが“教える人”、クライエントが“教わる人”、となって展開してゆくのだろうが、そんなプロセスにいったい何の意味と価値があるのだろうか? 「まったく何の意味も価値もない」とまでは言い切れないが。

そもそもの話として、一人の人間である(=神ではない、という意味)カウンセラーが、“クライエントにとっての最重要課題を解決する方法”などという途方もないものを“教える”ことができるのであろうか? あるいは、例えば「自分はこれこれこういうふうな人間に変わりたい!」と訴えるクライエントがいたとして、その人を“変える”ことができるのであろうか?
もしも「できる」と主張するカウンセラーがいたなら、その人物に対して「おこがましいにも程がある!」と言いたい。あえて付言すれば、カウンセラーにできる最大限の行為は“援助”である、と私は思っている。

こういう話をするとカウンセリング理解の浅い人たちは、「カウンセラーってのはノンデレ(ディレクティブしない、指示しない、教えない、という意味)で、ウムウム、ハアハアと相づちを打ちながら、クライエントの話をただ聞いていればいいんだな」となる。こういう理解(理解というよりもとらえ方)となると、もはや開いた口が塞がらなくなる。こんなカウンセリングだったら、“教える”カウンセリングのほうが数百倍もマシだろう。

カウンセラーにとって最も大切なのは、クライエントとともに“取り組む”ことである、と私は確信している。詳細に言えば、クライエントは自分が最も取り組みたいことに取り組み、カウンセラーはカウンセリングに取り組むわけだが、そのようなプロセスが一定程度生じているなら、それはまあ“効果的なカウンセリングである”と言えよう。
……とまあ、言ってしまえば簡単なようだが、これを文字通りに実践するのはじつにじつに難しい。カウンセリングに関わるようになって15年以上になるが、最近になってようやく“カウンセリングの難しさ”がわかってきた……と表現してもいいくらいだ。
でまあ、本稿のテーマに戻れば、「こういう“難しさ”も他の諸々と同様、決して他人に教えることができない類のものなんだろうなあ……」と、あらためて思った次第だ。
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壊れた×3

2012年01月01日 | 日記 ・ 雑文
新年早々から昨年末の“おめでたくない”近況報告をして、気持ちを新たにこれから始まる1年を歩んでいきたいと思う。

(1)12月21日に妻が使用している軽自動車のブレーキが壊れた。ガソリンスタンドによった後、サイドブレーキをかけたまま10キロほど先の小学校まで息子を乗せて走ったらしい(苦笑)。走行中に煙が出ていたので何らかの異変には気づいたらしいが、学校に着いたときにはブレーキがまったく利かなくなっていた……という話だ。
その場でJAFを呼んでレッカー移動し、販売店に行ったものの、たまたま休業日だったので翌日もう一度JAFに運んでもらって修理した。修理費は23,000円。
「大事故を起こさずに母子2人とも無事だった」と思えば、23,000円の出費で済んだのはラッキーだったのだろう……と思うことにしている。

(2)クリスマスの後だから、12月27日か28日だったと思う。任天堂のWiiリモコン(赤色)が壊れた。親子3人で遊べるように我が家にはWiiリモコンが3本ある(残り2本は白色)。息子へのクリスマスプレゼントだった「マリオパーティー8」を遊んでいたところ、赤リモコンの具合がどうにも悪いので“使用不可”の処分を下すことに。
思い出してみれば、このリモコンだけは購入当初から調子が良くなかった。それに壊れたのかどうか、本当のところはよくわからない。したがって「壊れた」と判定するのは時期尚早だろう。よって本稿のタイトルは「壊れた×3」となっている。

(3)一昨日、12月30日に私が長年愛用していた眼鏡が壊れた。セルフレームのフレームとツルをつなぐ金属部分がパキリと折れてしまったのだ。特別な圧力をかけたわけではない。そっと外してコタツの上に置いた瞬間の出来事だった。長年にわたる使用で金属疲労を起こしていたに違いないが、その瞬間は目前の光景が信じられずポカンとなってしまった。
慌てて瞬間接着剤で溶接したものの、「いつまた壊れるかわからない」という不安は払拭できなかったので、7~8年前まで使っていた古い眼鏡をタンスの奥から引っ張り出してきた。幸いレンズの度数はまったく同じなので、この眼鏡でも生活にはまったく支障がない。レンズの傷や細かい汚れが気にならないわけではないが、「まったく同じ度数の眼鏡のストックがあって良かったなあ」と胸をなでおろしているところだ。

(4)昨日、12月31日の夜10時頃、我が家のテレビが「プツリ」という電気音を発したまま映らなくなった。10年ほど前に購入したブラウン管テレビである。地デジは見られないが、ケーブルテレビ局と契約しているのでBSも含めて大半のチャンネルは視聴できた。画質はいまいちだが、特別不便さは感じていなかった。
とはいえ、最近は急に音量が小さくなったりと調子が悪かったのも確かなので、「そろそろ買い換えなきゃならないかあ?」と、ある程度は覚悟していた。「その日がついに来てしまったか……」という気持ちだ。
“テレビ”で連想するのは、昔通っていた亀山山荘に設置されていたテレビだ。亀山山荘については大半の読者には説明不要だろうが、私が師事した故・友田不二男先生の居所だったところで、ほぼ毎週土日には“土日合宿講座”と称されるカウンセリング講座が開催されていた。私はそこに毎月1回くらい通っていたのだった。
亀山山荘には各部屋に昭和50年代に製造されたと思われる小型テレビが設置されていて、ボックスに100円玉を入れると電源がオンになり1時間見られる仕組みになっていた。40代以上の人ならご存知だろう。昔の旅館によくあったタイプのやつだ。このテレビがつい最近まで現役バリバリで活躍していたのである。
なんでこんな連想が働いたのかというと、我が家のテレビが壊れたのを見て、「昔のテレビは今のテレビより寿命が長いのではなかろうか?」という疑問が浮かんだからだ。なんとなくそんな気がするのだが、いかがだろうか? テレビだけに限らない。クルマだって昔のもののほうが寿命は長いように思う。
この事実(かどうか判定するにはさらに調査が必要だろうが)を素人が強引に理屈づけるならば、「モノというのは構造が単純なものほど壊れにくい」と言えないだろうか? 仮にそうだとすると、人もモノも社会も複雑化していく一方のように思える現代という時代は、人間にとって果たして幸福なのか? という疑問も生じる。高度な科学技術によって生み出された文明がいかに大きな危険を孕んでいるかについては、あの原発事故によってすでに証明されたと言って構わないだろう。

本題に戻るが、以上が年末にかけての主要な出来事だ。眼鏡もテレビも壊れたのは人生において初めての経験だった。この経験から学べることはたくさんあると思う。「壊れたら直せばいい。直せないなら新品を買えばいい」というだけでは、せっかくの経験がもったいない。どの出来事も決してハッピーなものではなかったが、その出来事を“学び”に結びつけることができれば、それらのアンハッピーな出来事を“貴重な体験”に変えることができるのではないか?……と考えて、「新年にはふさわしくない話題だろうなあ」と思いつつ、文章にして表現してみた。ここににじみ出ている何かは、新年を迎えての私の偽りない気持ちでもある。
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週刊ファミ通が届いた!

2011年07月12日 | 日記 ・ 雑文
先週の木曜日に発売された週刊ファミ通が我が家に送られてきた。近親者しか知らないと思うが、私は20代の頃の数年間、このゲーム雑誌で編集者をしていた(ちなみに入社時は時給○○円のアルバイトで、ゲーマーとして雇われた。苦笑)。
数週間前、当時一緒に仕事をした仲間のひとりから「“バカ記事”というテーマで原稿を書いてほしい!」という依頼があったので、昔の個人的な思い出話をちょこっと書いて送ったわけだが、それが付録の『バカ通』にコラムとして掲載された。でまあ、原稿を執筆したお礼として、発売後に本誌が送られてきたわけである。
約20年ぶりにゲーム誌に書き下ろしたその文章については、特別に恥ずかしいという気がしなかったが、その付録の記事中(かなりふざけたゲーム用語辞典の再録)に自分の名前を見つけたときには、なんだかとっても恥ずかしかった。

ずいぶん昔の“バカ記事”が多数収録されているその付録を読みながら、しばらくの間“交錯する複雑な感情”とともに“思い出を懐かしむ気持ち”に浸った。と同時に当時から現在に至るまでの私の人生をざっと振り返ってみた。
「たぶん、普通の人なら経験できないような極端な紆余曲折がたくさんあったなあ。失敗や挫折もたくさんしたなあ。でも、総評すれば『良くもなかったし、悪くもなかった』と言えるだろうなあ」というのが今の率直な感想だ。

以下は長年のカウンセリング経験から述べるのだが、こんなふうに思えるのは、きっと精神状態が安定していて、かなりの程度健全に機能しているからだろう。誤解がないように付言しておくが、現在の生活に“特別な幸福感”を味わっているわけではない。今の心境を正確に表現しようとするなら「過不足は何もない」というのが最も近いだろうか? まあ要するに、決して十分とは言えないし、欲を言ったらキリがないわけだが、それでも「まあまあ満足できている」という状態なのだろう。

ここで問題となる“心の健全な機能・働き”とは何だろうか? これは難問である。というより以上に、この問題は「カウンセリング、もしくは人間にとっての永遠のテーマのひとつである」と言えるだろう。
最低限言えるのは、“特別な幸福感”や“ひどい絶望感”を味わっている人の場合は、“これ”が十分に機能していないのではないか? ということである。とくに“絶望感”を味わっている人の場合は必然的に“幸福感”を求めるので、それがよりいっそうの苦しみを生み出すのだろう(なぜなら、それは“いくら求めても得られない”ということが結局は判明するだけだから)。

ふと、『禅セラピー ―仏教から心理療法への道―』(D.ブレイジャー著、コスモス・ライブラリー)の一節、「禅は、充足させることよりも空虚となることに関心を寄せる。習得することは幻想である。即ち、放棄することこそが、蒙を啓くのだ。健全とは、束の間のことである」(友田不二男訳)を思い出した。(本来の)心が所有している“健全さ”とは、“束の間に働く”ものなのだろう。こんな言い方をすると難解に聞こえるかもしれないが、このあたりの事情は赤ん坊を観察すれば容易に理解できる。彼ら(赤ん坊)が「一瞬一瞬、刻々の現在を生きている」のは誰の目にも明らかなはずだ。
私たち人間は、大人になってゆく過程においてたくさんの能力(思考力など)を獲得し、身に付けていったに違いないが、その代わりに赤ん坊時代には健全に機能していた“何か”を、自分でも知らないうちに失ってしまっているのかもしれない。
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Wiiがやってきた!

2011年05月22日 | 日記 ・ 雑文
任天堂のゲーム機Wiiが我が家のテレビに設置された。半年前から息子(もうすぐ7歳の誕生日を迎える)が、「Wiiが欲しい!誕生日プレゼントに買って!それまでは我慢するから」と述べていたので、その約束を果たしたわけだ。
購入したゲームソフトは「マリオカート」。これでさっきまで息子と熱いバトルを繰り広げていた。この日記を書いている現在は、母親と息子の二人が隣のリビングでキャーキャー絶叫しながら遊んでいる。

最後に買ったゲーム機は「初期型プレイステーション」なので、ほんの1時間程度だが、約10年ぶりに最新マシンでテレビゲームを体験した。この間のゲーム機とゲーム内容の進化に対しては、驚いた部分もたくさんあったが、そうでもなかった部分もあったので少し安心した(非常に大きなカルチャーショックを受けなくて済んだ、という意味だ)。
“そうでもなかった部分”というのを適切に表現するのは難しいが、拙い言葉で説明するなら「プレーヤーが何かに対して“面白い”とか“楽しい”と感じるときのその感じ方は、基本的・本質的には変わっていない」し、また「ゲームを作る側の感性(=プレーヤーが“面白い”とか“楽しい”と感じられるものを意図できるか否か)も、基本的・本質的には変わっていない」という意味になるだろうか。
もっと端的にズバリ言ってしまえば、「プレーヤー(遊び手)もメーカー(作り手)も、人間そのものの本質は何も変化していない」という意味になる。つまり基本的には、人間にとって価値あるもの(ゲームの場合は“面白い”もの)はどんな時代でも価値があるし、反対に価値のないものはどんな時代でも価値がない、という意味になるだろう(もちろん例外はあるが)。
こういうのを「不易流行」と呼ぶのだろうなあと思った。ゲーム機は時代と共に進化し“流行”するが、人々を魅了する本質的な何かは“不易”に違いない。囲碁や将棋が何千年も人々に親しまれ続けているのは、これらのボードゲームの中に“不易”が存在するからである。

そこで話を半ば強引に“カウンセリング”に持ってくると、「ロジャーズが“カウンセリング”と称した何らかの人間関係、もしくは行為」には、不易流行の“不易”が確かに存在する、と私は観じているのである。
ロジャーズが『Counseling and Psychotherapy』という一書を出したのは1942年のことなので、それからすでに70年もの歳月が過ぎていることになる。この書物に対して賛否両論が存在するのは知っているが、“否”の中には内容に関してではなく「古いから価値がない」という意見もあるらしい。こういう意見を述べる人というのは、いわゆる古典文学(源氏物語や枕草子、あるいはシェイクスピア)に対しても「古いから価値がない」と断じるのだろうか?(笑)

ところで、“ロジャーズの思考と方法につながるカウンセリング”(という言い方を友田不二男氏はしていた)は、ボードゲームに例えると“囲碁や将棋のような存在”に今後なっていくだろうか? “ロジャーズの本質”を観じたところで言えば、そうなる可能性は十分あるだろうが、ひょっとすると“現在では存在すら知られていない無数のボードゲーム”と同じ運命をたどる可能性だってなくはないだろう。
今後のカウンセリング界がどんなふうに発展(もしくは衰退)していくかは、誰よりも私たちひとりひとりの一見地道かもしれない活動とその内容に因るのではなかろうか? ……なんて考えていたら、「この私もカウンセラーとして、よりいっそうの成長と発展を目指して“不易流行”していかなきゃなあ!」という思いを強くしたのだった。
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カウンセリング理解と誤解

2011年04月23日 | 日記 ・ 雑文
最近の経験だが「カウンセリングって、想像以上にまったく理解されてないんだなあ」と思うことがあった。咄嗟に「どうしてだろう?」という疑問が浮かんだのだが、この疑問をめぐってアレコレ思考してみようと思う。

最初に断っておかなかればならないが、仮に「カウンセリングとは何か?」と問われたとして、それに対し「カウンセリングとは○○○である!」という返答は決してできない、という事実がある。“できない”のは「それが解明され尽くしてしまっているわけではない」ということを私がよく知っているからで、決して「もったいぶってやろう」とか「相手に考えさせてやろう」という意図があるわけではない(笑)。
ま、よく考えてみれば、明解な答えを出せないのは何も“カウンセリング”に限ったことではない。例えば「人間とは何か?」、「人生とは何か?」、「心とは何か?」、「愛とは何か?」と問われたとしても、その時その場での個人的見解なら述べられるだろうが、「それは○○○である!」と客観的な立場から正解を提示できるなんてことはあり得ないだろう。
これらの問題は、もしも探求したいのなら、探求することのみが可能なテーマである。ということは「私たち人間は、重要な問題については、ほとんどまったく何も知らないまま生きている」ということになるだろうか?

さて、「カウンセリングとは○○○である!」という解答は提示できないことが判明した。そこで次善の策として「カウンセリングとは○○○ではない!」という言い方によって、カウンセリングをより明確にしてみよう。ロジャーズはカウンセリング関係について次のように論じている。

「セラピィの関係は、親子関係、すなわち、深い愛情の絆に結ばれて、一方の側には特有の依存関係を、他方の側には権威と責任のある役割を甘受している関係を、持つようなものではないのである。親子の結合は、永遠に変わらない基調と完全な愛着とを持っているが、それは、最もよいカウンセリングの役割ではないのである。
同様に、セラピィの関係は友人相互の関係でもない。友人の結合における顕著な特徴は、完全な相互関係、すなわち、相互に理解があり、与えかつ取る(give and take)関係である。カウンセリング関係は、また、典型的な師弟関係でもない。師弟関係は、優者と劣者の地位を含蓄しており、一方は教え、他方は学ぶ、と想定されており、その完全な信頼は、知的な過程にある。また、セラピィは、医者と患者との関係に基礎づけられているものでもない。医者と患者との関係は、医者の側においては優れた診断と権威のある助言を、患者の側においては従順な受容と依存を、その特徴とするものである。例示すれば際限がなかろうが、カウンセリング関係は、たとえば、多少の要素は類似しているけれども、しかし、ふたりの協力者の関係ではなく、また、指導者と従属者の関係でもなければ僧侶と檀家の関係でもないのである。
要約すれば、カウンセリング関係は、クライエントがかつて経験したことのあるどのような関係とも異なる性質の社会的な結合なのである」(ロジャーズ全集第2巻 P.101-102)

このような記述を読んだところで、実際に経験することなしにカウンセリング関係を実感的に理解できる人物は極めて稀だろう。ロジャーズはこの記述のあと「カウンセリングとは○○○である」という言い方で読者に説明しようと試みているが、それを加えたとしても同じだろうと思う。なぜなら、ロジャーズ曰く「カウンセリング関係は、クライエントがかつて経験したことのあるどのような関係とも異なる」からだ。

本稿のテーマに戻るが、「カウンセリングと呼ばれている何らかの行為や活動が、どうしてこれほどまでに誤解されているのか?」という疑問に対する解答の一端が見えてきた。
ひとつは「カウンセリングとは○○○である!……という言い方で明解な説明ができないから」であり、もうひとつは「実際に経験してみなければ理解できないものだから」であろう。
私のカウンセリング経験から言えば、初回面接に来るクライエントのほとんど大半(90%以上)が、カウンセリング関係を“教師と生徒”、もしくは“医者と患者”と同じものだと想定しているようだ。平たく言えば「問題や悩みの解決法を教えてもらいたい」とか「精神的な病や障害を治してもらいたい」という気持ちでやって来るわけだが、このような気持ちから援助を求めていたとしてもそれはむしろ当然だと思えるので、それを咎める気にはぜんぜんならない。
だが、一方で「カウンセリングというものを理解してもらえなければ、永遠にカウンセリングにならない」のも事実だ。そこで多くの場合、カウンセリングを理解してもらうための特別なアプローチが必要になってくる。このアプローチを専門用語で“場面構成”などと呼んでいるわけだ。

と、ここまでは容易に理解できるものの「カウンセリング誤解というのは、いったいどこからどのようにして生じるのだろうか?」という疑問は依然として残る。もしも「カウンセリングって、よくわからないなあ」と経験されているなら、“よくわからないまま”の状態にしておけばいいはずだが、人はどうして、あえて“誤解”するのだろうか?
これは人間にとって、じつに重大な問題が含まれてくる問いに思えるので、それこそ安易な解答は提出できない(=探求のテーマになり得る)問題だろうが、重要な要因のひとつに「言葉でわかってしまう」という人間の本質的傾向や特徴(……なのかどうか、本当はよくわからないのだが)があるように思う。余談になるが、この問題を人間に内在する最大の問題として取り上げているのが、いわゆる“禅”だ。よって禅の世界では「言葉でわかること=概念化」を徹底的に排除する。

以上のような論考を進めてきた“この私”も、ひょっとすると“カウンセリング誤解”や“人間誤解”をしている可能性はある(もっと言えば、ロジャーズだって“誤解”していた可能性は残っている)。
“この私”を含めて多くの人は、何らかの不明確な問題に直面した際に小賢しい頭脳によって「言葉でわかってしまう」という状態に陥りがちであるが、それを回避するには「つねに探求していく」という態度・姿勢・あり方が望まれるのであろう。
大袈裟な言い方をすれば「このような“生き方”こそが、人生に豊かさをもたらしてくれている」と私には経験されている。そして、このような取り組みを実践できる絶好の機会のひとつが、私にとっては“カウンセリング場面”になる。もちろん「言うは易し行うは難し」で、どんな内容の取り組みにせよ、何かを行なうならそれ相応に“骨が折れる”に違いないのは承知しているつもりだ。
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送別会

2011年03月27日 | 日記 ・ 雑文
先日、昔勤めていた会社の仲間たちが送別会を開いてくれた。“昔”と言ってもカウンセリングと出会う以前のことなので、今から15年以上も前のことである。当時一緒に仕事をした仲間たちと久しぶりに再会できたのだった。
こんな会合が実現できたのはmixiのおかげだ。その会社を辞めたあと、私はまったく異なる業界(もちろんカウンセリング業界のことである)に転身したので、その業界(ゲーム業界だが)の人々と接触する機会はまったくなかった。それが1年くらい前、現在もその会社に勤めている仲間のひとりが偶然にもmixiで私を発見したのだった。
すぐさま意気投合して「再会しましょう!」となり、10数年ぶりに再会したのが一昨年の12月だったと思う。それからはmixiでつながっているわけだが、私が今年の年賀状で引っ越すことを伝えていたことから、送別会が開催されるという成り行きになった。

当初の開催日は3月11日(金)に設定されていた。そう、地震が起きたあの日である。あの日あの時間、私は息子(6歳)と吉祥寺にある幼稚園の近くの公園にいた。最後の登園日だったこともあり、息子を迎えに来ていたのだった。
いつものことだが、幼稚園が終わったあと、公園にはたくさんの幼稚園児たちとその母親が残っていた。私も残って子どもたちと一緒にサッカーに興じていた。と突然、子どもたちがゲームを中断して母親の元にサーッと引き上げた。何が起きたのか理解できなかった私は子どものひとりに「どうしたの?」と尋ねた。「地震だよ!揺れてるでしょ!」。それを聞いて、ようやく地面の揺れが体感できたのだった。
ずいぶん長い間揺れていた。何かにつかまっていないと立っていられないほどだった。目の前のアパートから慌てて外に飛び出す人を見た。公園だったので何かが倒れてくる心配や恐怖はなかったが、少なくとも「これはただ事ではないな」と思った。自宅が心配だったので大急ぎでクルマで帰宅した。帰路の途中で街並みや人々の様子を注意深く観察したが、普段と異なるところは何もなかったので少しほっとした。
帰宅後はテレビのニュース報道に釘付けになったが、それを視ながら「今夜は新宿で飲み会があるんだよなあ……。それまでに電車が復旧するかなあ?大丈夫かなあ?」と考えていた。結局、中央線も総武線もその日は動かなかったので送別会は中止(延期)になったが、それにしても今振り返ると「ずいぶんと“のんき”だったなあ」と思う。もしも中央線が動いたら新宿まで行こうと考えていたのだから(苦笑)。もっとも、そんなふうに思った背景には「私のためにたくさんの人が集まって送別会を開いてくれるのだから、その私が行かなかったらマズイよなあ」という思いもあったわけだが。

話がさらにそれていくが、私がこれほどまでに“のんき”でいられた要因のひとつに「テレビ報道というものには限界がある」という事実が大きく関与しているように思う。私は帰宅してから数時間、テレビの前に座りっぱなしだった。津波の様子はヘリコプターからのライブ映像で視た。たくさんの家やクルマが押し流されていった。倒壊した建物も視た。都内各所(新宿駅など)で混乱している群衆の映像も視た。救急車のサイレン音、飛び交う怒号、それらを伝えるアナウンサーの緊張した声、も聴いた。
だが、私には東北地方と茨城県(とくに太平洋側)がこれほどの大惨事になっているとは、まったく想像できなかった。地震当日夜の時点では「きっと死者が100人以上は出ただろうな。だとしたら大惨事だなあ」という程度にしか想えなかったのである。なぜなら、テレビが伝えていたのは震災全体のほんの一部(比率にすると0.1%程度か?)だけ、だったからだ。
ここに私たちが“学ばなければならないこと”がたくさん含まれていると思う。そのひとつは、「テレビが伝えているのは事実・実態・真相全体のほんの一部分だけに過ぎない」ということだ。私はここで人々の不安を煽りたいわけでは決してない。が、現在の原発事故報道にしても「伝えられているのは事実全体の一部分だけである」ということを肝に銘じておかなければならないだろう。もちろん、報道されている内容に関しては“科学的データに基づいたものである”ことは承知している。だが、原発の核心部に入って現状を確認した人は誰もいないのだから、その意味では“現在どんな状態にあるか”を正確に突き止めるのは不可能である……と言えるだろう。
念のために付言しておくが、これは「報道を信じるな!」という意味ではない。私たちは原発の状態を自分の目で見ることはできないわけだから、これは即ち「私たちが所有している情報収集能力には必然的に限界がある」という意味になる。

本題に戻ろう。テーマは送別会だった。
まあそんなわけで、日程を2週間後の25日(金)に設定し直すしかなかった。よって私は当日、引っ越し先の甲府からクルマで新宿の会場に向かった。帰路もクルマを使わなければならないので、アルコール類は一切飲まなかった。もともと飲めないタイプなので、それはまったく苦にならなかったが。
会の中心メンバーとは1年前に顔を合わせていたが、10年以上会っていなかった仲間が3名も来てくれた。とにかく、なにもかもがみんな懐かしかった。「たまには思い出話に花を咲かせるのもいいなあ」と思った。と同時に「ずいぶん歳をとってしまったんだなあ」としみじみと思った。
こういう類の会合だと珍しくないだろうが、当時の恋愛話が出るとかなり盛り上がる。「○○さんっていたよねえ? 今どうしているのかなあ……」と話を振られてハッとした。すっかり忘れていたその女性とのホロ苦いエピソードが、鮮明な記憶となって即座に甦った。と同時にそれ以外の恋愛にまつわるエピソードも、まるで数珠つなぎのように次々と思い出された。
差し障りがあると困るので詳しくは書けないが、当時、20代前半~後半にかけての私はたくさんの人に恋愛感情を抱き(“同時に”という意味ではない)、それと同じ数だけの失恋を経験した。成就したケースは一度もない(苦笑)。
ほとんどのケースはどれもみな“懐かしい思い出”とか“大切な経験”になっているが、ひとつだけ、思い出すと今でも胸のあたりがズキズキと痛むエピソードがある。いわばフラれるような格好で失恋したのは私のほうだったし、その私は現在では妻子に恵まれて幸せな家庭生活を送れているわけだから、理屈の上では私が胸を痛める必要はないハズである。が、感情というものは、理屈通りに働いてくれないものらしい(笑)。

送別会を終え、クルマを飛ばして深夜2時前に帰宅した。相変わらず胸のあたりがズキズキと痛んでいたが、布団に入って隣に寝ている息子の寝顔を見たら、私の心に空いた傷口が少しづつ塞がれていくような気がした。
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引っ越し完了!

2011年03月18日 | 日記 ・ 雑文
昨日(17日)の午後、甲府市への引っ越しが完了した。大きなトラブルもなく順調に進められたが、その日の18:30頃から計画停電が実施され、すべての暖房器具を電気に依存している新居での夜間の寒さは身にこたえた。
身体を温めるためには布団にもぐるしか方法がなかったので、20:00には一家全員で就寝した。普段は家族3人バラバラの時間に就寝しているが、たまには家族が揃ったところで寝るのもいいなあ……と思った。
翌日(今日)は早朝5:00に目が覚めた。寝室からリビングに移動して即座に暖房を入れたが、部屋が暖まるまでの間、寒さが身に突き刺さるようだった。身体を震わせながら、ふと「こういう経験、以前にもあったなあ……。どこだったかなあ……」というようなことをしばらくの間、ぼんやりと考えていた。
「あっ!亀山山荘だ!」。それを思い出すまでに多くの時間はかからなかった。

故・友田不二男先生が健在だった頃、千葉県の山奥にある亀山山荘(友田先生は1週間のうち、大半はここで暮らしていた)では、ほとんど毎週のように土日合宿講座が開催されていた。夏を除けば時期も季節も関係なく、ほぼ1年中あった。私は土日合宿の“常連”と呼べるほど熱心な参加者ではなかったが、それでも多いときには1ヵ月に1~2回は亀山山荘に通っていたと記憶している。
この合宿の最大の特徴は「2日目(日曜日)は早朝5:00からスタートする」という点にある。夏ならともかく、真冬の早朝5:00は非常にキビしかった。「身を切るような寒さ」という言い方があるが、まさにそんな感じだった。

ここまで書けば話がつながってくると思うが、私が今朝思い出したのは「亀山山荘で真冬に開催された土日合宿講座での早朝の寒さ」だったのである。そのときの講座内容なんてまったく覚えていないが(苦笑)、身体が経験した“あの時のあの感じ”は、数年後の現在でも確かに身体が記憶していたのだった。
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南アルプス子どもの村小学校

2011年02月20日 | 日記 ・ 雑文
山梨県甲府市に引っ越そうと決意した要因のひとつに息子(6歳)の教育問題がある。正直に告白すれば、私という人は世のいわゆる“教育ママたち”と比べたら「それほど教育熱心なタイプではない」と思うが、しかしまあ、最低限の希望として「条件が許すなら、できるだけ良質な教育環境を与えたい」という平凡な親心は持っている。
詳細に言えば紆余曲折がまったくなかったわけではないが、息子は4月から「南アルプス子どもの村小学校」という名称のかなりユニークな(?)小学校に入学することになった。そこでこの機会に“この小学校”を紹介しておこうと思う。

下にリンクを貼ったが、ホームページを見てもらえばわかるように、この学校は教育理念として「自己決定・個性尊重・体験学習」を3つの柱としている。これを初めて見たとき、私は思わず苦笑してしまった。なぜならこの理念は、私が長年取り組んできた“カウンセリングの世界”において実現しようと目指しているものとまったく同じだったからだ(笑)。
この3つを現実化してゆくための手段として(私の場合はそれが“カウンセリング”になるわけだが)、この学校では“プロジェクト”と称するユニークな取り組みを行なっている。カリキュラム(1週間の時間割)を見ればわかるが、一般的な教科学習ではなく、この“プロジェクト”が中心に置かれているのである。
“プロジェクト”の時間は、縦割りの2クラスに分かれてそれぞれの活動を行なう。ひとつは建築や木工を行なう“クラフトセンター”、もうひとクラスは料理や農業を行なう“おいしいものをつくる会”で、生徒はどちらかのクラスを自由に選択できるという仕組みだ。
例えば校庭に“にわとり小屋”があるのだが、この小屋は生徒たちが手作りした作品であり、飼われている鶏が産んだ卵は料理に使われる……という具合だ。このように記せば「この学校が普通の小学校と比べていかにユニークか?」が少しは伝わるだろうか。
こういう学校というのは、日本では“フリースクール”というカテゴリーに分類され「文部科学省からの認可を得ていない学校である」という意味でマイナスイメージが付随しがちであるが、この学校は文科省の認可を得ている。よって法的な尺度から言えば「フリースクールではない」となるだろうか? ま、今後は法的に定義されている“フリースクール”の多くが文科省からの認可を得られる方向に行くだろうと想像するので、現時点で「認可か?無認可か?」という点はあまり気にする必要がないのかもしれない。

話を元に戻そう。ホームページを見て、この学校の教育理念に関心を持った私は「ぜひ、この目で確かめてみたい!」という気になった。どれほど意味と価値のある言葉が理念として掲げられていたとしても、それをそのまま鵜呑みにはできない。「実際にどの程度、理念と一致した教育活動が行なわれているか?」という点について、私はこの分野(=人間の成長と発展を援助する分野)における専門家として、専門家の視点から、この目で確かめなければならなかった。
この学校を訪問する機会は二度あった。一度目は校長先生の講演会が開催されたときで、二度目は息子が体験入学した(親なしで学校に一泊した)ときだった。機会はそれだけだったが、それで十分だった。なぜなら、最初の訪問時にすぐに気づいたのだが、「生徒たちの顔が輝いていた」からである。
校長先生の講演はほとんど聴かなかったし、体験入学時にビデオを視聴しながらいろいろな説明も受けたが、それらの情報は私には不要だった。この学校の教育理念である「自己決定・個性尊重・体験学習が、いったいどの程度現実化されているか?」という私の疑問に対する答えは、先生たちの話の中にではなく、生徒たちの“顔”に現われていたのである。
もっとも、このような確かめ方ができたのは、私が長年この分野で活動してきた専門家だったがゆえに、いわば「そういう“目”が養われていた」からなんだろうなあ……とは思うが。

といった経緯で、全面的な信頼感と安心を持って、4月から息子をこの学校に通わせることになった。もちろん“人間の世界”が必ずそうであるように、いずれは何らかのトラブルが生じるに違いないだろうが、その際にはきっと「自己決定・個性尊重・体験学習」でもって乗り越えてゆくだろうと信じている。
逆の言い方をすれば、もしも“人間なら誰もが本来所有している資質と能力”に絶対的な信頼が置けないなら、その人は「自己決定・個性尊重・体験学習」というような美しい文句をいくら並べても、結局は“絵に描いた餅”にしかならないだろう。

南アルプス子どもの村小学校ホームページ
http://www.kinokuni.ac.jp/nc_alps/html/htdocs/index.php
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“信”ということ

2011年01月28日 | 日記 ・ 雑文
真正面から取り上げるにはかなり難解なテーマだろうし、多少背伸びをしなければならないかもしれないが、思い切って“信”について言及してみたい。孔子は「信なくば立たず」という言葉を残したとされているが、「人間の行動と信とが密接に結びついている」という事実を疑える余地はまったくないだろう。もちろん問題は「何がどのように結びついているのか?」という点にあるわけだが……。
この問題を論じるにあたって、前回に引き続きクライエントのブライアン氏に登場してもらおう。(ブライアン氏とは、ロジャーズが有名になる以前に面接したクライエントの仮名であり、その面接記録は『ロジャーズ全集第9巻』に訳出されている)。私はカウンセラーとして「クライエントから学ぶ」という行為を実践していきたいので、ここでもそうさせてもらうことにする。

           * * * * * * * * * * *

<第6回目の面接>
15日 土曜日(約束の時間より10分遅れる)
カ416:今日は。
ク416:今日は。ぼくは少々ぼんやりしているようなんです――寝たのが今朝9時で――起きたのが1時15分なんですよ。
カ417:9時に寝た?
ク417:そうなんですよ。
カ418:それじゃあ少々ぼんやりしておられるでしょうね。
ク418:少なくともこちらに伺うだけの十分な動機づけがあったことはたしかですね、顔を出さない口実は十分にあったんですからね。(沈思)そのお、ぼくははっきりした変化にはぜんぜん気づいていないんですよ。なんだかスランプ状態にあるような気がするんです、ひとつだけ例外があるんですけれどね。――またマッチがなくなっちゃったのかな? たしかここにあると思ったんだが。
カ419:さあどうぞ。
ク419:すみません。ぼくはこの前の結論をちょっとばかり発展させてみたんですけれど、この前の――パースナリティの変化はですね、基本的な変化のことなんですけれど、とことんまで分析すると信念の飛躍のようなものになるんですよ。つまりですね、自分がよりよいものへと変化しているんだという信念をもっていて、そして――そのお、自分の知性の信念ですね――とぼくは思いますね、それは――かならずしも盲目的な信念ではなくしてですね、ところがぼくはどうも――ぼくは、信念に対して真剣に反対している傾向があるんですよ。それは、ぼくが思うには、ぼくにとっては宗教的な内包をもってるんですね。とりわけ、ぼくが実感しているところですと、ほとんどあらゆることが信念なんで――論理的な科学者でさえ、自分のデータを解釈しているときに、そりゃあ、知識をうるための最終的行為は、理性の行為であるよりはむしろ信念の行為なんですね。ですから知識が意味しうるのはたんに――そのお、知識は、僕が理解しているかぎりでは、ある特定の行為をとるということに対するあるひとつの信頼感なんですね。われわれは、いわばほとんどのことについては、たしかに限られたデータしかないんですから、そりゃあ、知識というものは、ぼくの考えだと、それは信念の行為だっていうことになるんですよ。つまりですね、われわれは、ある方向にそのデータを解釈しようとしていることを信じているわけですよ。われわれがそれを正しく解釈したと信じたがってるっていうのはもっともなことのようですね。(ロジャーズ全集第9巻 岩崎学術出版社 1967年 P.201~202)

           * * * * * * * * * * *

上記クライエントの陳述に対し、多くの読者は「一読しただけでは意味がよくわからない」という感想を持つのではないか? 私の場合、この部分は数年前から何度も何度も繰り返し目を通しているが、それでもなお「なるほど!よくわかった!」という感触を得るまでには至っていないのが正直なところだ。だが、仮に「意味がよくわからない」からといって、それでもって「だから耳を傾けるほどの意味や価値はない」と結論付けるわけにはいかないだろう。
確かなこととしてハッキリ言えるのは、「ブライアン氏がきわめて優れた知性の持ち主である」ということと、「たとえ自分よりも優れた知性の持ち主が世の中に存在したとしても、その事実は驚くに値しない」ということだけだ(苦笑)。

以上を踏まえた上で筆を進めていくが、私がとくに注目したいというか、より理解を深めたいと思っている箇所は「パースナリティの変化は、とことんまで分析すると信念の飛躍のようなものになるんですよ」というセリフである。いや「このセリフが意味・象徴している何かである」と表現したほうが適切だろうか。ともかく、現在の私にとってこのセリフは「特別な意味も価値もないな」と言ってポイっと捨てることなど、到底できないシロモノなのである。
それ以降の陳述は「どうしてそう言えるのか?」ということに関する、いわば説明みたいなものとして付言されているように読める。途中で「宗教的な内包」という言葉が出てくるが、これの内容説明はない。が、たぶん「神が絶対なので(絶対ではない)人間は信じられない」というような類の内包を持っているのだろう。
最後のほうは何かしら「科学に対する否定的な見解」を述べているように読めるが、このあたりの陳述は、現代物理学の最先端(量子力学など)を研究している人物が読んだら十分にうなづける内容ではないか? と想像している。平たく言えば「科学というのは、“科学”という名の宗教である」という意味になるだろうか。
これはあくまでも“現在の私”の読み方・受け取り方なので、人によってはまったく異なる読み方・受け取り方がなされるに違いない。が、それは大いに結構だと思う。なぜなら個人にとっての“経験のされ方”というのは、誰のセリフだったか忘れたが「みんな違ってみんないい」からだ。そこで“この私”も自分の意見を主張したいわけだが、ブライアン氏が述べた「パースナリティの変化は、とことんまで分析すると信念の飛躍のようなものになるんですよ」は、人間というものの真相に関するじつに重大な洞察を含んでいるに違いない!……と思えてならないのである。
そうすると、次に「信念の飛躍を可能にさせる“何か”は何か?」という問題が提起されてくるだろうが、この問題についても機会があったら論じてみたいと考えている。言うまでもなく、この問いこそが“カウンセリングの核心部分”であろう。

ところで、上述の読み方とはまったく別の角度から読む読み方もあるので付言しておこう。それは“カウンセラーの視点から読む”という読み方だ。例えばク418の「なんだかスランプ状態にあるような気がする」と、それ以降の陳述を関連付けると「このクライエントは“ないものねだり”をしているなあ」というふうに見えないだろうか?
このような見方・受け取り方はもっともで、事実このあとの記録、ク421では「ぼくは自分から進んで何かをしようとする前に、もっと多くのものを欲しがるようですね」というセリフが出てくる。よってこのような見方・思い方は間違いではないだろう。
これとは別に“クライエントの視点から読む”という読み方もある。クライエントの側に立ったらいったいどうなるのか? 以下は単なる私の想像だが、「カウンセラーさん、あなたは私に『もっと本気になれ!』と簡単におっしゃいますが、当人である私の身になって言わせてもらえば、それは決してナマヤサシイものじゃあないんですよ!」となるだろうか。
まあ、この部分だけでそれを感じ取るのは容易ではないかもしれないが、このケースは全体的にブライアン氏のカウンセラーに対する、もしくは現在のカウンセリング及びサイコセラピーのレベルに対する、“抗議の気持ち”があちこちににじみ出ているように私には思えている。
さらに言うならば、そういった“抗議の気持ち”がありながら、それでもなお、それら全部を乗り越えていった(8回目の面接で終結した)この人物に対して、同じ人間として心からの尊敬の念を覚えずにはいられない。
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純粋性(genuineness)ということ

2011年01月18日 | 日記 ・ 雑文
先日の土曜講座「東洋思想とカウンセリング」にて、次に掲載する文章が“とても強く心にかかった”という経験を得た。このような心の働きは“学習の機会が訪れている”ことを意味・象徴しているに違いない。よって、そのことをより明確にしていきたいと思う。

           * * * * * * * * * * *

佐治:ぼくも含めてだけれど、多くの人がその辺でひっかかっていますね。自分が今こういう気持ちになってるんだからこのままでいい、っていうのはあまりにも単純でね(笑い)。さっきの黙っていたいから黙っているのと同じでね。
友田:その“いたい”がほんとうに“いたい”のだか、あたかも“いたがっている”みたいに思わせているんだか、ぜんぜんわからないところで、そういう言葉を吐きますよねえ。わたくしはね、人間がひとりでぽつんと置かれてね、その人のなかからフッと何かでてくるとしますね、アイディアならアイディアでいい、そういうアイディアがでてくる、そのときの人間の姿をgenuineという言葉でいっているのなら、わたくしは了解可能なんです。(ロジャーズ全集第18巻 岩崎学術出版社 1968年 P.422)

           * * * * * * * * * * *

筆者もまた、長年のカウンセリング経験を通して「ロジャーズの中核概念の一つである“純粋性”(genuineness)というのは、ひょっとするとかなり多くの人々に誤解されているのではないか?」という問題意識をうすうす感じていたので、それがこの陳述によってクローズアップされたのだろう。「その“いたい”がほんとうに“いたい”のだか、あたかも“いたがっている”みたいに思わせているんだか」は、じつに重大な問題提起であると思う。
あるワークショップで「あなたの話を聞いて、私にはこれこれこういう気持ちが湧いてきました」という参加者の発言を聞いた友田先生が、あとでこっそりと「“湧いてきた”んじゃなくて、本当は“沸かせてる”んだろ」と述べていた、というエピソードもある(笑)。

人間にとってgenuine(純粋)という在り方を得るのがいかに容易ではないか、ということは、次の一文によっても示すことができるだろう。

           * * * * * * * * * * *

「クライエント」がなすべき仕事は、誰よりも「クライエント自身」がもっともしたいと思うことをできるだけ最大限に遂行することですし、「カウンセラー」がなすべき仕事は「クライエント」が、今、そこで、もっともしたいと思うことができるだけ最大限に遂行できるように援助することなのであります。(自己の構造 柏樹社 1964年 P.15)

           * * * * * * * * * * *

この文章の主旨や内容は容易に理解できるだろうが、注目してほしいのは“もっとも”の一語である。個人カウンセリングにせよ、グループカウンセリングにせよ、カウンセラーは最大限に自由な場面を創造すべく、一瞬一瞬注意を払いながら努力を重ねている。が、その場面でクライエント(もしくは受講生)は、はたして本当に“もっともしたいと思うこと”をやれているのだろうか? ひょっとするとただ単に“したいと思うこと”をやっているに過ぎないのではないか? といった問題が提起されてくるだろう。しかもそれは“なすべき”の一語によって、より強調されてくるように私には読める。
“もっとも”の一語によって、クライエントがカウンセリング場面を十分に活用することがいかに容易ではないか、ということが少しは実感できるだろうと思う。カウンセラーがなすべき仕事は、クライエントにとって決して“容易ではないこと”を最大限に遂行できるように援助することである。ゆえに、よりいっそう“容易ではない”ということ、言うまでもなかろう。

このあたりの事情、もしくは真相・実態について、ブライアン氏(ロジャーズと面接したクライエント)がじつに見事に“洞察している”箇所があるので、そこも引用しておこう。

           * * * * * * * * * * *

ク311:ええ、そこでぼくは、先生を訪れようと決心したんですよ。前に申しあげたようにですね、ぼくの感じだと、ぼくの方での努力は、心からやったとはいえませんね。もしそうだったらばですよ――もし心からの努力をしていたら、努力は実っていたと思うんで、ぼくがやっていたことは、いわば、少数派にパン片をやってきたようなものなんですよ。
ク317:そうですね、ぼくの考えでは、あるひとりの人間が、ほんとうに変化するときには、多くの人びとは、しばしば、自分は神のためにそれをやっていると考えるようですが、そのお(思慮深げに)おそらくぼくは、宇宙からは何ひとつ必要としないんですよ、それだとね。
ク318:ええ、それはたしかにすばらしい論点ですね。その――エエト、ぼくがふたつの道のひとつを採択することを正当化しようとして、哲学的に何か重要なものを求めていたのは、実際にはぼくが、絶対に見つかりっこないと知っていたものを捜していたんですね。
ク319:なぜならば、ぼくは、あるひとつの道を採択すべき宇宙的命令は絶対に見つからないということを知りうる知性をもっていたんですよね。そしてそこで、ぼくは、自分自身の動機づけの欠如を合理化するために宇宙的命令の欠如を、みずから利用していたんですね。
ク321:ぼくがこれからやろうとしているのはそのことなんですね――自分の諸価値の証拠を求めることではなくて、とにかく自分がもっと自己を尊敬でき、しかも満足の得られる諸価値を身につけてゆくことですね。
ク322:ぼくは、ぼくの宗教的な条件づけが、何か宇宙的な合図のようなものにたよるように、ぼくをしてしまったと思うんですよ。本来のぼくは、神の賛同にたよらなければならなかったんですね。あるひとつの個人化された神格への信仰を喪失すると、今度はぼくは、自然だとかそのような他のものからの合図を求めたんですよね。しかしぼくは、外部からの正当化なしに、自分の諸価値を身につけることを学ばなければならないんですね。ということは、けっきょく、ほんとうにぼくが欲しているものってことになりますね。(沈思)それは、完全に白兵戦だって思いますね。(ロジャーズ全集第9巻 岩崎学術出版社 1967年 P.146~152)

           * * * * * * * * * * *

引用文が長くなりすぎるという理由から、カウンセラーの発言(レスポンス)は割愛したが、カウンセラーの発言に対しても「検討すべき価値は十分ある」と思われるので、もしも機会があったら一連のプロセス全体を熟読・吟味していただきたいと思う。
この引用文からとくに取り上げたいのは、最後の「それは、完全に白兵戦だって思いますね」というセリフだ。もしも、この場面で達成されたブライアン氏の洞察が理解できるならば、その人はきっとカウンセリング用語の“共感的理解”が経験されるに違いない。「まさしくそれは“白兵戦”以外の何ものでもないのである!」と私は言いたい。
自戒の念を込めて付言しておきたいのであるが、私たちは日常の生活場面において“ほんとうに”とか“真に”とか“心から”という言葉を安易に使いすぎているのではなかろうか? 俗に言う“真の自己”とは、たとえそれがどのような意味であったとしても、私たち人間にとって永遠の探求課題である。“ほんとうの自分”を知っている人なんて、どこにも存在しないのではないか? とも思う。
仮にロジャーズの言う“純粋性”(genuineness)が「その時その場でのありのままの自分」を意味・象徴する用語であるとしたら、基本的にそれは、しばしば誤解されていると思われる「言いたいことを言えばいい。やりたいことをやればいい。カウンセリングは自由な場面なんだから」というようなレベルのものとは、まったく次元が異なる“何か”なのである。

ブライアン氏は「それは、完全に白兵戦だと思う」と述べた。私もまた、それが完全に白兵戦であることを承知のうえで“自分自身になってゆくプロセス”を歩んでいきたい。という意味において、私とブライアン氏とは紛れもなく“同志である”ということも再認識できたところだ。
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