カウンセラーのコラム

山梨県甲府市でカウンセリングルームを開業している心理カウンセラーの雑文です。

Wiiがやってきた!

2011年05月22日 | 日記 ・ 雑文
任天堂のゲーム機Wiiが我が家のテレビに設置された。半年前から息子(もうすぐ7歳の誕生日を迎える)が、「Wiiが欲しい!誕生日プレゼントに買って!それまでは我慢するから」と述べていたので、その約束を果たしたわけだ。
購入したゲームソフトは「マリオカート」。これでさっきまで息子と熱いバトルを繰り広げていた。この日記を書いている現在は、母親と息子の二人が隣のリビングでキャーキャー絶叫しながら遊んでいる。

最後に買ったゲーム機は「初期型プレイステーション」なので、ほんの1時間程度だが、約10年ぶりに最新マシンでテレビゲームを体験した。この間のゲーム機とゲーム内容の進化に対しては、驚いた部分もたくさんあったが、そうでもなかった部分もあったので少し安心した(非常に大きなカルチャーショックを受けなくて済んだ、という意味だ)。
“そうでもなかった部分”というのを適切に表現するのは難しいが、拙い言葉で説明するなら「プレーヤーが何かに対して“面白い”とか“楽しい”と感じるときのその感じ方は、基本的・本質的には変わっていない」し、また「ゲームを作る側の感性(=プレーヤーが“面白い”とか“楽しい”と感じられるものを意図できるか否か)も、基本的・本質的には変わっていない」という意味になるだろうか。
もっと端的にズバリ言ってしまえば、「プレーヤー(遊び手)もメーカー(作り手)も、人間そのものの本質は何も変化していない」という意味になる。つまり基本的には、人間にとって価値あるもの(ゲームの場合は“面白い”もの)はどんな時代でも価値があるし、反対に価値のないものはどんな時代でも価値がない、という意味になるだろう(もちろん例外はあるが)。
こういうのを「不易流行」と呼ぶのだろうなあと思った。ゲーム機は時代と共に進化し“流行”するが、人々を魅了する本質的な何かは“不易”に違いない。囲碁や将棋が何千年も人々に親しまれ続けているのは、これらのボードゲームの中に“不易”が存在するからである。

そこで話を半ば強引に“カウンセリング”に持ってくると、「ロジャーズが“カウンセリング”と称した何らかの人間関係、もしくは行為」には、不易流行の“不易”が確かに存在する、と私は観じているのである。
ロジャーズが『Counseling and Psychotherapy』という一書を出したのは1942年のことなので、それからすでに70年もの歳月が過ぎていることになる。この書物に対して賛否両論が存在するのは知っているが、“否”の中には内容に関してではなく「古いから価値がない」という意見もあるらしい。こういう意見を述べる人というのは、いわゆる古典文学(源氏物語や枕草子、あるいはシェイクスピア)に対しても「古いから価値がない」と断じるのだろうか?(笑)

ところで、“ロジャーズの思考と方法につながるカウンセリング”(という言い方を友田不二男氏はしていた)は、ボードゲームに例えると“囲碁や将棋のような存在”に今後なっていくだろうか? “ロジャーズの本質”を観じたところで言えば、そうなる可能性は十分あるだろうが、ひょっとすると“現在では存在すら知られていない無数のボードゲーム”と同じ運命をたどる可能性だってなくはないだろう。
今後のカウンセリング界がどんなふうに発展(もしくは衰退)していくかは、誰よりも私たちひとりひとりの一見地道かもしれない活動とその内容に因るのではなかろうか? ……なんて考えていたら、「この私もカウンセラーとして、よりいっそうの成長と発展を目指して“不易流行”していかなきゃなあ!」という思いを強くしたのだった。

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