カウンセラーのコラム

山梨県甲府市でカウンセリングルームを開業している心理カウンセラーの雑文です。

【告知】 機関誌『カウンセリング研究 VOL.24』発刊のお知らせ

2009年07月31日 | 告知 ・ 案内
機関誌『カウンセリング研究 VOL.24』(日本カウンセリング・センター 定価1.200円)を刊行しましたので、お知らせします。

 <CONTENTS>
・虚なるは心齊なり------------------------------笠井康人
・逐語検討会から感じたこと思ったこと----------------八代泰光
・カウンセラーの態度---------------------------小田桐真理
・「母と子の対話記録」を通じて思ったこと-----------田中真由美
・出会いとやさしさの実践-------------------------加藤泰久
・地域精神科看護とカウンセリングの統合を目指して---菊池美智子
・「スクール・カウンセラー」13年の経験から------------田中 茂
・死生観 ―安心して生きよう― --------------------佐世省吾
・自発協同学習で学ぶ-------------------------山本伊知郎
・また会える時まで------------------------------清水紀子
・平野先生の思い出---------------------------宮下武二郎
・平野先生に寄せて ~マイブログに掲載した文章より~--橋悦子
・感謝感謝です!-------------------------------岩田千香
・平野先生との出会い----------------------------志賀信子
・亀山山荘さんありがとう--------------------------藤野和子
・堀淑昭先生への追悼
  ―そして友田不二男先生との交流、および
  『ロージァズ全集』の編集などをめぐる回想― -------古屋健治


こうして目次だけ並べてみると、執筆者のところに友田不二男や平野正敏の名が無いのは、正直「寂しいなあ」という気がしますし、「時の流れって無常だなあ」とも思います(お二人とも故人になりましたので)。
老子は「道可道、非常道、名可名、非常名」と述べていますが、それはただ単にいわゆる“無常”だとか“はかない”ということを洞察し、意味・象徴している、いわば“虚無思想”なのでしょうか?
いや、そうではないでしょう。(老子に言わせれば)“カウンセリング”は仮の名前であり、また“友田不二男”も“平野正敏”も仮の名前である。これらは常の名ではない。だが、それはすべてが“無になる”とか“無意味・無価値である”という意味では決してない。時の流れとともに名前は変わり、あるいは消えたとしても、その名によって意味・象徴されている“何か”、人間には決して名付けられない“何か”、真実とか真相とか本質とかいう言葉にもできない“何か”、は永遠不滅・絶対不変である。
……というように老子が語りかけてくるメッセージが聞こえてくるのは、決して私だけじゃないでしょう。

上掲した論文を投稿してくださった方々は、名こそ“友田不二男”でもなければ“平野正敏”でもないわけですが、“カウンセリング”と仮に名付けられている“何か”を、それこそ身をもって求め求めるプロセスを現に歩んでいる、いや、未来に向かって歩み続けている人たちなのです。
ということなどもお含みの上、一人でも多くのカウンセリング学習者たちに読んでもらいたい! カウンセリングを探求し、実践し続けている人たちの姿を感じ取ってもらいたい! ……と願っています。

ホームページ上で通販も行なっていますので、詳細はこちらをご覧ください。
財団法人 日本カウンセリング・センター ホームページはこちら≫
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カウンセラー・スポンジ説

2009年07月20日 | 日記 ・ 雑文

 クライエント・センタードの立場におけるカウンセラーの機能と役割とは、結局のところ何なのだろうか? 突き詰めるとどうなるのか? ロジャーズが言うように「純粋な嘘偽りのない受容的・応答的・共感的な態度で接し続ける人間関係」を経験することによって、それがクライエントの側に「人格の変容もしくは人間の成長をもたらす」のだろうか?
 このあたりの問題、すなわちカウンセリング関係の核心部分に関する現在の私の考えを整理してみようと思う。それが表題の「カウンセラー・スポンジ説」という言葉で象徴されているのである。

 読者の中には、面接記録全部をありのまま文字にしたもの(逐語記録と呼ばれる)を目にしたことがある人や、あるいは面接の録音テープを聞いたことがある人も少なくないと思う。
 これらの記録を素材にした講座や学習会の場面で、「カウンセラーがほんとうに“ただ話を聞いているだけ”でクライエントが変化し成長する」という事実を目の当たりにし、驚きとともに「不思議だなあ」という感想を漏らす人は決して少なくない。
 かくいう私も初めて面接の録音テープを聞いたとき、「なあんだ。カウンセラーって特別なことは何もしていないじゃないか」と思ったし、「こんな程度のことだったら、自分にも簡単にできるだろうな」と思ったものだった(苦笑)。
もちろん現在の私に言わせるならば、「カウンセラーが“ただ話を聞いているだけ”なんて思われたら、とんでもない!」と反論したくなるが。実際1時間の面接が終わるとグッタリして、その場にへたり込んでしまうこともあるくらいだ。要するにカウンセラーは面接中の1時間、「膨大な精神エネルギーを使用して、全心身を最大限に機能させているのだ」と言ってよいだろう。
 が、このような表現で「カウンセラーが何をしているのか?」を実感的に理解できる人はおそらく稀に違いない。そこで以下に“カウンセラーがやっていること”の具体を記しておくことにする。

 よく知られているように(かどうか、本当はわからないが)、クライエント・センタードと呼ばれる立場のカウンセリングでは、5つの中核となる技法が使用されている。1.単純な受容 2.再陳述 3.反射 4.明確化 5.場面構成 の5つだが、このうち“場面構成”は「効果的なカウンセリング場面、もしくはカウンセリング関係を作るために使用される技術」なので、ここでは論旨の関係上ちょっと脇に置かせてもらう。残り4つの技法のうち、“再陳述”は“単純な受容”の高等テクニックであり、“明確化”は“反射”の高等テクニックである、と言ってよいだろう。
 そうすると、カウンセラーはカウンセリング場面において「受容と反射を繰り返しているだけである」と表現して差し支えないと思う。その行為がハタから見れば、“ただ話を聞いているだけ”に見えてしまうのだろうが、仮にそのように見えたとしてもまあ仕方がないかなあ……という気もする。
 もちろん、「受容と反射を繰り返しているだけ」というその“受容”や“反射”をカウンセラーは、「この人にしてみれば、ほんとうにそうなんだろうなあ。そういう気持ちになるだろうなあ。なるほどなあ」というふうに経験しながら応答しているのであって、決して“口先だけ”で言葉を伝えているのではない。このあたりのことは、よく知られている“ロジャーズの3条件”――受容(無条件の肯定的関心)、共感的理解(感情移入的理解)、自己一致(純粋性)――でもって、カウンセリング場面におけるカウンセラーの態度条件が端的に示されている通りだ。

 さて、クライエントの側は、上述の態度条件が満たされているカウンセラーから「受容と反射が繰り返される」という場面を、いったいどのように経験しているのであろうか?
 私の知人でありカウンセリングを学んでいる仲間の一人は、自分のクライエント経験を次のように述べていた。
 「私が胸の内にある悩みや今の気持ちをポソっと言うと、カウンセラーはそれをシュッ…と吸い取ってくれた。そうすると別の何かが浮かんできてそれを言うと、それもまたシュッ…と吸い取られた。私がどんなことをどんなふうに話しても、それらはシュッ…シュッ…と、ことごとく吸い取られていった。カウンセラーはまるでスポンジのようだった」と。
 クライエントの多くは胸の内にたくさんのいろいろな思いを抱えており、いわば“胸がいっぱいの状態で”カウンセラーのもとを訪れる。カウンセラーはそれらの思いや考えに真摯な態度で耳を傾ける。そうするとクライエントは、あたかもそれらが“吸い取られた”かのように経験されるのであろう。そうするとどうなるのか?
 ここから先は仮説になるが、クライエントの心の内にあるものが次から次へと吸い取られたならば、心の中に“何らかの空間(スペース)”が生まれるのではなかろうか? その空間が心の働きをより機能させ、その機能によって“洞察”とか“気づき”などの重大な意味のある出来事が起こり得るのではないだろうか?

 諸富祥彦氏(明治大学教授)はこのあたりの問題について、
『我々が他人に悩みを聞いてもらい、そこで何らかの「気づき」を得る時、我々の注意はむしろ、(聴き手にではなく)専ら自己の内面に向かっているように思われる。我々が一人で思い悩む時、物理的には一人であっても、(比喩的な表現を使えば)心の内側には多くの「自己ならざる自己としての他者」が存在している。そしてそれらの人々の目を気にしたり、何かを言い聞かせられたりしている。つまり、物理的には一人であっても心理的には「ひとりきり」になれないでいるのである。一方、自分の悩みを共感的に理解してくれる聞き手がいる時、我々は、心の中に存在している複数の他者を、言わばいったん相手に「預ける」ことができ、それらから解放され、何者にも邪魔されずに、自己の内面の探索に専心することができる。つまり、心理的に「ひとりきり」になることができる。カウンセリングとは、他者からの共感的理解を得て、そこで初めて内面的に「ひとりきり」になりきることができる、という逆説的な関係なのである』(『“真空”における人格変化』カウンセリング研究VOL.13 P.64 日本カウンセリング・センター 1994年)
 と述べている。要するに「クライエントがひとりきりになれる」というところにカウンセリング関係の意味がある、というわけだ。

 このような考え方は、現在の臨床心理学においてはあくまでも“仮説”に過ぎず、いわば“探求の方向を示している”に過ぎないが、重大な示唆をたくさん含んでいるように筆者には思える。
 私が師事した友田不二男氏は、「成長は現実の環境や人間関係の中で起こったことがないんですよ。それはおそらくひとりぽっちの黙想のようなもの、いわば“真空の中で”起きるんです。宗教的な神秘主義者は、長い間ひとりで黙想しますよねえ。ですから、ひとりぽっちでいる間に何かしら力を強化するようなことがあるに違いないんですよ」と述べたブライアン(仮名)と名付けられたクライエントの発言を支持し、「これはまことに重大な意味を持つ洞察的な表現もしくは提言である。人間の真相はそうでしかあり得ないであろう」と述べ、「さらに言えば、ブライアン氏が発した“真空”(vacuum)は、禅における“無”もしくは“空”と同一視できると思う」と述べている。(『ロジャーズ全集第9巻』P.215、P.236、P.262 岩崎学術出版社 1967年)

 もしも友田の言う通りであるならば、カウンセリング関係においてクライエントが経験する心の内の“空間(スペース)”は禅の“無”や“空”にそのままつながってくるし、“ひとりぽっちの状態”になることは“座禅”や“瞑想”にそのままつながってきそうである。
 となると、「カウンセリングと呼ばれている“何か”は、臨床心理学よりもむしろ宗教の世界(禅仏教など)との関連性のほうが強い」ということになりそうだが、果たしてどうなのか?
 今後も上述した見解を手がかりにして、臨床活動等の実践と経験によって確かめながら、自分自身の歩みによってカウンセリング理解をさらに深めてゆきたいと思っている。
<参考文献:『“真空”における人格変化』カウンセリング研究VOL.13 P.64 1994年 『ロジャーズ全集第9巻』P.215、P.236、P.262 岩崎学術出版社 1967年>

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自発協同学習で学ぶ(1)

2009年07月15日 | 主要な論文

はじめに

 自発協同学習とは、故・信川実先生によって名づけられ実践された教育法であり学習法である。日本カウンセリング・センターでは、平成19年度講座「カウンセリング概論」において、世話人だった故・平野正敏先生の提唱によりこの学習法が採用され、今日に至るまで同講座内での実践を継続している。
 平野先生は自発協同学習の専門家だった。長年、中学校教員を務めていた人だが、担当する国語の授業を“自発協同学習で”行なっていたのである。ということは“自発協同学習で”給料を得ていたわけで、このような意味からすれば、「カウンセラーであった」というより以上に「自発協同学習で飯を食っていた文字通りのプロだった」と評して差し支えないだろう。
 平野先生は長年センターでの講座の世話人を務めていたが、不思議なことにセンターではその時まで一度も“自発協同学習で”講座を開催したことはなかった。その人がなぜ、平成19年度に初めて「自発協同学習でやろう!」と決意したのだろうか?
 私が記憶している本人談によると、「前年度まで自習(木曜の裏講座)でカウンセリング概論(ロジャーズ全集2巻を読むグループ)を実験的に開催していた。その実験結果を踏まえると、これは自発協同学習でやらなくてはならない! という結論に達した」とのことである。
 これはどういう意味なのか? それ以上は何も語られなかったので推測するしかないが、「これまでと同様に“カウンセリングで”読書会を開催しても、結局肝心な“読む力”のほうはまったく付かないのではないか?」という思いに至ったのではないか……と想像している。

 と、ここまで書いたところで、「そういえば、故・友田不二男先生もある時期にカウンセリングから蕉風俳諧へと転身したよなあ……」ということが想起された。私の経験上、蕉風俳諧にせよ自発協同学習にせよ、それ以前に経験していたグループ・カウンセリング(エンカウンター・グループなど)と比較すると、「不自由さを感じてしまう」のは否めない。そしてこの「不自由さを感じてしまう」というところに、「何か大きな問題がありやしないか?」という気がしてきたのである。
 カウンセリングは「自由ということ」を最高度に価値づけている(と私は理解している)。がしかし、カウンセリングにおける“自由”とは、そもそも何なのか? それは私たちが普段の日常生活において概念化している“自由”や、世間的な意味での“自由”と同じものなのだろうか? あるいは違うのだろうか? 違うとしたら、何がどう違うのだろうか? 私たちが「自由さや不自由さを感じる」とき、個人の経験の世界において、いったい何がどのように生じているのだろうか? このあたりのことは、よっぽど慎重かつ入念に、検討もしくは探求しなければならない課題だろうという気がする。
 話が横道にそれたが、私には「自発協同学習に転じた平野先生の姿」が、「蕉風俳諧に転じた友田先生の姿」にオーバーラップして見えてしまうのだ。両氏にとってこの二つの取り組みは、「本領であり命であった」と私は評したい。平野先生に関して言えば、平成19年4月から自発協同学習に取り組み始めると、とたんに肝臓の腫瘍が急速に広がっていったと伝え聞いている。私はその講座に参加していた一人だったので、上述の話にも深くうなづけてしまう。というのはその講座での平野先生が、甚大ではない精神エネルギーを使って効果的な学習場面を維持しようと努めていたことを、私は肌で感じていたからだ。「いくらなんでもあんなふうに講座を行なったら、それこそ寿命を縮めるだろうな」と、当時から思っていたのだった。
 その後は入院生活を余儀なくされ、結局センターの講座に復帰する夢はかなわなかった。ということは詰まるところ、平野先生は文字通り“命がけ”で、最後の仕事として自発協同学習に取り組んだのである。ある種の意気込みとして「命がけでやるぞ!」というセリフを耳にするのは珍しくないが、真に「命の炎を燃やして何かに取り組むことのできる人」となると稀だろう。平野先生は私にとって、このような意味できわめて稀な人であり存在だった。


自発協同学習とは?

 さて、「自発協同学習とは何か?」である。それが本稿のテーマだ。まずは以下に、その特徴と典型的なプロセスを記述してみよう。もちろんこれは単なる説明に過ぎないので、体験なしにこれを読んでわかる人など存在し得ないだろうが、筆者自身の「概念と経験とを密着させていく」という意味において、伝えることができないのを承知の上で書いてみようと思う。
 自発協同学習の最大の特徴は、「学習場面が明確に設定される」というところにある。カウンセリング用語を使用すれば、「場面構成がきわめて明確に行なわれる」という意味になるだろう。自発協同学習には、「自発学習」、「協同学習」、「バズ学習」の3タイプの学習場面が存在するが、以下それぞれに解説を加えてみよう。

(1)自発学習場面

 まずは世話人(ファシリテーター・促進者)によって、グループに対し何らかの課題が与えられるところから学習場面が始まる。例えば信川先生の場合、よく「私、何歳に見えますか?」とグループに問いかけたが、課題の出し方には熟練を要するだろう。なぜなら、自発協同学習においては「正解と不正解が存在する類の問題は決して出さないようにする」からだ。
 「私、何歳に見えますか?」という問いだったら、問われた側は「自分に見えた感じや印象」で答えられるし、どのように答えても間違いにはならない。これがもしも「私、何歳ですか?」と問われたならば、「わからない・知らない」としか答えようがないし、仮に答えたとしても年齢を知っている人以外は全員不正解になってしまう。要するに自発協同学習では、「答えに○×を付けるのが目的ではない」のである。このあたりは世間一般の学校教育とは非常に趣が異なるので、世話人はよく心得ておかなければならない。
 次に課題を出された側(参加者たち)は、この課題に“個人で”取り組むというプロセスに転じる。ただし、出された課題によっては、「どのように取り組むのが最も効果的なのか、よくわからないので相談したい」とか、「個人で取り組むにはとまどいを感じる」とか、「こういう課題に取り組むには、何らかの工夫が必要ではないか?」というような反応が生じることも稀ではない。こういう場合には、後で解説する「バズ学習場面」を積極的に活用するよう、世話人は働きかける。
 余談になるが、ここのところに人間の「自発とか自発性と呼ばれている何か」が表出する。もっと言えば、「自発と呼ばれる何らかの心の働きとは、いったい何なのか?」という問題があるわけだが、これは難問なので、ここではあまり深く立ち入らないことにしよう。平野先生の言葉を借りれば、「自発の自は“自分”ではなく“おのずから”という意味であり、自発とは“自然発生”の意味である」となるが、このような表現で示唆できるだろうか? あるいは、もっと噛み砕いた筆者流の表現をすれば、世話人としては「決して素直ないい子には、なってもらいたくないのである」という言い方もできるだろう。
 という問題はさておき、自発学習とは基本的には「個人学習を行なう場面である」と言える。ここで問題になることの一つに、「学習スピードの個人差」がある。世話人としては「一人一人の学習プロセスを大切にしたい」という意味で、「周りの人のことなど気にせずに、自分のペースで自分の答えが発表できるまで、存分に課題に取り組んでもらいたい」という場面設定を行なう。
 ところが、そうすると当然、答えを発表できる段階に至るまでの個人差が生ずることになる。ここでもしも、発表できる状態になった最初の人が「私、できました!」と声を上げたら、それに続いて「私も」「私も」と、次々に声が上がるのは必定だ。そうなるとその声自体がまだ課題に取り組み続けている人への学習の邪魔になるだけではなく、「自分も早くやり終えなければ!」というプレッシャーを与えることになるだろう。このような環境に身を置いたのでは、「自発学習」など到底不可能だ。
 そこで私たちのグループでは、学習者の邪魔をしないための工夫として、「あらかじめ名札のプレートを伏せておき、自分の答えが発表できる状態になったら、そのプレートをそっと立てる」というルールを設けた。こうすれば声を出すことなく、「自分はもう発表できますよ」というサインを場に示すことができるわけだ。
 このようにして次々と名札が立っていき、最終的には全員が自分の答えを発表できる段階に至る。ここで次の「協同学習場面」へと移行する。この間、おしゃべりをする人はまったくない。参加者がカウンセリング学習者だからなのか、基本的には誰もが「他者の学習プロセスを大切にしている」ようである。あるいは個人によっては、もっと別の経験が内心では起きているのかもしれないが。

(2)協同学習場面

 協同学習とは、いわゆるグループ学習のことだ。自発学習が「個人プレー」なら、協同学習は「チームプレー」に相当すると言えるだろう。しかし、カウンセリングにおけるグループ学習場面と異なり、協同学習場面にはルールが存在する。「ご自由に!」というわけにはいかないのだ。
 そのルールとは、「自分の答えに自信のない人から発表する」というものだ。別の言い方をすれば、「自分の答えに自信がある人は発表を控えてもらう」という意味にもなる。
 このルールにはいろいろな理由や意味がある。それ以前にもう一つ、大前提として、協同学習場面には「参加者全員が一人残さず課題に取り組んだ結果、すなわち“自分の答え”を必ず発表しなければならない」というルールが設定されているのだが、これとの絡みもあって「発表を行なう順番」が決められているのだ。
 参加者は、最終的には必ず何らかの発言をしなければならない。それだけですでに相応のプレッシャーが全員にかかっていることになる。「自信のない人」の場合はとくにそのプレッシャーが大きく、「自分の答えをどのように発表しようか?」という緊張感や焦燥感で身も心も精一杯に違いない。こんな状態で誰かが自分より先に発表したとしても、頭の中は「どうしよう…どうしよう…」という思いが巡るだけで、他者の発言を聞ける余裕などまったくないだろう。つまり「自信のない人から」というルールは第一に、そういうプレッシャーからいち早く解放され、グループ学習に参加できるようになるために設けられているのである。反対に「自信のある人」の場合は、それ相応の余裕があるわけだから、自分の答えを心中に留めておきながらでも他者の発表に耳を貸すことができるわけである。
 第二の理由として、「先に優秀で立派な答えが発表されてしまったら、(自信のない人の場合はとくに)自分の答えを発表しづらくなってしまう」というのもある。学校教育の現場では、「優等生が真っ先に手を上げて自信たっぷりに発言する」という光景が普通に見られるが、このような行為はすでに劣等感を抱いている人たちに対して「ますます劣等感を植え付ける」以外の何ものでもなかろう。本稿の最後に示すことになるが、自発協同学習という取り組みが目指しているのは、「優越感や劣等感からの解放」にある。ゆえに万が一、「優等生が優秀な答えを真っ先に発表してしまう」という場面に遭遇した際には、世話人は、それがいかに他者に悪影響をもたらすかを示した上で咎める必要があるだろう。信川先生はこういうとき、「あなたの行為は人殺しになりますよ」と言って、その発言者に注意を促したと聞いている。
 ここまで述べればもう説明する必要はないかもしれないが、世話人には、「たとえ誰がどのような内容の発表をしたとしても、その個人の学習プロセスの結果である答えを最大限に尊重する」という態度・姿勢が望まれる。もちろん、このような態度・姿勢を身につけて実践するのは「生易しいどころではない」ということ、言うまでもないが。
 具体的には“レスポンスで”それを示すことになるだろう。ということはすなわち、世話人は参加者一人一人の発表に対し、原則として必ず「何らかのレスポンスをするのが望ましい」ということになる。これには最低限、「私はあなたの存在を無視していませんよ」というメッセージを伝達する意味があるだろう。しかし、だからといって「何か言えばいい」という単純なものではない。下手なレスポンスをしたら、「それっきり二度と口を開いてくれなくなる」ことだってあり得るからだ。このあたりはカウンセリングでも同様だ。私たちカウンセラーにとって「レスポンスを磨くこと」は、永遠の課題として存在し続けるわけだが、そのことは自発協同学習においてもまったく同じある。
 補足説明しておくが、初参加の人からよく「他者の発表を聞いたら、自分たちもそれに対してレスポンスしていいのか?」と問われることがある。答えはもちろん大歓迎だ。というよりもむしろ、「それがなければグループ学習の意味がない」と私は言いたい。カウンセリング用語の“グループ・ダイナミックス”である。これが協同学習場面の中核であるのは言うまでもなかろう。ただし、場合によっては「発表者の学習プロセスや答えに対して、極端に否定的・批判的な応答がなされる」こともある。そういう場面では“世話人の動き”が肝要になってくる。自発学習のところですでに述べたが、「答えに○×を付けるのが目的ではない」ということ、これを世話人はもちろん参加者も体得しない限り「効果的な学習場面は生まれてこない」ことを、世話人は肝に銘じておく必要があるだろう。
 正確なデータが手元にないのではっきりとは言えないが、自発協同学習で学んだ人たちは、「最初の頃は他者の答えに○×を付けたがるが、そのうち自然に“他者の存在や答えを尊重する”という態度に変容していく」と聞いている。このことは、現在に至るまでの私自身の経験においても「かなりの程度符合する」と言ってよいだろう。
 おおむね上述したようなプロセスを経ながら、最終的には参加者全員が自分の答えを発表することになる。そうすると自然に「その場における何らかのまとまった、参加者全員が共有できる学習成果が得られる」というのが典型だ。もちろん、グループの成熟度や様々な問題から「必ずそうなる」とは限らないが、「最初は個々人が単独で取り組んで学習したものが、協同学習の場面で力を合わせることによって、やがては参加者全員で分かち合えるようなまとまりのある成果が練り上がっていく」というところに、自発協同学習の最大の特徴と魅力があるように思う。
 ここまで述べれば、協同学習場面の大前提として設けられている「参加者全員が自分の答えを発表しなければならない」というルールが存在する意味と価値とが理解できるだろうか? そう、このルールには「自分が学習した成果を“自分だけのもの”にしないでくださいよ。参加者の皆さんにも“分け与えて”くださいよ。そういう広い心を育ててくださいよ」というメッセージが込められているのだ。世話人は決して「発表することを強要しているわけではない」のだが、このあたりのことを伝えられるようになるには相応の熟練と成熟した人格とが要求されてくるだろう。私の経験から言えば、口先だけでこのようなセリフを述べたとしても、参加者のほうは「強要されている」と内心では経験されるようである。
 もっとも、これと同様の問題がカウンセリング場面にも存在するということは、すでに多くの方々が経験しているだろうと想像する。カウンセラー(もしくは世話人)は、ただ単に「ご自由に!」というセリフを述べれば、それで即「自由な関係」や「自由な場面」が構成できるのだろうか? という問題である。この問題にこれ以上深入りするのは避けるが、「カウンセラーの言動とカウンセラーの存在の仕方が、カウンセリング場面においてどれだけ密着できているか?」は、きわめて重大な問題であり課題であることを示唆しておこう。

(3)バズ学習場面

 “バズ”とは「蜂がブンブンと飛ぶ音」の意で、今日では様々な分野で使われる用語になっているようだが、教育の分野においてはいわゆる“私語”のことを言う。自発協同学習では「バズしましょう!」という提案が世話人や参加者から度々なされるが、要するに「私語をみんなで積極的にすることを推奨している」のである。
 「バズ学習がどうして必要になってくるのか?」については、すでに自発学習のところで述べた。自発協同学習はその名の通り、自発学習と協同学習の2場面の繰り返しによって展開していく。が、そのようなプロセスの中で、不測の事態として新たな難問が浮かび上がってくることや、世話人によって「○○に取り組んでください!」と、参加者が困惑するような課題が出されることがある。このような事態に直面すると当然ではあるが、グループの動きが硬直もしくは停止してしまうことも稀ではない。これを打開するための場に対する働きかけであり工夫が、バズ学習なのだ。
 世話人はあらかじめ「自発協同学習ではバズ(私語)することを推奨しているので、必要が出てきたらどんどん積極的にしてください」と伝えておく。そうすると上述のような硬直した場面において、「バズしましょう!」とか「みんなで相談しましょう!」という動きが生じやすいし、また、そのような動きがなかなか生じてこない場合には、世話人から「バズしたらどうですか?」と、その場に働きかけることも可能になる。
 人間が“生身で”動くとき、すなわち効果的な学習場面においては、どのような事態が発生するか、まったく誰にも予測不可能である。講義形式の教育を行なうのなら、ある程度は計画的に進めることも可能だろうが、自発協同学習の場合はそうはいかない。自発学習と協同学習の2場面だけでは、にっちもさっちもいかなくなることがあるので、いわば「潤滑油の役割を果たしている」のがバズ学習なのである。
 言うまでもないが、通常の学校教育では「私語は禁止されている」のが普通だ。理由はいろいろあるのだろうが、その一つは「生徒の私語を容認したら、教師が授業を計画通りに進められない」からであろう。カウンセリングや自発協同学習でもって人間の成長や発展を促そうと企てている私たちの立場から見れば、「計画通りに進めようとする」という行為自体が「生身の人間を抹殺しようとする動き」に他ならない。このことは教育界に限らず、現代社会に広く存在する大問題にもなってくるだろうが、とくに教育関係者にはこのあたりの問題について、よくよく考えてもらいたいと願っている。

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自発協同学習で学ぶ(2)

2009年07月15日 | 主要な論文

優越感と劣等感からの解放

 以上、自発協同学習というものに対し、筆者なりのアプローチを試みてきた。が、このようなものを「言葉によって伝達するには限界がある」という気持ちも少なからずあるのが正直なところだ。それはカウンセリングというものを「言葉によって伝達するのは不可能である」という事実と同様だ。ゆえにカウンセリングでは、何よりも体験学習が重要視される。
 以下に「信川教育の本質をズバリ表現している」と思われる友田先生の論文を再録しておく。引用したのは『花は自分でひらく』(日本カウンセリング・センター刊 1979年)からの一部抜粋だ。これらの記述によって“自発協同学習”と仮に名づけられた何かを、そしてまた、“それ”に生涯をかけて取り組んだ信川先生と平野先生両名の“人”を感じ取ってもらえたら……というのが、現在の筆者の切なる願いである。
 老子は言う、「道可道、非常道、名可名、非常名」(道の道とすべきは、常の道に非ず。名の名とすべきは、常の名に非ず)と。孔子もまた言う、「人能弘道、非道弘人也」(人能く道を弘む。道、人を弘むるに非ざるなり)と。仮に“カウンセリング”という言葉を「人間の飛躍・成長・発展を目指して行なわれる何らかの取り組みである」と定義するならば、友田先生にとっての蕉風俳諧も、信川先生や平野先生にとっての自発協同学習も、これらは方法や名称こそ異なれど、それぞれの実践者(=人)において紛れもなく「カウンセリングだった」と、筆者は確信している。

           * * * * * * * * * * *

 今さら申し上げるまでもないとは思うのですが、一般的な言い方をすれば、
  “教育は、意識的教育と無意識的教育とに二大別される”
わけで、“きわめて困難な教育上の諸問題”がほとんど後者、つまり“無意識的教育”に属することは、すでに周知のところでありましょう。“信川先生の教育”が、特にこの映画に現われている限りにおいて言えば、この“無意識的教育”に焦点を合わせていること、自明でありましょう。“自然の中の生活教室”に集まってきている子どもたちは、多かれ少なかれすでに、この“無意識的教育”の領域において、“阻害され傷害されている子どもたち”であります。信川先生は、多くの子どもたちが、というよりも“すべての子どもたちが”と言ってしまっても過言ではないくらいに、“教育”という名のもとに、不知不識のうちに阻害され傷害されている現実について、世のいわゆる“批判的言辞”を弄するようなことを何一つ語っておられません。しかし、それこそ“声無き声”で、
  “不知不識のうちに阻害され傷害されている子どもに、どうかもっともっと心を寄せてください”
と、“祈願をこめて”語りかけてくる信川先生の言葉を耳にするのは、決して私だけではないでしょう。
 “無意識的教育”――それは、現実の世界においては端的に、“優越感および劣等感”となって顕現してまいります。信川先生が、どんなに深く、かつ強く、この“優越感と劣等感の問題”に心を寄せておられるか、そしてまた、ご苦心・ご苦労を重ねておられるか、ということもまた、誠実かつ敏感な視聴者の方々によって、容易に感得されるところでありましょう。誤解されることを恐れず、思い切って単純化して言えば、この映画に関する限り、
  “信川方式の焦点は、不知不識のうちに身につけてしまっている優越感や劣等感から子どもたちを解放するところにある”
と言ってしまってもよいのではないでしょうか?(中略)
 “温故知新”は、決して決して言葉ズラで片づけられてはならないでしょう!! “自然科学”の分野において、西欧の科学者たちが東洋古来の思想に興味を抱き関心を寄せ始めている傾向は、決して表面的な動向ではなく、“物理学の秩序を書き換える必要がある”(ロンドン大学教授 デビッド・ボーム)という見解をさえもたらしているとのこと。門外漢の私には、近代物理学の実相は判りようがありませんけれど、“古い古い東洋思想が最初の科学の基盤になるであろう”動向は、十分に肯けるところであります。“優越感の解消”と、“劣等感からの解放”と、――現実的・方法的に、この問題に焦点を合わせているように思われる“信川先生の教育”は、その真実相においては実は、“意識”とか“無意識”とか、あるいは“優越感”とか“劣等感”とか、というような次元をはるかに超えた次元で展開されている、“きわめて古くて最も新しい教育である”と言ってよいのかもしれません。浅学非才にして怠惰な私には、とうていそこまで立ち入ることができませんけれど、存分に立ち入り検討する価値を秘めていることだけは、心ある人々の感得するところではないでしょうか!?

<引用文献:友田不二男 1979年 「“信川先生の映画”完成に寄せて」『花は自分でひらく』日本カウンセリング・センター P.8-10>

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