カウンセラーのコラム

山梨県甲府市でカウンセリングルームを開業している心理カウンセラーの雑文です。

純粋性(genuineness)ということ

2011年01月18日 | 日記 ・ 雑文
先日の土曜講座「東洋思想とカウンセリング」にて、次に掲載する文章が“とても強く心にかかった”という経験を得た。このような心の働きは“学習の機会が訪れている”ことを意味・象徴しているに違いない。よって、そのことをより明確にしていきたいと思う。

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佐治:ぼくも含めてだけれど、多くの人がその辺でひっかかっていますね。自分が今こういう気持ちになってるんだからこのままでいい、っていうのはあまりにも単純でね(笑い)。さっきの黙っていたいから黙っているのと同じでね。
友田:その“いたい”がほんとうに“いたい”のだか、あたかも“いたがっている”みたいに思わせているんだか、ぜんぜんわからないところで、そういう言葉を吐きますよねえ。わたくしはね、人間がひとりでぽつんと置かれてね、その人のなかからフッと何かでてくるとしますね、アイディアならアイディアでいい、そういうアイディアがでてくる、そのときの人間の姿をgenuineという言葉でいっているのなら、わたくしは了解可能なんです。(ロジャーズ全集第18巻 岩崎学術出版社 1968年 P.422)

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筆者もまた、長年のカウンセリング経験を通して「ロジャーズの中核概念の一つである“純粋性”(genuineness)というのは、ひょっとするとかなり多くの人々に誤解されているのではないか?」という問題意識をうすうす感じていたので、それがこの陳述によってクローズアップされたのだろう。「その“いたい”がほんとうに“いたい”のだか、あたかも“いたがっている”みたいに思わせているんだか」は、じつに重大な問題提起であると思う。
あるワークショップで「あなたの話を聞いて、私にはこれこれこういう気持ちが湧いてきました」という参加者の発言を聞いた友田先生が、あとでこっそりと「“湧いてきた”んじゃなくて、本当は“沸かせてる”んだろ」と述べていた、というエピソードもある(笑)。

人間にとってgenuine(純粋)という在り方を得るのがいかに容易ではないか、ということは、次の一文によっても示すことができるだろう。

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「クライエント」がなすべき仕事は、誰よりも「クライエント自身」がもっともしたいと思うことをできるだけ最大限に遂行することですし、「カウンセラー」がなすべき仕事は「クライエント」が、今、そこで、もっともしたいと思うことができるだけ最大限に遂行できるように援助することなのであります。(自己の構造 柏樹社 1964年 P.15)

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この文章の主旨や内容は容易に理解できるだろうが、注目してほしいのは“もっとも”の一語である。個人カウンセリングにせよ、グループカウンセリングにせよ、カウンセラーは最大限に自由な場面を創造すべく、一瞬一瞬注意を払いながら努力を重ねている。が、その場面でクライエント(もしくは受講生)は、はたして本当に“もっともしたいと思うこと”をやれているのだろうか? ひょっとするとただ単に“したいと思うこと”をやっているに過ぎないのではないか? といった問題が提起されてくるだろう。しかもそれは“なすべき”の一語によって、より強調されてくるように私には読める。
“もっとも”の一語によって、クライエントがカウンセリング場面を十分に活用することがいかに容易ではないか、ということが少しは実感できるだろうと思う。カウンセラーがなすべき仕事は、クライエントにとって決して“容易ではないこと”を最大限に遂行できるように援助することである。ゆえに、よりいっそう“容易ではない”ということ、言うまでもなかろう。

このあたりの事情、もしくは真相・実態について、ブライアン氏(ロジャーズと面接したクライエント)がじつに見事に“洞察している”箇所があるので、そこも引用しておこう。

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ク311:ええ、そこでぼくは、先生を訪れようと決心したんですよ。前に申しあげたようにですね、ぼくの感じだと、ぼくの方での努力は、心からやったとはいえませんね。もしそうだったらばですよ――もし心からの努力をしていたら、努力は実っていたと思うんで、ぼくがやっていたことは、いわば、少数派にパン片をやってきたようなものなんですよ。
ク317:そうですね、ぼくの考えでは、あるひとりの人間が、ほんとうに変化するときには、多くの人びとは、しばしば、自分は神のためにそれをやっていると考えるようですが、そのお(思慮深げに)おそらくぼくは、宇宙からは何ひとつ必要としないんですよ、それだとね。
ク318:ええ、それはたしかにすばらしい論点ですね。その――エエト、ぼくがふたつの道のひとつを採択することを正当化しようとして、哲学的に何か重要なものを求めていたのは、実際にはぼくが、絶対に見つかりっこないと知っていたものを捜していたんですね。
ク319:なぜならば、ぼくは、あるひとつの道を採択すべき宇宙的命令は絶対に見つからないということを知りうる知性をもっていたんですよね。そしてそこで、ぼくは、自分自身の動機づけの欠如を合理化するために宇宙的命令の欠如を、みずから利用していたんですね。
ク321:ぼくがこれからやろうとしているのはそのことなんですね――自分の諸価値の証拠を求めることではなくて、とにかく自分がもっと自己を尊敬でき、しかも満足の得られる諸価値を身につけてゆくことですね。
ク322:ぼくは、ぼくの宗教的な条件づけが、何か宇宙的な合図のようなものにたよるように、ぼくをしてしまったと思うんですよ。本来のぼくは、神の賛同にたよらなければならなかったんですね。あるひとつの個人化された神格への信仰を喪失すると、今度はぼくは、自然だとかそのような他のものからの合図を求めたんですよね。しかしぼくは、外部からの正当化なしに、自分の諸価値を身につけることを学ばなければならないんですね。ということは、けっきょく、ほんとうにぼくが欲しているものってことになりますね。(沈思)それは、完全に白兵戦だって思いますね。(ロジャーズ全集第9巻 岩崎学術出版社 1967年 P.146~152)

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引用文が長くなりすぎるという理由から、カウンセラーの発言(レスポンス)は割愛したが、カウンセラーの発言に対しても「検討すべき価値は十分ある」と思われるので、もしも機会があったら一連のプロセス全体を熟読・吟味していただきたいと思う。
この引用文からとくに取り上げたいのは、最後の「それは、完全に白兵戦だって思いますね」というセリフだ。もしも、この場面で達成されたブライアン氏の洞察が理解できるならば、その人はきっとカウンセリング用語の“共感的理解”が経験されるに違いない。「まさしくそれは“白兵戦”以外の何ものでもないのである!」と私は言いたい。
自戒の念を込めて付言しておきたいのであるが、私たちは日常の生活場面において“ほんとうに”とか“真に”とか“心から”という言葉を安易に使いすぎているのではなかろうか? 俗に言う“真の自己”とは、たとえそれがどのような意味であったとしても、私たち人間にとって永遠の探求課題である。“ほんとうの自分”を知っている人なんて、どこにも存在しないのではないか? とも思う。
仮にロジャーズの言う“純粋性”(genuineness)が「その時その場でのありのままの自分」を意味・象徴する用語であるとしたら、基本的にそれは、しばしば誤解されていると思われる「言いたいことを言えばいい。やりたいことをやればいい。カウンセリングは自由な場面なんだから」というようなレベルのものとは、まったく次元が異なる“何か”なのである。

ブライアン氏は「それは、完全に白兵戦だと思う」と述べた。私もまた、それが完全に白兵戦であることを承知のうえで“自分自身になってゆくプロセス”を歩んでいきたい。という意味において、私とブライアン氏とは紛れもなく“同志である”ということも再認識できたところだ。

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