カウンセラーのコラム

山梨県甲府市でカウンセリングルームを開業している心理カウンセラーの雑文です。

3タイプの応答

2007年08月31日 | 日記 ・ 雑文
“自分というもの”をとらえるのは極めてやっかいである。仮に「これが自分だ!」と思えたとして、“そう思った(認識した)”のもまた自分である。そこで「これが自分だ! と、そう思った自分とは何か?」という問いが出てくると、次には「これが自分だ! と、そう思った自分とは何か? という問いを発した自分とは何か?」となり、結局どこまでいっても“堂々巡り”になって、収拾がつかなくなるのがオチだ。
「心理学というのは、目で目を見るようなものだ」という例えがあるが、みなさんにもこんな経験があるだろうか?

というわけで、私は自分の頭の中を整理するための“説明概念”として、“吾”とか“我”とかいう用語を使用している。これはあくまでも“説明概念”であり、決して“自分というもの”の実態・真相を示す言葉ではない。“自分というもの”の複雑性が“吾”と“我”の二語で片付けられるわけなど到底なく、究極的な意味においては、それを“言葉で表わす(言語化する)”こと自体が不可能であるとも思っている。
あるいは、「“自分というもの”を最も正確に言語化しようとするならば、“それ(it)”としか言えないであろう」という言い方もあるが。

前置きが長くなったが、この小稿を執筆するのは、“吾”と“我”という用語を使用しながら、「カウンセラーはクライエントの“何を”援助するのか?」という問題について、自分の頭の中を整理してみたいと思ったからである。
そこで、典型的なカウンセラーの応答を3タイプ挙げ、それぞれがクライエントの“何を援助することになるのか?”を、明確にしていこうと思う。(誤解がないように言っておくが、カウンセラーの応答が3タイプに集約されるわけではない。「“何を援助するのか?”をハッキリさせる」という主旨から、その他のタイプの応答は割愛しているだけである)。

私の臨床経験から言うと、クライエントの99%が「私は自分の○○○をイケナイ(または困っている、もしくは嫌だ)と思うのです」という主旨の陳述を行なう。いわゆる“主訴”というやつだ。
この○○○の中には、その人が抱えている具体的な問題、たとえば“神経症の症状”や“うつ病の症状”をはじめ、“やる気が出ない”、“会社(学校)に行けない”、“転職を繰り返してしまう”、“親(もしくは彼、彼女)から愛してもらえない”、“不倫が止められない”、“盗みを働いてしまう”、“嘘をついてしまう”、“人間関係が上手くいかない”などが入る。
無論、それが無ければ「カウンセラーに援助を求める理由も無い」わけだから、それを述べるのは当たり前のことであるが。

それに対するカウンセラーの応答は、主に次の3つがあるだろう。

タイプ1:「それはイケナイですねえ」
これは言外に(……私もそれはイケナイと思いますよ)という、カウンセラー側の“価値基準”が含まれている。○○○というクライエントが抱えている問題に対して、「その問題は、有るより無いほうが良い」という価値を保持しているカウンセラー(問題解決を目指す人)は、このタイプの応答をするだろうと思われる。

タイプ2:「あなたはそれをイケナイと思うのですね」
これは言外に(……私はそれを良いとも悪いとも思ってませんが、“あなたがイケナイと思っている”のを、私は理解できますよ)という言葉が含まれている。ここには問題に対するカウンセラー側の“価値基準”は一切無い。
ロジャーズ流(ノンディレクティブとかクライエント・センタード)の典型的な応答だと思うが、基本的・原則的に言ってこのタイプの応答は、“問題解決を目指す人”には難しいだろうと思われる。

タイプ3:「その“イケナイ”という思いは、どこからくるのでしょうねぇ?」
これは言外に(……その問題も含めて、“あなたという人全体”について、一緒に取り組んで行きませんか? 私はそうしたいのですが……)という思いが含まれている。問題だけでなく、“それを問題にしている自分”をも視野に入れるわけで、一段高いところから検討していくことを促すアプローチだ。
ただし、このアプローチはタイミングを誤ると大失敗するので、とても危険であることも付言しておこう。以下は私の失敗経験だが、「単純な“理屈付け”をされ、片づけられてしまう」ことや、「ポカンとした顔で、“なんでそんな当たり前のことを聞くの?”という態度を表わす」ことや、極端な場合は「“そんなこと知るか! それはあんたの仕事だろう!”と怒り出す」場合もある。
機が熟さないと意味がないどころか、むしろ“逆効果”になってしまうので、一口に「アプローチする」といってもかなり難しいのが実際のところだ。

さて、「カウンセラーはクライエントの“何を”援助するのか?」という問いに対する基本的な仮説をまずは提示しておくが、「カウンセラーはクライエントの“吾”が、“できる限り生き生きと生きられるようになる”ような、そういう類の援助を行なうのである」と仮定しておこう。異論があるかもしれないが、私は現時点でこの仮説を保持している。
このような観点から、タイプ1、2、3の応答を検討していくと、

タイプ1
これは“我”を援助することになっている。「○○○をイケナイと思う」のは“我”であるから、その価値基準に対してカウンセラーが同意し、肯定するならば、“我をさらに強化すること”につながるだろう。

タイプ2
これは中立であり、カウンセラーは“我”と“吾”のどちらの肩も持たない。しかも“我”に対して受容と共感の態度を示しているので、クライエントは“我”を一時的にカウンセラーに預けることができる。荷物をコインロッカーに預けるのと同様に。
“我”が自分の世界から一時的に消えれば、その分だけ“吾”が浮かび上がってきて働き出すであろうから、そういう意味では「“吾”に対する援助になっている」と言えよう。

タイプ3
これは“我”と“吾”を超越したところで“自分というもの全体”を見るように促すアプローチだが、間接的には「“我”を揺さぶる」もしくは「“我”を崩していく」効果を期待して行なわれる。が、カウンセラーが作為的にこれを行なうと、クライエントは敏感に“身の危険”を察知し、防御体制に入ってしまうので要注意だ。
しかし、二人の関係とプロセスがかなり進行し、機が熟したところで“自然発生的に”カウンセラーの口からこれが出てくるならば、そのプロセスは飛躍的に進行するだろう。……と、私の経験からは言える。

“人間の成長を目指す”立場のカウンセリングでは、“クライエントの問題”を問題にはしない。“問題にしているということ”そのことを含めた全体を問題にするのである。そこに疑問を持ち、そこにアプローチする。
カウンセラーは“クライエントの問題”を“悪”とは見なさない。むしろ「クライエントにその問題が訪れたことによって、飛躍・成長・発展を達成するための絶好のチャンスがやってきた!」と、肯定的に“観ずる”ことができる。
したがって、「問題を解決してあげよう!」などという思い上がった心は一切浮かばない。“問題を抱えたクライエントそのもの”を、“存在そのもの”を、大切にできる心が養われているのだ。

「カウンセラーの応答は、カウンセラーの“人間観”から発せられるものである」と、私は確信している。
しかしこの“人間観を育てていく”ということが、“とてもとても大変である”というのも、たくさんの失敗から実感している。これに対しては、「一にもニにも、経験と行を積むしかないのだろうな~」とは、思っているのだが……。

P.S.この長文を書き上げるのに4日間も費やしてしまった。「自分の頭の中を整理する」のが、こんなに骨の折れることだとは思ってもみなかった。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 息子と二人っきり | トップ | “素の自分”と“本質的な自分” »

コメントを投稿

日記 ・ 雑文」カテゴリの最新記事