カウンセラーのコラム

山梨県甲府市でカウンセリングルームを開業している心理カウンセラーの雑文です。

カウンセリング理解と誤解

2011年04月23日 | 日記 ・ 雑文
最近の経験だが「カウンセリングって、想像以上にまったく理解されてないんだなあ」と思うことがあった。咄嗟に「どうしてだろう?」という疑問が浮かんだのだが、この疑問をめぐってアレコレ思考してみようと思う。

最初に断っておかなかればならないが、仮に「カウンセリングとは何か?」と問われたとして、それに対し「カウンセリングとは○○○である!」という返答は決してできない、という事実がある。“できない”のは「それが解明され尽くしてしまっているわけではない」ということを私がよく知っているからで、決して「もったいぶってやろう」とか「相手に考えさせてやろう」という意図があるわけではない(笑)。
ま、よく考えてみれば、明解な答えを出せないのは何も“カウンセリング”に限ったことではない。例えば「人間とは何か?」、「人生とは何か?」、「心とは何か?」、「愛とは何か?」と問われたとしても、その時その場での個人的見解なら述べられるだろうが、「それは○○○である!」と客観的な立場から正解を提示できるなんてことはあり得ないだろう。
これらの問題は、もしも探求したいのなら、探求することのみが可能なテーマである。ということは「私たち人間は、重要な問題については、ほとんどまったく何も知らないまま生きている」ということになるだろうか?

さて、「カウンセリングとは○○○である!」という解答は提示できないことが判明した。そこで次善の策として「カウンセリングとは○○○ではない!」という言い方によって、カウンセリングをより明確にしてみよう。ロジャーズはカウンセリング関係について次のように論じている。

「セラピィの関係は、親子関係、すなわち、深い愛情の絆に結ばれて、一方の側には特有の依存関係を、他方の側には権威と責任のある役割を甘受している関係を、持つようなものではないのである。親子の結合は、永遠に変わらない基調と完全な愛着とを持っているが、それは、最もよいカウンセリングの役割ではないのである。
同様に、セラピィの関係は友人相互の関係でもない。友人の結合における顕著な特徴は、完全な相互関係、すなわち、相互に理解があり、与えかつ取る(give and take)関係である。カウンセリング関係は、また、典型的な師弟関係でもない。師弟関係は、優者と劣者の地位を含蓄しており、一方は教え、他方は学ぶ、と想定されており、その完全な信頼は、知的な過程にある。また、セラピィは、医者と患者との関係に基礎づけられているものでもない。医者と患者との関係は、医者の側においては優れた診断と権威のある助言を、患者の側においては従順な受容と依存を、その特徴とするものである。例示すれば際限がなかろうが、カウンセリング関係は、たとえば、多少の要素は類似しているけれども、しかし、ふたりの協力者の関係ではなく、また、指導者と従属者の関係でもなければ僧侶と檀家の関係でもないのである。
要約すれば、カウンセリング関係は、クライエントがかつて経験したことのあるどのような関係とも異なる性質の社会的な結合なのである」(ロジャーズ全集第2巻 P.101-102)

このような記述を読んだところで、実際に経験することなしにカウンセリング関係を実感的に理解できる人物は極めて稀だろう。ロジャーズはこの記述のあと「カウンセリングとは○○○である」という言い方で読者に説明しようと試みているが、それを加えたとしても同じだろうと思う。なぜなら、ロジャーズ曰く「カウンセリング関係は、クライエントがかつて経験したことのあるどのような関係とも異なる」からだ。

本稿のテーマに戻るが、「カウンセリングと呼ばれている何らかの行為や活動が、どうしてこれほどまでに誤解されているのか?」という疑問に対する解答の一端が見えてきた。
ひとつは「カウンセリングとは○○○である!……という言い方で明解な説明ができないから」であり、もうひとつは「実際に経験してみなければ理解できないものだから」であろう。
私のカウンセリング経験から言えば、初回面接に来るクライエントのほとんど大半(90%以上)が、カウンセリング関係を“教師と生徒”、もしくは“医者と患者”と同じものだと想定しているようだ。平たく言えば「問題や悩みの解決法を教えてもらいたい」とか「精神的な病や障害を治してもらいたい」という気持ちでやって来るわけだが、このような気持ちから援助を求めていたとしてもそれはむしろ当然だと思えるので、それを咎める気にはぜんぜんならない。
だが、一方で「カウンセリングというものを理解してもらえなければ、永遠にカウンセリングにならない」のも事実だ。そこで多くの場合、カウンセリングを理解してもらうための特別なアプローチが必要になってくる。このアプローチを専門用語で“場面構成”などと呼んでいるわけだ。

と、ここまでは容易に理解できるものの「カウンセリング誤解というのは、いったいどこからどのようにして生じるのだろうか?」という疑問は依然として残る。もしも「カウンセリングって、よくわからないなあ」と経験されているなら、“よくわからないまま”の状態にしておけばいいはずだが、人はどうして、あえて“誤解”するのだろうか?
これは人間にとって、じつに重大な問題が含まれてくる問いに思えるので、それこそ安易な解答は提出できない(=探求のテーマになり得る)問題だろうが、重要な要因のひとつに「言葉でわかってしまう」という人間の本質的傾向や特徴(……なのかどうか、本当はよくわからないのだが)があるように思う。余談になるが、この問題を人間に内在する最大の問題として取り上げているのが、いわゆる“禅”だ。よって禅の世界では「言葉でわかること=概念化」を徹底的に排除する。

以上のような論考を進めてきた“この私”も、ひょっとすると“カウンセリング誤解”や“人間誤解”をしている可能性はある(もっと言えば、ロジャーズだって“誤解”していた可能性は残っている)。
“この私”を含めて多くの人は、何らかの不明確な問題に直面した際に小賢しい頭脳によって「言葉でわかってしまう」という状態に陥りがちであるが、それを回避するには「つねに探求していく」という態度・姿勢・あり方が望まれるのであろう。
大袈裟な言い方をすれば「このような“生き方”こそが、人生に豊かさをもたらしてくれている」と私には経験されている。そして、このような取り組みを実践できる絶好の機会のひとつが、私にとっては“カウンセリング場面”になる。もちろん「言うは易し行うは難し」で、どんな内容の取り組みにせよ、何かを行なうならそれ相応に“骨が折れる”に違いないのは承知しているつもりだ。

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