カウンセラーのコラム

山梨県甲府市でカウンセリングルームを開業している心理カウンセラーの雑文です。

自発協同学習

2007年09月25日 | 日記 ・ 雑文
日本カウンセリング・センターが主催する講座「カウンセリング概論」では、本年度の4月から“自発協同学習”というものを取り入れて学習に取り組んでいる。
“自発協同学習”というのは、故・信川実先生(元広島県竹原市賀茂川中学校校長)が心血を注いで開拓・創造していった学習法であり、当時は全国的にも脚光を浴びていた学習法だが、現在ではその言葉すら聞いたことがない人がほとんどではないだろうか? かくいう私も“自発協同学習”という言葉を初めて聞いたのは、ほんの数年前のことなのだから。
その講座「カウンセリング概論」に私は、世話人の一人として参加しているのだが、この“自発協同学習”を初体験した感想を一言で述べるなら、「ショッキングだった」としか言いようがない。「私は今まで“カウンセリングで学習してきた”と思っていたが、本当に“学習していた”のだろうか? 私は本当に“学習するということ”、そのことが“できる人間”なのだろうか?」という思い方が生じたのだった。

“自発協同学習”の根本的な理念・精神は、「自分が学習したことを、参加者である皆さんにも分け与える」というものである。自分が学習したことを“自分だけのもの”にはしない。“自分だけ”が得するのは許されない。すなわち、「みんなで一緒に成長・発展していくこと」を目指しているわけだ。
これを現実化していくための様々な工夫があるのだが、際立った特徴は、カウンセリング用語で言うところの「場面構成を非常に明確に行なう」という点にある。
最も基本となるのは“自発学習”の場面。これは言い換えると“個人プレーを行なう”場面だ。何かの課題が設定されたとき、“個人でその課題に取り組む”ということが、この場面では行なわれる。
その次に大切なのが“協同学習”の場面。こちらは“チームプレー”に相当する。“参加者全員でその課題に取り組む”わけだが、具体的には「私はこれこれこういうふうに、この課題に取り組みました」という発表をする場面だ。もちろん、その個人発表に対する参加者の応答は自由になされるわけで、話題が思わぬ方向に展開していくことも稀ではない。
基本的にはこの二つ、“自発”と“協同”の場面が繰り返されるのだが、場合によってはある課題が提出されたときに、“にっちもさっちも動けなくなる”ということが起きる。「この課題に取り組むには、“自発(個人)”でやればいいのか、それとも“協同(チーム)”でやればいいのか? う~む。困った」という状況が発生したときには、「バズしませんか?」という提案が許される。
“バズ”というのは“私語”の意味で、学校での授業中にちょっと困ると隣の人をつっついて「ねえねえ。これって何なの?」とかやるが、そういう“私語”を「みんなでオープンにやりましょう!」という場面もあるのだ。これを“バズする”とか“バズ学習”と呼ぶ。学校でこれをやると「私語はやめなさい!」と先生に叱られるが、“自発協同学習”ではむしろ“私語を推奨している”わけだ。

“自発協同学習”は、上述の三つの場面で構成されるのだが、中でもユニークなのは“協同学習”の場面だろう。ここで“自発(個人)学習”したことを発表するわけだが、発表する順番に厳格なルールが設けられていて、「自信のない人から発表する」というのが決まりになっているのだ。
このルールにはいろんな意味があって、ひとつには「優等生が優秀な答えを最初に言ってしまうと、後に続く人が発表しづらくなってしまう」というのがある。これだと優等生は気分いいだろうが、他の人は“劣等感を味わう”ことにしかならないだろう。
もう一つの理由は、自信がない人の場合、「自分の発表をどう行なうか?」で頭がいっぱいで心臓はドキドキするし、とてもじゃないが“他の人の発表を聞ける余裕が持てない”というのもある。自分の発表を先に済ませてしまえば肩の荷が降りて、他者の発表を聞ける余裕も生まれるわけだ。

ここで大切なのは“必ず全員が発表する”というところにあると思う。どのような個人的な事情や理由があろうとも、“発表しない”という行為は許されない。もし仮に、「私は発表できません(したくありません)」という人を容認してしまったら、勇気を振り絞って、恥を忍んで発表した人が、“バカを見る”ことにならないだろうか?
……と言うと少し強すぎるかもしれないが、「自分が学習したことを参加者全員に分け与える」、すなわち「自分だけが得をしない」のが“自発協同学習”の根幹である。そして言うまでもなく、“自分の学習を自分自身で遂行する責任”を放棄することは、決して許されるものではない。たとえカウンセリングが“どうぞご自由に”という、最大限の自由を保障する場面であったとしても、だ。
カウンセリングには“責任の制限”というものがある。自由ではあるが、“自分の責任(学習を行なう責任)を放棄する自由”は与えられてないのだ。逆を言えば、“責任の制限”が理解できない人には、“自発協同学習”もまた理解できないだろうと思う。

そしてこのこと、すなわち「誰もが抵抗なく、自分が学習したことを発表できる場」を創造するためには、“他者を批判しないこと”や“他者を優劣で評価・判定しないこと”、そういう態度が参加者全員に求められてくる。
大切なのは“発表の中身”ではない。“○×を付けること”ではない。“正しい答え”も“間違った答え”もない。
本当に大切にしなければならないのは、“個人(自分も他人も)が、自分の学習を遂行していったプロセスそのもの”である。その“プロセスを大切にできる心”を参加者全員が養っていかなければ、“自発協同学習”は成り立たないだろう。そして“その心”を養いながら、自分を磨いていくための場として“自発協同学習”という名の道場があるのだ。……と、私はその学習経験から思っている。

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