カウンセラーのコラム

山梨県甲府市でカウンセリングルームを開業している心理カウンセラーの雑文です。

蕉風俳諧

2007年09月27日 | 日記 ・ 雑文
最初に断っておくが、私は“蕉風俳諧”というものについて、何かを語れる資格など持ち合わせていない人である。というのは私の“俳諧のワーク”への参加経験は過去に4~5回ある程度であり、その理解の程度は“非常に浅薄なものである”という自覚があるからだ。
そんな私が「蕉風俳諧を取り上げてみよう」と思ったのは、前回書いた“自発協同学習”との関連が、私にはどうしても感じられてしまうからだ。知ってる人にはいまさらだろうが、“蕉風俳諧”は友田先生が心血を注いで取り組んだものである。信川先生の真髄が“自発協同学習”なら、友田先生の真髄は“蕉風俳諧だった”といっても、決して言い過ぎではないように思う。そしてこの両者に共通する“根底にあるもの”が、何かありそうな気がしてならないのだ。

念のため説明しておくと、“蕉風俳諧”とは、松尾芭蕉がその生涯をかけて取り組んだものである。芭蕉というと“俳句の名人”みたいに思われているふしがあるが、本当は“俳諧師だった”ことが近年明らかになっている。(ちなみに“俳句”とは、俳諧でいう“発句(ほっくと読む。最初の一句こと)”である)。
数年前に放映された『水戸黄門』(主演は石坂浩二だった)に芭蕉が登場していたが、そこでは“俳諧師”として描かれていたので、現在ではもう“俳諧師とする見方”は一般的なのだろう。
で、友田先生はこれを「蕉風俳諧は、江戸時代のカウンセリング(といっても“人間の成長を目指す”ほうの)である!」と断じていて、その探求と実践に邁進していったわけだが……。

話を元に戻すと、“自発協同学習”を初めて体験したとき、私には「これって“俳諧の世界”と同じだなあ」という感覚が生じたのだった。とくにそれを感じたのは、“自分の責任を放棄することはできない”という点においてだった。

俳諧の絶対的な基本原則は、“前句に付ける”ということである。付けた句を“付け句”と呼び、その“付け句”にまた“付け句”を付けて……という具合に進展してゆく。別言すると、俳諧とは“連句”なのだ。
そしてこの“付け句”が、カウンセリング用語だと“レスポンス”に相当する。クライエントの陳述に対する“カウンセラーの応答”の意だ。
俳句も俳諧も通常はグループで開催されるが、俳句が“個人プレー”であるのに対し、俳諧は“チームプレー”になる。俳諧用語で“膝送り”と呼ぶのだが、付け句を作る順番は参加者一人一人に必ず回ってくるので、自分の番が近づいて来ると心臓がバクバクと高鳴ってくる。そして自分の番がやってきたときにはもう、それこそ“地獄の苦しみ”だ。「何も浮かばなかったら、句が作れなかったら、どうしよう!?」という不安や、「私には何も作れませんでした……というわけにはいかないぞ。なんとかやり遂げなくては!」という重圧感や焦燥感とで、脂汗をびっしりとかく。
やっとの思いで「できた!」となったら、今度はその句を自分の手で黒板に書かなければならない。背中には参加者たちの鋭い視線が突き刺さる。しかもその中には、友田という“最高に恐ろしい人物”が座っているのだ。板書する私の手が震えるのも無理ないだろう。

これが私の“(膝送りでの)俳諧ワークショップ体験”だった。一言で言えば、「付け句を作る(=レスポンスする)という自分の責任からは、どうあがいても逃れられない」ということだ。
しかしこれを“カウンセリング場面”に置き換えてみると、当然のことにも思える。面接中においては、仮に「クライエントの陳述がさっぱり理解できない」と経験されたとしても、カウンセラーは何らかの応答をしなければならない。いや、“しなければならない”は言い過ぎだとしても、“応答が浮かばない”からといって沈黙を決め込むだけでは、カウンセリング自体が成立しないだろう。
そしてこの「自分の責任を果たす」ということと、“自発協同学習”で「参加者全員が自分の答え(プロセス)を発表する」ということとが、私の中では“まったく同じところを目指している”ように思えるのだ。

『花は自分でひらく』(センター刊)の中で友田先生は、「芭蕉と信川先生とが、私には同一視できる。両者の“態度・姿勢”はまったく同じである」という意味のことを述べているが、“蕉風俳諧”と“自発協同学習”を体験している私には、このような言い方がわかるような気がする。
これは私の勝手な推測だが、おそらく芭蕉も信川先生も“日本人というもの”の本質や特徴を、深く深く“洞察していた”のではあるまいか? そしてこの二人に共通する態度・姿勢を“洞察していた”友田不二男という人物もまた、この二人と“同レベルの人間だった”のではないか? と思えてくるのだが……。

芭蕉や信川先生や友田先生らが目指したものは、“人間の成長を目指す”カウンセリングであり、決して“癒し”のカウンセリングではない。“人間の成長を目指す”とは、換言すれば“人間を磨くこと”であると、“自発協同学習の体験を通して”あらためて認識させられたのだった。

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