カウンセラーのコラム

山梨県甲府市でカウンセリングルームを開業している心理カウンセラーの雑文です。

“素の自分”と“本質的な自分”

2007年09月05日 | 日記 ・ 雑文
“自分というもの”を表現しようとするとき、“本当の自分”という用語を使う人が多いが、私はその言葉を好まない。というのは、その“本当の”が何を指すかによって、ぜんぜん意味が違ってきてしまうからだ。
そこで私は“素の自分”と“本質的な自分”という用語を使用しているが、人によっては“本当の”が“素の”ほうを指していたり、“本質的な”ほうを指していたりするわけだ。クライエントとの面談中にクライエントからこの“本当の自分”という言葉が出てきたときは(よく出てくるのだが)、「どちらを指しているのか?」に非常に注意深く、かつ敏感になっているので、「両方の場合がある」ということを私は経験的によく知っている。
私がその2つをどう定義しているかについて加えると、「素の自分=我」、「本質的な自分=吾」と置いている。

私の“素の自分”の主な特徴を羅列してみると、
物静か、無口、おとなしい、温和、引っ込み思案、小心者、非社交的、内向的、人見知りする、遠慮する、恥ずかしがり屋……などなど。
が挙げられる。これらは後天的に形成されていった自分であると思っている。すなわち、オギャーと生まれた時点から現在までの人生経験における何らかのプロセスによって、このような特徴が形作られたのだろう。

これに対し、私の“本質的な自分”のほうは、
よくしゃべる、積極的、物怖じしない、遠慮しない、大胆、アクティブ、社交的、外交的、恥も外聞もない……などなど。
の特徴がある。まるっきり正反対のようだ。
こちらはたぶん、オギャーと生まれた時点で“すでに持っていた”特徴やら資質なのだろうと思っているのだが。

言うまでもなく、日常生活の大半は“素の自分”で過ごしている。理由はいろいろあるのだろうが、“疲れない”というのもある。“素の自分”のほうが、精神的・身体的エネルギーの消費量が少なくて済むのだ。妻からよく「あなたは何を考えているのかわからない」と言われているので、かなり徹底してやっているらしい(笑)。そんな自覚はないのだが……。

ところがこれが、“カウンセリング場面”となると一変する。グループカウンセリングでも個人カウンセリングでも、“本質的な自分”のほうが動き出してしまうのだ。
“素の自分”からすると「大勢の人前で何か話す」などということは考えられないどころか“暴挙である”のだが、グループカウンセリングだとそれがやれてしまう。発言した後、我に返って「なんという大胆な行為をやってしまったのだろう」と、自分に驚いてしまう。極端な場合には、自分が“恐ろしくなる”ことすらある。
個人カウンセリングでも同様で、クライエントの思いや考え方に真っ向から反対する意味で、“私の持論”や“私個人の思い”をぶつけるようにして、長々と演説をぶちかますことがある。しかしこれは、決して“作為的に”やるわけではない。もうどうにも我慢できなくなり、言わずにはいられなくなってしまって、口から飛び出てしまうのだ。例えばこんな具合に……。

「(語気を強めて)あなたはそう言うが、私はそう思いません。確かに世間的な価値基準から見れば、“精神的障害を抱えて弱ってる自分”のほうは、“あいつは病人だ”とか“劣等者だ”とか見なされてしまうでしょう。そしてそのように見なしてるほうの連中は“自分は健全だ”と“優越感を抱いている”に違いありません。でも本当にそうなんでしょうか? 少なくとも私は“自分は健全である”と思っている連中を好きにはなれません。尊敬もできません。私に言わせれば、彼らは“自分の姿を鏡で見たことがない”だけです。極めて鈍感で、向上心のかけらもないのです。私はそういう人に対して“まったく、いい気なもんだ”と思ってしまいます。ま、“悩みがない人”というのが実際いるかどうかわかりませんが、仮にいるとしたらそうなるでしょう。
でも、あなたはそうじゃない。あなたは“よりよい自分”に成長しようとしているのです。“こんな自分はもう嫌だ”、“こんな自分から脱却したい”という切実な願いが、心の奥底にあるのでしょう? 私にはあなたのそういう声が聞こえます。そしてだからこそ、“壁にぶつかる”のです。人間がより大きくなろうとしたら“何らかの壁にぶつかる”のは当然です。“このままの大きさでいいや”と思うのなら、悩みや障害や問題は何も起きてこないでしょう。ま、それはそれで構いませんけどね。ですから私は、“世間的な価値基準”とはまったく正反対に人間を見ているのです。
私は職業柄、“悩みや障害や問題を抱えて弱ってる人”にたくさん会ってますが、そんなことが続けられるのは、“そういう人が好き”だからです。“そういう人が心から尊敬できる”からです。そうでなければ、カウンセラーなんてやってられませんよ。だって、職業とはいえ“自分が嫌いな、尊敬できないタイプの人々”とたくさん会わなければならないなんて、そんなの真っ平ごめんですからね」

と、こんな調子で一気にまくし立てることがある。相手のほうは目を丸くして「迫力に圧倒されました」という態度を示すのがほとんどだ。さっきまで「ウムウム。ハァハァ……」とやってた人が突然豹変したのだから、無理もないと思うが。

見方によれば、このようなカウンセラーの動き、アプローチに対して「ディレクティブ(指示的)じゃないか!」と批判的に見る人もいるだろう。だが私は、むしろ“このような批判”のほうに「?」が付く。ロジャーズはこういうのを「ノンディレクティブ(非指示的)なディレクティブ(指示)」と呼んでいるのではないか?
あるいは友田不二男の言葉を借りれば、「ロジャーズのノンディレクティブを訳すのに最も適切な言葉は、老子の“無為自然”ではないか?」という言い方もある。
少なくとも私の臨床経験においては、これをやって“失敗した”ケースは現在までに一度もない。むしろ“何らかの進展があった”り、“劇的な変化が起こった”場合がほとんどである。
……というのも事実だ。

カウンセラーである私が“このような動き”をとるとき、私の頭の中には“ノンディレクティブ(非指示的)”とか“受容”とか“共感”とかいう観念は一切消え去っている。身体全体が熱くなり(多分体温が1~2度くらい上がってると思う)、根源的なところから湧いてくるエネルギーに突き動かされてしまうのだ。
この“根源的なところ”が、“本質的な自分”であり“私の吾”であり“私の本領”であると思っている。“この状態になった私”は、“素の自分”とはまるっきり別人になってしまうのだ。
「カウンセリングとは、自分の本領をいかに発揮できるか? にかかっている」と言ったある先生の言葉が、私にはうなづける。そしてロジャーズが“純粋性(自己一致)”をあれほど強調するのは、こういう意味なのだろうと理解している。

ただし、「人真似は一切通用しない!(友田)」という言葉も付言しておこう。以前にも書いたが、『論語』の「人能ク道ヲ弘ム。道、人ヲ弘ムルニ非ザルナリ」とは、そういう意味だ。

ところで、「どうしてカウンセリング場面だと、“本質的な自分=吾”が働き出すのか?」という疑問も持っているのだが、じつはこれがよくわからない。ひとつ言えるのは、「“許容的な雰囲気”や“許容的な関係”と何らかの関係がありそうだ」ということだが、その実態・真相となると私の頭のレベルではどうにも理解しがたいのだ。
もちろんこの問題は、“カウンセリングというもの”対して抱いている私の最大の関心であり疑問でもあるわけだから、「今後も探求していきたい!」という気持ちがますます強まっている自分を感じているし、それだけは「確かだ」と言えるが……。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 3タイプの応答 | トップ | そういう人になるしかない! »

コメントを投稿

日記 ・ 雑文」カテゴリの最新記事