◆セスナ172操縦訓練日記&GB350C

軽飛行機操縦訓練の記録と写真

ザ・勉強!

2005年06月26日 | 航空祭

レントゲン技士を目指し、高校卒業後私が勤務する会社でアルバイトをしながら専門学校に通っていた男がいる。彼は2年間雨の日も風の日も、一日たりとも遅れることなく学校帰りに通っては、慣れない接客業のアルバイトをこなした。2年の月日はあっというまに過ぎ去り、やがて卒業を迎えることになった。

彼は最初のレントゲン技士国家試験に失敗した。悩んだあげく、留年という形でバイトを続けながら再挑戦する事になった。しかし・・・難関のその国家試験に、翌年も再び失敗してしまった。

親元を遠く離れ、1人暮らしをしながら苦学の毎日。なんとかしてやりたい気持ちだったが、勉強を手助けしてやれるはずもない。 私にはせいぜい、救急車のサイレンの音が遠くからやってきて、通り過ぎていくときに音が変化していく、あのドップラー効果の事を話題として持ち出すことくらいが関の山だった。

そんな私のいいかげんさをよそに、思い悩んだあげく彼は故郷へ戻ってもう1年、独学で頑張る決心をし、最後のチャンスに賭けることにしたのだ。

まさに3度目の正直、苦節4年目にして見事にレントゲン技士国家試験合格を果たした彼は再び、私の元を訪れた

合格しました!

と聞いた時には、抱き合って喜びを分かち合ったものだ。

不撓不屈の精神、ネバーギブアップ。あきらめずに努力し続けたことが報われ、花開いたのである。不器用な男だったが、それこそ死に物狂いで努力して人生を切り開き、自分自身で道筋を作ったのだ。

世の中にはいろんな人がいていろんな人生がある。同じ釜のメシを食った仲間だった彼の喜びは私自身のものでもあった。合格の報告のため、はるばる私の元を再び訪れた時のあの笑顔は忘れられない。

現在、彼は生まれ故郷の総合病院にレントゲン技士として勤務し、活躍している。

私は今、仕事を持ちながら航空機の操縦に取り組んでいる。しかしそれで飯を食おうとしているわけではないし、プロになれるはずもない。

自家用操縦士のライセンス取得までいきたいという気持ちはあるにはあるが、現実的にはさまざまな制約により、おそらく無理だろう。 最終的にどうなるかわからないが、自分の場合はこれでいい。ずっと心の奥にしまい込んでいた夢に対して、少しばかりの幸運と少しばかりの努力で、ここまでこぎつけられたのだからそれでいい。

あきらめずに努力すれば、最後に必ず結果は出るということを、私の目の前で彼は実行してみせてくれた。サクセスストーリーの裏には、人知れず大変な努力が伴うものだという現実がある。

私自身は今後もいろんなことに挑戦していきたいと思っている。 わたしにとって航空機の操縦訓練を行うことは、その中の大きな柱であり、大げさに言えば生きがいなのである。夢の実現に向けて一歩一歩進んでいきたいと思う

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知覧特攻平和会館

2005年06月19日 | 航空祭

私の父は海軍飛行予科練習生(予科練)すなわち少年航空兵だった。しかし、入隊後すぐに終戦を迎えたため、結局は戦闘機には乗れなかったと話していた。

飛行気乗りになりたかったはずなのに、なぜか旅客機に乗るのは嫌がっていた父のことは不思議でもあり、滑稽だった。けれども私が飛行気乗りに憧れ続けるのは、おそらくそんな父から受け継いだDNAが影響しているからだと思っている。

 

私の子供時代はテレビゲームなどは存在しなかった時代で、遊ぶものといえば銀玉鉄砲やビー玉、ロケット花火にかんしゃく玉。そして戦争ゴッコに草野球。遊び終わったら近所の駄菓子屋に出入りするというパターンが定番だった。

父は大酒飲みだったから、子供時代あまり一緒に遊んでもらった覚えはないが、駄菓子屋に売っていたゴム動力の飛行機を買って帰ると決まって貸せ、などと言ってなかば強引に取り上げては製作したがるのが常だった。

翼は竹ヒゴで、それをローソクの火であぶって図面どおりに仕上げていくのだが、その製作技術はほとんど職人技で見事だった。そして父が作った飛行機はよく飛んだ。

 

今年、父の7回忌を迎える。数年前、父が憧れた飛行気乗りへの道筋を探るため、鹿児島の知覧特攻平和会館へ足を運んだ時の記録をここに残したい。 鹿児島の最南端にも近い知覧までの道のりはさすがに遠かったが、平和会館で、特攻機に乗り込んだ若者達の遺書を読んだ時には、言葉を失った。

 

平和のありがたさをあらためてかみしめると共に、若くしてその尊い命を捧げた御霊に敬意を表し、このページの締めくくりに、石碑に刻んであった言葉を記しておきたい。

 特攻像「とこしえに」の由来

特攻機は遂に帰ってきませんでした。国を思い、父母を思い、永遠の平和を願いながら、勇士は征ったにちがいありません    

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訓練4日目

2005年06月12日 | 軽飛行機

今日は2ケ月ぶりの訓練FLTである。何もかも忘れてしまってはいないかと心配したが、操縦席に乗り込むと気が引き締まり、さすがに初訓練の時のように頭が真っ白になってしまうことはなくなった。

多少は心に余裕が持てるようになった。 ただ、狭いコクピットで計器類をC/Kしていくことに手間取るのは相変わらずである。

チェックリストに従ってエンジンを始動し、離陸準備を進める。 地上走行でラダーペダルを踏む操作も少しはできるようになった。離陸前点検を全て完了し離陸位置へ。教官から滑走路のエンド付近へ目線を置くようにと指示を受け、スロットルを全開にする。

センターラインをきっちりトレースできなかったものの、ラダーを必要以上にバタバタさせなかったことが功を奏してか、さほど蛇行することなく地面を離れた。 今日の訓練科目は自らリクエストした旋回訓練。そしてパワーオン・パワーオフの際の機首の動きを見るという2つである。

まずは水平飛行の状態から教官にスロットルを操作してもらい、フルパワーにした時と、逆にパワーを絞ったときの動きを見る。なるほど確かにパワーを入れれば機首を左に振り、絞れば右に振ってくる。

次に旋回の訓練へ。対気速度90ノットを維持しながら、流れるような旋回を行うことが出来るようになるのが目標だが、なかなか一定速度が維持できないうえ、依然として右旋回では高度が定まらない。 昇降計の指示している値を、高度が上がりつつある状況なのか、下がりつつある状況なのかという判断が遅いことが一つの原因だと思う。

水平線と計器パネルがおりなす位置関係は左右それぞれで異なるので、その維持もしっかりと自分の中で確立しなければならない。 今日は左右旋回の切り返し操作を何度も何度も訓練した。操縦桿を引く力かげんとバンク角を維持するための左右への適切なあて舵。

旋回中の速度維持のためのスロットル操作に、ラダーペダルの踏み加減調整。全てが調和しないとまともな旋回は完成しない。

 集中して訓練できないせいもあるが、ここまでは一進一退。ある部分だけ、うまく操縦できたとしても、次のFLTでは前の状態に戻ってしまうということが往々にしてある。

ある程度の技量が身につくまでの道のりは長いぞという感じだが、これほど奥が深くやりがいのあるものはない という気がした今日の飛行訓練であった。

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訓練3日目

2005年06月07日 | 軽飛行機

『今日は着陸をやってもらいます』

FLT前、教官からさりげなくそう言われた。『あっ、はい・・・』

んっ着陸?

何も考えずに返事をしたものの、当然今自分が持っている今の技量で着陸など、ほど遠い状況である。

悪い冗談をと思いつつ、あらためて教官の顔を見直すとマジである。 こっ、これは大変なことになった・・・ フライトシュミレターじゃそりゃ少々難しい空港には降りてます、例えば香港の啓徳国際空港とか。しかしフライトシュミレターがいかに良くできているソフトだと言っても現実のフライトとは・・・

もっとも、やってもらいますと言っても、それは操縦桿に手を添えててもらいますよ、ということであって、仮に訓練生が望んだところでほんとにさせるわけではない。

実際の着陸はまず空港の場周経路に乗ることから始まるが、対地高度約800フィートでオンコース。徐々に高度を下げ、最終コースでPAPIの赤白ランプを見て 、降下率を調節しながら高度を降ろしていって接地までを行う。

当たり前だが教官の行う着陸は完璧である。

だいたい進入時の速度は60ノット(時速約110Km/h)程度だが、慣れない訓練生の感覚では、どんどん地上が迫ってくる感じだ。 トラフィックパターンと呼ばれる場周経路を終始、解説を加えながらの操縦。

失速速度できっちり接地。これを最後の瞬間まで訓練生に口で説明しながら行うのである。 人間、物事に集中すると口を閉じてしまうはずだが、わが教官の場合は最後の最後まで解説付である。凄い、凄すぎる・・・ 

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