2008年6月14日の岩手・宮城内陸地震で宮城県栗原市花山切留の自宅が全壊し、その後嫁いだ先では東日本大震災の大津波で家と農地が被災した。東松島市大曲の農業阿部麻衣子さん(26)。花山では避難生活を送りながら果樹園を守り抜いた。今度は東松島の地で、イチゴ生産者として震災からの復活に挑む。
3月11日、民家やビニールハウス、水田が広がる大曲地区に、どす黒い津波が押し寄せた。
「車が流され、まるで地獄絵図のよう」「家族みんながバラバラ。無事を祈るばかりです」
麻衣子さんは、避難先の大曲小から実家の母三浦喜美枝さん(57)へ何度もメールを送った。
家族は全員無事だったが、2日後、海から約2キロの自宅に戻ると無残な姿が目に飛び込んで来た。周囲に車やがれきが散乱。母屋は1階天井まで浸水し、ヘドロにまみれた。何よりも、本格的な収穫期に入ったイチゴが全滅し、植えたばかりのポットの苗も流されたことがショックだった。
「何でこんな時に…」。収入の8割を生むイチゴの惨状に、先のことを考えるのが怖くなった。
3年前の内陸地震。築150年の自宅は全壊し、避難勧告が出た。父の三浦俊郎さん(56)が農業の傍ら営んでいたそば店は休業に追い込まれ、果樹園や原木マイタケの手入れもできなくなった。
宮城県農業実践大学校(名取市)を卒業し、果樹栽培を任されていた麻衣子さんは弱音を吐かなかった。「山に戻ってリンゴをやる」。避難所からの一時帰宅。わずか1時間しかなかったが、果樹園に向かった。
昨年11月、大学校の同級生広樹さん(26)と結婚。イチゴ栽培に情熱を注いだ。自慢の「とちおとめ」は仙台市の高級果物店に卸され、市場でも高い評価を受ける。
新婚生活はわずか4カ月で2度目の避難生活に変わった。今月、仮設住宅に入った。
津波の3日後、俊郎さんと喜美枝さん、弟の俊輔さん(20)が水や食料などを持って駆け付けた。花山も激震に見舞われた。麻衣子さんは俊輔さんに「おう、大丈夫そうじゃない」と強がったが、自分も両親も涙で言葉が続かなかった。
「娘さんを2度も震災に遭わせ、すみません」。義父の阿部仁一さん(51)が目を潤ませ頭を下げた。
内陸地震での避難生活は1年4カ月だった。今回は行政の土地利用計画が定まらず、先が見通せない。生活のため、夫と義父は慣れないがれき運搬を始めた。
生来の負けん気が頭をもたげてきた。義母の恵美子さん(52)が塩害を避けられるイチゴの水耕栽培を提案した。ハウスは電気系統が駄目になったが、幸い骨組みは残った。仲間の農家も苗の協力を申し出てくれた。定植が9月に間に合えば、12月には収穫できる。
花山では果樹園を引き継いだ俊輔さんが4月、内陸地震の崩落土砂で埋まった水田跡30アールにリンゴの苗木91本を植えた。子どもと思っていた弟が、傷跡が残る古里の山で生きる覚悟を見せる。
「いつまでも沈んでいては前へ進めない。絶対にイチゴを復活させる」
山の崩落地で赤いリンゴは実り続けた。麻衣子さんの目には、津波の地にも真っ赤なイチゴが実る光景が見えている。
(宮田建)
3月11日、民家やビニールハウス、水田が広がる大曲地区に、どす黒い津波が押し寄せた。
「車が流され、まるで地獄絵図のよう」「家族みんながバラバラ。無事を祈るばかりです」
麻衣子さんは、避難先の大曲小から実家の母三浦喜美枝さん(57)へ何度もメールを送った。
家族は全員無事だったが、2日後、海から約2キロの自宅に戻ると無残な姿が目に飛び込んで来た。周囲に車やがれきが散乱。母屋は1階天井まで浸水し、ヘドロにまみれた。何よりも、本格的な収穫期に入ったイチゴが全滅し、植えたばかりのポットの苗も流されたことがショックだった。
「何でこんな時に…」。収入の8割を生むイチゴの惨状に、先のことを考えるのが怖くなった。
3年前の内陸地震。築150年の自宅は全壊し、避難勧告が出た。父の三浦俊郎さん(56)が農業の傍ら営んでいたそば店は休業に追い込まれ、果樹園や原木マイタケの手入れもできなくなった。
宮城県農業実践大学校(名取市)を卒業し、果樹栽培を任されていた麻衣子さんは弱音を吐かなかった。「山に戻ってリンゴをやる」。避難所からの一時帰宅。わずか1時間しかなかったが、果樹園に向かった。
昨年11月、大学校の同級生広樹さん(26)と結婚。イチゴ栽培に情熱を注いだ。自慢の「とちおとめ」は仙台市の高級果物店に卸され、市場でも高い評価を受ける。
新婚生活はわずか4カ月で2度目の避難生活に変わった。今月、仮設住宅に入った。
津波の3日後、俊郎さんと喜美枝さん、弟の俊輔さん(20)が水や食料などを持って駆け付けた。花山も激震に見舞われた。麻衣子さんは俊輔さんに「おう、大丈夫そうじゃない」と強がったが、自分も両親も涙で言葉が続かなかった。
「娘さんを2度も震災に遭わせ、すみません」。義父の阿部仁一さん(51)が目を潤ませ頭を下げた。
内陸地震での避難生活は1年4カ月だった。今回は行政の土地利用計画が定まらず、先が見通せない。生活のため、夫と義父は慣れないがれき運搬を始めた。
生来の負けん気が頭をもたげてきた。義母の恵美子さん(52)が塩害を避けられるイチゴの水耕栽培を提案した。ハウスは電気系統が駄目になったが、幸い骨組みは残った。仲間の農家も苗の協力を申し出てくれた。定植が9月に間に合えば、12月には収穫できる。
花山では果樹園を引き継いだ俊輔さんが4月、内陸地震の崩落土砂で埋まった水田跡30アールにリンゴの苗木91本を植えた。子どもと思っていた弟が、傷跡が残る古里の山で生きる覚悟を見せる。
「いつまでも沈んでいては前へ進めない。絶対にイチゴを復活させる」
山の崩落地で赤いリンゴは実り続けた。麻衣子さんの目には、津波の地にも真っ赤なイチゴが実る光景が見えている。
(宮田建)