時の泉庭園

小説は、基本、ハッピーエンド。
話は、最後まで出来上がってからUPなので、全部完結済み。

(^◇^)・・・みん兎

やらへども鬼 6

2008-07-25 16:47:06 | やらへども鬼
西の対の自室にひとり落ち着いてから、ゆりはまだ持っていた符を出して、見つめる。
やっぱり、見たことあるよね、とつぶやく。彼女の知っている字とよく似ている・・・。
 ちょうど、まとのが室の灯りをつけにやって来た。
「何ですか、それ。ここにいても、お仕事していいんですか?」
 まとのが灯をともしながら、聞く。
「ううん、依頼じゃないの。まだ、疑問が残ってるだけなの・・・。う~ん。」
 言いながら、ゆりは手に持つ符と、まとのの点けた灯りを交互に見ている。場所は、だいたいわかる。暇つぶしに、確かめに行ってみるかと、決めて。
「まとの。一人でさみしいから、今夜はこの部屋で一緒に寝てね。」
「・・・・・。」
 まとのが一瞬目を見張って、固まる。はあっと、溜息をついて、応じる。
「夜中に出歩くと危ないですよ。」
「それ、普通の姫に言う言葉じゃない?」
「普通の姫君は、そもそも外出さえなさりません。そういう発想さえないでしょう。なるべく、早く帰って来て下さいね。朝になったら、ごまかしが聞きませんよ。」
「は~い。」
「やれやれ、せっかくお姫様を飾り立てて、仕える私の夢が・・・。」
「今度、付き合ったげるわよ。」
 うふふと楽しそうに、手に持っている符を灯火に近づける。
じゅっと、白い紙に灯がついて燃えて、灰になる。あちらは、怪我してないといいけどと、呟く。術者の術が破れると、それが本人に跳ね返って、痛い目にあうこともある。
ゆりは、ほんの少しだけ心配した。
 あとは、暗くなるのを待つのみ。ごろりとそのへんで横になって、仮眠をとろうとするゆりを、まとのが奥の御簾の向こうの寝間に設えた内側へ追い立てる。
「ここは、紫野さんと私が来るだけじゃないんですよ。少しは、姫さまらしくなさって下さい。ほら、中へ入る。」
ゆりが、中へ入ると、まとのも準備を整える為、一旦部屋をさがっていく。なんだかんだ、言っても、阿吽の呼吸でなりたつ、良い主従なのだ。
 ゆっくりと暮れていく真夏の夜を待つ。

やらへども鬼 5

2008-07-25 16:44:59 | やらへども鬼
牛車に揺られて帰る帰り道。
 同乗する時貞が、頃合を見計らって訊いてくる。
「そろそろ、何がわかったのか、聞かせてくれないかい。ずいぶん、姫君の部屋で楽しそうに話していたじゃないか。」
 あれから、ゆりはあの屋敷の姫君とも顔を合わせていた。
「別に・・・。兄上のお邪魔だろうと思ったから、あちらに長居していただけよ。なんてね・・・。」
 じっと見つめるゆりの視線をうけとめても、時貞は、涼しい顔だ。
「ねえ。兄上にとって、あのお方さまって大事な方よね。」
「だったら、どうだ。答えにくいということか?まさか、彼女が怪異の原因とか言うのじゃないだろうね。」
 ゆりが、首を横に振る。
「それは・・・まだ、わからないわ。」
「わからない。」
 時貞が首を捻る。
「とりあえず、怪異が起こらないようにはしてきました。起こらなくなって、どなたがお困りになるのか、あるいはがっかりなさるのか、はわかりません。」
「がっかりということは、嫌がらせということか。困るというのは?」
「・・・・・・・。兄上、何だか尋問みたいになってきたけれど?」
 いぶかしげな顔のゆり。時貞の口の端が、ほんの少しあがる。微笑しているだけなのだが、こうなると何を考えているのか、わからない。何か他に真意がありそうだが、切り口を変えて訊いてみるかどうか、迷う。
 いいや、もう、どうでも。
 心の中でつぶやき、ゆりはとすっと、後ろの牛車の壁にもたれる。
 ごそごそと、懐に隠してあった白い細長い紙切れを出した。
時貞にも、よく見えるようにひらひらと掲げて見せる。文字らしいものが書かれている。
 ぱしっ、その紙を細い指がそれに似合わぬ力強さで、弾く。
 時貞が瞬きをする。
「筝の背面に貼ってあったの。こっそり剥がすのに苦労したわ。筝がひとりでに鳴ってたのは、これ。笛に呼応するようになってたの。笛の方にも仕掛けがあると思うけど、捕らえてみないと駄目ね。」
「その符を張ったのは、やはり内部のものか・・・。」
「それも、女ね。」
「?」
筝の置いてある場所に目立たず近づけるとなると、限られてくる。はじめ、筝は姫の部屋に置いてあった。日常練習によく使われていたからだ。ひとりでに、笛の音に呼応するようになって、気味悪くなって、筝は、出入りのしにくい塗籠(ぬりごめ)に移動させられた。聞き出した事実を告げる。
「嫌がらせでなければ、笛に呼応するのは、何らかの合図だと思うの。だから、鳴らせなくなって、考えた末にこんなものを張ったんだわ。最初はやっぱり、人が弾いていたのよ。目的は、確かめてみないとわからないわ。」
「目的・・・。盗賊の手先が雇い人に混じっているかもしれないということは・・。だが。」
 新しく雇われた者はなく、年頃の姫君がいるので雇い入れる時も身元はきちんと確認されるはずだ。女主人は、若い公達との恋の噂など、いくつになっても華やかな話題に事欠かない女だが、邸内のことはしっかりと管理している。
その可能性は低いな・・・と、時貞が呟いたのを、ゆりは不思議そうに見ている。
「女所帯では、さぞかし不安だろうからね。合図だというなら、内緒の恋人を引き入れる為ということも考えられるが、あの方なら、わざわざそんな目立つことはなさらないよ。」
「兄上と、お方さまって・・・。」
「ゆり姫の勘違い。時々、ご機嫌うかがいに訪ねる程度の仲さ。あの方は、歌人としても名高く、あちこち交際範囲が広いからね。思わぬ情報網を持っている。ゆかしい方だがね。」
 本当のところは、互いに割り切った仲なのだが、さすがにそれは口にせず、時貞はゆりの疑問を封じた。ぽんぽんと、子供にするようにゆりの頭を撫でる。
「ふうん。そういえば兄上って、右近衛府の少将だっけ。だったら、仕事柄気になったというわけでもないよね。・・・どうしても、筝の音が必要なら、また、慌ててこの符を貰いに行く者がいるのじゃないかしら。」
 左右ともに近衛府は、内裏のうちの警備をする役割だ。武官であり、厳しく誰訊することもあろうし、つい口調がそうなってしまったのだろうか。ゆりは、そう考えた。
 家に帰りつき、車から降りるゆりを、支えてやりながら、時貞が爽やかな笑顔を浮かべて言う。
「ありがとう、参考になったよ。・・・推測だが筝が鳴らなくて困るのは姫君だ。実は、今、尚侍にという姫の父君の意向があるんだ。それとなく伝えておくが、あちらの対面というものがあるからね。ゆり姫も、これ以上は詮索してはいけないよ。」
 これ以上は、関わらなくていいよと言っているのだ。
ゆりは、それに答えて、うんと頷いた。


やらへども鬼 4

2008-07-25 16:40:12 | やらへども鬼
ついたお屋敷で案内の女房について行く。
 ゆりは、扇で顔を隠しながらも、通り過ぎる屋敷内をするどく見つめて、観察していた。
 通された室には、几帳が立てかけてある奥から、重ねた衣装の裾や袖が見えている。
 香りが舞い飛んだ、ゆりが、そう思っていると、几帳の向こうで身動ぎする気配がする。
 続いて、落ち着いた声が聞こえ、時貞とその婦人の会話がしばらく続く。訪問時の挨拶に加え、「この間、どこそこの知り合いが、文を送ってきましたの。石山詣でに出た折に、詠んだ歌で良いものがありましたわ・・・。」「う~ん、なかなか・・・。近江といえば湖、そう言えば、こんな歌を聞きました・・・・。」とか、和歌の話らしきものが聞こえて来るが、興味のないゆりは、ほとんど聞き流して、まったく違う方向の庭に目をやっていた。
「それで、こちらが、妹姫なのね。」
 急に話をふられて、慌てて、意識をこちらに向けたゆり。
「突然迷惑かと思ったのですが、ついて来ると聞かなくて・・・。何分、まだ幼くて、わがままいっぱいに育ったものですから・・・・。」
「あらあら、かわいくて、兄上さまが甘やかしているのではないの?大納言さまも、非常に大事にされていると聞きますよ。ねえ、ゆり姫さまとおっしゃったかしら、家にも、少し年上ですけれど、姫がおりますのよ。どうかしら、今から姫とお会いにならない?」
 几帳に遮られて、顔は見えないが相手の探るような目を感じる。
ゆりが、ちらりと横目で時貞を見て、通されたまわりの様子を見て、几帳の向こうの女主人を見る。廂の間ではなくて、こんな間近に通されるわけか・・・。なるほどね、ふ~ん。妹の視線を感じた時貞の扇に隠れた口元が一瞬、悪戯に跳ね上がる。
その反応にゆりは、一瞬目を丸くするが。
やれやれ・・・、もちろんそれが目的で来たんですよ、と。お方様へ、心のなかでつっこみつつ、ゆりはやおら、顔を隠していた檜扇を広げたまま膝に乗せたかっこうで、前のめりになって返事をする。淑女らしさを、うっかり忘れた、いかにも子供っぽいしぐさが、相手の警戒心を解いた。
「まあ、同じ年頃のお友達?うれしいわ。ああ・・でも、どうしましょう、お兄様。私、お歌は得意ではないの。こちらの姫さまに嫌われたら・・・。筝なら、少しはましなんだけど。」

 直球勝負に、時貞は、一瞬ぎょっとなったが、すぐに微苦笑を浮かべてとりなす。
「どうも、子供のいうことは・・・遠慮を知らない。こちらの事情を存知ないのです。気を悪くなさらないで下さい。」
「あら、まあ。構いませんことよ。そうねえ、私も姫も筝の音を聞くのは好きですわ。けれども、今は少し障りがあるの。」
 お方さまは、事情を話し始めた。身動ぎもせず、くいいるように話に聞きいっているゆりをどうするつもりだと、時貞が成り行きを見ている。
 お方さまの話を聞き終えて、ゆりがほおっと息を吐いた。
「笛の音に、呼応するように筝の音・・・。とても、美しい音色がするのですね?」
「ええ。」
「その筝は、笛の音に恋をしているのかしら・・・。」
 きらきらと、夢を見るような目をしているゆり。内心では、我ながら寒っ、と思っている。子供らしい答えに、お方さまがつい笑いをもらした。
「まあ、かわいらしい想像ね。」
 声に温かみが宿っているから、馬鹿にしているわけではないらしい。少し面白がるような響きがあった。
「だって、悪いものだったら、そんな美しい音色は出せないと思いますもの。見てみたいわあ。ねえ、お方さま、駄目ですか?」
 にこっと、笑う。
「そうねえ。それならば、ここへ運ばせてみようかしら。」
 とうとう、お方さまの許可を取り付けた。
 筝が運ばれて来て、室の中央に置かれる。
「普通のお筝ですわねえ・・・。」
 言いながら、ゆりは筝に寄って行って弦に触れる。
「あら、ゆり姫、お待ちになって。」
 お方さまの止める声も間に合わなかった。けれど、何事も起こらない。
「・・・・ゆり姫、具合が悪くならない?」
 心配そうに訊ねる声。ゆりが、元気よく首を横に振る。
「無作法をいたしました。非礼のお詫びに、一曲、お聞かせ申し上げますわ。どうぞ、お兄様とお二人、お聞きになっていて下さいまし。」
 控えている女房たちに、筝を端に寄せてもらって弾き始める。
 静かに音がはじき出される。やがて、豊かな音色で室は満たされた。高く低く、心地よい音色が、屋敷中に満ちて、明るい光りが満ちるようだ。
しばし、誰もが手を止めて聞き入る。
演奏が終わると、聞いていた者の顔が明るく輝いた。
「心地よい音色に、何やら先日来のもの思いが晴れるような気がしますわ。ありがとう。」
 お方さまが、晴れやかな声で言った。

やらへども鬼 3

2008-07-25 16:36:19 | やらへども鬼
 話を聞き終わって、ゆりは目をくるくるとさせる。
「ねえ、兄上。その知り合いが姫君なのじゃ、ない?」
「う~ん、惜しい。その家敷に知り合いがいるけれど、姫君じゃないよ。」
「?まあ、詮索しても意味ないか。・・・その筝を見せて貰うってことが出来ないかしら。笛は、十中八九人の仕業だと思うけど、確かめてみないと・・・。でも、いきなり訪ねていくわけにもいかないわよね。」
「出来ないこともないかな・・・。」
 時貞は、ほとんど即答に近い形で、ゆりに姫らしい格好をしてついてくるように言った。
 ゆりが、支度に手間取っている間、時貞はこの屋敷に滞在している時に使う自分の部屋へ行き、どこかに使いを走らせていた。
 ゆりは、まとの一人では着替えを用意することも出来ないので、他の女房たちをよびに行かせる。ぽつんと取り残された雨水(うすい)が、聞く。
「兄上とご一緒なら、私がお供することもありませんよね。」
 時貞の供がいるので、雨水(うすい)の出る幕はない。
「そうね。父上にしばらく滞在するって約束しちゃったし、こっちに戻ってくるつもりだから、まとのと一緒にこっちで待っていて。」
「あの、それならお願いが・・・。」
「何?」
「ここに来る前に、ゆりさまの父上のお供をしていた武者のところで、働いていてもいいですか?」
 いざという時の身のこなしを身につけたいのだと言った。ゆりを守るどころか、簡単に腕を捻られたことが悔しいらしい。
「それなら、私から、頼んでおくわ。でも、別に、警護の真似なんかしなくていいのよ?」
「いいえ。そういうわけには行きません。拾っていただいた恩があります。」
 いつもは、にこにこしていて、とろとろして見える雨水(うすい)が、背筋をのばして座っている。まだ、長い髪をひとつに結わえて水干の背に垂らし、烏帽子も被っていない童形で、どことなく幼さの抜けない顔なのに、大人びた目をしている。
こんなふうに居住まいを正していると、なんとなくきりっとして見えるから、不思議だ。ゆりは、ちょっと考えてから、やがて、こくんと頷いた。
「そっか。雨水(うすい)はそんなふうに考えるのね。」
 ゆりは、承諾し、ちょうどまとのが人を連れて戻って来た。それを潮に雨水(うすい)は、退っていった。まとのが、張り切って、女房たちの手伝いをしている。
みづらに結っていた髪を解く。ゆりの背に艶やかな黒髪が広がる。それから、一番下着にあたる白い小袖を着て、濃きの袴(未婚の女子が身に着ける。巫女さんのような緋の袴は結婚した女性の身につけるもの)を身につけ、順に衣を重ねるのだが、真夏なのであまり沢山は重ねない。下の色が透ける薄い衣を何枚か重ねただけだ。その背にながれる黒髪をきれいに透かして、最後にほんのちょっとお化粧をして終わりだ。
 その場を仕切っていた女房が、檜(ひ)扇(おうぎ)をゆりに手渡す。紫野という女房だ。ここにいる間は、いつも彼女がゆりにつくことになっている。
 紫野がゆりに檜扇を持たせながら、支度の出来栄えを確かめて、ゆっくりと微笑しながらいう。
「あら、姫さま。そのように唇をなめないでくださいませ。慣れないから、少し気持ち悪いかもしれませぬが、はげてしまいますからね。そんなに濃く化粧を施しておりませんから、少しくらいゆり姫様らしく表情をおつくりになっても大丈夫にはしてありますよ。」
「ありがとう。それは助かるわ。」
 ゆりが、ほっと安心しながら答える。化粧が崩れないように気を使うなど、大変な徒労のように感じる。
「時貞さまから、姫さまが、和歌の上手といわれるお方さまのところへ、お勉強に行かれるのだと、伺いました。ゆり姫さまらしさを損なわないよう、あまり仰々しく飾り立てないようにとも・・・。あちらにも、同じ年頃の姫がいらっしゃって、仲良くなれるとよろしいですわね。」
「・・・・・・そうね。」
 和歌と聞いて舌打ちしそうになるのを堪え、微妙な顔をしてる彼女を、まとのが笑いをこらえてみている。ゆりが、口を開きかけた時、頃合を見計らって迎えに来た時貞が姿を見せ、まとのや紫野に見送られ、家を出た。
 牛車に揺られ、相手のお屋敷につくまでそれほど時間はかからなかった。

やらへども鬼 2

2008-07-25 16:31:37 | やらへども鬼
背の高い築地塀といわれる塀に囲まれた、広い敷地のなかには、池や、庭や建物の傍を巡っていく小さな流れの鑓水(やりみず)、趣向を凝らした庭と、桧皮葺きといわれる屋根のついた建物が、点在する。そして、個々の建物を行き来する為の廊下が巡っている、何てことない、貴族の一般的なお屋敷だが、敷地の広さや、建物の数も、まず、大きい部類に入る屋敷だ。
東と西、主殿である南、北に建物が存在するお屋敷の、西の対。この家は客人が、東から出入りするので、そこから遠い西の奥まった静なところにゆりはいた。
滞在する時は、いつもここだ。
手には、日にかざせばきらきらと輝く玻璃の器を持って座っている。
几帳は、この部屋にちゃんと存在するけれど、その影に隠れるわけでもなく、部屋と廊下を隔てる御簾さえも巻き上げて、端かに座り、ゆりは非常に姫君らしくなく、座っている。とはいっても、大きな庭に囲まれて、彼女の居室のあたりは人の目にふれることがないよう、配慮はなされていたが。
さきほど、ここの女房が持ってきた削り氷を、まとのと雨水(うすい)と一緒に食べている。さっきから、まとのが一人、きゃっきゃっとはしゃいで、おしゃべりしている。ぼおっと、あたりを見回している雨水(うすい)を見て、肘でとんと腕をつつく。「ゆりさまが、大納言家の姫君だったなんて・・・。その私が、上にあげてもらっても、よかったんですか。」
 といったのは、ここの家でいうと、雨水(うすい)の立場は雑色でしかなく、普通は姫君の部屋へ上がりこむことなど出来ないものだから。あまつさえ、おやつの削り氷も出してもらっている。氷を削って、甘葛という甘いシロップをかけた非常に高価なおやつだ。
「いいのよ。いつも二人には苦労をかけているから。それより、早く食べないと溶けちゃうよ?」
 促されて、雨水(うすい)も食べ始める。
 匙でつつくと、しゃくしゃくと音を立てる氷は、口の中に入れると、冷たい。
ほんの束の間、風もない、京の真夏の蒸し暑さを和らげてくれる。
ひんやり感を味わいながらも、雨水(うすい)は、腑に落ちない顔でゆりを見ている。
「その・・・こちらにおられる北の方さまは、ゆりさまのことを・・・。」
 言いにくそうにしている。
「あら、もしかして、私がいびられるとか心配してくれたの?ここは、父上の家で、女主人はいないから。といっても、いくつか通う家はあるんじゃないかって、母上が言っていたけど・・・。」
 言いながら彼女は首を巡らして廊下の角のほうを向く。
人が渡って来る気配が伝わって来て、廂の廊下に影がさした。
「それは、父上が聞いたら、嘆かれるな。」
 ゆりの言葉が聞こえていたのだ。身のこなしも洗練された公達が近付いてきた。
「時貞兄上。」
 ゆりは、にこっと笑う。
「やあ、久しぶり、ゆり姫。相変わらず、お転婆のようだな。」
 童子の着る水干を身につけたままのゆりを見ていう。だが、それでも時貞は、めくじらをたてているわけでもないのだ。目を細めて、かわいいものを愛でる表情をしている。
 兄といったが、実際には、従兄妹だ。二人いる伯父のうちの下の伯父の子。時貞は、兄弟のなかでも劣り腹といわれる子で、母も早くに亡くし、跡継ぎがいないゆりの父に引き取られたのだ。
 時貞は、広げた扇で口元を上品にかくし、くすくすと悪戯っぽい笑いをもらす。
「ゆり姫の母上ひとすじの父上が聞いたら、しばらく立ち直れないかもしれないな。並み居る縁談を断り続けて、表向きは妻と呼べるものがいないくらいなのだから・・。なにせ、家筋だけはよくて、引く手数多なのをかわし続けたのだから、並大抵の努力ではないだろう。」
「母上への愛ゆえにとか、言わないでね。半分は、面倒なだけじゃないの?」
 この時代、男が女のもとに通って結婚が成り立つ。だから、好みの女を選べば良い様なものだが、実際にはそういうわけにもいかない。女の実家が、男の装束や生活を面倒みるというのが一般的だから、出来るだけ裕福な家の娘を選びたがる。身分が低くても、裕福な受領の娘だとか、権門につながりのある娘とか・・・。一時の恋愛感情だけでは長くは続かない場合が多い。ゆりの父は、そうする必要もない家に生まれたが、家の格式に見合うだけの妻となると、深窓の姫君となる。彼女たちとお付き合いしようと思うと、まず、歌や文を送って、それも何度めかでやっと代筆の返事ぐらいが来て、交際の前段階だ。それからやっと、家を訪れることが出来たとしても、最初は廊下にあたる廂の間など、外から、御簾ごしにお話しするだけ。うんと高い身分の姫君だとご本人の声は直接聞けず、お付の女房が姫君の言葉を伝えるのだ。そうしながら、男も女も互いに相手の人となりを探りあうのだろうが、そんな感じで段階を経て、いざ姫君とご対面となった時、思ったのと違うなんてこともあるのだ。もちろん、相手の親からこれぞ婿がねと、それらをすっとばして、結婚ということもあるけれど、それはそれで引くに引けない状況だ。
 ゆりは、ずけずけと言った。
「おや。手厳しいね。父上は、隙あらば、ゆり姫をこちらに呼び寄せようと一生懸命なのに・・・。」
 兄の言葉に、ゆりはちょっと小首を傾げるような仕草をした。彼女はみづらという髪のかたち、耳の横で円い輪っかをふたつ作って結って、まだ長さの残る髪を背に垂らしている。その垂らしている髪が揺れて、さらっと水干の背で小さな音を立てた。
「それもね。迷惑な話だわ。自分たちのことを棚にあげて、娘には世間並みに良い婿をとってなんて考えてるなんて。」
「確かにね。君に姫君ぜんと過ごして、大人しく人の奥方が出来るなんて思わないけど。母君のお手伝いも出来なくなるしね。」
「そうそう。そのことも世間様に知れたら、物の怪つきの姫とかなんとか、陰口たたかれるに違いないんだから。」
 あまり身分違いでも、世間的には認められない。ゆりの祖父は、町の陰陽師と違って、正式に陰陽寮に所属する位階も持っている貴族のはしくれだった。あくまで天文や、占いなどが本職、知識を生かしたもので、内容も科学的な知識とさえ言えるものまで含まれるもので、普通の人が思っているものと違う。けれど、呪術、怨霊、呪詛・・陰陽師ときいて想像する言葉ゆえに、それと繋がりがあるということなど、あまり公にしたくないことだ。ゆりの母が、祖父の本職でない部分を引き継いでいることもあって、妙な色目でみられるのも不憫だと、父とゆりの母とのことは内緒の関係だ。ゆりは、町の小路の女に生ませた娘で、それでも大納言から特別鍾愛されるがゆえに彼の用意した別邸で、生母とともにひっそり暮らしていることになっている。
事実を知っている人間は、この屋敷でも少ない。
だから、こっちに来ると言動にも多少気を使わなければならない。
 彼女を取り巻く特殊な事情をどう思っているのか、時貞は曖昧に微笑して見せただけで、さらりと話題を変える。
「そうそう、その物の怪つきのことでゆり姫の意見を聞きたいんだが・・・。」
 正確にいうと、怪異に見舞われた姫の話だ。
毎夜、どこからともなく聞こえて来る笛の音。それだけなら、どこかの公達がそぞろ歩きに風流に奏でているのかと思われるが、それに呼応するかのように、筝の音が、それも塗籠(ぬりごめ)にしまわれて誰もいない筈の部屋から聞こえて来るのだと言う。
屋敷の者が、念のため見張りをしていたが、誰も入った形跡はない。
時を同じくして、姫君が臥せることが多くなった。皆は、物の怪のしわざで悪い気にあったったせいではないかと噂しているのだそうだ。
 知り合いから聞いた話なのだと、時貞は、言った。