時の泉庭園

小説は、基本、ハッピーエンド。
話は、最後まで出来上がってからUPなので、全部完結済み。

(^◇^)・・・みん兎

戦国草子 傾城36

2008-04-18 16:49:05 | 戦国草子 傾城
 信康の自刃のあと、世間には彼が命を落としたのは、信長が徳川の優秀な後継者を恐れたため姦計をめぐらしたのだと、噂が流れた。
 信長が、その噂を黙殺していることもあって、真実味を帯びてもきていた。
 もちろん、事実はそうではないが、事の真相を知る人間は口をつぐんでいた。あまりに人間離れした印象は、これから大きなものを得る為には、足をひっぱりかねない諸刃の剣だ。正室を失った時、ちらりと浮かんだあの喜色・・・。我が子を家を二分する危険分子とみなし早々に処分した、というのは、世が乱れた下克上の今の世の中、在りうることだが・・・・・。大きなものを得ようとするなら、人の心を掴む必要がある。
 正道が一番なのだ。薄気味の悪い恐さよりも、突然自分をみまった悲運に嘆きつつも、耐えて乗り越える誠実な人柄の方が多くの共感を得られる。
 それが家康にとっての武器になり得ると。
 全貌をしっている自分は、不都合な存在だ。まして、忍びに一目をおかれる半蔵は、影響力も大きい。家康にとって危険な存在になりかねない。
 但し、忍びは忍びとして使いものにならなくなれば、別だ。実力のないものに従うものなどないから・・・。半蔵は、その名も返上して、この山間の地で昔を捨てて生きなければならない。片田舎に暮らす、普通の百姓ともなれば、家康にしても忘れてしまってもいい存在だ。身についた忍びの業を忘れることが出来たら、半蔵は安泰だ。半蔵は、その為の猶予をもらった。
 家康にしてもこの猶予は、半蔵のこれまでの功績に報いるつもりもあったのだと。
 そう、度量が広いのか、狭量なのか、図りがたい人柄であったと、半蔵は思う。
「いい景色だろう。」
 視線の先には、野や畑、広がる田んぼがあった。
里人が、時々、往来しているのが見える。忍びの里ではあるが、平時は普通ののどかな田舎の風景と変わらない。
 これを守るために、動いていたのだと思った。
 死ぬことで黙るという手もあるのだが、それは、除けた。白刃のもと、多くの者を屠って来た身には、綺麗過ぎる終わり方だ。
「俺自身の振るってきた刃にかけて、生き抜こうと思った。刀を持たなくても、まだ、終わってはいけないんだ。」
 殺気を落としきれなかったら、自分が屠られるだけなのだ。そのほうが、らしい生き方だと思う。家康の目が、彼を危険と判断したら、その時点でそうなるだろう。・・・半蔵は、あの時そう判断したのだ。
「ふ。じゃあ。今度会ったときは、確実にぶんなぐれるな。」
「それはどうかな・・。まあ、いつでも遊びに来い。」
 兵庫は、わずかに目をすがめて言う。
 家の奥から運ばれてきた、酒の肴と、空の持ってきた酒を味わいながら、しみじみと里の風景を楽しむ。
 風がゆっくりと通り抜けて行くのを感じる。
 また、どこかで、新たな戦いが始まる・・・。遠くの山を見つめた。
             おわり

戦国草子 傾城35

2008-04-18 16:43:59 | 戦国草子 傾城
 旅に戻った空と奈々。のんびりと、街道を行く彼らの後ろから、走って追って来る一行があった。
「お~い!空どの。菜々どの。待ってくだされ!」
 榊原清政が、息を切らして追いついてきた。後ろから、女連れで伊奈忠次がゆっくり歩いてくる。
 合流してしばらく同じ方向へ行く。
 彼らとは、岡崎に戻ってすぐ別れたので、そのあとどうなったかは知らなかった。
 空たちは後始末の手伝いを断られたからだ。気になってはいたので、あれからどうしたか顛末をきく。忠次の女房に抱かれた赤子に。
「そうか。お前、父ちゃん、母ちゃんのぶんまで、生きろよ。たくましく生きて。笑いの絶えないような一生を送るんだぞ。」
 空が言った。伊奈忠次たちは、堺へひとまず身を落ち着けるのだという。空たちにも、近くまで来たらよって欲しいと、誘った。
「俺は、堺まで送っていったあと、あちこち、廻って見ようと思う。空どのの話をきいて、あちこち見て廻りたくなったんだ。どこかで、また、会おう。」
 行く道が違ったので、街道が分かれているところで手を振って分かれた。


 一年後・・・。
 伊賀のひなびた風景の中で、畑を耕す男のもとに、忍び寄るものがいた。
 きらり、光る刃を、鍬の持ち手であっさりと受け止め、男がにやりと笑う。
「よう。引退したんだって?もと半蔵。」
「空。元とはなんだ・・・。今は、兵庫だ。」
「ふん。兵庫どの。灘の上手い酒が手に入ったんで持ってきたぞ。」
「そりゃあ。ありがたい。歓迎するぞ。」
 鍬を肩にかつぎ、すぐ傍の我が家に向かう。わずかに、左足を引きずるようではあるが、足取りも軽い。刀を受け止めた時の反応も、以前と変わらない。引退を決め込むことはないのではないかと、空の目が問うている。
 半蔵・・・いや、兵庫は、含みのある笑いで首を振った。
「ところで、あのお嬢ちゃんは?」
「ああ。師匠のところでしばらく修行してるんだが、ここで落ち合うことにした。」
「・・・勝手に・・・。」
兵庫は、そういいつつも、気分を害したふうでもなく。家の中の妻へ、来客を告げると、縁側の方へ行き、腰を降ろす。にやりと、空を見やる。
「空。お前そろそろどこかに腰を落ち着けないのか?」
 ぱらぱらと、木の葉が舞い。向こうから木の葉を散らしながら、こちらに近付いて来る童子がある。その後ろから物凄い速さで菜々が走ってくる。
「待ちなさい!捕まえた!」
「ちぇ。つかまっちゃったよ。」
童子が、口を尖らせながら現れた。菜々は、足元の木枝を拾って傍らの木に投げつける。
「そこと。そこ。」
「えへ。みつかったあ。」
 ふたりの童子たちが現れる。三童子たちは、菜々の手を引っ張って、もっと遊ぼうとせがむ。
「向こうに、きれいな花が咲いてるんだぜ。行こうよ。」
 菜々がちらりとこちらに目を向ける。
 行ってこい。行ってこいと。兵庫が手をぶらぶらさせた。菜々は、一度空と目を見交わすと、笑ってちょっと手を振り、童子たちと出かけて行く。
「まあ・・。そのうち・・な。」
 座って見送りながら、空がぼそりと言う。
「で?」
「で?って・・・。」
 聞きたいのか、と目で問うて、兵庫が口を開いた。
「俺は、これから長い時間かけて、身についた殺気をそぎ落としてゆかねばならん。」

戦国草子 傾城34

2008-04-18 16:38:38 | 戦国草子 傾城
 ざくっと、ここにもまた、腹切りの音が響きかけた。
 岡崎の地へ戻った本多重富に、止められて植村家次が頬を赤くして地に転がっていた。
 榊原清政たちが、信康の最後を伝えたのだ。
「家次。そんな簡単に命を捨てるものじゃない。武士が刀を振るうのは、死ぬ為じゃない。生きる為ぞ。最後の最期まで踏みとどまって、あがいて生きて行くことこそ、真の戦国武者じゃ。責めを感じているのなら、なおさら、簡単に死を選ぶな。・・・殿は、己の矜持に負けてしまわれたのじゃ。」
 そういって、おいおい大声で泣いた。彼は、傳役であるだけに、信康の武将として育っていく楽しみを奪われ、無念さは人一倍だろう。
 それでも、植村に後を追わないと約束させると、岡崎を出奔していった。植村は、追っ手がかかるのも時間の問題で、どこかに潜むべく別の方向へきえて行った。
 見送って、榊原たちは、留守居の本多重次のもとを訪れる。
「そうか。殿は、亡くなられたのか。」
 瞑目して聞いていたが、訪ねてきた彼らの目的の為、立って自らその場所へ連れて行った。城下の静かな佇まいの屋敷。
「大殿がぜったい足を向けられない所・・。赤子の安全の為に、お万の方さまに預けたのだ・・。」
 面会を請うて、対面する。お万の方は、詳細を聞くとはらはらと涙を流した。
「母上・・・?」
 生母が悲しそうな顔をしているのは、いつものことだ。だが、今日は涙を流している。このところ赤子の珍しさに、いつもべったりな於義丸が客人の来訪にも傍を離れず、その場にいた。
 心配そうに、見上げている。お万は、涙を拭うと、於義丸の手を取り、一緒に赤子の頬を撫でた。
「於義丸、そなた兄上のこと好き?」
「はい。兄上は、時々遊んで下さって、優しいから大好きです。」
「そう。日那女にもよく懐いていたわよね?」
 於義丸が勢いよく頷いた。
「では、その好きな人たちの為に、嘘をつき通せるかしら・・。」
 小さな頭が傾いだ。何を言おうとしているか、わからないのだ。
「この子は、あなたと双子で生まれた子よ。」
「・・・・・・。」
「この子の命を助けるため、です。」
「松千代は誰かに狙われているの?」
「・・・・この子の父君。あなたの兄上は、亡くなられたの。だから、もう守ってあげる人がいないの。誰にも、このことは内緒よ。」
「父上にも・・・。」
 お万が頷く。於義丸は、ほんの少し考えていたがすぐ、頷いた。
「松千代・・。ぼくが、兄上になってあげる。守ってあげるからね。」
 無心な小さな目でじっと見ている赤子に、言って。これもまた小さな手が頭を撫でた。
「お方さま・・・。」
 やりとりを聞いていた本多重次に、お万が静かに頭を下げた。
 生まれた時、於義丸に双子の片割れがいたことは他にも知る人がいる。すぐに亡くなってしまったのだが。実は、双子は、忌み嫌われるとして、すぐ片方を離して他で育てたことにすればいいと、彼女は考えたようだ。
「しかし、一方が赤子ではなんとしますかな。」
「どこか人目につかぬように育てて、大きくなってから近くに呼び寄せましょう。多少の体格の差は病弱の故と、こじつけて。」
「大殿の目は、ごまかせませんぞ。」
「生みの親の私がぜったい双子だからと、開き直りますわ。・・・でも、おそらく疑いはもたれても追求はなさらないでしょうけれども。」
「なるほど・・・。」
 弱弱しいのかと思いきや、以外にはっきりと行動を起こす。家康の心を読んでもいる。もしかすると、こういう部分を煙たがり、遠ざけられたのかもしれないと、重次は思った。
 なりゆきを見ていた伊奈忠次が、進み出て言う。
「それがしがお預かりしましょう。妻を連れて出奔いたすつもりですので、成長されるまで誰にも見咎められる危険はありません。」
 榊原清政は、独り身だった。さすがに、赤子を抱えて、放浪するのは無理と判断して黙って役を譲った。
 於義丸が、伊奈忠次に近寄る。
「松千代のこと頼むね。会えるのをぼく、待っているから。」
 幼い身で、しっかりと状況を察しているのだ。小さな肩がさびしそうに、ぽつんと言った。
「しかと承りました。於義丸さまも、母君とご息災で。立派な武将になられませ。」
 忠次は、応え、赤子を預かり、旅立って行った。

戦国草子 傾城33

2008-04-18 16:35:55 | 戦国草子 傾城
 足音も荒く、入ってきた天野定久を、家康は不快そうにしている。
 構わず、どかっと腰を下ろし、平伏した彼は内心ではそんな自分に驚いていた。
 元来、自分は臆病なほうだ。長く、家康に近侍していたとはいっても、家康に対して隔てがある。前に出ると、知らず緊張するのだ。
 わしは、何を言いに来たのだろう・・・。信康の処遇を聞いて、矢も盾もたまらず、飛び出してきてしまった。廊下で、すれ違った半蔵を見て、ことは終わってしまったのだと。
 直感した。
 発すべき言葉を失い、しばし窮していた。ふと、家康の手が目の端に止まる。
「・・・殿。その、爪を咬むお癖まだ残っていらっしゃったのですな・・・。」
 家康の目が何を言いたいのだと、問うた。
 なつかしい・・・と、近侍していた頃の、昔を思う。天野の瞳に少し余裕が出来た。
 家康は岡崎の小領主の子として生まれ、幼い頃、人質に出され、そのまま、そこで成人した。
 駿府の今川での人質時代。・・・・普通のものなら、卑屈になり、ただ小さく今を安定させるだけになってしまっていただろう。
 だが、家康は、ひとり強い孤独と向き合い、己の中に強い独立心と、何者にも頭を垂れない矜持を育たのだ。彼が望んでいるのは、小さな小城の領主を安堵ではなくて、もっと大きなもの、なのだ。
 それに、今更ながら気付いたと、天野は述べた。
「私を首謀者として差し出して、若殿を救ってくだされと、進言するつもりで腹をくくってきましたが、遅すぎました・・・いや、最初から、無理なことでしたな。」
「・・・・・・・・・。」
 先へ、もっと大きく成るために、勢力を二分する不安材料をこれを機に切り捨てた。天野の目が、じっと家康をみた。すべてわかっていると気付いていて、家康も、鷹のような輝きを宿す目を隠すことなく、天野を見ている。
「そなたは、一番私心なく仕えてくれた・・・。それ故に二心なく仕えてくれると、信康の傍へやったのだが。」
「・・・・・・申し開きの言葉もありません。」
 それでも家康の育てた矜持を、支えて来たのは、家臣たちである。苦しい人質時代を共にした岡崎衆を、忘れた、彼にも非があると、指摘するのに天野は遠慮しなかった。
 家康が岡崎にやって来たことも、随分前のことで、新しい若い世代は、彼の顔を見ても、それが徳川の主だとわからないものも、数多く。信康を担ごうとする者が出たとしても、おかしくない状況をつくってしまった。
「殿は大きなものを手になさいますな。私は、もうお仕えすること適わぬと思いますが・・・覚えて於いて下され。支えてくれるものがあることを。押し付けがましく恩を売りつけるつもりはありませんが。地元に残ったものはそれだけに、地元に愛着がある。殿から忘れ去られたと思い知らされたら、また、このようなことが起こりかねませんぞ。どうか、残ったもの共にご恩情を・・・。」
 これにて御前失礼いたすと、言うが早いか、腹を斬って冥土へ旅立った。


戦国草子 傾城32

2008-04-18 16:32:43 | 戦国草子 傾城
 半蔵が、腹を決めて口を開いた時だ。異変が起こった。
 臭悪な匂いが立ちこめ、突然場違いな嬌声が響いた。
あはは・・・・・。
「・・・夜叉女・・・」
 どろんとした黒いもやもやが、序々に、夜叉女の顔を形造り、嬉々と目を家康に向けていた。
「息子を殺して、始末を家臣に被せたのかい・・・。」
 夜叉女が家康に近付く。艶のある眼差しで、今にも擦り寄って行きそうだ。
「ふふ。おもしろい奴もいるもんだね。どうだい私と、組まないかい?」
眼差しがまとわりつく。部屋にいた者たちは、全員呆然と成り行きを見守っている。
 声だ・・。半蔵は、傷の痛みが残っているので何ともない。声を聞いては行けないと、注意しようとした、その時。
「言いたいことは、それだけか。」
家康が静かに言い放った。夜叉女の影がほんの少し遠ざかる。
びぃん・・!弓蔓の放たれる音が響く。
家康は、立ち上がって、近くに立てかけてある弓を持ち、弓蔓を引いた。
「鳴弦・・・というそうだ。古来宮中で、妖しのものを避けるために用いられた。武者は妖しの者を滅ぼす者ぞ。」
 言い放つ。天下取りに、お前の力などいらぬ、と。誇り高い矜持と、冷たい拒絶を目に浮かべて、対峙していた。
「きえいっっ・・・!」
 腹の底から、あたりに響き渡る声を発し、夜叉女の影を切り裂いた。影も、悪臭も四散する。
 どすん・・・! 
 刀が、半蔵の前の床に突き立っていた。じわり彼の額に汗が浮かぶ。突き立てられた刀は、黒いトカゲを串刺しにしていたが、それは空気に溶けるように消えてなくなり、床に突き立てられた刀だけが鈍く光りを放って、半蔵の目に迫る。静けさが、現実を取り戻す。
「・・・・・・・。痛っ!」
 突然、忘れていた足の痛みを意識してしまい、つい体の均衡を崩してしまう。半蔵は重い足を、もう一度折り、座りなおす。
 見ると、家康は何事もなかったように元の場所に戻っている。他のこの場にいるものは、夢のような出来事に、煙に巻かれたような顔をして座っている。
 半蔵は、目の前に突き立てられた刀が、鈍い光を放つのを見つめながら、言上する。
「お願いしたき儀がござります・・・・。」
 引退を申し出た。天方のように切腹して果てるほうが、簡単かもしれないが、あえてそれは避けた。ちょうどいい具合に足が不具合だ。都合よく、痛み出してくれたぜ・・・・。思いながら、背中に冷や汗を感じつつ許しを請う。
「そうか。だが、半蔵の名が消えると敵の間者どもが喜ぶなあ・・・。」
「ありがたいお言葉です。・・・その半蔵という名は、もともと、それに相応しいものが名乗るものでして・・・名は、弟に譲ろうと思います。」
 別働隊として、今北条との交渉に専念している弟を推した。彼以下の忍びは、こちらで起こっている詳細までは知りえないので、家康にとって好都合だ。
 どうにも心もとないという顔の主君に。
「あいつなら大丈夫です。武芸は私より、上かもしれません。下につけてある者共は、経験の豊かなものばかりなので、しくじることもないかと、思います。」
「うむ。・・・・半蔵、今までご苦労であった。」
「はっ。もったいない仰せ、心に刻み付けておきまする。」
 家康が、立ち上がって、床に刺さった刀を鞘に納めた。ぎらつく刃が収められると、広間から、それまでの緊張感が潮が引くように消えていった。
 額を床にこすりつけるようにして拝礼し、御前を退がっていく。
 月に照らし出された廊下を歩いていると、向こうから猛烈な勢いで走ってくる人物がいた。天野定久だ・・・。
 どうやって、禁足の身を抜け出したのか、後ろから追ってくる者たちを振り切って、どすどすと音を立ててやってくる。一瞬止めようかと思い、邪魔しかけたが、脇へ退いて通してやる。天野は、すれ違いざま半蔵の顔をぎろりとにらみつけ去っていく。まあ・・天野の腕で、殿を害することなど無理かと。言いたいことがあるなら、ぶちまけてけじめをつけさせたほうがいい。自分の甘さが招いたことでもあるのだ。
 大変だな・・・殿も。人事のような感想だが。今回関わった色々な連中の思惑、無念の思いなど、すべて抱えて、この後も生きてゆく。己の相反する心と、すべてひっくるめて・・・。けれども、あの殿の中では、何の矛盾もなく存在して。薄気味の悪さは拭えないが、それでいて夜叉女という妖しの者を寄せ付け無い心の強さもみごとだ。あれが、天下を盗る器というやつなのか・・・。半蔵は、背中にかいた冷や汗を今やっと意識した。
 去って行く天野の背をちらりと見やって、半蔵は自分もまた別の方向へ去っていった。


戦国草子 傾城31

2008-04-18 16:28:13 | 戦国草子 傾城
 剣を仕舞い、引き返す。菜々に剣を帰すと、一緒に信康たちのところへ戻った。
 信康は、半蔵から、家康の意向を聞いていた。
 正気に戻った城兵に取り押さえられた榊原清政と伊奈忠次がくやしげな目を向けている。
「半蔵。このたびのこと、仕組んだのは伊賀者か。」
 信康の声が静かに問うた。この騒ぎのことではなく、謀反のことを訊いているのだ。
 首を横に振る半蔵に向けた目は鋭く。嘘は見抜くぞ、といっている。
「いいえ。誓って。事は、大殿が岡崎に姿をお見せにならないようになってから何年もかけて、少しずつ燻って積もっていった結果です。岡崎には、あなたさまのような魅力のある君主も存在した・・・。」
 仕組みはしないが、それを利用したのは否定しないと不敵な目が応えている。
 信康は、事の詳細を聞き、瞑目した・・。
 沈黙の間、半蔵は戻って来た空の存在を意識して、神経を研ぎ澄ませていた。この足で、どこまで防ぎきれるか。奴が、逃がしてやるつもりなら、また一戦しなければならない。清政と、忠次が、捕らえられているので、空は、機会をうかがっている。
 信康が、目を開けた。
「・・よかろう。この命くれてやる。だが、覚えておけ、ゆめゆめ徳川を意のままに操ろうとなどするな。すれば、お前たちも身の破滅ぞ。」
 半蔵以下、その場にいたものは、沈黙した。
 信康の目は、空へ向けられ、逃げるつもりはないと、その動きを制止した。誓って、翻意などないが、逃げた後の、自分がいつまでその心を保ちえるかは、断言できない。
 叛旗を翻せば、全力で戦わねばならず、勝っても名を汚すだけである。おそらくその状況は家を滅ぼす。信康は、自分の中にある鷹のような、戦国武将としての本能を意識した。不可能だ。それを眠らせることなど。世を捨てて、生きることなど出来ない。
 空へ、部外者のそなたは、手を引いてくれと言った。
「清政と、忠次は、見逃して逃がしてやってくれ。」
「殿!我らもお供します。」
「ならぬ。」
 即座に否定して、傍に斃れている日那女の髪を愛おしそうに撫でて言った。
「私は、自分を慕ってくれる女ひとりも守ってやれなかった・・・。だが、私の死でまだ守れるものもあるのだ。そなたらには、生きぬくことで守れるものがある。生きよ。」
 日那女を弔ってやってくれと、小さく呟く。
「殿・・・。」
「その加勢してくれた二人を連れて、早く行け。」
 渋る二人を振り払い、去らせた。
「天に誓って、無実じゃ。」
 信康は壮叫ぶと、ざくっと切腹して果てた。
 動けぬ半蔵にかわり、天方が介錯した。


 浜松に報告に戻った時には、月が出ていた。
 大広間に通されると、家康が上段の間に座って爪を咬んでいた。入室してきた半蔵たちに気付き、立てていた片方の膝を横にして座りなおし、胡坐をかいた。広間には、浜松の重臣たちもいた。
 報告を聞きながら、家康は、はらはら・・と、信康の為に涙を流した。
「・・・・・・。」
 このお方は・・・・・。
 報告を終えて半蔵は、待っている。不自由な足を無理に折って、平伏しながら、背中に汗をかいていた。何と、矛盾したお人柄なのだ・・・・・。
 半蔵は、正室築山殿の始末の時のことを思い浮かべる。あの時も、落胆したようすを見せた。だが、最初の瞬間、喜色が目に浮かんだのも、彼は見逃さなかった。今も、そうである。ほっと安心したような表情と、悲しみと。同時にふたつのものが、違和感なく一人の人の中に混在する。ちらりと、隣の天方を見る。彼は、家康の涙を見て蒼白な顔で俯いている。無理もない、介錯とはいえ手にかけたのは、彼なのだから。
 さて、どうすべきか・・・・。考えを巡らす。
「うっ・・・。」
 呻き声が耳に飛び込んで、見ると、天方が短刀を腹に付きたて前のめりに斃れていく。
「・・・いたしかたなく、介錯奉ったのです・・・お許しを・・・。」
 天方は、主を討ったことを恥じて果てた。家康は、遺体を丁重に葬ってやれと、近くのものに命じた。
「・・・・・。」
 葛折れていく時の天方の目に安堵の色があった・・・。ずっと下を向いていたので、半蔵の位置からしか見えなかったが。自分と眷属に、のちのちふりかかる主君の報復を、避けたのだ。おそらく、そう思っていた。

戦国草子 傾城 30

2008-04-18 16:23:17 | 戦国草子 傾城
 異様な喧騒を耳に、中へ駆けいる。
あちら、こちらで、争っている。甲冑もつけず、武器も腰の刀や、その辺の棒きれや皆、てんでばらばらに、一体誰が敵なのか味方なのか、わからないけど、戦っている。闇雲に武器を振り回し、ところかまわず物騒な喧嘩を続けているのだ。
 止めている間もなく、あせりながら、信康を探す。
剣の打ち合う音と、怒号。聞き覚えのある声が混じっている。駆けつけると、白法師たちを防ぐ、数人の男に守られて、信康がいた。
「殿!」
 駆け寄って行く清政、忠次に続いて、空たちも近付く。信康が腕にかかえている女を見とめて空と菜々が顔を見合わせた。
日那女が血を流している。
 信康も、急に起こったこの出来事を把握しきれずに戸惑っていた。あきらかに、家中以外のものが彼の身柄を奪還しようとしていた。
 襲ってくる味方を防いで、その最初の兇刃の一撃から信康を守ったのは、飛び出してきた日那女だ。血を流しながら苦しい息の下で、声をふりしぼって味方を正気付かせたのだった。
 もう、ほとんど虫の息だ。
 どこからか忽然と姿を現した夜叉女が、いつのまにかその傍に立っていた。信康がはっと気付いた時、突き刺さったままの日那女の背の短刀をずぶりと深く突き刺し、止めを刺す。止める間もなかった。
「何を・・!」
「日那女さん!」
 向こうから、菜々が駆け寄ってきた。凶悪な嬌声をあげて、さっと立ち退く夜叉女に空の一太刀が舞う。ふらりと視界が揺れるが、再び夜叉女を見つけて斬りつける。
 ガシッ!
 半蔵の刃が防ぐ。空の刃が襲おうとしていた味方を守った。
「何やってやがる!うっ・・!」
 半蔵の足にクナイが突き刺さっている。すれ違いざま、夜叉女の嬉々とした目が得意げに過ぎ去る。
 不覚だ。自分も術中にはまってしまっていた。だが、鈍い痛みと共に、知覚のほうはもとに戻る。半蔵の耳に怒声が聞こえ、見ると、また、皆味方どうし争っている。あちらの方で、白法師が、信康に忍び寄る。
 傍にいる菜々が刀を抜いて必至に防いでいる。
 ちっとはやるじゃないか・・・娘っ子。瞬時、思い。状況を打破すべく、行動を移す。
「空!いつまで、ぼけてんだ!早く正気に戻りやがれ!」
ぼかっ・・・・!防いだままの刀から、片手を離し、拳で殴る。
「痛っ。」
 正気に戻った空に、半蔵が残る白装束を任せて、自分は信康を襲うひとりを始末しに向かう。足が痛い、わずかに引きずるようにして一歩歩いたあと、腹に力を込めて飛ぶように走りよる。気付いて振り返った白法師の刀が突いて来た。
「むっ?下段。」
 半蔵の刃は下を向いている。にやりと笑い。力一杯踏み込んできた白法師の刀と、半蔵の刀が合わさる。半蔵の手から短刀が飛び出していた。ガシッと音をたてて刀が合わさった時には、もう相手の喉元に迫っている。白法師も、短刀を投げるつもりであったのが、再接近したその時を狙っていたため、むなしく手元からこぼれて落ちた。          
 ガクッ。斃れた白法師を避けて、信康の傍に立つ半蔵は、肩で息をしていた。
「くそ・・。毒か・・。」
 夜叉女にやられた傷が、足が、痺れる。
 すぐに、傷口を抉り取り、応急処置をしたが、片足が思うように動かない。
「ここを離れても大丈夫かしら。」
 菜々の呟きが聞こえる。手にしていた刀を信康に渡し、自分は背に括りつけた荷物から、変わった刀を取り出して構えている。何かが彼女の中で確信に変わった顔だ。
「そなたの力を借りずとも、己の身ぐらいは守れるぞ。」
「行って来い。ここはわしが守る。」
 信康の声に続いて、半蔵が言った。片膝を立てて、座ったまま守りの体勢を取る。信康は、そんな半蔵に何か言いたそうな顔をちらりとみせたが、すぐに、菜々へ向かって、行って来いと合図した。
 びゅうん・・・!ひゅるる・・・!
 風斬り音が響き渡り、菜々の振った剣が、澄んだ音を正気を失った者たちの耳もとに聞こえてきた。争っていた味方はがくり、がくりと、力を抜いて、正気に戻っていく。
 菜々の視界の先には、ひとり、またひとりと白法師を斃していく空がいる。空のすばやい剣裁きが、またひとり斃して、最後のひとりを突き斃し、夜叉女に迫った。
 ぐわん・・・!
 耳をつんざく音に、動きを止められ空は立ち止まる。
 ひゅるる・・・!
 澄んだ音が、それを避け、はっとなる空のもとへ、菜々が追いつく。破邪の剣を手渡した。その大陸の剣は、水の流れの如く雲の風に流れるが如く、空の動きに対応した。
 水を得た魚のように、切っ先が円を描くように、風を斬る。
 逃げる夜叉女に追いつき、斬る。
 ぎやあぁぁぁ・・・・!
 辺りを揺るがすような音を発し、夜叉女が葛折れていく。剣が赤く光を放った。 夜叉女は、息絶えていた。
「本当に、光りやがった・・・。」
 呆然と剣を見つめるが、今は、どうということもない。一瞬で、本当のことだったのかも、自信が持てなかった。
 足元を一匹の小さなトカゲがちょろちょろと逃げて行った。夜叉女の体の下敷きになりかけたのだろう。驚いて逃げていった・・・・・。

戦国草子 傾城29

2008-04-18 16:17:59 | 戦国草子 傾城
 浜松の家康のもとには、服部半蔵と、天方通綱が呼ばれた。家康の命を帯びて、信康を罪に問う為、二俣城へと発つ。
 
 二俣城の一室で、信康の身柄を預かる酒井忠世は背中に冷や汗をかきながら、主の命を聞いていた。まず罪状があげられ、処分が伝えられる。間違いないよう、主の署名の入った書面で確認する。切腹、という文字にじっと目を落としたまま、身動き出来なかった。
 身柄を預かるだけあって、彼は信康に近しい人物ではない。主の命であれば、嫡子であっても従うまでであるが、それにしても、このなされよう・・・。
 まさか忍びごときが、やって来るとは思わなかった。
 きちんとした家臣が使者として遣わされるべきではないか・・・。服部半蔵とともにやって来た天方は、同じ伊賀者出身の青山成重の青山家の親類で、同類と見なして差し支えないだろう。
 暗殺者という後ろ暗い仕事を連想する彼らを、なぜ、遣わしたのだろう・・・。もしかして、秘密裏に処理して内密に、逃せという含みがあるのだろうか・・・。
 主の真意がわからない。
「半蔵・・・。」
 遠まわしに問うてみた。だが、半蔵は何の含みもないという。彼が恣意的に隠すということも、あるいは、あるのかもしれないが、忠世の気にしているのはこれを実行したあとの影響のことである。
「若殿をお逃がし申し上げても、後顧の憂いが残るだけでございます。ご生母の築山さまを害された今、もはや、孝心の厚いお方でも、殿をお許しにはなりますまい。見逃すには、若殿は才気があり危険な若者であります。・・・殿は、充分理解しておられます。」
 夫婦仲がしっくりいってなかったとはいえ、生母の存在が緩衝材の役目を果たしていた。それがなくなった今、止めるものはいない。逃がせば、尚更、対立するだろう。
 実行しないほうが、後に影響すると、半蔵は言い含めた。
 要因に押されてとはいえ、最後に断を下したのは家康だ。
「そうか・・・。用意を整えるから、しばし待て・・・。」
彼らを待たせて、忠世は中座した。

 同じ頃。城下を行く、山伏の一段が歩いていた。どこの街道を通って来たのか、城下に忽然と現れた白い法衣の集団は、同じく城下を歩いていた女を取り囲んでいた。
「おや。お前達、真田の・・・。」
夜叉女が少し片方の眉を上げて言った。
 取り囲まれても余裕の表情である。白法師たちも、それは予想の範囲だったらしく、頭らしき男が用向きを告げると、夜叉女の顔に生気が宿った。
「ふうん。協力してやってもいいけど・・。」
「成功すれば、もう一度、御館様はお前を迎えてやってもいいということだ。どうだ、のらぬか。」
「えらく奥方さまとお姫さまには嫌われちゃったからね・・。どうしようかなあ・・。」
くっくっと、愉快そうに喉を鳴らす。
「もしかすると、奥方さまのご実家とは手切れになるかもしれない。姫さまは、他のご兄弟のもとにやってもいいと、おっしゃっていた・・・。」
 夜叉女が凄艶な笑顔を白法師の頭に向けた。連れ立って、二俣城内をめざす。
 数刻後、城内の守備兵が突然乱心したように騒ぎが起き、広がっていった。


 これもまた、時を同じくして。榊原清政。伊奈忠次。空と菜々。二俣城の城下へ入ろうとしたところで、ばったりとふたりの人物に出会った。彼らは別々に、出会ったのだが、まず最初に出会ったのが、植村家次だ。どうやって抜けだしたのか、牢をやぶり彼も信康を奪還しようとしていた。
 彼が加わると、逃避の趣が変わってくるので、押し留める。もみ合って、言い争いをしているところに、信康の傳役本多重富がやって来た。彼は、留守居役の重次の実兄だ。
「何をしている・・。」
目的はおそらく、いっしょだ。羽交い絞めにされ、抵抗する植村を縛って、重富に渡した。
「本多重富殿。ちょうど、よいところに・・・。」
 植村が、参加すればますます事を悪化させる。皆、同じ家中のもので、信康側近として顔が知れている以上、あとで報告が行く。彼がいることで、家康の耳に入った時の印象が全く違ったものになってしまう。それを、繰り返しながら、事が終わるまで、どこかへ連れて行って欲しいと、重富に頼んだ。腕に覚えのあるふたりなので、重富も、自分も行くと殊更主張せず、その役割を引き受ける。結局、岡崎に引き返していった。
 見送って、二俣城へ向かう。
「!」
 城の門は開かれ、門番が斃れていた。中で、鬨の声がする。

戦国草子 傾城28

2008-04-18 16:14:18 | 戦国草子 傾城
「二人に確認したきことがある・・・。」
 だが、人の子の親として、我が子を率先して害したいものだろうか・・・。
 信康を逃がすとして、二人に、家康に対して叛旗を翻す気があるか懸念が残る。家中を分ける要因は、今は迅速に処分されたけれども、領内から逃げて、徳川に仇名す要因となられては困るのだ。
「おぬしらにも、係累が沢山おろう・・・。」
 徳川が滅んでしまってはもとも子もない。重次は諭す。
彼らが、家康のことをどう見ているか。信康への忠心の他に、徳川の家臣としてどのくらい忠心があるかは問題である。新しく加わった家臣もいるが、そのほとんどが、累代の家臣で構成されている徳川の、ふたりもその一員だ。自分たちの今後の行動が、その係累たちに及ぼす影響が出るかもしれないという自覚が、あるのかと問うた。
「・・・・・。」
 ふたりは、返答に窮した。わかっては、いるのだ。
 本多殿は止めよと、言われるのか・・・と、真っ直ぐな視線が問い返す。
「殿を見捨てよと、申されるのか・・・。」
 額にあぶら汗をにじませて、呟く。ふたりは若いだけに、純粋な思いも沢山持っている。
 これぞ三河武士。忠に篤く、己の思うところを貫き成し遂げようとする・・・。三河武士の本分とするところを思い出した。
 重次は、頬に笑いを滲ませて、顔が綻びる思いだ。首を振る。
「いや。わしは良いと思う。大殿は、表面上お怒りになるかもしれぬが。それは、家中を保つためだ。考えてもみよ。誰が、好んで我が子を手にかけたいと思う?・・・それに、おぬしたちは若い。勝手に忠心からつっぱしったとして、誰が止められよう?」
 食えない親爺だ。知らぬ顔で、背中を押す。
忠心とは、君主にとってこの乱世では何者にも変えがたい魅力のあるものだろう。一時は、怒りを勝っても、忠を通した彼らを家康が、また受け入れる余地は残っている。それに、係累は多すぎて、彼らが単独で行ったとすれば、罪に問われることはないだろう。自分の失点に関しても、これに限っていえば、おそらく追求されることはないと、計算している。
「いいか。このまま黙って行けよ。・・・本来なら、わしも同行したいくらいじゃが。」
「それでは、影響が大きすぎます。」
「わかっておる。・・・だから、逐電に気付くのを二三日送らせよう。必ず、誰にも気付かれずに岡崎を出ろよ。」
「はい。幸い、親兄弟とも共に住んでいませんし、謹慎中で、しばらく連絡がとれなくても大丈夫ですから。」
「気をつけてな。」
 すっかり暗くなった外の闇に紛れて出てゆく背へ向かって、重次が声を掛ける。暗くて確認しづらいが、わずかにこちらに向かって、頭を下げるのをみとめる。
 信康の近習、榊原清政と伊奈忠次が岡崎から姿を消し、逐電したと判明したのはそれからしばらく経ってからだ。

戦国草子 傾城27

2008-04-18 16:10:48 | 戦国草子 傾城
 じりじりと暑い朝。榊原清政は、目覚めて、井戸で顔を洗う。ついでに、ざぶりと頭から水を被る。冷やりと水の冷たさが、暑気を緩めてくれる。いつもなら、このまま元気に登城するのだが・・・・。晴れぬ思いが、つい動きを鈍くする。
 殿は、どうしていらっしゃるのだろう・・・。
 近習はもちろん、岡崎の主だった家臣たちは今も、行動が制限されている。信康が二俣城へ幽閉され、その間、岡崎では謀反の調査がなされた。何人かの家臣が名指しで、取り調べられ、彼も、信康の近習ということで一時は厳しく行動を制限され取調べを受けた。疑いは解かれたが、今も、自宅で謹慎中の身だ。本当なら、真相を知るべく動きまわりたい所なのだが、親兄弟、身内も同じ家臣として徳川に仕えている身なので、うかつには動けない。それに、今、怪しい行動をとるのは、反って信康の身の潔白を証明する足をひっぱるかもしれないのだ。
 殿は、断じて、謀反など考えてはいらっしゃらなかった・・・。
 いつか疑いを解かれ、戻ってこられると、思っていた。だが、生母の築山殿殺害がもれ伝わるに至って、焦燥感に付きまとわれる。
 清政は、思いをしばし打ち掃い、朝餉を取るべく、屋内に入った。
「おはようございます。」
 菜々が鍋の蓋を取って、中の味噌汁の味を確かめている。清政に気がつき、声を掛けた。
「おはよう。客分の身で、いつもすまぬな・・・菜々殿。」
「いいえ。」
 にっこり笑い否定する。一晩逗留するつもりが、次の日に起こった逮捕劇の為にしばらく出て行けなくなった。菜々と空は、新しく雇うことになった家人ということで、清政にかかる間者との接触という疑いをひとまず除けた。しばらくは、どこへも行けないのだ。
 ざぶん。と、音をさせて、入ってきた空が、甕に水を足した。そのまま、竈の方へやってきて、飯を炊くのを手伝おうとする。
「今日は少し顔色がよくなったな。清政殿。」
 そう言いながら、空は出来上がった飯を手際よく椀に盛って、折敷の上に並べていく。
 並んで、一緒に飯を食いながら、清政はしきりと関心している。
「空どのは、飯まで炊けるのだな・・。」
 いったいどんな家に生まれたのだろう。清政は、実家はそこそこ家人のいる家だったので、もちろん男子は、厨の手伝いなどしない。商家の子にしたって、農家の子にしたって、手伝いは出来るかもしれないが、本格的にやるのは女の仕事で、これほど、きちんとこなせるかはわからない。幼い時から、ずっと漂白の身だったのだろうか・・・。
「拾って育ててくれた師匠の食事やらかたづけやらをずっとしていたから・・・。師母・・師の奥方は、剣術は出来ても、その・・食事は作れない人だったから・・。」
「え?」
「いや、作って下さるのだが、なかなかこれが勇気がいるしろものでな。」
「・・・・・・。なかなか変わった環境だったのだな。そういえば、おぬしの話は訊いていなかったな。空どの。どのようなところを見てきたのだ?」
 空の旅の話を聞きたがった。時間は、このあと有り余るほどあるので、あたりさわりないところで空も、面白おかしく語る。
「何だ。面白そうな話をしているじゃないか。」
 戸口から、声がかかり振り向くと、伊奈忠次が立っていた。つかつかと上がりこむと、自分も人の家の朝餉に参加する。しばらく、話を聞いていた。
「・・・なるほど。では、そろそろ旅が恋しい、というのが本音じゃないか?」
 笑いながら、話のおわりに感想を述べる。
 しばらくして、真顔になり、忠次が清政に向かい、別れの言葉を述べた。
「俺は、このまま逐電する。その足で、幽閉中の殿の命をお救いいたす。」
「まさか・・・親子ではないか。大殿も、お命までは奪われまい・・・。」
「清政。本当にそう思うか?」
「・・・・・・・・。」
 否定することは出来なかった。拭い去れない懸念を。もう一度、味わい。清政も、決断した。
「わかった。俺も行く。だが、その前に、状況を確かめる。」
「状況?」
「ああ。留守を預かっている、本多重次どのだ。我らよりは、情報も多く持っているだろう。事を起こすのは、殿にとって良いことかどうか、まだ、半信半疑なのだ。」
「・・・万が一にも失敗は出来ないか。もともとは俺たちにも責任がある。植村の愚挙を掴み損ねたのだからな・・。」
 植村家次は、首謀者ではなかった。ただ、仲間に引き入れられただけなのだが、それにしても謀反の計画に、信康の側近が一枚咬んでいたのはまずかった。家老の天野定久にしてもそうだ。彼の預かり知らぬところで、事は進行し、祭り上げられていた。当の本人の知らぬことなので、さぐりを入れてみたが判明しなかった。信康に近い人物を次々巻き込んでいくつもりだったのだろうと、今なら推測できる。
はじめ幾人かの不平分子が、たまたま、実行力のある者を巻き込んでしまったために事が大きくなった。計画は波紋が広がるように、大きくなるが、首謀者不在。調べてみても、誰がと確たるものは出てこないだろうから、始末が、悪い。事を収めるために、このままでは首謀者として、信康を断罪せざるをえなくなるかもしれない。
伊奈忠次と、榊原清政は、最悪の事態を連想し、人目を避けて岡崎城の留守を守っている本多重次を訪ねた。
 重次は、若者たちを前にして眉間に皺を寄せて彼らの懸念を聞いている。
 重次の知る限りの情報も、大して彼らと変わらない。ただ、企てに加わった実名と密書の内容がわかっているだけで、取調べを直に行った家康が蒼白な顔で、浜松へ戻って行ったことだけだ。
 弱った・・・・。行き着くところは、重次の推測も彼らと同じなのだ。再発を防ぐために、一生厳重に幽閉するか、出家させるか・・・。いずれにしろ、不平分子の旗頭と成り得る者を残しておくと、後顧の憂いをずっと抱えていくことになる。平和な世ならいざ知らず、右も左も、上も下も油断ならない世の中なのだ。
 殿は、・・・若殿を斬って捨てる・・・つもりかもしれない・・・・・。重次は鬼瓦のような顔にますます皺を寄せて、考えた。

戦国草子 傾城26

2008-04-18 16:05:02 | 戦国草子 傾城
 翌日。岡崎城は、大変なことになっていた。
 浜松から、家康が軍勢を引き連れてやってきたのである。信康が、拘束され、他の城へ移されることになった。信康が、謀反を企んだということで、調査の為、家康本人が出向いたのだ。信康が岡崎を出立すると、すぐさま、詮議が始まり、捕縛のための軍が領内を駆け回った。事は異様な早さで処理され、静まり返ると。城を一旦、岡崎の重臣のひとり、本多重次に預け、浜松へ帰って行った。
 本多重次は、頭を抱えていた。謀反など、寝耳に水、である。
 同格の天野康景も、高力清長も、傅役の本多重富もまったく知らない話である。 本来ならこういう時城を預かるべき人物、石川数正は二三日前、浜松へ所要で呼び出されたきり戻ってこない。彼は、家康の幼少時から仕える家臣であり、まず叛くことはないと考えられるが、向こうで拘束され取調べを受けているのだろう。
 若殿が謀反など、どういうことだろう・・・。重次は、眉を寄せた。
 そもそも、岡崎の重臣たちのほとんどが知らぬことを成し遂げられるのだろうか。
 ある厭な予感に、背筋に悪寒を覚え、ぶるっと震えた。
 殿は、子に対してどうして、情が薄いのだろうか・・・。お万の方腹の次男に対するしうちには、首を傾げざるを得なかった。路頭に迷う彼女を、見かねて世話をしたのは、重次だ。彼女が親戚筋にあたったからなのだが、それにしても不思議な出来事だった。随分たって、子として認められたものの、やはり、浜松城内には引き取られなかった。
 さて、若殿をどうされるおつもりか・・・。彼自身の潔白が果たして、認められるのだろうか・・・。
 重次は、足を城内のある場所に向けた。
 室の外から、声をかけ入っていく。
「お待たせしましたな。日那女どの。」
 親戚筋の娘ではあるが、非公式でも信康の思い人である。重次は、敬語を使う。
「お久しゅうございます。あの・・・。」
「殿から、言付かっています。側室として、お世話するよう。ですが、城内も立て込んでおりましてな。お袋様に申し上げるにしても、少し待ったほうが良いと判断しまして、申し訳ないが我が家にて、お預かりいたしましょうと思いますが・・・。」
「私のことなら、お気になさらず・・・あの、殿は、どちらへ・・・。」
「二俣城へお入りになった、と聞いております。しばらくはご不自由でしょうが、大殿の怒りが納まれば、すべてもとに戻りましょうて・・・。」
 大殿、ときいて日那女がびくりと背をひきつらせた。頬を涙がつたう。日那女は、すがるように、手をついて頭を下げる。自分を二俣城へやってほしいと、願ったのだ。
 重次は、自分の裁量では出来ないことだと、諭す。
「お願いにございます。お城の下働きでいいのです・・・どうか、殿のお傍に・・・。」
「まさか、これが今生の別れでもあるまいし。大殿も、そこまで薄情なお方では・・・・いや、その・・。」
 重次は言葉をとぎらせた。まさか・・・な。
「はした女ぐらいなら・・・何とかもぐり込めるかもしれないが。お子は、わしがお預かりいたそう。」
 日那女は、黙って頭を下げた。



 八月。浜松城に近い、佐鳴湖半・・・。
 月夜に照らし出され、穏やかにゆらゆら揺れる暗い湖面。湖畔の影絵のような樹木の輪郭。水音と、葉擦れの音と、ふくろうの声・・・。静かな夜の筈だった。
 突然響き渡った人の絶叫と、怒号の声・・・。しばらくして、鎮まりかえると、水際に人影が現れた。月映にきらりと銀の鈍く輝く光が反射し、ばしゃばしゃと、何かを洗う音。水に流れた赤が、流れに溶けた頃、人影は音もなく立ち去った。
 家康の正室築山殿、信康の生母が、浜松へ向かう途中、賊の凶刃に斃れたと、世間に流布された。だが、真は、家康の放った刺客に命を奪われたのだと、誰もが知っていた。
 付近の住民が、哀れに思い。凶行に斃れたその場所に、碑を建てて祀った。
 凶報は、岡崎へもすぐ伝わる。

戦国草子 傾城 25

2008-04-18 16:00:59 | 戦国草子 傾城
「よかったね。万、万歳で・・。」
菜々が、夜道を歩きながら言う。空は、それに対してあいまいに少し微笑してみせただけである。
「そういえば、夜叉女の・・。忍びのような技を使っていたけれど、どこで身につけたのかしら。」
 日那女に確かめたのだが、知らないという。声で操る術は、小さい時から自然と身につけていたもので、それに対し日那女はいつも悪さを止めてきた。長じると、夜叉女は、家を飛び出し、四年前、一度帰って来たっきり、またふらりとどこかへ消えていたのだと。
 旅の間でどこかで身につけたのだろう・・・・。
 野宿の場所を探す。手ごろな木の下で火を起こし、休むことにした。
 馬の足音が近付いて来る。
「どお・・・!」
馬は手前で勢いよく止まり、馬上の人物が降りて、ふたりに声をかけた。
「空どのと菜々どのと、言ったか・・・先ほどの、榊原清政でござるよ。」
「何かご用か?」
 空が答える。刀は抜いていないものの、目に警戒がにじみ出ている。
清政は、破顔し、害意はないことを示す。
「今から、宿を探すのは難儀だと思い、追ってまいった。城に滞在なさるのがおっくうなら、せめて我が家に泊まって行かれよ。」
「お気持ちは、ありがたいが・・・我らにとっては、いつもと変わりないこと。お気遣いだけ、ありがたく受け取っておきます。」
「いや。しかし・・・。」
 ぱちぱち・・・と、焚き火の火が爆ぜた。
 くすくす・・・。菜々がふたりのやりとりを見ていて、笑った。
「榊原さま。どうかお気になさらず。私ども先を急いでるんですわ。しばらく、体を休めたら、夜叉女のあとを追うと、たぶん空は考えているんです・・・。」
 空がどうしてそれを・・という顔をしている。
「あの妖しい技を使う女を成敗するつもりなのか?」
「斬るか、どうか決めかねているんだ。ちょっと、わけありでな・・。」
 空がちらりと菜々の背の荷物を見る。追うなら、斬るつもりでなければならない・・と、火の傍にどかっと腰を下ろした。
 清政も、その場に陣取る。帰る気配がないので、仕方なく、剣にまつわる経緯を、武田の松姫や、伊賀の半蔵の話は割愛して話す。
「・・・そうか。その剣を持っているのに気がつかれたのだから、菜々どのの身が危ういかもしれぬのだな。」
「ただの悪意で、やったのだとすれば関係ないがな。」
「うむ・・。だが、追うにしても、どちらに行ったのか、探す手間がいるのではないか。領内で聞いてまわるなら、殿の近習を勤める私がいたほうが、得だぞ。」
 清政は、まだあきらめていなかった。なかなか、いい売込みだ・・・。
 空と、菜々までもがぽかんと口を開けて彼を見る。がっくり。脱力・・・。
 結局、二三日逗留することになりそうだ。

戦国草子 傾城 24

2008-04-18 15:58:49 | 戦国草子 傾城
「この夜叉女、いらないかい・・・?」
 甘い匂いが信康にまとわりついた。その時・・・・。
「駄目。その声を聞かないで。」
 風と共に飛来した男に抱きかかえられて、日那女が立っていた。
後ろから、縁側をよじ登って、もうひとり女がやって来た。
「ちょっと、性悪女。その子を返してあげなさいよ!」
菜々だ。走って付いて来たので、ぜえぜえ、肩で息をきっている。
「ちっ。日那女、あんたが来たんじゃ、術がかけられない。」
 夜叉女は、心底つまらなそうに吐き捨てると、立ち上がり、逃げようとした。
 日那女を降ろした男、空が夜叉女に刀を手に斬りかかる。
 シュッ!刀は小気味いい音をたて、宙に舞う。速い。夜叉女が紙一重でかわす。
 もう一太刀。ぐにゃり・・・。
「!!」
夜叉女の声を聞いたと思ったら、地面が揺らいだ。
「空さん!」
日那女の悲鳴を聞いた、と、思ったら宙を斬っていた。菜々が床に座り、尻餅をついている。
「危なかった・・・。」
 呟く菜々に。状況を理解し、空が駆け寄った。
 怪しい術をかけられて、菜々に刀を向けていた。術のせいで、いつもの動きが鈍ったからか・・。菜々が少しは、成長しているせいもあるが。わかっているが、無事を触って確かめて、大きく脱力した。何なんだ。あの女・・・。
 菜々の松姫に貰った小袖の袖が少し切れていた。空は指でその箇所をつまみ、顔を顰める。
「悪い・・・。新しいの買ってやるから・・。」
「これくらいなら、繕えるよ。それより、よく避けられたでしょ。少しは、力がついたかしら。」
「緊張感なさすぎ・・・。なわけあるか、あれは術のせいで鈍くなったの。」
 でこぴんに。あはは・・・と、菜々の笑い声が響いた。
 こほん。信康が、冷ややかな目で見ている。騒ぎをききつけ、近くの部屋に控えていた榊原清政と伊奈忠次も、駆けつけて来ていたので立っている。彼らは、日那目がふたりいるのを見て、固まってしまっていた。
「そなたら、は?」
 心なしか、日那女をかかえていた空に冷たい視線を向けている。
「俺たち?通りがかりのもので・・・。日那女さん、赤子が戻ったんなら、俺達消えていいかなって、駄目か・・・。」
信康の視線を軽くいなすが、冗談めかしてこのまま立ち去るのは無理そうである。空は、あきらかに面倒くさそうな顔で、経緯を説明した。
 話を終えると、それまでいたたまれぬ顔で、身を縮ませていた日那女の体がもう耐えられないというように、ふらりと傾いだ。信康に受け止められて、なんとか倒れるのは防いだ。赤子は、話の間、菜々が預かって縁側であやしている。
 日那女は、ただでさえ色の薄い顔をますます白く頼りない風情でぐったりとしている。
「俺たちに会う前も、無理をして追ってきたみたいだから・・・。」
 空の言葉に信康は、頷いた。
「・・・申し訳ありません・・私・・・。」
「もう、何も言うな。そなたが悪いわけではない。もうどこへも行くな。」
 日那女の頬に伝った涙を指でそっと拭い、縁側のあやされている赤子を見る。菜々が視線に気付いて、信康の手に託す。赤子は、気持ちよさそうに眠っていた。
 名を聞いた・・・。まだ・・・と日那女が首を横に振る。
「そうか。では、竹・・・いや、松千代と。」
 嫡男に与えられる幼名竹千代と、つけたかったのだが、ふと、父とお万の方との経緯に。日那女を刺激しないように、松の字にかえた。彼女は、父を恐れている。これ以上負担をかけたくなかった。
「松千代。よい名前、ですね。」
 臥せっている日那女が手を・・・赤子の手をそっと触り、ふわりと微笑む。その様子がますます儚げで、信康はしばらく無言で見つめていた。
 

戦国草子 傾城23

2008-04-18 15:52:46 | 戦国草子 傾城
 家老の天野の屋敷を辞した伊奈忠次は、暮れ行くうす闇の中を酔いを醒ましながら歩いていた。向こうから、顔みしりの人物が歩いてくる。榊原清政、忠次と同じ信康の側近だ。
「ああ。清政か・・。」
「忠次。相変わらず酒に弱いな・・。で、どうだった?」
「あ・・・あ、ちょっと待て。」
 そうだった、酔って鈍くなった頭を無理矢理働かせて、忠次は考える。しばらくして、思いあたることはなかったという答えにぶつかり、清政に伝える。
「家次のやつは、来ていなかったが・・・・。別に、奴の様子がおかしくなる程のあやしげな宴会ではなかったぞ。」
「どんな話題が、出ていたのだ?」
「さあ・・これと言って、咎めだてするほどのことは・・・ああ、ちょっと待てよ。」
 忠次は、近くの石に腰掛けた。清政が、腰の竹筒を渡して水を飲ませる。
「そうだ。少し、大殿に対する不満を述べる者がいたが、天野殿が諭されていた。すぐに、話題は移った。不穏な感じがする程のことでもないかな・・・。」
「そうか・・・。」
 最近、同じ近習仲間の植村家次の様子がおかしい。家老のひとり天野貞久のところへ足しげく出入りし、軽輩たちと集っているという。たまさか城下で、ばったり会うと、顕かに挙動不審な態度で接したりすることがある。彼は、隠し事が出来ないタイプの男だ。何かあるとすれば、そこかと思い、さぐりを入れてみたのだが・・・。
 向こうから、歩いてくる人物に目を留めた。
 女だ。顔は遠くて見えないが、両腕で何か大事そうに抱えている。
 赤子だ・・・。むずかって、外にあやしに来たのだろうか・・・。
 うつむき加減に通りすぎる横顔に、記憶を揺り起こされた。
「もしや・・。知立神社の永見殿の・・お万の方さまのところの、日那女どのではないか?」
 呼び止められて女は、体をびくりとさせ、顔を少しこちらに向けた。
「・・はい・・。」
「殿の近侍の榊原清政と、伊奈忠次でござるよ。よく殿のお供をしていた。」
「日那女どの。殿のもとを去られて、まさか嫁にゆかれたのか。そのお子・・。」
「おい・・・。」
 清政が、忠次の言葉を遮った。お互い、目を見交わして、じっと赤子の顔を覗き見る。
 避けるように後ずさる彼女を問い詰めた。
「・・・ご正室の徳姫さまの父君は恐ろしい方と聞いております・・。大殿様も、徳姫さまとの間に隙間風が吹くのを不快に思っているとおっしゃいました。私は、それでなくとも、冷遇せれている大殿さまの側室お万の方さまの姪・・・いたたまれず、今まで身を隠していたのです・・・。」
 ずっとうつむき加減で、涙を滲ませ、それでも懸命に話す姿は哀れを誘う。浜松の城下に隠れていたのだという。
「殿はずっと行方を探されてていたのだ。日那女どのが突然いなくなったから、反って徳姫さまを疑って・・・いや、その。とにかく、殿にお会いなされ。」
「・・・いいえ・・・。」
「そのお子を抱えて、これからどうされるおつもりなのだ。日那女どのがお万の方さまのように扱われることはない。殿は、実のあるお方だ。」
 榊原清政が、つい意気込んだ。言ってしまってから、己の言下の失言に気付き、少し顔をしかめる。お万の方を冷遇しているのは、浜松の家康である。信康の実を強調するあまり、徳川の主を貶める言い方になってしまった。
「とにかく・・・。」
 言葉を尽くすふたりに、やがて、彼女は小さく頷いた。そして、城へと連れていかれる。


「とにかく、殿にお知らせするから・・・。」
目立たぬ隅の居室へ案内し、急いで信康に知らせに行く。
 ばたばた・・と、廊下を渡ってくる音。
「日那女か。」
足音も慌しく、信康は入ってくると、日那女に近寄った。
身を硬くした彼女の腕の中で、赤子が泣き声をあげる。
「・・・子供を・・抱かせてくれないか・・。」
 差し出される時、違和感を感じ、信康は少しだけ首を傾けた。泣き咽ぶ赤子に注意を引かれ、あやしながら、目を細める。やがて、大人しくなった赤子を手に抱いたまま、日那女を抱き寄せようと片手を伸ばす。ふと、肩に回した手を止め、代わりに顎に手を添える。顔を上向かせた。
「誰だ、そなたは・・・。」
 日那女に良く似ているが別人だ。
「おや・・もう、ばれたかい・・。ぐずのあの子が選んだにしちゃ、感のいい奴だね。せっかく日那女から、奪りあげて来たのに。私じゃ、駄目かい?」
「日那女をどこにやった。」
「あの子なら、亀のように身を隠してるよ。あんたの為だとか言ってね・・。」
「そなたは・・・。」
「私かい、私は・・・・。」
 赤い唇の口角がわずかにあがり、にやりと笑う・・。薄く開かれた唇が、名を夜叉女、と告げると。信康が前へ崩れる落ちる。倒れる寸前に手をついて苦しげに肩で、息をした。

戦国草子 傾城22

2008-04-18 15:46:42 | 戦国草子 傾城
 同刻。家老天野定久の屋敷には、若者が集まっていた。別にめずらしい光景でもなく、信康近侍の植村家次が天野の屋敷へ顔を見せるようになって、色々な若者を連れてくるようになった。天野は気の好い親父で、酒を片手に活気ある若者達の話に耳を傾ける。そこで、また人が増えるといった感じで、天野の家老屋敷には常に若者達の集いの場と化していた。
 俺も捨てたもんじゃないな、と。そんな状況を、天野自信も快く思っていたのだった。
「お邪魔いたします・・・。」
「おお。伊奈忠次どのか。我が家へ来るのははじめてじゃのう。」
「ここへ来れば、飲ませてもらえ、何やら楽しげな宴に参加させてもらえるとか。朋輩に誘われ、あつかましく参上いたした。」
「いや、いや。我が家はそんな大したものではないて。若い者の噂話など聞かせてもろうて、元気を貰っておるだけじゃ。」
 信康近侍の若者、伊奈忠次が現れて、席に加わった。
 時々、笑いが興ったり、激高して自分の不満をぶちまけるものも、いたが、概ね和やかに談笑が続いた。
しばらくして顔を真っ赤にして伊奈は立ち上がり、その場を辞して行った。
 ふらりふらりとふらつく歩みを残った仲間は、笑いながら見送る。いれかわりに、植村が入ってきた。また、しばらく談笑が続く。
 どこから、話が出たのだろうか・・・・。浜松に対する、岡崎衆の対抗心のような話になって、いつのまにか、溜まった鬱憤が不穏な雰囲気を帯びてきた。
 そこへ、植村が連れてきた男が、すっと前へ進み出る。
 天野貞久は、顔から汗をだらだらと流していた。差し出された封書を受け取り、検めると、今や自分がのっぴきならない状態に置かれていることを思い知る。
 始め天野は、若者たちの暴挙をなだめようと説得した。だが、彼らの気概はしだいにまし、その場の雰囲気に負けて、圧されてしまう。
 赤くなったり、青くなったり、決定的な一言に。やがて天野は頷く。座がひけて、真っ白い顔になった彼がひとりぽつねんと密書を見つめていた。
 宛名は、信康宛になっている・・。甲斐の武田勝頼からの密書だった。
 殿は、このことをご存知のようだが・・・。手紙の内容が、随分前から信康と連絡を取り合っているようである。
 浜松の大殿にご隠居いただき、その身を預かっていただきたいなどと・・・・。武田が上杉を攻略し、信康が北条を。信康は正室の実家の父、織田信長とも連絡を取り、武田と一時的和約を取り結び、北陸方面から上越、即ち上杉を攻めるという提案を認めさせてくれという内容だ。たがいに切り取り放題だから、織田にとっても悪い話ではない。信長にしてみれば、武田を攻めるのが後回しになるだけだ。後は、同盟国が婿のものになり、より動きやすくなるのではないか・・・。
 武田にとって、利が少ないような気もするが・・・・・。気になる点がないではないが、信康は承知しているふうである。
 岡崎の殿に従うか、浜松の大殿に従うか・・・。天野定久は、もともと家康に仕えていた。間近で武将としての資質も見てきた。皆のいうように、信康だけが優れているのではないと、比べてみる。だが、岡崎在住で、特に若い者は、家康とは面識がないものも多く。彼らがそんなふうに思い込むのも理解出来た。
 危険な賭けだと、解っているのだろうか・・・。殿も、彼らも・・・・・。それに、松平を名乗るご親戚衆はともかくとして、岡崎三奉行といわれる家老の筆頭を差し置いて、事はなるのだろうか。確かに彼らの知るところとなれば、おそらく彼らは、浜松へ報告する方をとるだろうが・・・・・・・。
 額に浮いた脂汗を拭って、嘆息する。目の前に影が差す。
「!・・・服部半蔵・・どのではないか。どうされた?」
 密書を見られてはいまいかと、しまった文箱のあたりを気にした。
「実は、伝えたいことがありまして・・・・。」
「・・・大殿から・・・?」
 近寄り。半蔵が、声を低くして伝える。
「何、武田が殿と、大殿の間を離間させようと動いている・・と?」
 思わず。大殿はご存知なのかと蚊のなくような声で、呟き、ますます顔を真っ白にした。
「武田の間者が、若い衆を誑かし、岡崎の殿を陥れようとしています。」
 顔を上げ。では、殿はご存じないのかと言ってしまい。半蔵のきらりと光る目に、天野は自分の失態に気付いた。脂汗がしたたり。とうとうすべて白状してしまった。
「わしは、どうしたらいいのじゃ・・・。家老職にありながら殿をお守り出来なんだ。」
 頭を抱えて蹲る。その背へ、半蔵が囁いた。
「まだ、間に合う。大殿へ密書も何もすべて通報されよ。家老の天野殿の証言があれば、謀反は処理される。軽輩の私の言では駄目だと、おっしゃった。」
「と、殿は?」
「どこかへ、お移りもうして、その間に造反者を処分するとか。それで、若殿の知らぬ間のこととして、処理すればいいと・・・。」
「そうか・・。殿をお守りする為か。若い衆には気の毒だが、致し方あるまい。」
「天野殿。くれぐれも、三奉行の方々、傳役、後見、重役の方々には内密に。巻き込んで、罪に問われるといけませんからな。」
「・・・わしの不覚が招いたことじゃ。他の方々を道連れにするつもりはない。」
 搾り出すように呻いて、半蔵へ密書を渡した。
 半蔵は密書を受け取ると、浜松に届ける為、闇に紛れて消えていった。



 闇夜を忍び装束を着て駆けぬける半蔵。突然。足元に。くないが突き刺さる。
 カッ、カッ、カッ・・・・!次々、くないが・・・!速度を保ち、避けながら、半蔵は振り向く。きらと銀閃を受け止めて、返し。刀で防ぐこと数度。トスッ!半蔵が勝った。同じような忍び装束をきた男が道端に転がった。
 近付いて覆面をはがし、顔を改める。昼間矢作川で、魚を採っていた男だ。半蔵は、いつのまにか追いついてきた彼の仲間に、死体を隠すように指示し、自分は浜松へ急いだ。