十
そろそろ秋めいて来た内裏の一角で、いち早く赤く色付いた葉っぱを見ながら、梨花が朋輩の雪柳と紅梅と、話していると、女五の宮が、また、一人でうろうろやって来、当然のように話しに加わり、そこへ、兵衛佐がやって来た。
楽しく話していると、権大納言もいそいそと廊下を渡って来る。
御簾の前に、陣取って、いつも、兵衛佐と張り合って、梨花の気をひこうと角突合せているのは、ちょっとした名物となりつつある。今日も顔見るなり、一戦、嫌みに近い社交辞令の応酬を始めたふたりを、御簾内の梨花は、ため息をついて見ている。
女五の宮が、そばの雪柳と紅梅に、
「あの海千山千の権大納言をあいてに、意外にも兵衛佐が善戦しているな。互角とまでいかないでも、おされっぱなしじゃないぞ?これなら、勝てるかな。」
「宮さま、兵衛佐どのを応援しているのですか?」
と、雪柳が囁く。紅梅が、
「それで、よろしいのですか・・宮さまのお気持ちは・・・。」
と案じ顔。女五の宮は首を横にふり、
「わらわは、ずっと独身だけど、わたしのお花さんたちには幸せになって欲しいの。ね。紅梅?」
雪柳は。
「まあ。ちょっと感動しましたわ。」
紅梅は、何か言いたそうだったが、女五の宮に目で制されて黙る。
こそこそと話してる三人を、梨花が、もの問いたげな顔でみているので、女五の宮が、
「今日は、どっちが有利かのう?・・どっちみち、もうすぐ、三条の中納言が追い払いにやってくるだろうけれど。」
梨花は、ますます困惑の表情をうかべる。
いつもなら、けんけん二人で、争っているのだが、権大納言が、矛先を先に引っ込め、
今日は、思い出したように、御簾のむこうにいる女房のひとりが紅梅であることを確認すると、訊ねた。
「あの扇に書かれた歌ですが・・・あの歌は、女御さまがお好きだったのですかな?」
紅梅も、事件からあまりにも時がかけ離れていたので、気付かなかったことがある。
「さあ・・でも、そのことで、少し思い当たることがあります。まだ、入内なさる前の頃のお話ですが・・その時は、確かとても蒸し暑い年で、郊外へ避暑にいかれました。その折のことでございますが」
紅梅が、考えながら遠くを見遣る。
故女御は、もちろん、深窓の令嬢なので、当然、外出などは珍しく、お付きの女房達も浮かれていた。暗くなって来て、姿が丸見えにならないからと、故女御が外へでると言い、まわりの者も解放感から咎める者もいなかった。
蛍が舞い飛び、水の流れる心地よい音。浮かれて、あちこち歩いた為か、かなり、屋敷から離れてしまっていた。山荘が沢山ある場所で、迷っても難儀することはないだろうけれど・・・。たまたま、通りがかった男がいた。
「あの時は、暗がりでこちらからは、顔も確認できませんでしたけれど。」
紅梅は、そう前置きして続ける。
身なりも悪くないので、盗賊ではなかろうと、安心し行き過ぎようとした一向を、その男は、ぼんやりと佇んで見ている。
月の光のもと、浮かび上がった美しい女を。男は、そばに咲いていた花をとっさに折りとり、故女御にささげた。彼女は、何も考えずに差し出されたそれを受け取ってしまったのだ。普段なら、やんわりと断るだろうに、その時は、浮かれていた。「きれいね。ありがとう。さようなら。」そう言って、すぐに立ち去ったのだが・・・。
「・・・本当にそれだけだったんですが・・ちょうど、その後でした。蛍が舞い飛ぶ光景を見て、故女御さまが、例の歌を私たちに教えてくれました。恋に身をやく女房の昔話。もしも、あのあと付けられていたなら、それも聞かれていたかもしれません。」
思えばその時教えてもらった歌をついこの間、自分で呟いていたのに・・・。山荘の付近を当たれば、もっと早くその人物にいき当たっていたかもしれない。突き止めたからといって、紅梅の立場でどうこう出来たわけではないだろうが・・・。
そっれきり、故女御のもとに連絡があったとか、そういうものはなかったので、忘れていたと、紅梅は言った。その話に、頷きつつ。
そう言えば・・梨花の父が廊下で恋文を拾った一件を話していた時、紅梅はそばにいなかったから、昔の出来事と結びつけることもなかった・・・・と、女五の宮が、心の中で頷く。
「勘違い男の、暴走か・・・。」
女五の宮の言葉に、そっと首を横に振る権大納言。
「あの男は、自分に甘い方向へ走ったのでしょうな。勘違いから始まったとて、誰もが暴走するわけではありません。恋の他でも、苦しい思いを抱いていても、誰かを殺めるなど、人として越えてはならぬ線を越える者は少ない。心の中の線引きは、消えそうになっても、何度でも引き直す事は出来る。また、簡単に消えてしまうようなことも有りうるのです。鬼に憑かれる時とは、そんな時でしょうから・・。苦しい時でも、越えない気持ちを保ち続ける努力は誰にでもできるはずなのに。」
「簡単に自分が楽になれる方を選んだと・・?選んだつもりが、却って破滅の道を行くことになったのか。それでは、ちっとも満たされないし、楽にはなれないじゃないか。」
権大納言が頷く。
あれから、彼女たちには、事件の顛末詳細などは一切語られていない。恐ろしい思いを再びさせることはないとの配慮だろうが・・全く関わらせないというのも、不自然なことだと、彼は思っている。子供や、心の弱い者なら別だが・・・。
「常習性のある幻を見る薬を服用していたようですからな・・。尚更、現実と区別がつかなくなっていたのでしょう・・。兵衛佐が調べて来た内容では、十年程前にも、同じような場所がありまして、そこへ、源大納言は、足しげく出入りしていたらしいと、それは証言が得られたそうですから・・。一時は、断っていたらしいですが・・・、一見普通には見えていたが、昔の事件の辺りからずっとおかしかったのでしょう。うまく隠していたが、今に至って、源大納言は、もう後戻りできなくなるくらい、充分狂っていたのでしょうな。女五の宮さまをどうやら母君と混同していたらしいから、どこかで、宮さまの姿を垣間見て、代わりにと思っていた矢先、宰相の中将との婚儀の話が聞こえて来て、毒を盛る為に、昔の薬を手に入れたのが、当人にとっても、運のつきだったのでしょう・・・。」
「・・・・・・・・・。」
さすがに、女達の前なので、始めは、客をとる女を身代わりにしていた・・・という話は、省いたが、権大納言は。
「さっき、左大臣どのから、聞かされたのですが、源大納言が酒席で、その歌を、ぼんやり口にしたのへ、居合わせた例のお方が、あまりにも珍しい光景で、興にのり、手持ちの扇に書きとめたのだが、それを源大納言に無心されて、その場で与えたとか。それから、これ・・・梨花どのが、藤の香りとか言っていたものですが・・。」
懐から出した小箱の蓋を開けて、手で仰いで、御簾の向こうに香りを押しやる。
「あ、この香り・・・文に焚き締められていた?」
雪柳と女五の宮が鼻をくんとさせ、互いに顔を見合わせる。
「これ・・藤?」
紅梅と雪柳が、首を傾げ、女五の宮が、
「荷葉・・・か?」
蓮の花を連想する、だいたい夏に用いられる香の種類だ。
「え・・?あら・・検めてかぐと、違うような・・何で、藤と思ったのかしら?」
う~んと考えて、あっと思い出す。
「そうだわ。母が、受け取ってるのを最初に見た時に、藤の花が添えてあって、甘い匂いがしたからだわ。」
権大納言が、頷く。
「なるほど・・夏場に藤はおかしい気がしてずっと気になっていた・・。この香については、私が、例のお方に贈ったものです。どうやら、かのお方、恋愛指南までしたらしく、その時に、この香を譲ったらしくって・・・その香をあわせるときに、注文がありまして・・・ま、その、女の気を惹けるような物がいいと言われて、夏向けでしたから、甘みも抑え気味で、無難に、蓮の花といった感じを表現してみましたが・・・。」
使用人である女房と親しくなり、その後、本命のところへ手引きさせるつもりであったかと、権大納言は考えた。彼の君は、勘の悪い女ではない・・梨花の母は、相手の男の目的にも勘づいていたのではないか、と。そんなことを呟くと。
「でも、手引きしたのは彼女ではありませんわ・・。」
紅梅は、昔の朋輩たちから聞きだしているうちに、何となくではあるが見当がついていたので、否定はしておく。
権大納言が頷いた。貴船云々は、おそらく人物の名をぼかしたのか・・あの扇をじっくり見る機会があったということは、もしかして、近しい関係だったかもしれない。その日手引きした女房は別人だが・・・。
ちらりと横に視線を移すと、兵衛佐が何か言いたそうな顔をしているのと目があった。
彼は、御簾の向こうのようすを伺い、口を開くのを止めたようだ。
なぜ、名をぼかして言ったのか?恋心から、相手をとっさに庇ったのか。それとも、口を噤まざるを得ない危機を感じたのか。
それは、口にせず、権大納言も、心の中の呟きにとどめておく。
「おそらく、文を貰っていた為に、闇夜ですれ違っても気付いたのでしょうな・・。それは、向こうも同じ・・。」
身の危険を感じた梨花の母は、そのまま、逃げようとした。あとは、梨花の話した記憶のとうり・・・。
「これも、何か、怪しい薬でも入ってるんじゃないのか?あの夜、源大納言がおかしくなった香だって・・」
女五の宮が、ふんと鼻を鳴らす。
「これは、あれと、同じ香ですぞ?勝手に、妙な薬を加えたのは、源大納言だ。別物がひとつ加えられて、違う物になってましたが、あの時は、だから、おかしいとすぐに気付けたのですぞ。」
「え・・うそ!ぜんぜん違うじゃない!」
「まったくもって心外な・・・力作を台無しにしおって。」
御簾の中の女たちは、くんくん匂いをもう一度、嗅いでいる。権大納言は、手で掃うように、縁先に立つ兵衛佐の方へも、香りを送る。兵衛佐が、眉を顰め。「言われてみれば、そんな気もするが・・・。」と呟いている。梨花が、「・・これは、嫌な感じしません・・。」と、言ったのが耳に届き、権大納言が、機嫌良く頷いている。
「脈がありそうな方に贈るのでしたら、自分が普段焚き締めてるのと同じ香りを忍ばせておくだけで、思い出してもらえる。印象に残るでしょう?・・本来、その香りを私が贈った方は、その後の手順は慣れたお方だったから、そのぐらいでいいんですよ。」
「ふ~ん。・・さすが・・というか、浮気者の言いようだ。ま、その浮気者の地位のお陰で、梨花に言い寄る不届き者も、他には現れないが・・・良いのか、悪いのか・・。」
女五の宮が立ちあがった。
「兵衛佐も、血なまぐさい刃傷沙汰は、我がもとでは起こしてくれるなよ。ま、ふたりとも、せいぜいがんばれ。言っとくが、梨花を不幸にしたら、わらわがどんな手段にでるかわからぬぞえ?」
兵衛佐は、肩を竦めたが、権大納言は、あの夜の折、口を塞がれて仰いだ、女五の宮の鬼気迫る笑い顔を思い出し、ぞっと背筋に寒気が走った。
「そう言えば・・あの夜、りん。りん。・・という鉦の音を聞いた気がしたけれど・・。あの香りのせいで、幻覚だったのかしら・・」
夕刻に、法師の影に呟いた。梨花と紅梅は、顔を見合わせた。源大納言が、捕まったあの夜、幻を見たのは梨花と、駆けつけた女房たちの中にいた紅梅と雪柳だけだ。自分一人だけではなかった・・だから、おそらくあれが真相なんだと判断することが出来るものの、それが、どうして見えたのか。死者の思いだったのか・・・。それとも。真実を知りたいと・・もしかして、手を貸してくれたのかしら・・と、頭の片隅で思ったが、彼女たちは首を横に振る。
「・・そうね、不思議なめぐりあわせだったから、そう思っただけ。空耳だったのね・・・。」
梨花の言葉に、庭に佇む兵衛佐は、何とも言えないような顔して頷いた。
権大納言は、香そのものを源大納言が細工していたと言って、憤慨していた。あの妙な煙は何だったのだろうと思う・・・。小さな香炉は、衣に香りを燻らす為の物ではなかったし・・・、ということは、衣に染みていた匂いは、あの日、源大納言の袖の釣香炉からのものだ。あんな変な煙が出てたら、袖に釣るそうなどと思わないのではないか?
異臭騒ぎは、あまりにも偶然が過ぎて。壺が倒れていたから、それが毒だと気付けたのもしかり。あ。そう言えば、満春が餅を奴のところへ置いて来たとかいってたぞ。もしかして、報酬になっていたりして?次々、嫌な連想してしまう。
りん。りん。と、また、その音を聞いたようで、背筋をぞっと振るわせたのだった。
りん。りん。・・鉦の音が、京大路を清めるように過ぎ去って行く。
りん。りん。・・夕闇のそれは、光と影のはざまで、妖しく揺れ動く物語。
おわり
作品懺悔
え~・・・香のことを書いたけれど、実はよく知りません・・・。
ネットで、調べはしたのですが。
一応、舞台設定は、平安時代なので、当時のお香が、練り香と言われる物で、蜂蜜とかあまづらなどを用いて、香の材料を練り合わせ、固形のものを造るそうです。湿気がはいらないように、壺などにいれて保管してあるようです。制作は、梅の木のそばの土中に埋めておくとかいうのもあるそうで・・・。銀製のつぼとか、相性がいいとか書いてあったような・・・。乾燥させて作った物に、液体を染みさせたら台無しやん。使えなくない?・・あり得ない設定だな・・・。
どうしよう・・・。(汗)とりあえず、自分のミスにつっこみ。
以下の引用は、
『世の中の人の心は花ぞめの うつろいやすき色にぞありける 』 よみ人知らず
『かきくらす心の闇にまどひにき夢うつつとは世人定めよ』 在原業平
『物おもへば沢の蛍も我が身より あくがれいづる魂(たま)かとぞみる』 和泉式部
貴船の神の返歌と伝えられる、
『奥山にたぎりておつる滝の瀬の たまちるばかり物な思いそ』
『会わなくに夕占を問ふと幣に置く 我が衣手はまたぞ継ぐべき』 (万葉集)
『梨花一枝 春雨を帯ぶ』
白楽天の長恨歌の後半の方の一行、長いので全文は省略します。
『七十にて致仕するは、礼法に明文あり。何ぞ乃ち栄貪る者、斯言 聞かざるが如くする。』
以下延々と、いつまでも辞めない偉い役人の老いの姿を皮肉ってます・・。
白楽天の致死せずという作品です。
写真のミニチュア模型や人形さんたちは、京都風俗博物館さんで、
写させていただいたものを貼っちゃいました・・
京都風俗博物館さんは、古典やこの時代が好きな方には楽しい場所ですよ~
そろそろ秋めいて来た内裏の一角で、いち早く赤く色付いた葉っぱを見ながら、梨花が朋輩の雪柳と紅梅と、話していると、女五の宮が、また、一人でうろうろやって来、当然のように話しに加わり、そこへ、兵衛佐がやって来た。
楽しく話していると、権大納言もいそいそと廊下を渡って来る。
御簾の前に、陣取って、いつも、兵衛佐と張り合って、梨花の気をひこうと角突合せているのは、ちょっとした名物となりつつある。今日も顔見るなり、一戦、嫌みに近い社交辞令の応酬を始めたふたりを、御簾内の梨花は、ため息をついて見ている。
女五の宮が、そばの雪柳と紅梅に、
「あの海千山千の権大納言をあいてに、意外にも兵衛佐が善戦しているな。互角とまでいかないでも、おされっぱなしじゃないぞ?これなら、勝てるかな。」
「宮さま、兵衛佐どのを応援しているのですか?」
と、雪柳が囁く。紅梅が、
「それで、よろしいのですか・・宮さまのお気持ちは・・・。」
と案じ顔。女五の宮は首を横にふり、
「わらわは、ずっと独身だけど、わたしのお花さんたちには幸せになって欲しいの。ね。紅梅?」
雪柳は。
「まあ。ちょっと感動しましたわ。」
紅梅は、何か言いたそうだったが、女五の宮に目で制されて黙る。
こそこそと話してる三人を、梨花が、もの問いたげな顔でみているので、女五の宮が、
「今日は、どっちが有利かのう?・・どっちみち、もうすぐ、三条の中納言が追い払いにやってくるだろうけれど。」
梨花は、ますます困惑の表情をうかべる。
いつもなら、けんけん二人で、争っているのだが、権大納言が、矛先を先に引っ込め、
今日は、思い出したように、御簾のむこうにいる女房のひとりが紅梅であることを確認すると、訊ねた。
「あの扇に書かれた歌ですが・・・あの歌は、女御さまがお好きだったのですかな?」
紅梅も、事件からあまりにも時がかけ離れていたので、気付かなかったことがある。
「さあ・・でも、そのことで、少し思い当たることがあります。まだ、入内なさる前の頃のお話ですが・・その時は、確かとても蒸し暑い年で、郊外へ避暑にいかれました。その折のことでございますが」
紅梅が、考えながら遠くを見遣る。
故女御は、もちろん、深窓の令嬢なので、当然、外出などは珍しく、お付きの女房達も浮かれていた。暗くなって来て、姿が丸見えにならないからと、故女御が外へでると言い、まわりの者も解放感から咎める者もいなかった。
蛍が舞い飛び、水の流れる心地よい音。浮かれて、あちこち歩いた為か、かなり、屋敷から離れてしまっていた。山荘が沢山ある場所で、迷っても難儀することはないだろうけれど・・・。たまたま、通りがかった男がいた。
「あの時は、暗がりでこちらからは、顔も確認できませんでしたけれど。」
紅梅は、そう前置きして続ける。
身なりも悪くないので、盗賊ではなかろうと、安心し行き過ぎようとした一向を、その男は、ぼんやりと佇んで見ている。
月の光のもと、浮かび上がった美しい女を。男は、そばに咲いていた花をとっさに折りとり、故女御にささげた。彼女は、何も考えずに差し出されたそれを受け取ってしまったのだ。普段なら、やんわりと断るだろうに、その時は、浮かれていた。「きれいね。ありがとう。さようなら。」そう言って、すぐに立ち去ったのだが・・・。
「・・・本当にそれだけだったんですが・・ちょうど、その後でした。蛍が舞い飛ぶ光景を見て、故女御さまが、例の歌を私たちに教えてくれました。恋に身をやく女房の昔話。もしも、あのあと付けられていたなら、それも聞かれていたかもしれません。」
思えばその時教えてもらった歌をついこの間、自分で呟いていたのに・・・。山荘の付近を当たれば、もっと早くその人物にいき当たっていたかもしれない。突き止めたからといって、紅梅の立場でどうこう出来たわけではないだろうが・・・。
そっれきり、故女御のもとに連絡があったとか、そういうものはなかったので、忘れていたと、紅梅は言った。その話に、頷きつつ。
そう言えば・・梨花の父が廊下で恋文を拾った一件を話していた時、紅梅はそばにいなかったから、昔の出来事と結びつけることもなかった・・・・と、女五の宮が、心の中で頷く。
「勘違い男の、暴走か・・・。」
女五の宮の言葉に、そっと首を横に振る権大納言。
「あの男は、自分に甘い方向へ走ったのでしょうな。勘違いから始まったとて、誰もが暴走するわけではありません。恋の他でも、苦しい思いを抱いていても、誰かを殺めるなど、人として越えてはならぬ線を越える者は少ない。心の中の線引きは、消えそうになっても、何度でも引き直す事は出来る。また、簡単に消えてしまうようなことも有りうるのです。鬼に憑かれる時とは、そんな時でしょうから・・。苦しい時でも、越えない気持ちを保ち続ける努力は誰にでもできるはずなのに。」
「簡単に自分が楽になれる方を選んだと・・?選んだつもりが、却って破滅の道を行くことになったのか。それでは、ちっとも満たされないし、楽にはなれないじゃないか。」
権大納言が頷く。
あれから、彼女たちには、事件の顛末詳細などは一切語られていない。恐ろしい思いを再びさせることはないとの配慮だろうが・・全く関わらせないというのも、不自然なことだと、彼は思っている。子供や、心の弱い者なら別だが・・・。
「常習性のある幻を見る薬を服用していたようですからな・・。尚更、現実と区別がつかなくなっていたのでしょう・・。兵衛佐が調べて来た内容では、十年程前にも、同じような場所がありまして、そこへ、源大納言は、足しげく出入りしていたらしいと、それは証言が得られたそうですから・・。一時は、断っていたらしいですが・・・、一見普通には見えていたが、昔の事件の辺りからずっとおかしかったのでしょう。うまく隠していたが、今に至って、源大納言は、もう後戻りできなくなるくらい、充分狂っていたのでしょうな。女五の宮さまをどうやら母君と混同していたらしいから、どこかで、宮さまの姿を垣間見て、代わりにと思っていた矢先、宰相の中将との婚儀の話が聞こえて来て、毒を盛る為に、昔の薬を手に入れたのが、当人にとっても、運のつきだったのでしょう・・・。」
「・・・・・・・・・。」
さすがに、女達の前なので、始めは、客をとる女を身代わりにしていた・・・という話は、省いたが、権大納言は。
「さっき、左大臣どのから、聞かされたのですが、源大納言が酒席で、その歌を、ぼんやり口にしたのへ、居合わせた例のお方が、あまりにも珍しい光景で、興にのり、手持ちの扇に書きとめたのだが、それを源大納言に無心されて、その場で与えたとか。それから、これ・・・梨花どのが、藤の香りとか言っていたものですが・・。」
懐から出した小箱の蓋を開けて、手で仰いで、御簾の向こうに香りを押しやる。
「あ、この香り・・・文に焚き締められていた?」
雪柳と女五の宮が鼻をくんとさせ、互いに顔を見合わせる。
「これ・・藤?」
紅梅と雪柳が、首を傾げ、女五の宮が、
「荷葉・・・か?」
蓮の花を連想する、だいたい夏に用いられる香の種類だ。
「え・・?あら・・検めてかぐと、違うような・・何で、藤と思ったのかしら?」
う~んと考えて、あっと思い出す。
「そうだわ。母が、受け取ってるのを最初に見た時に、藤の花が添えてあって、甘い匂いがしたからだわ。」
権大納言が、頷く。
「なるほど・・夏場に藤はおかしい気がしてずっと気になっていた・・。この香については、私が、例のお方に贈ったものです。どうやら、かのお方、恋愛指南までしたらしく、その時に、この香を譲ったらしくって・・・その香をあわせるときに、注文がありまして・・・ま、その、女の気を惹けるような物がいいと言われて、夏向けでしたから、甘みも抑え気味で、無難に、蓮の花といった感じを表現してみましたが・・・。」
使用人である女房と親しくなり、その後、本命のところへ手引きさせるつもりであったかと、権大納言は考えた。彼の君は、勘の悪い女ではない・・梨花の母は、相手の男の目的にも勘づいていたのではないか、と。そんなことを呟くと。
「でも、手引きしたのは彼女ではありませんわ・・。」
紅梅は、昔の朋輩たちから聞きだしているうちに、何となくではあるが見当がついていたので、否定はしておく。
権大納言が頷いた。貴船云々は、おそらく人物の名をぼかしたのか・・あの扇をじっくり見る機会があったということは、もしかして、近しい関係だったかもしれない。その日手引きした女房は別人だが・・・。
ちらりと横に視線を移すと、兵衛佐が何か言いたそうな顔をしているのと目があった。
彼は、御簾の向こうのようすを伺い、口を開くのを止めたようだ。
なぜ、名をぼかして言ったのか?恋心から、相手をとっさに庇ったのか。それとも、口を噤まざるを得ない危機を感じたのか。
それは、口にせず、権大納言も、心の中の呟きにとどめておく。
「おそらく、文を貰っていた為に、闇夜ですれ違っても気付いたのでしょうな・・。それは、向こうも同じ・・。」
身の危険を感じた梨花の母は、そのまま、逃げようとした。あとは、梨花の話した記憶のとうり・・・。
「これも、何か、怪しい薬でも入ってるんじゃないのか?あの夜、源大納言がおかしくなった香だって・・」
女五の宮が、ふんと鼻を鳴らす。
「これは、あれと、同じ香ですぞ?勝手に、妙な薬を加えたのは、源大納言だ。別物がひとつ加えられて、違う物になってましたが、あの時は、だから、おかしいとすぐに気付けたのですぞ。」
「え・・うそ!ぜんぜん違うじゃない!」
「まったくもって心外な・・・力作を台無しにしおって。」
御簾の中の女たちは、くんくん匂いをもう一度、嗅いでいる。権大納言は、手で掃うように、縁先に立つ兵衛佐の方へも、香りを送る。兵衛佐が、眉を顰め。「言われてみれば、そんな気もするが・・・。」と呟いている。梨花が、「・・これは、嫌な感じしません・・。」と、言ったのが耳に届き、権大納言が、機嫌良く頷いている。
「脈がありそうな方に贈るのでしたら、自分が普段焚き締めてるのと同じ香りを忍ばせておくだけで、思い出してもらえる。印象に残るでしょう?・・本来、その香りを私が贈った方は、その後の手順は慣れたお方だったから、そのぐらいでいいんですよ。」
「ふ~ん。・・さすが・・というか、浮気者の言いようだ。ま、その浮気者の地位のお陰で、梨花に言い寄る不届き者も、他には現れないが・・・良いのか、悪いのか・・。」
女五の宮が立ちあがった。
「兵衛佐も、血なまぐさい刃傷沙汰は、我がもとでは起こしてくれるなよ。ま、ふたりとも、せいぜいがんばれ。言っとくが、梨花を不幸にしたら、わらわがどんな手段にでるかわからぬぞえ?」
兵衛佐は、肩を竦めたが、権大納言は、あの夜の折、口を塞がれて仰いだ、女五の宮の鬼気迫る笑い顔を思い出し、ぞっと背筋に寒気が走った。
「そう言えば・・あの夜、りん。りん。・・という鉦の音を聞いた気がしたけれど・・。あの香りのせいで、幻覚だったのかしら・・」
夕刻に、法師の影に呟いた。梨花と紅梅は、顔を見合わせた。源大納言が、捕まったあの夜、幻を見たのは梨花と、駆けつけた女房たちの中にいた紅梅と雪柳だけだ。自分一人だけではなかった・・だから、おそらくあれが真相なんだと判断することが出来るものの、それが、どうして見えたのか。死者の思いだったのか・・・。それとも。真実を知りたいと・・もしかして、手を貸してくれたのかしら・・と、頭の片隅で思ったが、彼女たちは首を横に振る。
「・・そうね、不思議なめぐりあわせだったから、そう思っただけ。空耳だったのね・・・。」
梨花の言葉に、庭に佇む兵衛佐は、何とも言えないような顔して頷いた。
権大納言は、香そのものを源大納言が細工していたと言って、憤慨していた。あの妙な煙は何だったのだろうと思う・・・。小さな香炉は、衣に香りを燻らす為の物ではなかったし・・・、ということは、衣に染みていた匂いは、あの日、源大納言の袖の釣香炉からのものだ。あんな変な煙が出てたら、袖に釣るそうなどと思わないのではないか?
異臭騒ぎは、あまりにも偶然が過ぎて。壺が倒れていたから、それが毒だと気付けたのもしかり。あ。そう言えば、満春が餅を奴のところへ置いて来たとかいってたぞ。もしかして、報酬になっていたりして?次々、嫌な連想してしまう。
りん。りん。と、また、その音を聞いたようで、背筋をぞっと振るわせたのだった。
りん。りん。・・鉦の音が、京大路を清めるように過ぎ去って行く。
りん。りん。・・夕闇のそれは、光と影のはざまで、妖しく揺れ動く物語。
おわり
作品懺悔
え~・・・香のことを書いたけれど、実はよく知りません・・・。
ネットで、調べはしたのですが。
一応、舞台設定は、平安時代なので、当時のお香が、練り香と言われる物で、蜂蜜とかあまづらなどを用いて、香の材料を練り合わせ、固形のものを造るそうです。湿気がはいらないように、壺などにいれて保管してあるようです。制作は、梅の木のそばの土中に埋めておくとかいうのもあるそうで・・・。銀製のつぼとか、相性がいいとか書いてあったような・・・。乾燥させて作った物に、液体を染みさせたら台無しやん。使えなくない?・・あり得ない設定だな・・・。
どうしよう・・・。(汗)とりあえず、自分のミスにつっこみ。
以下の引用は、
『世の中の人の心は花ぞめの うつろいやすき色にぞありける 』 よみ人知らず
『かきくらす心の闇にまどひにき夢うつつとは世人定めよ』 在原業平
『物おもへば沢の蛍も我が身より あくがれいづる魂(たま)かとぞみる』 和泉式部
貴船の神の返歌と伝えられる、
『奥山にたぎりておつる滝の瀬の たまちるばかり物な思いそ』
『会わなくに夕占を問ふと幣に置く 我が衣手はまたぞ継ぐべき』 (万葉集)
『梨花一枝 春雨を帯ぶ』
白楽天の長恨歌の後半の方の一行、長いので全文は省略します。
『七十にて致仕するは、礼法に明文あり。何ぞ乃ち栄貪る者、斯言 聞かざるが如くする。』
以下延々と、いつまでも辞めない偉い役人の老いの姿を皮肉ってます・・。
白楽天の致死せずという作品です。
写真のミニチュア模型や人形さんたちは、京都風俗博物館さんで、
写させていただいたものを貼っちゃいました・・
京都風俗博物館さんは、古典やこの時代が好きな方には楽しい場所ですよ~