時の泉庭園

小説は、基本、ハッピーエンド。
話は、最後まで出来上がってからUPなので、全部完結済み。

(^◇^)・・・みん兎

花ぬすびと 18

2010-06-25 05:26:56 | 花ぬすびと
                 七
 次の日、紅梅は、女五の宮のもとへ参上し、梨花の母が乳母で、無実だった、誰かに害されたのだということがわかったということを耳に入れた。女五の宮は、「そうだったのか・・。」と、つぶやき、じっと俯いて涙をこらえていた。二三日、ふさいでいたけれども、宮中を下り、女五の宮のもとへ、梨花が戻って来た時は、片時もそばを離さないほど上機嫌で、笑ってる。他にも、人はいるので、女五の宮は、何も言わない。けれど、ふと、人が御前から見えなくなった瞬間、大事なお人形を抱き締めるように、梨花を引きよせて。
 同じ名で、少し面差が似てる。方違え先ではじめてあった少女を気に入り、わがままを言って傍に仕えさせることにしたが、もしかして・・とも思わなくもなかった。
行方不明になった二人は、遺体が見つかったわけではなく、どこかで生きていると、ずっと会いたいと願って来た。女五の宮にとっては、血のつながった親兄弟よりも近しく感じる二人だと、教えてくれた。
梨花のようすから、別人かと諦めていたのだが、そばに置くことで気持ちは、慰められていた。その一方で、なお募る思いというものもあるというのも、自覚しつつ。
「よかった・・あなただけでも無事で・・。私、赤ちゃんだったあなたを抱っこしたことあるのよ。」
 出産で、自分のもとをしばらく去っていた乳母がようやく戻って来て、うれしかったことを覚えていると教えてくれた。早く戻ってほしいとだだをこねまくって、閉口した周囲が、子連れでもいいから、早く戻るようにと乳母に薦めたので、梨花は、少なくとも、伝い歩きしているくらいの頃は、女五の宮のもとにいたのだった。
「梨花の父が、人に仕えて育つ環境を嫌ったので、乳母やの実家で育てられることになったが、結局、乳母はその夫と、別れてしまったのは覚えてる。・・・・・乳母やは、わらわと同じ年の子は亡くしているから、わらわのことを実の子のように親身に世話をしてくれたと思う。実の母は、本当のこと言うと、わらわが女だったから、あまり関心がなかったから・・・・それよりもずっと、乳母やのほうが、真心をくれたと思う。だから、裏切られて哀しい気持ちでいたとき、雪柳の母が、そっと慰めるために言ってくれた言葉にすがって、信じてたけれど・・・。誤解が晴れてよかった・・・。」
 梨花が、目を瞑って頷く。自分は、母を失って大変な目に遭った不幸な子かもしれないけれど、思えば、ずっと守ってくれる強い存在には恵まれていた。必死で助けてくれた侍女親子や、あの女の人、それに、養母。ただ、頼ってればよかっただけの自分と違って、女五の宮さまは、ずっと一人で心を強くして、耐えていらしたんだわと思う。
 梨花は、初めて、他人の孤独に触れた気がした・・。
「それまであった温もりが、突然ある日を境に途切れてしまうのは、とても、辛くて、寂しくて・・・女五の宮さまの気持ちよくわかりますわ。亡くなった母のことずっと信じていただいてたんですね。感謝いたしていますわ。だから、私、戻って参りました。」
「・・・ありがとう・・・・。」
 女五の宮は、呟いたが、人が戻って来たので、梨花はそっと首を振っただけだ。ぎゅっと、お気に入りの女房に抱きついているのを見て、入って来た女房は、
「あらあら、梨花さんが戻って来てよかったこと。」
「梨花だけではなく、わらわには、そなたたちも、大事だぞー。おいで、おいで。」
「いえいえ、光栄ですけれど、お人形のように抱きつかれてるのでは、いつまでたっても、用がこなせませんわ。そうやって、女五の宮さまに足止めを食らって、皆、仕事が果せませんでしたのよ。しばらく、梨花さん、一人で、引き受けて下さいね。」
 そう言って、忙しそうに、立ち働く。他の女房たちも似たり寄ったりのことを言い、周りで働く姿に、梨花は、申しわけなさそうにしている。
「そなたは、妹のようなものじゃ。」
 耳許に、こっそり呟き、女五の宮は、
「やっと、梨花が戻って来てくれたんじゃ、ほんに、寂しかった~。決めた。しばらくは、兵衛佐なぞに、渡さぬぞ。邪魔してやる~。」
 不敵な笑みを浮かべる女五の宮に、まわりで働く女房たちが、一瞬、ぎょっとし、立ち止まる。
「あら、気の毒。」
「私でなくてよかったわ・・。」
「梨花さん、かわいそうだけど、また、女五の宮さまが、人前で、変わったところを見せないように、気を配ってあげて下さいね。」
 と口々に言い、
「え、そんな、どう気を配っていいのか、わかりません。どうしましょう・・。」
 と、心底困った顔の梨花。
「気にすることはないぞ。梨花。わらわは別に、何と言われてもかまわぬ。」
「宮様。もう少し、大人のふるまいをお心がけくださいませ。」
「そうそう、あまり、ひつこくては、意中の方に愛想つかされてしまいますよ?」
「う~ん。それは困った。」
 皆に言われ、真に受けて、梨花の顔をのぞき込み、本当に困った顔をしている女五の宮。
「そうそう、少しは、大目に見て上げてくださいまし。」
「それと、これは、別じゃ~。」
 女房の一人のとりなしに、はっと我に返って頭をふる。そんな姿を見て、まわりの女房たちは、あきれながらも、可笑しくて、つい笑いがもれた。
 こんなふうに、他愛もないやり取りで、数日間は、女五の宮の許も、何事もなく過ぎた。




女五の宮が宣言通りに、本当に二人の仲を邪魔するのを実行した。日が暮れると、兵衛佐が縁先に姿を現す頃合いを見計らって、悪戯に女房部屋を訪れたり、梨花に自分の傍で、今日は臥すようにと言ったり・・とは言え、少しは気が咎めるのか、同室の雪柳と、もう一人を巻き込んで、場所は、局ではあるけれど、箏を弾き、兵衛佐にも得意だと聞いていた琵琶を弾いて合奏に加わるように言い、彼にも花を持たせてやっている。
 そうして、今日も、邪魔しにやって来ていたが、その日は賑やかにやっていたわけではないので、女五の宮が足音を忍ばせて、自室を出たことに気付いた者が少なかった。
知らずに、まだ、御帳台にいると思っていた女房が行ってみると、そこにはいない女主にため息をつきながらも、いる場所はわかっているのでまあ、いいかと、そこをあとにしようとした時、背後から忍び寄った誰かに、羽交い絞めにされた。
ここには、高価な物が置いてある。泥棒か。
身の危険を感じた女房が、もごもごと、もがく。
ふと、思いのほか簡単に、塞いでいた手が離れ、怪しく思い後ろをふりむく。
暗闇で、外の明かりが逆光になりこちらからは見えなかったが、相手が驚いた様子で、「違う。」と、女房を突き飛ばす。
そのまま慌てて、庭へ駆け下り、どこかへ逃げて行った。
事態が呑みこめるまで、しばらく茫然としていた女房が、我に返り、闇夜を切り裂く声を上げた。
 慌てて駆けつけた警備の者、他の同僚の女房たち、女五の宮や、梨花も駆けつけて、屋敷中、しばらくは騒然としていた。
「あなたのことをずっと思い続けています。・・のように・・」と、その男は言ったと、その女房が証言した。
誰のもとに・・と言われれば、その部屋の主、女五の宮しかいない。
女五の宮のところへ、忍んで来た者がいるということになった。
先の穢れ騒ぎで、人手が、全部戻っているとは言えない。普段よりも、女五の宮の周囲は、手薄な感じだ。そこへ、いきなり降って湧いたようなこの一件。
一同、心当たりも全くない話で、不安がっていたところ、この話は当然ながら、母代である中宮へ伝わった。警備の行き届いたこちらへ来るようにと、すぐに取り計らわれ、場所を移ることになった。
女五の宮は、梨花に三条の中納言の家か、養母の家に身を寄せているように言ったが、心配で、結局、梨花も一緒に、宮中へと上がることになったのだった。

花ぬすびと 17

2010-06-18 09:37:11 | 花ぬすびと
 静かな読経が流れて来るのを聞きながら、兵衛佐は、紅梅から梨花の身に起こった出来事を聞かされた。てっきり、紅梅の家にもう移動しているだろうとそちらへ行ってみて、もぬけの殻だったので、まだ、三条の中納言の別邸にいるのかとようすを見に来た彼を待っていた紅梅が、なるべく感情的にならずに、見聞きしたことを淡々と話す。
聞き終わって、兵衛佐は、重苦しい心を、落ち着かせるために、辺りに漂っている静謐な香に意識を向ける。寝殿の西向きの廊下に座っているのだけれども、北向きの部屋から流れて来る読経の声が、波立たせずにはいられない感情を落ち着かせていく。
「・・まさか、そんなことがあったとは・・。」
 紅梅が気にしていた、女五の宮のいなくなった乳母の容疑が晴れてしまった。かといって、犯人が誰とも知れないので、どうどうと人に否定することもできないけれど・・。
 あとから駆けつけた、梨花の養母に確認をしたけれど、事件のことはわからず、知っているはずの親類の女に、確認をとるには、彼女が今、地方へ行っているので、時間がかかるということだった。預かった時、親戚の女が彼女がある事件の生き残りで、なるべく、過去がわからないように育ててくれるならと言われていた。何でそんなややこしい子を?と訊かれれば、顔を合わせたその子がとてもかわいくて、守ってやりたいとその時思ってしまったからだと、その養母は、語った。
梨花の様子から、両親が尋常な状態で亡くなったのではないことは感じていた。梨花の持っていた扇は、親の形見と聞いていたから、京では、盗賊に押し入られて、一家全員亡くなって・・という話は聞くことなので、そんなところだろうと思っていた。盗賊の顔を見ているから、前の家のことは、わからないようにしないといけないのかもしれない・・と勝手に思い込んでいたのだった。
もっと詳しく訊いていれば、父親のもとへこっそり引き合わせる手立てを考えたのに。苦労させることはなかったのに・・と言った養母の言葉を思い出し、紅梅は、少しばかり苦い思いを噛みしめながら、しみじみといった表情でいる。
「私、明日、女五の宮さまのもとへ参ります。女五の宮さまは、乳母どののことをずっと信じるとおっしゃってこられましたけれど・・・同時にお心も痛めておられましたもの。こっそりお耳にいれて、少しでも気が晴れるようにいたしたいと思いますの。」
「そうですか・・梨花どのの身は、ひとまず危険はなくなったから・・。それにしても、三条の中納言が父君だったとは・・。」
 言いながら、ずっと隣で、無言で書きつけられた名を見ている満春に、目を移す。満春が顔を上げる。
「・・名を記したものならともかく、役職名だけで省略してあるのは、さすがに、見当つかない。当時のままではないはずだろう・・。それに、・・何かひっかかる。紅梅どののように、二人にとって思いでの場所というなら、貴船明神云々・・の言葉の説明はつくだろうが、さすがに、女御がそこへ赴くことはないだろうし・・・。互いに誓い合ったとか、そんなのではないだろう?」
 勝手に思いを募らせて、拒否されたから、狂行に及んだのではないかと、満春が言う。
「裏切られた感・・・?でも、押し入って、思いを遂げてはいるんだよなあ・・・。女御の口から事が露見することを恐れて?自分の立場が悪くなるようなこと言いはしないよなあ・・。」
「そうなんだ。だから、もしかして、文か何か・・やっぱり以前に一度きりでも、接触があったのではないかと・・・。」
 満春と兵衛佐が、同時に、紅梅に注目する。紅梅は、うろたえながら、首を横に振る。
「人から見れば、ささいな出来事かもしれない。」
「・・・ささいな・・?思い出してみますわ。昔の女房仲間にも、確かめてはみますが、すぐには、無理ですわ。」
 ふいに、人の気配が近づいてきたので、三人が、そちらへ視線を向けると、三条の中納言と梨花だ。いつのまにか、読経はおわっていて、法師は帰って行ったようだ。
 三条の中納言は、梨花をまず、危険から遠ざけようとしてくれたことに対し、三人に礼をのべた。兵衛佐が。
「いえ、昨日は、事情がわからなかったとはいえ、三条の中納言どのを一時は疑ってしまったわけですから・・避けるようなことをして、事実から遠ざかってしまったことは、申し訳なかったです。梨花どのも、父君のもとなら、人目につかず、これから安心して過ごせるでしょう。」
「・・そのことなのだが・・・。」
 三条の中納言が、心底不服そうに告げた。梨花が、どうしても、女房勤めを辞めず、今までの生活を続けると言い張ったので、ひとまず、女五の宮が、宮中から退出したら、戻っても良いというところで折り合いがついた。
「ここへ、戻ると言っても、普段は私もここにいるわけではないから、不用心だ。女五の宮さまのもとなら、出入りするものも限られている。気をつけていれば、顔を見られることも少ないだろうから、承知することにした。」
 屋敷を見回して、顔を曇らせたあと。
「ここに戻してやりたかったが・・さすがに、ここに戻ってきたとあっては、梨花のことに気付かれるかもしれない。別の場所を用意して、ひとつふたつ年をごまかして、娘を引き取ったことにしておくことにしよう。その気になれば、梨花は、そこへ、帰って来るといい。」
 兵衛佐としては、出入りしにくい、父親のもとに居られるよりも、その方が、好都合だ。自分がそばについていれば、安全は確保できると思っているので、反対はしなかった。
 紅梅が、心配そうに、胸に手を充てている。
「わかりましたわ・・・。私も、梨花さんには、気をくばってみます。女五の宮さまは、そばに戻っていただけるなら、喜ばれるでしょうが・・。」
 とりあえず、少し事情を知っている雪柳や、摂津、小馬などにも、話しておくことの許可をもらう。犯人を見つけるといっても、今更、公にして罰することも出来ないだろうから、ともかく、梨花をどの視線から守ればいいのかだけは、知りたいところだったが。兵衛佐が、紅梅に昔の仲間たちに通っていた男のことを訊き出して欲しいと頼んだが、「訊いてみます。」とは頷いたものの、女五の宮のもとへ戻った彼女は、忙しさに取り紛れて、なかなか思うような事実が出て来ることがなかった。

花ぬすびと 16

2010-06-18 09:34:38 | 花ぬすびと
 その頃、兵衛佐は、自宅に戻っていた。梨花のことも気になっていたが、ひとまず紅梅が付いていてくれるので、今頃は、もう、彼女の家に移動しているだろうからと、安心して、先にこちらを優先した。満春が、仕事を終えた頃やって来て、昨日のことを報告にやって来たのだが、往来でやりとりするわけにもいかず、家へ戻って聞くほうが安全だったから。
 数日間留守にしていたが、もう、いい年なので、さすがに、家人たちは気にも留めず、友人を連れてきまぐれに、帰宅してきた若さまの為に、自分付きの女房たちが慌ててあたりを整えているのを横目に、はやく、部屋を出て行ってくれと兵衛佐は思っていた。
早々に人払いして、昨夜の話を聞き、
「それじゃ、あの紅梅どのの写して来た名簿をみれば、もしかすると該当する者があるかもな。それにしても、故右大臣が躊躇するほどの人物って、誰なんだ・・・?」
「うん。私のような、一般庶民には、そもそも対面を気にするってことの感覚が、よくわからないが・・。それについては、兵衛佐どのなら、わかるのではないか?」
「いいや。わからない。私なら、太刀をひっさげて、即、犯人の首根っこ捕まえて、敵をとってやるが・・・と、それくらい憎しみは持つと思うけれど、偉くなると、人は変わるのかもしれないな。あ・・そうだ。」
 兵衛佐は、人を呼び、自邸に居る筈の父のもとへ、これから訪ねると伝えてくれと言う。致仕の大臣とよばれる彼は、すでに政界を引退して、出家して、自邸で念仏よろしく、風流に親しみ、のんびり悠々自適の毎日を送っている。
「あの人も、一応偉い人だったっけ・・。その、白だよな?」
「兵衛佐どの、身内を疑うの?致仕の大臣さまは、思いつめる性格ではなさそうだなあ。」
「じゃ、白だな。考えてみれば、十年前ぐらいだったら、父上の様子が、そんなにおかしけりゃ、私だって、幼心にも憶えているはずだ・・。」
 返事が返って来て、兵衛佐は、父親の部屋へ向かう。
 法衣姿で座って、筆を持ち、季節の和歌でもひねっているのか、広廂から空を見ている。
「元気そうだな。母上が、あとで自分のところにも顔を出すようにと拗ねとったぞ。」
 振り向いた顔は、相変わらずうらうらと春の日差しのように、のんきだ。
「父上、もし仮に、うちの姉上か妹が、婿とりせずに、入内していたとしてだよ。もしも、物語の妃のように、不義密通とかがあったとして、誰も知らないなんてこと、無理だよな?」
「何だと?お前は、子供以下か。質問の意図がよくわからんぞ。もし、もし・・って、そんな具体的に・・・。伏せたい事実があるなら、もっと遠まわしに、話し始めて、事実を探るものだ。」
 はあっと大きくため息をつく。物語って何だ、女子供みたいに。この息子大丈夫だろうか・・・と、内心心配になりつつも、眉を一瞬顰めただけで、気を取り直し。
「あー。家の不器量な娘たちがか・・ないない、まず、無理だから、早々にあきらめたことだ。う~む、不義密通?物語じゃあるまいし・・・そんな深窓の娘に行きつくまでに、どれだけの女房どもの目を騙くらかして近づかなきゃならんと思ってる。まず、無理だな。確かに、おおっぴらに口にするかしないかは、周りに仕えている者の質の問題だろうが・・。あまり、期待はせんことだ。秘密は、どこからか漏れるものだ。」
 やっぱりそうだよなあ。う~んと、呻る兵衛佐。紅梅は、ほんの一瞬、誰もいない時が存在したというけれど、それを知り得る位置に犯人はいたということだ。偶然というよりも、やはりそれ以前から、屋敷内の女房に通っていたとか・・・・?そこんとこは、落とし所だよなあ・・満春の訊いて来た名があるかどうか・・。紅梅どのに、訊いてもらうか?
過去の参籠の記録よりも、確かなのじゃないか・・・?
それと、噂の法師を利用したのは、誰か・・・・・・。
「・・・それじゃ、秘密は自然ともれて・・・勝手な想像が加わって変化したのか。噂は、流したのではなく・・・?」
 兵衛佐の独り言に、父親が首を捻ったが。
「人の口に戸は建てられん。非常時なら、めくらましとして、他のもっともらしい違う事実を造って噂を流すことも、あるかも知れんが・・。」
 その瞬間のぞいた父の目が、見開いたままの目に何ものも感情を伺わせない闇が映ってる気がして、兵衛佐は、ぞっとした。
ただの風流親父じゃなかったんだ・・と、上つ方の怖さを垣間見る思いだ。
割合早くに出世して、内大臣までなったのに、還暦にはまだ遠いというのに、早々に引退を決め込んで、出仕をやめてしまった。『七十にて致仕するは、礼法に明文あり』・・・とは言うけれど、七十まで生きられるか、わからんだろうが~!余生も十分楽しんでからあの世へ行きたい・・・!と、いうのが、父の辞めた言い分だったが。ずっと以前の怪我で、足をわずかに引きずっているのを、年々、隠せなくなって来たからというのが本当の所だろうが、とぼけた親父だと、兵衛佐はずっと思って来た。
「ということは、やっぱり噂を故意に流したのは、故右大臣か・・。」
ちょうど、いなくなった女五の宮さまの乳母を利用したのか・・?もしかして、犯人がとも思ったんだが・・今更出所を探ることは無理か。満春が、怪しい法師から聞いてきたことからも、緘口令を布いたことは確かなのだが、噂は何処から出たのかまでは聞いていない。でも、何かひっかかるんだよなあ・・・と、心の中でつぶやいてると、兵衛佐のほうをじっと見つめている父の目と目があった。
「あのさ。親父は、白だよな・・?」
「?」
「思い出して欲しいんですが・・昔、女五の宮さまの母君が亡くなられた時のこと。呪詛の証拠は、結局、出て来たのでしたか?」
「いいや・・。あの時、呪詛をかけたのは、中宮さまじゃないかとも、言われていて、大分めいわくなさったようだが・・・急な病で亡くなるようなこともあるから、もしかして、本当は、女御の死を利用して、右大臣が、左大臣家に勝負をかけたのではないかと思ったりもしたが・・・右大臣も手持ちの駒はまだ、持ってる段階だったし・・・。」
「・・・・・・。」
「ああ。いや・・噂の出方がどうもへんでなあ・・・。そう勘繰ったりもした。が、あの日頃鼻もちならない故右大臣が、異様な憔悴ぶりで・・そのあと、ぽっくり逝ってしまったから、それは有りえんと思いなおしたが・・・そうか、あの女御がなあ・・・。」
 じっと見つめる目に、兵衛佐が嫌な顔をしているのが映っている。
「かなり誇り高い性格で、妃の座以外に満足するような人柄ではなかったような気がするが・・・そうか・・・ん・・?でも、なぜ、故右大臣は、手のうちを読まれないようなことをしたんだろう・・・噂をながせば、意図があると勘繰る者もいるのに。」
「・・・まさかと思うけど・・・誰かに知らせたくて・・とか・・。」
 ふうと、兵衛佐がため息をついた。それから、実際に起こったことを話す。
「・・・あるとすれば、誰かのう・・・・その話の向きでは、故右大臣が、庇わなければならない人物で、でも、腹の虫は収まらなかった・・というところかもしれぬ。」
「庇わなければならない・・・?」
「・・は、さすがにないか・・・。事を明らかにすると憶測が飛び交って、当方ばかりが傷ついて、相手が、裁けない・・・?だいたい、そんな奴いるのか・・女御との接点がなあ・・・。その、乳姉妹だった紅梅どのに、もう一度、よく思い出してもらえ。外出の機会だとか、顔を見られただとか・・取り次がなかったけれど、文が舞い込んだとか・・。」
「・・そうですね。どうもありがとうございました。」
 兵衛佐は、思い立つと、そそくさと去りかける。
「今から、その紅梅どののところへ行くのか?」
「はい。そのつもりですけれど。」
「・・そうか・・・わしも、色々考えておこう。」
「あ、ところで、兄上の様子は?」
 犯人を突き止めるのに探索を出して協力はしているが、兄は守る者も多くいるので、兵衛佐も、そこのところは安心している。
「そなたのお陰で、他所へ身を隠してすぐに回復したようだぞ。やっぱり、毒だったのかな・・・。」
 一体誰に狙われたのか、見当がつかなかったので、すぐに、自邸で籠って寝ているように装って、本人は、別の場所に移った。自分が訪ねて行くと、ばれる可能性があるかもしれないので、連絡はとってない。向こうから、連絡が来ない限りようすを訊ねることが出来ない。父のもとへは、定期的に連絡してくるようなので、訊いてみた。
「それじゃ、父上にこの言伝をお願いしてもいいだろうか・・。」
 文を渡す。女五の宮からの、見舞いの文だ。本当なら、気が無ければ、返事などするものではないのだが、宰相の中将が尋常ではない状況にあるので、さすがに無下にも出来ず、それで、見舞いの文なのだ。たびたび、宰相中将から、文をもらっていたので・・と、言っていた。それを託けて、兵衛佐は家を出た。

花ぬすびと 15

2010-06-18 09:24:20 | 花ぬすびと
 偶然という幸運が重ならなければ、幼かった自分が、あの日、起こったこと、それまで過ごした家のこと、もどかしいながらも、今こうして、思い出すことなどできなかっただろう。断片的にしか覚えていない幼子の記憶を保てたのも、その後、飢えることもなく、生きて行ける環境にあったからだ。
それまでぬくぬくと育てられた子供が、たった一人、京の河原辺に取り残されて彷徨っていたら、間違いなく、数日のうちに死んでいただろう。庇護されてしか、生きて行く術をもたない子供には、京の底辺でもまれて生き抜くことなど、不可能に近い。
万一、助かったとしても、その日一日、食うや食わずの生活をしていたら、ここにこうして紛れ込むこともなく、思い出すこともなかったかもしれない。
 偶然なのだ。養母のもとに行くことになったのも。あの時、血に染まって倒れた母が、そのまま息絶えてしまわずに、数日の間生きていられたというのも・・・。
 梨花は、母が誰かに仕える女房だったのは覚えてる。その誰かは、わからないが、普段は、梨花の世話をしてくれる女と一緒に、たまさか母が宿下りで戻って来るのを待っているから、外の知識は皆無だった。
 母のことで憶えているといったら、家に居ても、きれいな花に添えられた文などが、色んな人から、しょっちゅう舞いこんで来たことぐらいだろうか・・・。
それが、あの藤の花の香りのしみついた文が舞い込むようになって、しばらくして・・・。ああ、そう、母さまは、その人の気持ちを受け入れる気になっていたのだわ、たぶん。



ここまで、皆に話して、梨花は、ひとつ深呼吸した。
あの日、勤め先から夜中に突然舞い戻った母に、叩き起こされ、ほんの数日の荷物を纏め、梨花の世話をしてくれる侍女と、その息子である、当時十歳ぐらいの童とを連れて、家を出た。童が、荷物を持ってくれ、梨花は世話をしてくれる侍女に抱っこされ、皆、母のあとに急ぎ足でついていく。
母が、歩きながら、侍女に今自分達に迫る危機について、緊迫した状況で、説明している。幼い梨花は、内容を憶えていないが、その時、侍女が張り詰めた顔でいたのは印象に残ってる。
遥か後ろの方で牛車が近づいてくる気配を察し、母がぎょっと後ろを振り返り、観念したような表情になり、侍女に、走って逃げるようにと言った。
「お願い。今、頼れるのは、あなたしかいないの。ここで私が引きとめて、うまく誤魔化して置くから、梨花を連れて逃げて。ほとぼりが冷めたことに、その子の父親のところへ、こっそり連れて行けば、あなたのことも悪いようにはしないだろうから。今、この子が、難を逃れるのに手を貸して。」
 侍女は、頷いた。
一緒にいた童を促し、出来る限り早く駆けて、その場を離れる。その後、自分達を探しに来た形跡がないので、梨花達がいたことは、牛車の位置からまだ、見えなかったのだと思う。
 侍女も、童も機転が利く人たちだった。
ばたばたと長く走って、姿を見られる危険を冒すよりも、近くの草むらに隠れていた方がいいと判断したらしい。そこは、賀茂川に近い河原で、人の背丈よりも高い雑草が生い茂っていたから、茂みに入ってしまえば、見つけにくい。
隠れてじっとしていた。
かなり離れたところだったけれど、そこから、母の姿が見えた。
賀茂川に架かる橋の上に、橋姫のように佇むその姿。牛車から、降りて来た男をずっと待っていたかのように、走り寄る。すがりついて、懇願する姿。
やがて、自分を捕えていた腕から逃れるように、もがき、一度は、逃れ、橋の欄干にのけ反るその背が乗ったかと思ったとき、再び、男が迫る。
男がいきなり手を離すと、そのまま、橋の下へずるりと落ちて行った母の姿。
男は、ちょうど、その時、通りかかる人の気配がしなかったら、落ちたあたりまで確認しにきただろうが、人の気配に気づき、慌てて乗って来た牛車に乗り込み、立ち去った。
 男が完全に立ち去った気配を確かめたあと、侍女は、梨花の口を塞いでいた手をどけ、橋の下あたりに、駆けつける。
その時、侍女が、もし、情のない人だったら?あるいは、腹のすわった人ではなかったら?関わり合いになるのを恐れて、梨花もろとも、その場に打ち捨てて彼女は、逃げていただろう。
 落ちた母は、下草が生い茂った辺りに落ちたおかげで、まだ、息があった。
胸の辺りから肩、それを抑えている袖にかけて、血に染まって、真っ赤になっている。通りかかった人のおかげで、刃物で差したものの、狙いが少しずれていた。
「お方さまを今、お助けしますから。」そう言って、声を上げて泣くことも出来ず、怯えている梨花を一度、ぎゅっと抱きしめて離した。おそらくは、不安そうな顔をしている自分を手当の間、抱っこしていてくれたのは、彼女の息子の童だ。
 抱っこされて、震えている自分の方へ、あの甘い香りがした。藤の文の人だと、思ったのは、憶えている。怖くて、誰にも訴えることはなかったけれど・・。




 藤の・・・?ううん、少し違う。同じだけれど、違う。もっと甘ったるい嫌な香りだ。
 血にうろたえることもなく、侍女が、手際良く、応急処置をしていく。
それから、袿を脱がせて、川に捨てた。それが、ちょうどいい具合に、いかにも流れて行く時に、衣だけ、岩にひっかかったという感じで止まったのを見て、「これで、流れて行ってしまったと思ってくれる。」と、呟いた。「姫さまの為です。お方さま、しばらくの間、目をあけて。」ぺしぺしっと、母の顔を手で軽く叩いて、意識を呼び起こし、「荷物をしっかりもって、姫さまの手をひいて付いて来るのです。」と、童にそう言うと、目を開けた母を背におぶった。
母は、小柄で、侍女は大柄だったけれど、女の力で、ゆうゆうと運ぶなんてことは出来ず。初めはなんとか、おぶっていたが、途中で、疲れて来て、背負っているというよりも、背に寄り掛かる人を、何とかずりずりという感じで、ともかく、そこから少し離れた所まで来た。そこに、小さな庵を見つけ、助けを請うた。
日頃から、暴力をふるう男のもとから、ようよう逃げ出したのだが、途中で見つかり、こうなってしまったと、侍女は説明し、その庵の法師も、良い人で、それならばと、隠してくれたのだ。

「そこで、母は、数日持ちこたえました。」
 梨花は、目に溜めた涙を袖で拭う。三条の中納言が、ごくりとつばを飲み込み、先をせかす。
「それで、そなたはその後、どこで匿われていたのだ。」
「庵に、たった一人駆けつけてくれた人がいました。古い知り合いだと言っていた女の方です。母さまが、呼んだのです。おそらく、その方は、もっと詳しい事情を御存じかもしれませんが、私を安全な場所に移す為に、遠い親類で、ちょうど、子供を欲しがっていた養母に託したのです。養母の勤めていたのは、あまり人の訪れのない屋敷でしたから、遠縁から貰った子といって、母子で仕えていれば取り立てて不信がられることもありませんから・・。」
 怖い人の目から逃げるために、何があったかは誰にも話してはいけないよと、養母に預けられる前に、その女の人と、約束した。
たぶん、彼女の立場ではどうしようもないことだったのだ・・。彼女なりに、ともかく、遺された梨花の身を安全に生かす手立てをとってくれた。
「それでは、その養母に訊けば、もっと詳しいことがわかるのだな?」
「詳しいことは聞かされていないようですけれども・・・事情があるのは察していたみたいです。私の過去がわかるような言動は控えるように、たびたび、窘められましたから。でも、あの時の女の人と、連絡は取れるかもしれません。侍女の行方も知っているかもしれませんし・・。」
 頷いて、人を呼び、梨花の養母をここへ連れて来るように、三条の中納言が指示する。
「よくぞ、無事で・・・。それにしても、そなたは、母者が、誰に仕えておったのか、知らぬのか・・・。」
「?」
 それまで黙って聞いていた紅梅が、はっと気付く。
「まさか・・・女五の宮さまの乳母どの・・?」
 つながったふたつの事実・・・。紅梅の青ざめた顔。梨花の驚いた顔。
梨花が、悪夢と思いこんできたことが・・・・。なぜ、疑問にも思わなかったのか。違和感なく悪夢としてそれは存在し、考えてみれば、どうして親が亡くなったのか、不思議にも思わなかった。意識的に避けたい気持ちも存在したのだろうけれど。
梨花は、その前と後の生活の激変にも、あまり注意を払わなかった、その後の生活は・・・養母との生活が穏やかで、自分にとって安心出来るものだったからだと、気付く。
安住の中で、ずっと忘れていた。それが崩れ始めたのは、三条の中納言と初めてあった日、権大納言の身につけた甘ったるい香りのせいだ・・・。たぶん。梨花は、瞬きする。
「そうだわ・・・私の憶えている家の記憶。ふつうの女房が住めるような家ではないもの。どうして、大きくなって、おかしいと思わなかったのかしら・・。もっと詳しく訊いておけば・・・。」
 三条の中納言が、紅梅から手短に説明された。彼が、頷いているそばで、梨花が体から力が抜けたように崩ず折れる。慌てて、それを支える三条の中納言が、「医者を呼ぶように。」と言ったが、「ちょっと疲れただけ、大丈夫。」と、梨花は首を横に振って懸命に否定する。
遠慮し続ける、彼女に。
「この家は、祖父の代からここに住んでると言ってたのじゃなかったかな・・・確か、父親も早くなくなったけれど、受領だったらしいから、蓄えも残っていたらしいが、さすがに、目減りしていくばかりで、そうしていても仕方ないので、勤めに出たのだと聞いたが。私が通い始めた頃は、庭も荒れて、あちこち傷んでいた。梨花がここを出る前には、使用人も、ほとんどいなかったのじゃないかな。それで、華やかな内裏の女房とは結び付かなかったのかもしれない・・・。」
 ため息をつく、三条の中納言。
「・・それにしても・・そうか・・・。誰の仕業か調べるのなら、手伝うが、今は、勘弁してくれ。気が沈んでならない。今日の所は、いつもの法師を呼んで、ここで、冥福を祈って過ごしたい。」
 梨花には、「疲れたのなら、少し横になっていなさい。」と言い、三条の中納言は、美吉野に、法師に連絡をとるようにいうと、念じ仏の置いてある部屋へ籠ってしまった。
 残されて静かになった室内で、横になるでもなく、ぼんやりとしている梨花の手をとり、紅梅は。
「気持ちが落ち着かないのね?巡り会えた父君といっしょに、母君の冥福をお祈りしてらした方がいいかもしれないわね・・・。」
 梨花が頷くと、そこに残っていた初音が、
「さ、こちらです。」
 そこに忘れられていた唐撫子を拾い、梨花は、付いて行く。
 念じ仏の前に、呆けたように座っている三条の中納言の背に、おずおずと近づき、唐撫子の花を差しだした。薄紅色は、ごく淡い色合いで、かわいらしい感じの花だった。唐唐撫子は、真っ赤な花や、もっと濃いめの薄紅色だってあるのに・・。
「あ、あの・・あのね。文も何もついてなかったけれど、それが誰からのものか、お母さまはわかっていたみたい・・・。この私に、こんな可愛らしい花をくれるのは、あの人ぐらいねって、確かに笑ったわ・・・。あの時、頼るつもりだったのはお父様・・それは、確か・・・」
 言葉が途切れる。泣きそうな顔でこらえている。三条の中納言が、その頭を撫で。
「慰めてくれるのか・・。そなたこそ、辛い思いをしたのに、私は、何もしてやれなかったな。」
 涙をこらえているような歪んだ笑顔で、
「安心しろ。もう、時も経っている。今更、追ってくることもないだろうが、この父が守ってやる。今日は、いっしょに、母者のために祈ろうな・・・。」
 静かに流れた涙。それから、しばらくの間、言葉もなく、念じ仏の前に座って、時を過ごした。

花ぬすびと 14

2010-06-11 08:46:08 | 花ぬすびと
               六
庭につくられた築山の小さな高低差がつくる、滝の音。きらきら、水の粒が跳ねて、きらりと日の光にあたって光る。音が、耳に心地よく響き、楽しげな笑い声が上がる。きらきら、泉に湧いた水は、足に冷たく。きゃっきゃっと、輝く水のように、声を立てる。それから、何の香だったかしら・・あれは・・・あら?誰の香?違うわ、誰?
目を開けると、薄暗い外の御簾からは遠い場所に、寝かされていることに気付く。一瞬、状況が分らなくて、起き上る。梨花の肩から、単衣がずり落ちた。さらさら・・・と衣ずれの音。自分の物ではない衣に、やっと現実に戻る。





「あ・・風邪をひくことなんかないのに・・・。」
 泣き疲れて、寝入ってしまった梨花に、兵衛佐が自分の衣を脱いで、かけて置いてくれたのだろう。夏なので、そのまま横になってても、むしろ暑いくらいなので、掛け物はいらないと思うが・・・。それにしても、微妙ね。単衣を置いて行くなんて。単衣は、肌に直接接している衣。袖口から下の衣がのぞいたりしているが、下着に相当する物で、男女がお互いに身につけてる物を交換するなんて、深い仲ということだ。
 梨花は、ちょっと唇の端を上げて、笑う。これのお陰で、怖い過去の夢を見なくて済んだのかも。
「ありがとう・・・。」
 誰もいない室内でそっとつぶやく。大事に、その単衣を畳み、あとで忘れないように、持ち出せるようにと思い、脇に置いておく。
 辺りを伺うように、御簾をそっと押し上げ、外縁へ出る。屋敷は、人の気配がないように静まり帰っている。普段は使っていないと言っていたから、使用人も、女房とかは置いていないのね・・と、きょろきょろしていると。
「梨花さん。」
 紅梅が、寝殿の廊下からこちらへ渡って来る途中で、遠慮がちに声をかける。後ろに、ここの女房らしき人が二人ついている。
「もう、大丈夫?」
「はい。昨日は、皆さまに迷惑をかけました・・。」
 紅梅は、ゆっくりと首を横に振るが、後ろを気にしていた。紅梅を押しのけるように、前にささっと進み出た女房二人が。
「美吉野と申します。」
「初音でございます。」
 梨花が、対応出来ないでいると、二人のうちの美吉野が、
「昨夜は、お世話出来るものがいなくて、失礼いたしました。こちらは、使われない別邸にて普段は、下仕えの者ぐらいしかおりません。急遽、今朝、三条の中納言さまの本邸より参りました。」
「いいえ。もう具合もよくなったので、お暇いたしたいと思います。ね。紅梅どの?」
「ええ。」
 少し戸惑い気味の紅梅の声。初音が、そんな声など耳にはいらぬかのように、梨花の傍に寄って来る。
「あら、いけませんわ。衣が汗ばんで、さあ・・あちらでお召し変えを。」
「あの、そんなにしていただくわけには参りません。」
 初音という名の割には、ういういしくなく、白い髪が混じった年配の女だ。聞き分けのない子をあやすように、さあさあと、まるでこちらの言い分を聞いていない。美吉野も、それなりに年をとったおばさん女房だ。ぽっちゃり、馴染みやすい顔に、笑顔を浮かべているわりには、訳知り顔で、どこか含みがある雰囲気。梨花のことを丁重に扱う。
「殿は今、参内しておりますが、戻ったら、うかがいたいことがあるからと、それまで、あなたさまをおもてなしするようにと、私ども、申しつかっております。あの・・何とお呼び申し上げたらよろしいのでしょう?」
「え、梨花です・・。」
「梨花さま。」
 美吉野は、少し首を傾げたがすぐに頷き、梨花が戸惑ってるうちに、彼女の手を取って寝殿の方へいざなって行く。え~っと、大声をあげて、途中で立ち止まり後ろの紅梅に助けを求める。美吉野が。
「ああ。こちらの女房どのも、お側に。その方が、安心出来るでしょうから。」
「違います。訂正して下さいっ。紅梅どのは、私の侍女ではありません。ぞんざいに扱わないで下さい。」
 理由がわからず、梨花は、腹が立って来て、ぷっと頬を膨らませて、怒る。美吉野が大きく目を開けて、ぽかんとしている。初音が彼女に耳打ちしている。「ね。どちらかしら・・?」
 初音の言葉にうなずいたけれど、こちらを見たまま、美吉野は、にっこり取りつく島もない笑顔で告げる。
「わかりました。では、ご友人の方も、ご一緒に、さあ。」
「・・・・・・・・。」
 内裏女房たちより怖いかも・・・。女五の宮に仕えるようになって、取り澄ました人たちに接することがあるけれど、梨花のような軽い身分の者はそもそも相手にもされていないので、ここまで能面のように取り繕った顔で、対峙するようなことはない。
うむを言わせぬ雰囲気。
梨花は、ごくりと唾を飲み込み、大人しく彼女たちに従う。仕方が無い。三条の中納言が戻って来て、誤解を解いてくれるのを待つことにしよう。梨花にとって、それは、気が重いことだったけれど・・・。






 寝殿の御帳台に入るように、薦められたけれど、さすがに、それは何とか断り、代わりに暑いからと言って、東南の池に面した廂のところに、几帳を立てかけてもらい、そちらで寛ぐ。
「ありがとうございます。紅梅どのといっしょに、お話でもしながら、三条の中納言さまをお待ちしていますから、どうか、お気づかい無用に。」
 と言って、追い払ったつもりが、食事だの、あつければ仰ぎましょうかだの、何だかんだと、世話を焼きにやって来る。落ち着いて、紅梅と話も出来ない。耳をそばだてているようで、当たり障りない世間話しか出来ず、おやつを・・と言って、来た時には、一瞬いらっとしてしまった。梨花は、美吉野達がやって来た方向へ、顔を上げて、ふと、漂ってきた香を不思議に思う。
「何か、仏事でもあるんですか・・?」
 静謐な香りは、あたりを清めてくれるような感じ。仏事に使われるものを想像し、訊いてみた。美吉野が、
「北向きの部屋に、仏様が置かれてあるのですよ。時々、三条の中納言さまのお知り合いの法師が経を上げて下さいますが、普段から、香を絶やさないように、指示なさっておられます。」
「・・・どうして?」
 美吉野が、言いにくそうに。
「本邸の奥方さまには、内緒ですよ?・・昔、殿が、お通いになっていた方が、この家にお住みになっていて・・・結局、別れておしまいになったのだそうですけれど、何だか、突然行き方知れずになったとかで・・・困ったことがあったのなら、相談してくれてもよかったのにとおっしゃっていました・・。荒れ果てていたこのお屋敷を数年前から手を入れて、保っていらっしゃるのです。あれは、ご無事を祈る為のものです。」
 さすがに、おおっぴらには出来ないからと、密かにここで、祈ってるのだと教えてくれた。
「私どもは、殿の若い頃から仕えておりますものですから、時々、ここの設えの目配りなど、任されておりますの。」
 初音が、付け加える。じっと、梨花の顔を見つめているが、彼女は何か考えているふうで。
「ねえ。ここにある池の向こう築山になっているじゃないですか・・。」
 初音が、首をちょっと傾げる。
「はい・・・。」
「それで、東の対の屋がないように見えるけれど、もしかして、小さな建物は存在するんじゃないの?」
「はい。月見などに使っておられたそうですが、対の屋として使えるほど広くはありません。どうして、それを?」
 目の端に、紅梅がようすのおかしい梨花を案じているのが映る。
「そう・・・・・・・・。あの築山の裏側に、小さい泉が湧き出ていて、そこから、わざと落差を造って滝があって、屋敷を巡る鑓水に合流できるように、流れが造ってある。泉の近くの木に藤蔓が巻き付いてた・・・・。」




 呟いていると、人が近づく気配がして、外縁から、廂の方へ、人が入って来る。三条の中納言だ。薄紅色の小さな花を一本、梨花に差し出す。
「あ・・・。」
 ふいに、記憶が舞い戻る。薄紅の花、唐撫子。・・・・・・。
「仏前に手向けておこうかと、持って来たのだが、覚えているか?」
 梨花は目を見開く。同時に、ふっと緊張が解かれる。違うこの人じゃない。母の衣を朱に染めたのは・・・。
「もしかして、お父さま・・・・?」
「やはり姫か・・・。」
 二人の言葉に、そこにいた紅梅と、美吉野、初音は、ぎょっと驚き、言葉もなく、ただ、見つめている。薄紅の小さな花。今朝方見た幸福な夢が、すらすらと口をついて出て来る。
「唐撫子ですね。確か、私、あの時、一人で泉のところで遊んでいた。うっかり、はまってしまっておぼれるところだったのだわ。」
 ぼちゃん・・とはまった瞬間、もう駄目、息が出来なくなってしまうわ、と、思ったら、勢いよく上に引き上げられた。それは、子猫が親猫に首根っこ掴まれて運ばれるような格好で、とても丁寧とは言えない感じだったけど。首を巡らせて、「あら、知らない人がいるわ」と、言ったのだっけ。「こりゃ、父を忘れるな。ずいぶん会いに来ていないけれど。」情けない顔で呟き、片手で拾ったみたいに持ち上げていた幼子を、きちんと抱き直し、顔を覗き込んだ。頬を自分の袖の端でごしごしとこする。顔についた泥の汚れを拭ってくれたのだ。しばらく、水辺で遊んでくれたが、築山の影から、向こうの寝殿を伺うように見て、小さな手に薄紅色の唐撫子を渡し、向こうにぼんやりと座っている母に渡すようにと頼んだ。その時、確か・・。嫌だわ、はっきり覚えてる。梨花の唇が笑みを形造り、くすっと笑ってしまう。子供に聞かせる科白じゃない。・・そう。こう言っていたのだわ。「やっぱ、いい女だよなあ・・。まあ、いまさら縁りは戻せんだろうが・・・。いや、実に惜しいが。そなたの母は、あんなふうに塞いでる姿は似合わん。元気が出るように、お花を渡してこい。」と、半ば、独り言にも近い言葉だった。その花が唐撫子だ。
 すらすらとよどみなく思い出せる。話してしまって、あの時以来ずっと会うこともなかった父の顔を、じっと見つめてみる。やはり、はっきりと顔まではわからない。梨花が、首を傾げたので、三条の中納言は。
「まだ、五つだったか。さすがに、顔までは、覚えててくれなかったな。」
 花を渡したのが誰だか内緒だよと、それは、梨花とふたりだけの秘密なのだ。だから、今、話したことは、確かな証明だ。
 三条の中納言は、胸を撫でおろし、この間、扇を拾ったときに、それを見て、そうではないかと思ったのだと教えてくれた。梨花の母のことを伏せているようだったので、世情に流れていた昔の噂のこともあるかと考え、こっそり聞き出す機会を待っていた。
「扇には、梨の花が描かれているだろう?添えてある書は、私の手蹟だ。間違いあるはずないと思っていた。そなたが生まれたときに、今度は、元気に育ちそうだったので、うれしくて、はやばやと与えたものだ。むつきの赤子にだぞ?そなたの母には、呆れられたが。」
「・・・そうですか。これだけは、大事に持っていなさいと、言われていたから・・。」
 梨花の顔をじろじろと見て。
「いや、よかった。幼い頃は、うちのおたふく顔の妹にそっくりだったから、あれでは婿の来てが・・と、心配してたんだが、大きくなって母者に似て、一安心といったところだな。」
 からからと、三条の中納言が心地よげに笑う。「妹君が耳にしたら、気を悪くなさいますよ。」と、横合いから、美吉野が窘める。それから、かしこまって、梨花に向き直り。
「初音が、もしかしたら、姫さまかも知れないと言っていたのですが、どのような関係の方か、殿から伺っておりませんでしたから、てっき愛人かと・・・。ずいぶんとお若いのに、最近の娘は、などと失礼なことを思ってしまって、申し訳なかったですわ。」
 美吉野が謝る。今はもう、能面のような表情は去り、梨花に親しみを感じているようだ。ここへ寄るきっかけとなった偶然を、三条の中納言から聞き、
「それにしても、知らずに、ここへお戻りになったなんて、ご運がよかったとしか申し上げられませんわね。」
「そなたたち、ここに人が揃うまでしばらく、梨花の世話をするように。そなたの母にも、帰ってくるように知らせるといい。あ・・いや、誰かと一緒になっていなければの話だろうが・・。」
 三条の中納言が言うと、梨花は首を横に振る。
「母は、亡くなりましたから・・。」
「・・・そうか・・・・。」




 三条の中納言が、驚きを抑えつつも、娘が女房仕えしていたのはそんな訳があったのかと納得している。亡くなっても、父親を頼って来なかったのは、きっと、娘に事情を詳しく語っていなかったに違いない。しんみりとしている三条の中納言へ、梨花は。
「あの。私、ここにずっといるつもりはありません。女五の宮さまのもとへ、戻らなくてはならないし、私を育ててくれた養母がおりますもの。そちらへ、戻ります。姫君って柄じゃないですから。」
 あえて母のことを語らなかったのは、梨花にそれを語る勇気がわかなかったから。
「そう言うてくれるな。行方不明になって、どんなに心配して、後悔したことか。」
 おろおろと、ようすを伺う三条の中納言。梨花の目に、大粒の涙が盛り上がる。同時にせき止めることの出来ない感情も浮かび上がって来た。
「それなら、どうしてあの時、その花を、自分からと言って渡さなかったのです。歌を添えて、もう一度、よりを戻す努力をなさらなかったの。もし、あの時、戻って来て下さっていたら、母は、あんな人選びはしなかったかもしれないのに・・・。」
 あんな人って・・・?ああ、また、何か思い出せそう。梨花は、父を責める言葉を連ねながら、ふと、意識を別に向けた。
「すまん。やっぱりあの時、引き取っておけばよかった・・・寄りを戻したかったが、そうは言うても、子供にはわからんこともあるのだ。・・いや、や、うん。すまん。だが、ここはもともと、そなたの母者の持ち物だ。大きな顔して戻ってくるといいのだぞ。」
 責められて、うろたえてる三条の中納言をよそに、梨花は、思い出せそうで思い出せない何かを懸命に、引き出そうとする。
「あ、そう藤だわ。」
 思い出すと、急に不安感を誘う甘い香りが、梨花のまわりを取り巻く。
「え?藤?泉のところの藤か?確か、あの時も、咲いていない藤を指さして、このお花の香りの人ぐらい、まめに文を送らなくちゃ、勝ち目がないとか、なんとか言ってたな・・・。ん?ということは、通ってたのか・・・。」
 三条の中納言の微妙な表情に、一瞬きょとんとした梨花だが。
「ううん。たぶん、来てはいなかったわ。あの頃、藤の花の香りに似た香が・・ついた文が頻繁に届くようになってた・・そう、あの日も・・。」
「あの日とは?」
「お母さまが、殺された日・・・。」
「なっ!何だと?・・・・。」
 三条の中納言も、その部屋にいた紅梅や、美吉野、初音も、衝撃的な言葉に皆、腰を浮かして、絶句している。梨花も、しばらく黙っていたが、やがて、観念したように恐ろしい記憶をたぐり、話し始めた。

花ぬすびと 13

2010-06-11 08:40:06 | 花ぬすびと
 何刻だろうか。もうそろそろ、起きている人も少なくなりかけた時、庭先から、遠慮がちに声がかかる。
「兵衛佐どの。」
 満春だ。呼ばれた兵衛佐は、彼にすがり泣いていた梨花は、眠ってしまったので、そっと足音を忍ばせ、外縁に姿を見せる。
「すまないが、ちょっと出て来る。気になることがあって、声をかけずに行こうかと思ったんだが・・。」
「気にするな。それより、こんな夜中に一人で出歩いて、盗賊に出くわさないか?」
「物持ちには、見えないし大丈夫さ。それに、効くか効かないかはっきりしないんだが、伯父貴特製の護符を使うから・・。」
「隠行の術とかいうやつ?」
「・・いや、たぶん、難に遭う前に、何となく、自分で道を違えてしまうというものだと思う。見えてないって、わけじゃないのは立証済みだけど、どういうわけか、やたら遠回りしてしまったりすることがあるから、たぶんそうじゃないかと・・。」
「ふ~ん、なるほど。」
「私は、その道を選ばなかったが、伯父貴は、引退してしまったけれど、相変わらず怪しい術は使えるから・・何か、役に立ちそうな護符でも貰ってこようかと思う。」
「何のために・・。」
「いや、兄上の宰相の中将さまのも、呪詛は関係ないとは今でも思うよ。けれど、用心に越したことはないかなと思って。上手く説明できないので、今は詳しく言えないが、紅梅どのの方の件で、その怪しげな法師と接触できないかと思ってる。」
「満春の伯父上が、何か、知っているのか?」
「いいや。でも、怪しげな連中のことも結構耳に入って来るみたいだし、直接は無理でも、人を介していけば、何とか、話をできそうかもしれない。」
「・・・・・・。」
 兵衛佐が頷く。
「じゃ、明日。」
 満春は、その屋敷を出て、夜道を急いだ。
 難に遭うこともなく、こんな夜中に訪ねても、伯父の家は、門が空いている。門と言っても、出家して、侘び住まいなので、小さな木戸の上にちょっと形ばかり、朝顔のつるの巻き付いた横木が上に、一本あるだけだけど・・。入ってすぐの、小さな家屋には、まだ、明かりが点いていた。
「伯父上。」
 灯火に浮かび上がった人影が動く。机の前に、座していた影が、こちらを向く。
「満春か。こんな遅くどうした?」
「はい。実は・・・。」
 巷に流れる噂の法師に会いたいのだと告げる。正直に、今自分が見聞きした事情を話す。今、起こってること、過去の事件のこと。
 伯父は、聞きながら、紙に筆を走らせている。
「呪詛に対処するなら・・やはり、身代わりがよいかの・・。息を吹きかけて同じ部屋に、置いておくといい。それと・・・、その法師だが、会えば、己の命を失うぞ?」
「ええ。ですから、そうならないで、話しができないかと、方法がないですかね?」
 ちらりと、伺うような満春の視線に、苦笑を浮かべ。
「・・・そうだなあ。たぶん・・・。」
 満春の前に、どさっといくつか餅が置かれる。右京のこれこれこういう屋敷と、言い。
「それ持っていけ。荒れた屋敷だが、中には上がるな。外から、声をかけ、姿も見るな。噂の恨みを晴らしてくれる影法師どのか?と聞いてみろ。」
「・・どうして、その場所を?」
「今も、いるのか、いないのか・・・。昔、あの辺りに住んでた奴が怪しいのではないかと、同業者のあいだで密かに語られていたのだ。夜しかいないそうだから、もし、今も住んでいるのなら、今時分はいるのではないかな?・・確実ではないぞ。」
「・・・はい。」
 礼を述べ、満春は、夜道を急ぐ。
 築地の崩れた、荒れ放題の庭に入って行くと、屋敷の方も、何とか形を保ってるという感じの場所だ。対の屋もいくつか、あった形跡もある。もとは、結構なお屋敷だったところが無人となり、荒れ果てたものだろう。京、特に右京では、こんな場所には事欠かない。ほとんどが、盗賊や浮浪者が入り込み、勝手に住みついて、近づくのも危うい場所だが、そんな彼らの姿さえない、場所は、さらに、危ない場所なのだ。人に恐れられる、いわく付きの場所というわけだ。そこで、生活している、来歴のわからない法師など、確かに怪しいかもしれない・・・。
 満春が、建物のほうを伺う。
 声をかけると、いきなり、中の明かりが灯る。
蝋燭のあかりが、燭台の上で揺れる。
人影が、映る。え?ちょっと待てよ。何で、影だけなんだ?
外が暗いので、当然灯りを点せば中の人の姿のほうがあきらかになるはず。だが、影絵のように、法衣らしきものを身に付けた人の輪郭が浮かび上がっただけだ。
満春は、目を凝らす。ああ、何だ。布がかけてあるのか・・・。
日が暮れてもねっとりと熱気を帯びた季節だというのに、格子戸の閉まった向こうは、冬の寒さ対策のための、壁代にされる布が、吊るされている。だから、はっきりと姿がわからないのだ。それが分って、ほっとすると同時に、気を張る。
「懐かしい呼び名を、どこで訊ねた?」
 影が揺れて、声が響く。不思議な人ではない声のように聞こえる。どちらにしろ、作り声はしているだろうが、何か仕掛けを施してあるのかもしれない。
「お訊ねしたいことがあるのです。もう、十年ぐらい前になりますか、京を騒がせたさる女御さまが呪詛でお亡くなりになった件について、関わりになりましたか?」
「知らんな。」
「そうですよね。あれは、名を語ったものだった。同業者の噂を拾ってみると、あなたは、依頼者が、不当な思いを抱いているのだと思ったら、手を貸さないということだ。それでは、断ったけれど、依頼に来た者はいませんでしたか?」
「・・・いちいち覚えてはいないが・・・思いのほか、たくさんの人が頼みを申すのでのう。さて・・・さすがに、相手の名が、女御となると、印象が残っていると思うが・・・。」
 ゆらゆらと、帳の向こうで影が揺れる。
「それだけわかれば、結構です。自力で計画したのなら、どこかに手掛かりは残ってるはずだ。・・それと、念のため、宰相の中将のことは?」
「何のことだ?知らん。もう、ずっと人の頼みは聞いてない・・・。」
「ありがとうございます。・・・・・そうですか。やはり、昔の噂を流して、利用したのかも・・・・・。当時のことを見聞きした年齢の人物かも知れませんね。」
「たったそれだけのことを聞く為に、わざわざ、こんな所に、やって来たのか?まともな奴に見えるが、こんな怪しげな者には近づかないほうがいいぞ・・。」
 帳に映る影が、一瞬大きく膨らんだように見えて、満春は、目を凝らした。
どうやら、体を揺すって、笑っているようで、小刻みに影が振れるので、大きく見えたようだ。目の錯覚かと、思うと同時に、言い知れない緊張感、指を一本動かすのさえ出来ない状態に陥っているのに、今更ながら気付く。
「あの・・あなたの姿を見たら始末すると言うことですが、それでは、名を利用すると、どうなるのですか?確かめて、制裁を加えるとか・・は。」
「あるわけがないだろう。馬鹿者。関係のないことに足を突っ込むいわれはない。」
「けれど、名を利用されたあなたにも、責任があるのでは?」
「・・・・・・・。」
 シュッ!満春の頬を傷つけ風が通りぬける。かまいたち。
けれども、ひるまず問い続ける。
「用意周到に、姿を隠すあなただ。念の為、己のことを知る者ではないかと、調べたのではないですか?お願いです。もし、何か知っているようなことがあるのなら、教えて下さい。」
 しばらく沈黙が満ちた。満春は、待ったが返事がないので、諦めて帰ろうと足を動かしかける。
「呪詛なのではないが、恨みには違いない。その女御は、害されたのだ。どんなに、ひた隠しにしても、証拠になる衣や血の付いた刃を始末したのは、屋敷に勤めるといっても、下仕えの者だ。訊き出すことは可能だった。いくら対面があるといっても、盗賊が押し入ってなど、この京ではある話だ。身分の高い者でも、難に遭わないという保証はないのさ。軽い身分の者の強硬というのだったら、女御の身持ちも疑われにくいだろう?隠すなど、おかしなことだ・・と思って、少し調べてみた。右大臣家でも、手の出しにくい者。捉えても、裁けるのかどうかわからない者。右大臣家というと、手が出せないような人物などなさそうに思えるだろう?名が出たら、一時の浮名は覚悟しなくてはならない人物だとか。いずれにしろ、都合の悪い男なんて、数える程しかいない。その、誰かは確定できなかったが・・・・。」
 幾人かの名をあげる。
「ありがとうございます。調べてみます・・・・・・。」
「・・・・・・・・。」
 影は、揺れ続ける。目がおかしくなりそうだ。
「あの・・今日の夕方、りんという鉦の音を道で、聞いたような気がしたのですが・・・。」
「・・・・・・・。」
「あ、いえ・・勘違い・・・ですよね。」
 躊躇しつつ、尚も向こうを伺ってると。ふっと、いきなり灯火が消えた。
「知っていることはもうない。往ね。」
 真っ暗になり、荒れた屋敷は静まりかえる。そこに、まだ、法師がいるはずだが、人がいる気配がない。教えちゃくれないか。関わって欲しくない、これが本題だが。満春は、肩に重い疲労を感じ、そこに持ってきた餅を置く。のろのろと、その場をあとにした。

花ぬすびと 12

2010-06-11 08:27:00 | 花ぬすびと
                  五

 どうせ、手伝うのだから・・と、紅梅のところに滞在することになり、先に、梨花の家に戻っている養母に伝えてから、彼女の家へ行くこととなる。京中へ入るまでは、皆と一緒だったが、小馬達の家とは方向が違うので、そうそう甘えてもいられないと、便利のいいところで、紅梅と梨花は牛車を降りた。そこから、梨花の家の方が近いので、紅梅も一緒について来た。もちろん、兵衛佐も満春もついて来る。
家へ寄って、紅梅の家へ向かう、たまたま、通った道筋だったから。
そこで、彼に会ったのは、おそらく偶然だったと思う・・・。
 偶然、道を歩いていると、梨花は、道に延びた法師の影を見て、身を竦めた。
といっても、他に人影が途絶えたということもなく、りん、りんと、音をさせているけれども、それは、法師の手に持つ鉦が歩くたびに揺れるからだ。傘を被っているので、顔は見えないが、京の大路小路なら、普通に見かける法師のようだ。経を唱えながら、向こうへ歩いてく。
「あ、いえ。あれは、何でしょう?」
 不安そうな顔に気付き、隣の紅梅の目が梨花をのぞき、慌てて、梨花は、取り繕うように、近くの家の前で、女が袖をやぶり、人に渡しているのが見える。渡されたのは、託宣をする占い巫女のようだが、かなり薄汚れて汚い感じだ。法師の影のことは、言うべきことではない気がして、まったく違うことを言ってしまう。
「夕占を占ってるのじゃないかしら?もう時期、日が傾くし・・」
「夕占?」
 梨花が、立ち止まってしまったので、後ろからついて来た兵衛佐と、満春も立ち止まり、そちらを見ている。
 兵衛佐が頷き。
「会わなくに夕占を問ふと幣に置くに我が衣手はまたぞ継ぐべき・・って、歌があった。袖を引きちぎって、夕占の神に手向けたのか・・?」
 打ち撒き(米をまく)で、場所を区切って櫛の歯をならす・・などというのもあるが、夕方行われるだけで、辻占と同じく、辻や橋の上で、偶然通りかかった人の声に耳を傾け、その言葉から、占いの答えを得るというので、あくまで、個人が行うもののはず・・。
満春が、いぶかしげに眉をしかめている。
「今夜、通う男の訪れがあるかどうか、占うというのだろう?当たるのかなあ。・・素人が占うより当たりそうだという気持ちはわかるが・・。」
「満春。お前が、それを言っていいのか?」
 兵衛佐があきれた声を出す。満春は、彼自身がそうではないけれど、親類には、陰陽師と言われる占いに携わる人たちがいる。
「占いを否定するわけじゃないけど、占者は千差万別さ。ああいうのは、怪しい連中も多いぞ?」
 声が聞こえたのか、その歩き巫女がこちらを振り返り、じろりと睨む。さすがに、こちらへきて怒鳴り散らすようなことはなく、すぐに、結果を伝えるため、依頼主の女に向き直ったが、腹立ちを抑えたような顔をしている。
 兵衛佐と満春が肩を竦める。満春は。
「梨花どのは、法師の影を見ていたような気がしたが・・・。」
「え・・あの・・そうですね。それも、噂を思い出して、びくっとしちゃったりして・・。違うのに。」
「もしそうでも、何もなければ、関係ないよ。顔を伏せておけば良いって話だし。」
「ええ。もちろん、苦しいことがあっても、きっとそんなものには、頼っちゃ駄目って気がするわ。」
「・・・・・。」
 満春が目を丸くしている。紅梅が。
「そうね。代わりに呪うって言っても、自分も同罪だもの。そこまでやってしまっては、胸を張ってられないような気がするわね。」
「てっきり・・。女御さまの無念をはらしたいと思ってるとか、じゃないんですね。
「おい。満春。」
 兵衛佐の厳しい顔つきを見て気付く。
「あ・・すみません。」
 兵衛佐に促され、うっかり口にしてしまったことを、満春が謝る。かなり、うろたえているので、おもしろく、紅梅は、優しく首を横に振る。
「いいえ。そんなことをしても、元には戻らないもの。でも、真相は知りたいかしら・・もし、そんな頼みが出来るなら・・・なんて、あくまで噂で、幻の存在ですものね。その代わり、協力してくださる方も得たことだし、欲張ってはいけないわね・・あら?梨花さん?どうしたの?」



辺りが夕闇に染まり出す頃合い。
 あ・・・・・・。また、だわ。
 立ち止まって、夕占を見つめる梨花の目が大きく見開く。ちらりと、覗いている何か。蓋が開く・・・・・そんな感覚。
傾いて行く日が、大空を赤く染め、周りのものも同時に同じ色にしていく。
今、目に映っている袖に、夕焼けの色が落ちて、どんどん朱に染まっていく。
あ・・これは、夕日の色じゃない・・思い出した。母の衣が朱に染まったその色を。・・どうして、そんな大事なことを忘れていたんだろう。母は、誰かに害されたのだ。
ああ、どうしてそんなことを・・・忘れていたなんて・・・。
毎夜のようにうなされて泣く幼い自分に、「怖いことは忘れてしまいましょう。忘れてしまえばもう大丈夫だから・・。」誰かが、ずっと優しく背を撫でてくれていた。その手に、安心して委ねられ、いつしかそれは、ただの悪夢に変わった。ああ、そう、養母の心配そうに夜中に寝顔をのぞきこむ顔を覚えてる・・・・。
 その朱色が自分まで染めてしまいそうな気がして、梨花は、気分が悪くなり、そこに蹲る。紅梅が、心配そうにしている声が、遠くで聞こえるようだ。
 体が重い・・・。蹲る。それが、ふいに軽くなる。
 兵衛佐が、梨花を抱きあげて。
「紅梅どのの家まで、しばらくあるけれど、がまんできるか?」
「・・ごめんなさい。少し、ここでじっとしていれば大丈夫だと思うから・・。」
「いいから、気を使うな。」
 ちょうどそこへ、どこかへ出かけて帰る途中の、三条の中納言が現れる。兵衛佐も見覚えのある従者が従う牛車が、近くで停まり、中から、三条の中納言が降りて来た。具合が悪そうな梨花の様子を見て、「ちょうど、すぐ近くに、自分の別邸があるから、そこで休んでいくといい。」と、親切に言ってくれた。兵衛佐は、その親切にすがることにし、紅梅や満春も一緒についてくる。
 そこで出会ったのは偶然で・・。暗くなって行くあたりを見つめながら、遠くの方で、またひとつ、りん。りん。・・という音が聞こえた気がした。




 その屋敷は、しんと静まりかえり人の気配がなかったが、庭も建物もきちんと手入れしてあった。三条の中納言は、「あまり、ここは使ったことがないのだが・・。」と、言っていたが、小奇麗に整えられていた。青い顔で広々とした庭を眺め、ますます元気を失くしてく・・梨花は、兵衛佐に抱えられて、ひとまず、用意された場所に横たえられたが、そのまま、兵衛佐が、部屋を出ようと立ち上がろうとすると、梨花がその手を引きとめる。
「ここにいて・・・。怖い。」
「え・・。」
「・・・どうして、三条の中納言さまは、この家を・・・。私・・・。」
 暑い夏だというのに、震えている、血の気の引いた顔色。
「梨花どの?何が?」
「・・怖い・・・。」
 大粒の涙が盛り上がり、梨花の目から溢れて流れてく。怖いといったきり、言葉を紡ぐことが出来ず、声を殺して泣くだけの彼女を置いても行けず、兵衛佐は戸惑いながら、その場に座り直す。ちらりと、傍らを気にすると紅梅が頷き、外縁で待ってる満春を促し、
「私たちは、三条の中納言さまのところへ行っていますわ。事情がわからないから、今、梨花さんが言ったことは申しません。お礼と、落ち着いたとだけ報告してきます。恋人の兵衛佐どのがついてるから・・ということにしておきます。そうすれば、こちらを伺うようなこともないでしょうし・・。」
 兵衛佐が、頷くのを見て、では・・と、二人が、三条の中納言のいる寝殿の方へ向かう。
 兵衛佐は、ただ、泣いている梨花に戸惑いながら、付き添っていただけだった。




京都風俗博物館展示からです。
   夏の茅の輪くぐりとか、祓いの時のですが・・
   打ち撒きは、こんな入れ物に入れて米を撒いてたんですね。




花ぬすびと 11

2010-06-04 08:47:10 | 花ぬすびと
 真っ暗な夜の闇の中、寝返りを打つ衣ずれの音がしている。何度も何度も、聞こえ、やがてため息がひとつ。
「眠れないの?」
 雪柳の声。
「ええ。さすがに、あんな重い話をきいちゃったあとでは・・・。」
 と、摂津。
「紅梅どの・・。乳母どのにも、申し訳ないことしたっておっしゃってたけれど・・・。」
「仕方がないわね。事情を知らないんじゃ、どうしようもないもの。けれど、もう少し、調べてみるって・・自責の念かしら・・・紅梅どのの責任じゃないのに。」
「そうね。でも、それで、気が晴れるんなら、私たちが早く先に戻って、しばらくがんばらなくちゃね。梨花さんは、まだ、戻れないから、お手伝いするんでしょ?」
 それまで、黙っていた梨花に話をふる。いつもならある隔ての几帳はなく。同じ部屋に休んでいるので、互いの様子はよくわかる。さすがに、田舎家で、そんなに広くないので、間仕切りを置かず、三人は身を寄せ合うように横になっていた。
「ええ。紅梅どの・・もう、お休みになったかしら?」
 紅梅は、違うところに滞在しているので、そちらへ戻っている。
「たぶん。」
 ふうっと、ため息をつく雪柳。
摂津が、横を向き、はらりと落ちて来た前髪を指でかきやる。
「ね。梨花さんは、兵衛佐どのと一緒じゃなくてよかったの?」
「そうね。小馬は、さっさと愛しの旦那さまのところへ行っちゃったものね。きっと今頃、甘えてるわよ。丑の刻参りを見たかと思って、怖い思いをしたあ~って。」
 摂津の言葉を追いかけるように、雪柳が寝返りを打ち、梨花の方を向いて言う。
「兵衛佐どのとは、まだ、そんな仲じゃないもの・・。それより、紅梅どのの話してくれた事実を、小馬さんのお相手に伝えても大丈夫かしら?」
「ああ。そのことなら、話さないわよ。昔の恋の思い出に浸ってたのを、勘違いして大騒ぎしちゃった。ごめんなさ~い。・・までしか、言わないわよ?対面がどうこうという話には、敏感だもの私たち。よけいなことはしゃべらない方が身のためだってことは、身にしみてるでしょ?そういうところは、きっちりしてるから、信用していいと思うわ。」
「そうなんですか・・・。」
 ほっとしている声がきこえて、雪柳は、誤解されやすい幼馴染の人となりに苦笑する。
「ね。もしかして、迷ってるの?」
「え・・・。」
 何がと聞き返すこともない。兵衛佐とのことを聞いているのだ。
「迷ってる・・・・そうね、そうかもしれない・・・・。」
 暗闇を見つめる梨花の胸に、ふいに、湧き上がって来た疑問。迷ってる・・・・?何に?という言葉を言いかけて、それが釣られて出た古い記憶だと思い出す。そう言えば、生きていた頃母も、同じ言葉をつぶやいたっけ・・その後に、今度こそ最後の恋。幼い梨花にそう言ったあと、他にも何か言ってたような・・・。何だっけ?思い出せそうで思い出せない。・・それにしても、子供に言うには、大人げない言葉ねと思う。
けれど、美しさが、こぼれるような笑顔が目に焼き付いてる。
初めて、親しくなるきっかけになった雪柳のところへ駆けこんできた小馬のあの、顔に似てる。それから、紅梅のような表情も憶えがある。あの時の互いの思いは、確かなのですから・・・・。そうだ、それから、安心させるように、幼い梨花を抱き寄せてくれた。髪を撫でてくれる、大好きな香り。ああ、何だか、このまま眠れそう・・・。梨花は、目を閉じる。
 雪柳と摂津は、突然寝息を立てて、眠り始めた梨花に気付き、少しだけ身をおこしてその顔をのぞく。
「あら、かわいい。迷ってるなんて言って、兵衛佐どののこと思い出して、安心して眠ってしまったのね。」
「本当。ゲンキンね。私も、何か良いこと思い出して目を瞑ってようかしら。」
「付き合ってる人のこと?思い出したら、眠れなくなるんじゃない?」
「あ、そういう冗談いうと、突いちゃうぞ。えいっ。」
「ふふ・・。でも、話して、少しすっきりしたわね。もう、眠よっと。おやすみ。」
「おやすみ。」
 そして再び、静寂の闇が訪れ、静かになる。その夜、梨花は久しぶりに、晴れやかな姿の母を思い出し、おおらかな気持ちでぐっすり眠る。翌朝、目を醒ましても、しばらくは幸せな気持ちに浸っていられた・・・。

花ぬすびと 10

2010-06-04 08:42:25 | 花ぬすびと
 宿の近くを流れる沢の音が心地よく聞こえてくる。
 暑い夏場だ。人が沢山集まるならと、涼む為につくられた川の上の床に、女たちが座っている。
「わあ。気持ちいい。風が爽やかね。」
「冷たい水に足を浸してみたいわね。はしたないかしら?」
 ちらりと、近くに立っている兵衛佐たちを見る。満春が困ったように笑う。
「あ、どうぞ。気にしませんから・・。」
「几帳を持ってくるように宿の者に言っておいた。どうせなら、寛げるほうがいいでしょう?」
 兵衛佐が付け加える。
 しばらくして、几帳が立てかけられ、女たちの姿が隠れると、空いた反対側の場所に、座した。
「きゃあ、つめたい。」
「うわあ。これなら、また来たいわ。」
 きゃっきゃっと、しばらく他愛もなく若い四人がじゃれている。梨花は、水に足をつけ、ぶらぶらさせて、笑い声を立てる。笑い声?ふと、既視感を覚え、大きく目を見開く。
「どうしたの?」
「あ、ううん。何でもない。私たち、集まると、よくこんな感じだなって思って。」
 心の奥底の蓋が空きそうな感じ。声を掛けられて、跳ねるように意識が他を向き、掴み損ねた。梨花にも、それが何だったかわからなくなってしまった。
「本当ね。一緒に出かけるなんてことなかったけれど、いつもと変わらない風景みたいだわね。」
 紅梅が、そんな彼女たちを微笑みながら、見ている。それに気付いた摂津が、
「紅梅どのも、昔こちらにいらっしゃった時は、避暑にいらっしゃったの?」
 たたみ掛けるように、小馬が。
「蛍が一斉に輝きだすところを一緒に・・だなんて、素敵。ね。その時、どんなお話をなさっていたの?」
 雪柳も、梨花も目を輝かせてる。緊張感にかける雰囲気だが、楽しげで軽やかなせいだろうか・・・紅梅も暗い表情はしていない。話はじめた。
「そうね。その時は、一番盛り上がっていた時だから、ああ、この方とずっと・・なんて、しみじみと幸せに浸っていましたよ。思えば、無知な小娘だったわ。」
 紅梅は、亡くなった女御の乳姉妹だった縁で、後宮の女房として勤めていた。けれど、女御に仕える女房の多くは、父である故右大臣が娘に箔をつける為に選んだ選りすぐりの者たちだ。学のある女だとか、何か諸芸に秀でた者だとか、あるいは、受領やそこそこ家柄のある娘たちとかとは違い、紅梅は、ただ、乳母の娘という縁故だけで、召し抱えられた者だった。普通なら、形見のせまい思いをするところだろうが、幼い時から仕えている気安さで、女主からも重宝されたので、嫌な思いをすることもなく過ごしてきた。そのせいだろうか。あまり、身分というものを重く受け止めたことはなかった。そんな気安さから、後宮を訪れる上達部の一人と、恋に落ちた。
「中には、頼りない身の上の女を世話してくれる人もあると聞きますが、そんな話は、稀なことでしょう。位の高い方たちにとって、後宮の女房たちとの恋は一時のものというのが、常識。それが身に付いたお方たちは、先のない恋が、相手を傷つけ、重荷を背負わせるなんて、考える必要のない方たちなのです。・・・・いいえ。別に、恨めしいとか、そんなふうには思っておりません。あの時の、互いの思いは、確かなのですから・・。」
 紅梅は、几帳のむこうの兵衛佐を気遣うように話す。彼も、宰相中将の弟ということは、名門のはずで、彼が今、思いを寄せている女がこちら側にいる。微妙な雰囲気の話題をしているので、今は、自分の話をしているのだと、強調するためだろうか・・・。
 兵衛佐は、頷き。
「あこがれ出ずる魂かとぞ思うとは・・・まだ、その方のことが忘れられないということですか?」
「いいえ・・それは、違います。今は、もう、そっと眠らせて置きたい思い出ですもの。ちょうど、ここで蛍を見て、至福の時を過ごしたあとでございます。その年が明けて、私、男の子を産みましたの。」
「お子が・・・。では、どこかに仕えて・・いや、上達部って言ったな。ひょっとして、私も知っている人なのかな・・それとも・・・僧侶に・・・。」
 兵衛佐が、言い難くそうに語尾を濁す。
庶出の子を僧侶にして、身が立つようにしてやるという話はよくある。僧は、公式な存在で、国家から給料も出る。形見の狭い思いをして、表の世界で生きて行くよりも・・という配慮かもしれないが、自らの意思で出家した者以外にとって、捨てられた感がぬぐいきれないのではないか。
どう考えても、紅梅の子供が幸せになってそうには思えず、兵衛佐は、そっと溜息をもらす。隣で、満春が、何かに気をとられて、川面を見ているのが目に入る。魚だ。
子供のように、観察している横顔を見て、ほっとしている兵衛佐。
聞いているんだか、聞いてないんだか・・。
そんな風に思うと、満春が顔を少しこちらへ向けて、頷く。何だ、ちゃんと聞いてたのか。気持ちが逸れたお陰で、続きを聞く気になる。
「そうですわね。僧になれば、生活は保障されますもの。ひどい扱いとはいえないのかもしれませんわね。・・でも、私の子は、手放してしまいましたの。酷いことをしたのは、私かもしれませんわ。」
 紅梅の相手の男は、当然上級貴族の常で、相応の家の娘を妻としていた。一人ではなく、他にも、妻として世間に認められる女も。そっちの女には、子があったが、正妻にあたる女には、子はなかった。正妻は、紅梅よりもずっと年上で、もう一人の妻よりは少し若かったけれど・・・子がなく、年を重ねていく自分に焦りを感じていたのだろうか。かなりの高齢だったが、やっと身ごもり、周囲も安心して出産を待っていた。ところが、そんな彼女は出産を間近にして、病に罹ってしまった。命を左右する流行り病だ。何とか、持ちこたえていたものの、早産となり、子供は死産。とはいえ、弱りきった者に追い打ちをかけることなど出来ず、周囲の者も困り果てていた。そこへ、ちょうど、同じころに、紅梅の出産が重なったのだ。
「もううつる心配がないけれど、衰弱がはなはだしく、奥方さまの命も、そんなに長くはないだろうと・・。子を少しの間だけ、貸してくれと。死んだとは知らず、生まれた我が子の顔を見せてくれとせがむ、その姿があまりにも哀れだからと・・・。その時、子供は、取り替えられたのです。」
「・・・・・・・。」
「あの時、手放したのが、子にとって良いことだったのかどうか・・・今でも、わかりません。何も知らずに他人の子を抱いた奥方さまには、酷いことをしたと思っています。でも、その時、奥方さまが亡くなっても、そのまま、手元で嫡流の子として、扱うからと、言われて、迷いましたが・・・・。私のことも、このまま、捨て置かれるということはあるまいと、つまらない、打算をしたばっかりに、何もかも失ってしまった。」
 紅梅が、黙りこむ。傍で、足を水に浸して聞いていた梨花が、そっと水から上がり、気遣うそぶりで、彼女を見ている。他の子たちも、同じだ。
「もしかして、その奥方は、命が、助かったのですね。子は、返して貰えなかった。我が子として、引き合わせた周囲も、撤回することができなかった。」
 几帳の向こうで、満春が、川面に目を充てて、静かな声で訊ねる。パシャ、川面で魚が跳ねる。
「ええ。母というのは、強いものですね。赤子の泣き声を聞いて、生への執着心が湧いたのか、『子のために、元気にならなくては。この子を母無し子にすることは出来ませんもの。』と当時、病床で言っていたと人づてに聞きました。・・見事本復なさいましたの。私は、そんなに強くなれませんでしたわ。同じ女房仲間には、一人になってもたくましく子育てしている方もいましたのに・・・。失格ですわ。ですから、なるようになっただけかもしれません。」
 相手の男とは、それっきりだと紅梅は言った。別に関係を続けたとしても、世間から、咎められることもないが、彼女の中で、その時、何かが終わってしまった気がしたという。
「けれども、子のことは、時々、気になりますの。どうしているのか。幸せなのか・・。それで、本題でございますけれど、時々、あの辺りをうろついている浮浪児にいくばくか、礼をやって、出かける姿や帰って来る姿を見たら教えてといってあるのです。どんな表情でいたかとか、そんな他愛もないことですが・・・報告に来る子たちには、私のお仕えする姫さまの、憧れの人なので、ちょっとした様子が知りたいのだと教えてあります。もちろん、姫君は、架空の方ですよ。」
「では、それを、我が家の家人が見間違えたのか。」
「おそらく。あ、どうか、このことはご内密に。あちらは、知らぬことでございます。」
「わかっている。だが・・・。」
 この話が作り話だという可能性もあることを考えると、兵衛佐は言いかけた。
 紅梅が首を横にふり、傍らに置いてあった紙の束を、几帳の向こうへ押しやる。
「これは?」
 めくってみると、名前がずらっと書き連ねてある。
「兵衛佐どのと、満春どのは、先に貴船明神の社に、最近、丑の刻参りをした者がいないか、確かめにいかれましたね?人里離れたとはいっても、まったく誰も住んでいないというわけでもないもの。せまい峡谷になってますでしょ?静かな夜中に、釘を打ち付ける音がしたら、響きます。この辺りに、住む者が気がつく可能性も高いでしょ?」
「ええ。」
「その丑の刻参りですが・・いえ、正確には、参籠した者について調べにきましたのよ。それは、名を記したものを、写したものです。十年以上前のもので、残っているかどうか、自信ありませんでしたけど・・・。」
「十年以上前?」
「ええ。女五の宮さまの母君の女御さま・・が、亡くなられた以前の・・何年分かです。」
 ぱしゃ。魚が跳ねる音が響き、満春が水面を見ていた顔をあげる。
「昔の女御さまの呪詛の事件と、今回の件が関係するのですか?」
「いいえ。女五の宮さまや、今、兵衛佐どのの調べておられる件とは関係が無いと思われます。ただ、今回、私、ありもしない噂で傷ついてはじめて気付きました。もしかしたら、昔のあの事件もそうではないかと・・。あの後、女五の宮さまは、ずっと乳母どのの無実を信じていらっしゃってもしかしたら・・と、ふと気になりだして。昔の仲間から、当夜のことを聞きだしたのです。」
「聞きだした?あなたは、お側についていなくても、同じ屋敷にいたでしょう?確か、お里で、亡くなられたのでしたっけ・・・。」
「はい。その日、私は、お休みをいただいていましたので・・でなければ、口封じのために、そのあとすぐ、解雇されていたでしょうね。私が、駆けつけた時には、呪詛という創られた事件になっていたあとだった・・。」
 紅梅は、ぼんやりと宙を見つめた。
「確か、亡くなられた日、ちょうどその時刻に廊下を移動中だった女房がいて、それが乳母どの。また、それを見た人がいた。『貴船明神の天罰だわ』とか呟いていた。というのでしたね?」
「いいえ。正しくは『怒りに変わるなんて。貴船明神の・・・』。残りの言葉はわかりません。『怒り』を『天罰』と捉えることもできるでしょうが、『変るなんて』ならば、乳母どのへの印象も変わって来ます。耳にした女房に、真っ先に確かめたら、こちらが真ですわ。」
 それから、当時の仲間に会って、疑問を投げかけて見ると、決まりが悪そうな顔で、口止めされていたことを話し始めた、と、紅梅が説明する。
「この話は、女五の宮さまの耳にはいれたくないこともあるのですが・・・。」
 と、前置きする。
「女御さまは、本当は、血まみれで倒れていた。たまたま、その日は、お側に人がいない時間が存在したのです。ほんの、少しの隙間の時間。おそらく、手引きした者がいるはずです。」
「手引き・・・どういうことです?」
 兵衛佐が弾かれたように後ろを振り返る。もちろん、几帳の向こうに、人の気配がするだけで、姿は見えない。
「・・やはり、言わなければなりませんか・・・。最初に亡くなられた状態の女御さまを発見した女房が見たお姿は、身に着けておられる物がなかったと・・。あまりにも、惨いお姿でしたと言っておりました。いち早く駆けつけて見てしまった数人の女達以外は、故右大臣さま、つまり女御さまの父君が、他の者は、近づけさせるなと、事実を隠しておしまいになったので、その時、遠巻きに見ていた者は、何が起こったのか、わかっておりません。」
 紅梅の話を、息をのんで見守っていた女たち。
「なぜ、そのように、隠してしまわれたのでしょう。呪詛だなんて、嘘をついて・・。」
 梨花が、ため息のように、ぽつりと漏らす。
 摂津が、おそるおそる、想像出来る答えを言ってみる。
「おそらく、醜聞になるのを避けたかったのではないかしら・・。私たち、女房も主に不利になるようなことは申しませんが、亡くなられたということは、その後までは、女房たちの口にもふたは出来ない。密通していたなんて・・・。」
 梨花は、ちょっと考えて。
「でも、それなら、乳姉妹の紅梅さまがお相手をご存知なのじゃありませんか?状況は、わからなくても、もしかしたら呪詛の相手は・・とその時に、思いあたるのじゃありません?・・今まで、噂になったその乳母だと思ってらっしゃったのでしょう?あら?その乳母が手引きしたの?でも・・・。」
 雪柳が、頷き。
「女御さまご自身の乳母じゃないもの。無理よね?女御さまも、知らないような相手だったのじゃないですか?紅梅どの。」
「ええ。もし、そうなら、その時、思い当たっていたはず・・でなくても、他に忠義の者はいたので・・・駆けつけて女御さまの最期の姿を目にしたのは、いずれもそういう人たちでしたの。誰も知らなかった。」
「それは、確かめられたのですか?」
「ええ。皆連絡はとれましたから・・・。」
「それで、調べているうちに、ここへ?なぜ?」
「乳母どのは、もしかして、誰かとすれ違って、その誰かに、気付いたんじゃないかと思いました。貴船明神うんぬんと呟いていたそうなので、単純な理由で・・・関係あるかどうかもわからないのですが・・・何から手をつけたらよいのか、判断がつかない状態だったので、ともかくも、無駄に終わっても、どんな人が訪れていたか、調べてみようかと思いました。何て言っていいのか・・・帝の妃とわかっていても、忍んで行こうなどど、よほど思いを募らせていた者でしょう?思いつめてたのなら、あの木に彫ってあった歌のように、もしかしたら、ここにも通い詰めているかもしれませんものね。」
 疲れた顔で、弱弱しく紅梅が無理に微笑む。梨花も雪柳も、摂津も小馬も彼女すぐ近くまで寄って来て、心配そうにしている。小馬が、彼女の背をそっと優しくさする。
 紅梅は、手で顔を覆い、背をふるわせる。
「女御さま。さぞかし、無念でしたでしょう・・・。」
 ざざっ・・と、沢の流れの反響するなか、紅梅の細い泣き声だけが、あたりに満ちている沈黙と寂寥感、空気を震わせて静かに響く・・・。

花ぬすびと 9

2010-06-04 08:37:11 | 花ぬすびと
貴船は、狭い谷合いに、川が流れ、流れの音が勢いよくざざ・・っと、反響している。勢いよく流れる水が、川面に突き出ている岩や、流れの落差によって、白いしぶきをあげ、その水しぶきが、山の緑を潤して、満ちている・・そんなふうに感じる場所だ。
 夏の暑い京中にくらべ、生き返るような涼しさだ。
 ひとまず、落ち着き先に入ったものの、梨花たちは、思わず、一時の重い空気を忘れて、人目が少ないのをいいことに、辺りを散策に出た。兵衛佐と満春は、貴船明神の社に、聞き込みに行ったので、女ばかり四人だ。
 思わず。大きな口を開けて、思いっきり、清涼な空気を吸い込む。
「うん。いい感じ。何しに来たのかわからないくらい、清浄な場所ね。」
 梨花の言葉に、うんうんと頷く他の三人。
「ほんとね。ただの気散じならよかったのに・・。」
 機嫌よく応える。だが、雪柳が遠くに人のうしろ姿を見つけ、唇をぎゅっと引き結んで、指を指す。
 道からそれて、山の木々の間に、袿の袖がひらひら・・・・。
 ごくっ。皆、唾を飲み込む。雪柳が、一歩前に出る。
「行ってみましょう。」
 歩き出すが、小馬が。
「ね。ねえ、丑の刻参りには早いんじゃない?今、明るいし・・。」
「だから、違うって、きっと。でも、あんなところにいるなんて、変でしょ!」
「そ、そうね・・。」
「だいたい、その目撃した時に、何で後をつけなかったのよ?」
と、摂津。
「だって~。一人じゃ怖いじゃない。それに、そろそろ、あの人がやって来る時刻だったのよ。」
 梨花が。
「あの人って、牛車を出してくれた人?ずっと一緒じゃなかったんですか?」
「ここで、落ち合う予定だったの・・置き手紙して出て来ちゃったから、ちゃんと迎えに来てくれてよかったわ。」
「えっと・・あの・・?」
「あの人、年の差があるから、迷っていたのよ。それで・・・。」
「あ、なるほど・・。」
 梨花が頷く。摂津が。
「仕掛けたわね。悪い女~。ま、仕掛けて置いて、自分もどっぷりつかるから、いいんだけど~。あなたらしいわ。」
「ちょっと、意地悪ね、摂津。」
「あら、誉めてるのよ。今度は、まともな人じゃない。仕事に影響しないくらいに、がんばって、応援してるわよ。」
「あなたって、すでに、古株の仕切ってる女房みたい。」
「あ、ひど~!」
「あのっ。声大きいんじゃ・・・。」
 梨花が、焦って二人を止める。前を行く、雪柳がくるりと振り向いて。
「そろそろ、追いつくはずよ。ここからは、無言よ。それで、この先、もし、何か見ても・・。」
「も、もし・・?」
 強張った顔で、他の三人が問い返す。
「残念な結果になっても、騒がないこと。いいわね?その時は、こっそりその場を離れるのよ。」
「そ、そうね。」
 それぞれ、頷き、山の斜面をすべって、音をさせないように、注意して進む。足元をよく見ると、下草が、踏まれ、細い山道なのだと気付く。山の中の道なき道を探りながら、行くわけではなく、女の足でも、何とか登っていける。
 やっと袿姿の女のうしろ姿を捕えた。



女は・・・ああ、やはり紅梅だ。四人は、木の影にかくれて様子を伺う。
 少し平らになった場所で、立ち止まり、ぼんやりと佇んでいる。
 顔の表情は、黒髪に遮られてわからない。だけど、寂しそうな風情は漂ってくる。そっと、近くの木の幹におずおずと手を充てる。
 その時、大きな風が興った。夏場にはめずらしく、強い風が吹く。
 風が通り抜け、衣の袖を揺らす。ざざ・・・と、木々が揺れ、存在を主張する。
 あ、駄目よ。駄目。強い風に煽られても、微動だにしなかった紅梅が、もう片方の手をあげようとしているのを見て、梨花は叫んだ。
「駄目よ。そんなことしたら、鬼になってしまうわ・・。」
 思わず口にしてしまい、声に気付いて、紅梅が振り向く気配。「あ、馬鹿っ。」雪柳が、慌てて、梨花の口を封じていたが、間に合わず。くるりと方向転換して、近づいて来る。
「い、いや~!こっち来ないで!」
 小馬が隣の摂津に抱きついている。
「は、早く。逃げなくちゃ。み、皆・・・。」
 と言いながら、腰が抜けて足が動かない。へなへなと、小馬と摂津の二人は、蹲り、そっちを見ないようにしている。
「やだ、生成りなんて、見てないから~!」
「私たち何も見てません。勘弁して~!」
 目を瞑り、口々に叫んでいる。
 近寄って来る紅梅の姿を、口を塞がれたままの梨花の目が捉えた。大きく見開かれる目、同時に塞いでいた雪柳の手が除けられる。彼女の息を吐く音が、梨花の耳許に聞こえる。
「あなたたち、どうしたの?こんなところで?」
 いつもの楚々とした上品な顔がそこにある。一番、冷静だった雪柳が。
「どうしたのじゃ、ありません。私たち、信じてたのに、裏切られたのかと一瞬思ってしまったじゃありませんか。」
 少しいらっとした表情。
「よかった・・・丑の刻参りかと思ってしまいました。ごめんなさい。」
 梨花のため息のような声を聞いて、紅梅は、目をぱちくり。
 後ろで、息を吹き返した死人のように、小馬と摂津がばっといきなり立ち上がり、何事もなかったような顔で、ここへ来た理由を述べる。最後に、自分達も疑ってしまったことをあっさりと謝る。
 紅梅は、話を聞き終わり、合点がいったようで、淡い笑みを浮かべる。
「あなたたち、噂をうのみにせず、信じてくれようとしたのね。ありがとう。騒がせちゃったわね。」
「いえ。誤解だとわかれば、いいんです。ここで、何をしていらしたんですか?」
 雪柳が訊ねる。紅梅は、「見て来てご覧なさいな。」と、さっき手を充てていた木を振り返る。小馬と梨花が、走って行って、覗きこむ。
「いく夜われ、波にしおれて貴船川・・・・。あら、和歌ね。」
「男の人が、彫ったのかしら?」
 歌も男のつくったもののように思われ、二人は顔を見合わせる。摂津と雪柳も、紅梅と一緒にゆっくりこちらにやって来た。
 紅梅が、そこから見える斜面下の川を示し。
「ここからね。辺りが暗くなる瞬間。蛍が沢の上に一斉に光るのを眺めたことがあったの。それで、懐かしくて、ここにいる間時々、上がって来たのだけど・・。」
「それは、どなたかとご一緒だったのですか?」
 問うたのは、梨花だが、他の三人も、目をきらきらさせて紅梅を見ている。
「そうね。もうずっと前に別れたきり、恋も色あせたけれど。つらい思いも味わったり、でも、思い出は案外今の私にもやさしいの。懐かしく思い出せるなんて、思ってもみなかったわ。それで、ここにも滞在中は歩いておこうかなんて、よく来ていたのよ。さっきその木に歌を見つけたのよ。気持ちがとても伝わってくるでしょう・・・。他にも、恋の悩みを抱えて、ここを訪れている人がいるんだと実感したの。」
「でも、どなたかと一緒だったんなら、悩みなんて抱えてらしたんじゃないんじゃないですか?」
 梨花の衣をつんつんと、小馬がひっぱる。
「人目を忍んでおいでになったのなら、思いあってても、どこか、不安を抱えてるんじゃないのかしら・・・。」
「あ、そうかもしれません・・・・・・。」
 そのようすを紅梅が、目を細めて見ている。
「そうね。それじゃ、騒がせたお詫びに、おばさんの昔話をしましょうか・・・。ここでは何だし、宿へ戻りましょう。もう、ここでの用は済んだから、明日は京中へ戻ろうと思ってるから、あなたたちの誤解も解いておかなければ。」
「あ、あの。それなら、兵衛佐どのの、誤解も解かなきゃ。」
「兵衛佐どの・・・。」
「はい。実は・・・。」
 彼が、紅梅の動向を探らせて掴んだ件について話す。
「まあ。たくさん、誤解を生んでるのね。夕方の・・・たぶん、それも、何のためか説明するには、やはり、昔話を聞いてもらうしかないわ。よければ、兵衛佐どのも、その・・知人の方とご一緒していただければいいわ。」
「かまわないのですか?」
「ええ。早く、見当違いなところを探るより、他に目を向けなければいけませんものね。」
 紅梅に、促され、皆は、宿へ戻る。