「止めて下さい。お客さんっ。」
店の使用人の少年の慌てた声。
「何だと。この、タコッ、もういっぺん言ってみやがれっ!」
「ああ。何度でも、言ってやらあ。」
唾を飛ばし、互いに拳を振り上げる。片方が、相手の襟首を掴み、もう一方がそれを阻止しようと突き飛ばす。とうとう、喧嘩が始まった。その卓の酒壺がぐらりと揺れ、倒れて、床に落ちる。がちゃんと音を立てて、飛び散る破片。少年が、おろおろして、それでも止めようとして、突き飛ばされる。
小燕子が、横に置いておいた剣を背負うと、立ち上がる。ひらりと、花弁が舞い降りるように、離れたその辺りへ跳躍する。すでに何度か、拳を交えた彼らは、互いに、卓を挟んでもう一度、拳を振り上げ構えたところへ、小燕子は、立て膝をついて座り、ぱっと両手を広げて、制止を掛ける。
「おっさんら、周りの迷惑だよ。外へ出てやりなっ。」
睨みを利かせるその相手は、言葉こそきついが、長い髪を二つに結んだ、小女だ。華やかな色の紐がその結び目を飾っている。大きな目に、まだ少し丸みの残る頬。迫力としてはいまいち。こんな小娘に言われたところで、大の男がはいそうですかと、黙るはずがない。「小娘が、黙りやがれっ。」同時に、払いのける手をかわす小燕子。重力というものを感じさせない動きで、座っていたその位置から飛び上がる。宙で、くるりと一回転、見事男たちの頭の上に逆立ちのかたちで、着地。両手を片方ずつ、二人の頭の上に置いている。すると、男たちが顔を真っ赤にして怒る。当然、小燕子の手の乗っている頭は、動くわけで、手が外れ下へ落下するかと思いきや、ぱっと飛び退り、隣の卓へ仁王立ちになる。
「外へ出なって言ってんだっ。わかんないのか、このぼけっ。」
「うるせえ。んなこと、聞けるかってんだっ。」
今度は、足をつかもうとするその手をかわし、片方の男の延びた手をぐいっと掴み、小燕子も力を貸して、突き出して、延びてゆく方向そのままに手を引っ張ってやる。相手は、前に体制をくずす。ぱっと掴んでいた手を離し、背中へ回って、肘で思いっきり肩を打つ。
ドカッ。大きなぶつかる音。
「ぐえっ。」
前に倒れた勢いで、もう一方の男と正面衝突だ。勢いあまって向こうの卓に絡まって、倒れる。
「ううん。痛てて・・・。」
二人は、ふらふらと立ちあがる。痛みを振りはらうように、首を横に振ると。
「このアマ。」
「おっさんら、頑丈だね。まだ、やるのかいっ。」
男たちの怒りなんか屁でもないという感じの小燕子。腰に手を充てて仁王立ち。男たちが今、殴りかかろうとしたところへ、突然、ガンガンガンと、大きな物音をさせて、厨房から人が飛び出してきた。
黒い大きななべ底をお玉で叩いているのは、この店の店主の女将。喧嘩の注意がこちらに向いた所で間髪を入れず、彼女は。
「あんたっ!水っ!」
掛け声のように、それに合わせて、いきなり、喧嘩していた三人の上に桶の水が振って来る。バッシャ・・・・・ッ!水は、豪快に、三人のまわりに飛散する。
「うわっ。」
虚を突かれている間に、女将は。
「李さん、あんた、大分つけが貯まってるよっ。これ以上やるんなら、いますぐここでそのつけを全部払っとくれって、あの怖いおふくろさんに言うよ。崔さん。あんた今日は、早く帰った方がいいよ。夕方、奥方が、目をつり上げて、家へ帰ってくのを見たよ。」
「げっ。」
「うげっ。」
女将の言葉に、大の男二人は、そそくさと帰って行った。
「小燕子。止めるつもりが、事を大きくしてどうするんだい。あんたも、早く帰んな。」
「ちぇ、とんだとばっちりだあ。」
「まったく、若い娘がこんな遅くまで酒飲んで、町をうろうろしてんじゃないよ。」
「はいはい・・お説教はいいよ。んじゃ、帰るわ。」
「待ちな。お代。あんたは、いつどこ行くかわからないからね。つけは駄目だよ。」
「・・・はいはい・・・。」
懐を探って金を出そうとしたとき、脇から、すっと銭が出て来た。あの、若さまのお付きの青年だ。女将が目を丸くしている。
「おもしろい立ち回りだった。いいものを見せてもらった礼だそうだ。私たちの分の勘定と合わせて、これで足りるか?」
「あ、ええ?こんなには要りませんよ。」
「いや。釣りは良い。」
「釣りどころの話じゃ・・・・え?ほんとに、こんなに多く?」
戸惑う女将に、若さまが。
「かまわん。女将の、大の男を黙らせた、あの迫力も見ものだったからな。痛快だった。多ければ、こちらに残ってる客たちに、一杯づつでも、つけてやれ。それでは、足りぬか?」
「は。はい。十分おつりが来ますとも。ありがとうございます。」
くるりと女将は、隅に避難していた客たちを向いて。
「みんな、騒ぎは静まりましたからね。こちらさんが、皆さまに酒を振舞って下さいましたからね。私も、これで、がんがんおいしいものを作りますから、どうぞ、騒ぎに気を悪くしないで、ゆっくり食べてってくださいね。」
手にある鍋とお玉を示し、女将はにこにこしながら言う。すかさず、店主と店員が、わびを言いながら、酒を客たちの杯に入れてまわる。客の一人が。
「いやあ。どこの大人か知らんが、有難い。さあ、みんな、乾杯といこうじゃないか。」
「乾っ!(かんぱい)」
客たちは、口々に、若さまにむかって、酒杯を掲げ、うれしそうに飲み干す。若さまは、拱手で応え、喧噪をあとに、店を出ていく。
あとを追おうとした小燕子の背を軽くつつき、女将が。
「あれ、どういう知り合いだい?悪そうには見えないが、金離れがよすぎるよ。気をお付け。あんまり、深入りしたお付き合いをすんじゃないよ。あんただって、一応、若い娘なんだからね。」
「一応って・・・ひどっ。でも、そんなんじゃないから、安心してよ。女将、有難う、心配してくれて。今日は、ごめんね。」
「いいさ。あんたは気持ちのいい子だもの。またおいでよ。」
「うん。じゃあ。」
そう言って、小燕子は、さっきの若さまを慌てて、追っていく。
追ってきた彼女にすぐに気がついて、歩をゆるめ、振り向いた若さまたち。
「ええと。ありがとう。お代を払ってくれて。」
「いや、礼には及ばん。中々、良い動きだった。」
若さまの連れの青年も、笑顔でひとつ頷く。
左手を広げ、右手は拳・・小燕子は、左手に右の拳を下にし、高く前に掲げて、拱手した。ぱしっと小気味良い音がしそうなくらい、元気のいい仕草だった。
「あたしは、小燕子。夏燕。あたしで、役に立てるようなことがあったら、古道具屋の黄って親父を訪ねてくるといい。大人・・。」
「淑人だ。姜淑人。連れの男は、索子牙だ。」
「姜?もしかして、王族・・・。」
「まあそんなところだ。はしくれだがな。」
王族と言っても、鈞は歴史もそれなりにあり、兄弟の多いこの時代では、姓は名乗っても、直系とは程遠い者が圧倒的だ。こんな町中をふらふら出歩くからには、その多くのひとつだろうと、小燕子は思う。実は、その王族の頂点である王の息子。第四公子、その人だったのだが、もちろん、自分を見る目が変わるのを恐れて、淑人もその時は、身元を明らかにはしない。妙な隔てをおかれるのは、ご免だと思っていた。
「そっか。淑人どの。子牙どの。またね。」
「ああ。」
手を振って、分かれる。
店の使用人の少年の慌てた声。
「何だと。この、タコッ、もういっぺん言ってみやがれっ!」
「ああ。何度でも、言ってやらあ。」
唾を飛ばし、互いに拳を振り上げる。片方が、相手の襟首を掴み、もう一方がそれを阻止しようと突き飛ばす。とうとう、喧嘩が始まった。その卓の酒壺がぐらりと揺れ、倒れて、床に落ちる。がちゃんと音を立てて、飛び散る破片。少年が、おろおろして、それでも止めようとして、突き飛ばされる。
小燕子が、横に置いておいた剣を背負うと、立ち上がる。ひらりと、花弁が舞い降りるように、離れたその辺りへ跳躍する。すでに何度か、拳を交えた彼らは、互いに、卓を挟んでもう一度、拳を振り上げ構えたところへ、小燕子は、立て膝をついて座り、ぱっと両手を広げて、制止を掛ける。
「おっさんら、周りの迷惑だよ。外へ出てやりなっ。」
睨みを利かせるその相手は、言葉こそきついが、長い髪を二つに結んだ、小女だ。華やかな色の紐がその結び目を飾っている。大きな目に、まだ少し丸みの残る頬。迫力としてはいまいち。こんな小娘に言われたところで、大の男がはいそうですかと、黙るはずがない。「小娘が、黙りやがれっ。」同時に、払いのける手をかわす小燕子。重力というものを感じさせない動きで、座っていたその位置から飛び上がる。宙で、くるりと一回転、見事男たちの頭の上に逆立ちのかたちで、着地。両手を片方ずつ、二人の頭の上に置いている。すると、男たちが顔を真っ赤にして怒る。当然、小燕子の手の乗っている頭は、動くわけで、手が外れ下へ落下するかと思いきや、ぱっと飛び退り、隣の卓へ仁王立ちになる。
「外へ出なって言ってんだっ。わかんないのか、このぼけっ。」
「うるせえ。んなこと、聞けるかってんだっ。」
今度は、足をつかもうとするその手をかわし、片方の男の延びた手をぐいっと掴み、小燕子も力を貸して、突き出して、延びてゆく方向そのままに手を引っ張ってやる。相手は、前に体制をくずす。ぱっと掴んでいた手を離し、背中へ回って、肘で思いっきり肩を打つ。
ドカッ。大きなぶつかる音。
「ぐえっ。」
前に倒れた勢いで、もう一方の男と正面衝突だ。勢いあまって向こうの卓に絡まって、倒れる。
「ううん。痛てて・・・。」
二人は、ふらふらと立ちあがる。痛みを振りはらうように、首を横に振ると。
「このアマ。」
「おっさんら、頑丈だね。まだ、やるのかいっ。」
男たちの怒りなんか屁でもないという感じの小燕子。腰に手を充てて仁王立ち。男たちが今、殴りかかろうとしたところへ、突然、ガンガンガンと、大きな物音をさせて、厨房から人が飛び出してきた。
黒い大きななべ底をお玉で叩いているのは、この店の店主の女将。喧嘩の注意がこちらに向いた所で間髪を入れず、彼女は。
「あんたっ!水っ!」
掛け声のように、それに合わせて、いきなり、喧嘩していた三人の上に桶の水が振って来る。バッシャ・・・・・ッ!水は、豪快に、三人のまわりに飛散する。
「うわっ。」
虚を突かれている間に、女将は。
「李さん、あんた、大分つけが貯まってるよっ。これ以上やるんなら、いますぐここでそのつけを全部払っとくれって、あの怖いおふくろさんに言うよ。崔さん。あんた今日は、早く帰った方がいいよ。夕方、奥方が、目をつり上げて、家へ帰ってくのを見たよ。」
「げっ。」
「うげっ。」
女将の言葉に、大の男二人は、そそくさと帰って行った。
「小燕子。止めるつもりが、事を大きくしてどうするんだい。あんたも、早く帰んな。」
「ちぇ、とんだとばっちりだあ。」
「まったく、若い娘がこんな遅くまで酒飲んで、町をうろうろしてんじゃないよ。」
「はいはい・・お説教はいいよ。んじゃ、帰るわ。」
「待ちな。お代。あんたは、いつどこ行くかわからないからね。つけは駄目だよ。」
「・・・はいはい・・・。」
懐を探って金を出そうとしたとき、脇から、すっと銭が出て来た。あの、若さまのお付きの青年だ。女将が目を丸くしている。
「おもしろい立ち回りだった。いいものを見せてもらった礼だそうだ。私たちの分の勘定と合わせて、これで足りるか?」
「あ、ええ?こんなには要りませんよ。」
「いや。釣りは良い。」
「釣りどころの話じゃ・・・・え?ほんとに、こんなに多く?」
戸惑う女将に、若さまが。
「かまわん。女将の、大の男を黙らせた、あの迫力も見ものだったからな。痛快だった。多ければ、こちらに残ってる客たちに、一杯づつでも、つけてやれ。それでは、足りぬか?」
「は。はい。十分おつりが来ますとも。ありがとうございます。」
くるりと女将は、隅に避難していた客たちを向いて。
「みんな、騒ぎは静まりましたからね。こちらさんが、皆さまに酒を振舞って下さいましたからね。私も、これで、がんがんおいしいものを作りますから、どうぞ、騒ぎに気を悪くしないで、ゆっくり食べてってくださいね。」
手にある鍋とお玉を示し、女将はにこにこしながら言う。すかさず、店主と店員が、わびを言いながら、酒を客たちの杯に入れてまわる。客の一人が。
「いやあ。どこの大人か知らんが、有難い。さあ、みんな、乾杯といこうじゃないか。」
「乾っ!(かんぱい)」
客たちは、口々に、若さまにむかって、酒杯を掲げ、うれしそうに飲み干す。若さまは、拱手で応え、喧噪をあとに、店を出ていく。
あとを追おうとした小燕子の背を軽くつつき、女将が。
「あれ、どういう知り合いだい?悪そうには見えないが、金離れがよすぎるよ。気をお付け。あんまり、深入りしたお付き合いをすんじゃないよ。あんただって、一応、若い娘なんだからね。」
「一応って・・・ひどっ。でも、そんなんじゃないから、安心してよ。女将、有難う、心配してくれて。今日は、ごめんね。」
「いいさ。あんたは気持ちのいい子だもの。またおいでよ。」
「うん。じゃあ。」
そう言って、小燕子は、さっきの若さまを慌てて、追っていく。
追ってきた彼女にすぐに気がついて、歩をゆるめ、振り向いた若さまたち。
「ええと。ありがとう。お代を払ってくれて。」
「いや、礼には及ばん。中々、良い動きだった。」
若さまの連れの青年も、笑顔でひとつ頷く。
左手を広げ、右手は拳・・小燕子は、左手に右の拳を下にし、高く前に掲げて、拱手した。ぱしっと小気味良い音がしそうなくらい、元気のいい仕草だった。
「あたしは、小燕子。夏燕。あたしで、役に立てるようなことがあったら、古道具屋の黄って親父を訪ねてくるといい。大人・・。」
「淑人だ。姜淑人。連れの男は、索子牙だ。」
「姜?もしかして、王族・・・。」
「まあそんなところだ。はしくれだがな。」
王族と言っても、鈞は歴史もそれなりにあり、兄弟の多いこの時代では、姓は名乗っても、直系とは程遠い者が圧倒的だ。こんな町中をふらふら出歩くからには、その多くのひとつだろうと、小燕子は思う。実は、その王族の頂点である王の息子。第四公子、その人だったのだが、もちろん、自分を見る目が変わるのを恐れて、淑人もその時は、身元を明らかにはしない。妙な隔てをおかれるのは、ご免だと思っていた。
「そっか。淑人どの。子牙どの。またね。」
「ああ。」
手を振って、分かれる。