二 院の御所にて
その日、実資は、院の御所にうかがう約束があったので、内裏を退出する行き道に、そちらへ向かう。花山院の御所は、桜が見事なところだが、さすがに、花も散って、幹には青々とした葉が茂っている。
先導の女房のあとをゆっくりと進みながら、ふと聞こえて来た御簾の奥の女達の話し声に耳をそばだてた。
「やれやれ、また、ここでもその噂か・・。」
と、さすがに口には出さなかったけれど、そっと溜息をもらすと、先を歩く女房が、声高な噂話に頬を赤くして、申しわけなさそうにしている。
「もうし、中の方々。公卿の来訪でございます。はしたなくお思いですわ。少し、お声を小さくなさって。」
御簾内は、潮がひくように、ささやきが小さくなった。
そこに足を止めていたので、何となく、庭に目をやり、そばの藤に目をやると・・・。
「院・・・?」
花山院は、見事に咲いた藤の花の下で、じっと上を見ている。こんなところで何を?と、訝しく思ったのはつかのま。このお方が、気まぐれな行動をとられることは、ままあることなので、納得した。風流を愛でるといったら聞こえはいいが、花山院の行動力は、重い位にある人の立場や、言動といったことを意に介さぬ時がある。いつぞやは、道端で見つけた美しい桜の木の下で、何時間も、地べたに座り、楽しんだということもあった・・。
実資も、全く風流を解さないというものでもないが、さすがに、そこまで、風流に浸かりきっている時のその心理がどのような構造になっているのか・・までは、想像がつかない。目をしばたたくと、こちらに気づいた花山院が振り向き、気恥かしそうに笑う。
「・・また、きまぐれな行動を、と、説教されそうだな・・。」
「いえ。お屋敷の内にございます。人目を気になさるようになどど、堅いことは申しません。風流を愛でていたならば、格別、都合の悪いこともないでしょう。」
「来ると、聞いていたのに、吾の姿が見えねば、女房たちが探しまわるであろう。そのあいだ、そなたを待たせることになる。」
実資は、笑みを浮かべる。帝位にあった方の気遣いとも思えぬな・・。随分、色々あって、このお方なりに苦労なさったのだと、心で、頷きながら。
「御懸念には及びません。今日は、取り急ぎ、奏上せねばならぬこともございませんので。」
「そうか・・。ならば、ここで、少し酒に付き合え。・・ここの藤を見ながら、日々の話など聞かせてくれ。」
「は・・。」
院が、女房達に、廊下の御簾を上げさせると、廂を花見の場所に用い、酒と肴が運ばれて来る。院と実資の前にそれらが置かれ、杯を取る彼らに、美しい女房が酒を注いでいく。最近、流行っているものなど、当たり障りない話題が流れていく。
その間、院は杯を重ねているがまったく様子が変わらない。それに比べて、実資は、少し顔が赤くなりかけている。あまり強くはないのだ。強いて酒を強要されることもなく、酌をする女房も心得ていて、杯も空いたらすぐ、次、ということはないけれど、酔いが、回ってきたのかもしれない。
花山院が、その様子を横目に見ると。
「無理しなくてもいいぞ。杯を置いて、話しに付き合うだけでも。」
「は・・。そういたします。」
平素、さんざん振舞いについて諌言してきた手前、醜態をさらすわけにはいかず、あっさり、実資は杯を置く。
花山院は、杯に注がれる酒を見つめながら、何気なく。
「そう言えば、ここでさっき女房たちが噂していた話だが・・。」
「顕光の右大臣の娘御の話ですか・・?」
先の女御とあえて具体的に言うのを避けたが。
「そう。先の承香殿の女御。」
実資が、わずかに眉を寄せたのを、横目に微笑し。
「よほど、噂になっているとみえる。先ほど、噂を耳にしたとき、そなたがうんざりした表情をうかべるほどにな。」
にやっと笑う顔が、目に入り、実資は、仕方なく苦笑を浮かべる。このお方、するどいところもお有りなのだがな・・・。あんな退位の仕方ではなく、もう少し、ふんばっていたら、もしかしたら、名君になっていたかもしれない。ただし、何とかと紙一重で、支える廷臣は、大変だったかもしれないが・・・。まあ、別に、どちらでもかまわんが、退位がなければ、妻とも一緒になることもなかったか・・と、心の中で、つぶやく。
「あえて、再びお耳に入れるほどのこともありますまいが・・さきほどの女房たちの噂の通りでございますから・・。」
実資は、今朝の五位の蔵人から始まる話をそのまま、花山院に聞かせた。
「なるほど。そりゃあ、そなたにも、多少は都合が悪かろうな。」
花山院は、酌をしていた女房たちを下がらせた。彼女たちが、いなくなってから、実資は、ひらきなおり、酒の酔いも手伝って。
「言っておきますが。私は、花盗人のように、こそこそ通ってものにしたわけではありませんから。・・まさか、今頃、かのお方をお捨てになったくせに、惜しいとかおっしゃいますな。他の方をずっと慕っておられて、失念しておられたでありましょう?かのお方が、どれほど傷ついておられたか・・。」
まずい・・酔いが廻り過ぎた。とまらぬ言葉に、実資は、気まずい表情になる。
花山院は、ぽかんと口を開けて、しばらく見ていたが、うれしそうな表情を浮かべると。
「置いて来てしまったこと、後悔はしていたのだ。婉子女王は・・従兄妹にあたる。叔父の為平親王は、父のすぐ下の弟。であるのに、帝位につくことはなく、ずっと世の片隅に追いやられたままであった。せめて、女御の父ともなれば、ふさわしい境遇に遇されると思って、入内を促したのだ。・・まだ、あどけなさの残る感じの方だったから、さすがに、恋というよりも、妹という感情に近い関係だったのだ。婉子どのも、兄のように慕ってくれたよ・・って、実資、これは、本当だぞ。吾は、世間から女あさりをしているとか言われるが、別れたあとのことは大概気にならないが、妹のように思う婉子どのの身の上は案じていた。」
という花山院は、夜中に突然出家を思い立ち、宮中を抜け出して、そのまま髪をおろした。それも、臣下に騙されて・・・。当然のことながら、入内していた女御は宮中に残されていたわけで・・。あの時、花山院の妃には、実資の従兄妹もいたが、もともと寵もうすく、父親や実弟のもとに、むしろ、さばさばした感じで、宮中を下って行った。だが、心の交流があったほうの女御の思いは・・・。それを思うと、理不尽な気持ちになる。
「・・・慰めることも、思いとどまっていただくことも出来ず、ふがいない女御であると・・自分を情けなく思っておられたようです。退出なさるとき、たまたま、涙をみてしまいました。まわりに、悟られぬように気を使っておられた姿が、痛ましくて・・。院を責めるつもりはございませんが、あの時の、様子は・・今でも心に焼き付いています。」
「・・・・・そなたの恋は、同情から始まったのか・・・。なあ、実資、もう一杯だけ、つきあえ。」
花山院は、実資の杯に手ずから、酒を満たした。
「・・・すまん。人を恋う心ばかりは、己でもどうしようもないものだものな。あの当時は、堅物で、小うるさい奴と頭から思い込んで半ば遠巻きにしていたが、こうして近くつきおうてみれば、そなたは、公平で、それに情の深い一面もあると気付いた。婉子女王も、そなたのような男に巡りあって、幸せであったろうよ。」
「・・・・・・。」
花山院の短い治世の間、実資は蔵人の頭の任についていた。つまり、嫌でも、毎日、事務的に顔を合わせていたということだが、実資が避けられていたことにより、互いに踏み込んだ関係には至らなかった。蔵人の頭といえば、天皇の秘書官の筆頭で側近であるはずなのに、信頼関係は築けず終ってしまった。
その当時、見えなかった人の姿が、相いれない部分も含めて、互いのありようがよくみえるとは、皮肉なものだ。
花山院が、手に持つ杯を差し出した。
「あの剛腕な兼家にも、容易に従わぬそなたに気付いていたら、何かが変わっていただろうか・・・。」
今となっては、兼家の息子道長の一人天下の状態になりつつあるが、あの当時は、それが覆る要素がいっぱいあった。兼家は、それを承知していたので、次々と、微に入り細に入り執拗に、ゆさぶりをかけていた。人の世の理を時に失念してしまうほどの、大胆さを持つ花山院は、一方で、歌を詠む風流心を静かに見つめる繊細な心も持ち合わせている。
繊細な心がもっとも弱っている時を狙って、ここぞとばかり、兼家は、いたぶっていたと思う。それが、半年も同じ状態が続けば、たとえ、手をさしのべたのが、その男の子息のひとりであったとしても、うっかり失念して、出家という逃げの手を掴んだとしても、この方なら、おかしくはないかもしれない。・・・・・おそらく、ひとりぐらい味方の臣下を増やしたからと言って、持ちこたえられたかどうか・・・7・3で、勝ちは3ぐらいか。
実資は、差し出された杯に酒を注ぐ。
「御代があのまま続いていたら、どんな情勢になっていたかと、うっかり、見てみたい気はしていますが。」
「うっかり・・とな?ははは・・・。」
花山院が、腹の底から笑い声を出す。
「その状態で、上の信頼を勝ち得たとしたら、小言を言い続けることになりますからな。早く老けてしまっていたのではないかと思われます。・・うっかりというのは、まあ、少し自分でも意外という意味ではなく、その姿を想像してしまったからです。しかし、それでも、見てみたい気がすると・・。けれど、茨の道でしょうな。上も繊細な心に心労が重なることは目に見えてわかります。」
にやり。実資も笑う。こういう踏み込んだ心情が言えるようになるなんて、思いもしなかった。
『夜もすがら消えかへりつるわが身かな涙の露に結ぼれつつ』
(夜通し今にも消えてしまいそうだった私は、涙の露にぬれて・・・花山院)
花山院は、ぽつんと歌をつぶやき。気恥かしそうにしている。
「・・それもそうよなあ。無粋な臣下から、圧迫されて・・ううっ。まあ、その者ももう、この世にはおらんが、受け継ぐ奴は、まだ、宮廷にうろうろしておる。ああ、無粋といえば、顕光も、子のいない女御だったのだから、表沙汰にせず、こっそりと人目の少ない場所へでも移してやればよかったのに・・。」
「・・・・・・・・・・・。」
「散るは必定なればこそ、だ。咲ける花をわざわざ、散らすようなまねをすることはない。」
「・・・それは同感でございますな・・。」
花山院が、頷き、ふと視線をめぐらせ、庭先の松に絡んだ藤を目を細めてしばらく見つめていた。
「この花は、姿も美しいが・・甘い香りも印象に残る。花の香に惑わされた心は、姿が見えなくなったあとも、いつまでも・・・なあ・・記憶に残るよ。恋の情趣に乾杯だ。無粋な輩を笑ってやれ、花よ。」
自らの手に持つ杯を、花の方へ掲げ、くいっと残っていた一杯を花山院は飲み干した。
実資も、手酌で少しだけ杯に酒を注ぎ、飲み干す。・・・理解したくはないのだがなあ。
いつのまにか、このお方の心根もわかるようになった。とりわけ、今日は、この花の香りのせいか。やれやれ・・思いの外、酔いがまわってるとみえる。実資は、ここで醜態を晒す前に辞去しようと、院に、暇を告げる。
去り際、呼び止められて。
「頼みがあるのだが・・・。」
「何でございますかな。」
「今度の我が許で行われる歌合(うたあわせ)だが、内輪だけでと準備していたのを、どこからか、左府が聞きつけて、参加するつもりであるらしい。・・来ないで欲しいと、伝えて欲しいのだが・・。」
「それは、また、難題。・・・まあ、あちらの顔をつぶさないように、伝えてみましょう。」
「いつも、足労をかける。」
「では・・失礼いたします。」
相手の心情に添うて心をつかんで、最終的に自分の頼みごとをきいて貰う。・・もしかして、院は、政治的駆け引きも、ちゃんと出来るのではないか?やれば、出来る・・なんて、出来の悪い子を持つ親の心理みたいだ。ちょっと不遜な考えか。
実資は、廊下をふりかえり、遠くになった花を見つめた。
不思議と、手ごたえがあり、悪い気はしない。
・・それとも、この漂う花の香のせいか・・・。
はるか懐かしい花の姿を思い出し、首を横に振る。いや、そればかりとも言えまい・・と、心のなかで呟いて。
そっと、歩を進めてその場をあとにした。
おわり
その日、実資は、院の御所にうかがう約束があったので、内裏を退出する行き道に、そちらへ向かう。花山院の御所は、桜が見事なところだが、さすがに、花も散って、幹には青々とした葉が茂っている。
先導の女房のあとをゆっくりと進みながら、ふと聞こえて来た御簾の奥の女達の話し声に耳をそばだてた。
「やれやれ、また、ここでもその噂か・・。」
と、さすがに口には出さなかったけれど、そっと溜息をもらすと、先を歩く女房が、声高な噂話に頬を赤くして、申しわけなさそうにしている。
「もうし、中の方々。公卿の来訪でございます。はしたなくお思いですわ。少し、お声を小さくなさって。」
御簾内は、潮がひくように、ささやきが小さくなった。
そこに足を止めていたので、何となく、庭に目をやり、そばの藤に目をやると・・・。
「院・・・?」
花山院は、見事に咲いた藤の花の下で、じっと上を見ている。こんなところで何を?と、訝しく思ったのはつかのま。このお方が、気まぐれな行動をとられることは、ままあることなので、納得した。風流を愛でるといったら聞こえはいいが、花山院の行動力は、重い位にある人の立場や、言動といったことを意に介さぬ時がある。いつぞやは、道端で見つけた美しい桜の木の下で、何時間も、地べたに座り、楽しんだということもあった・・。
実資も、全く風流を解さないというものでもないが、さすがに、そこまで、風流に浸かりきっている時のその心理がどのような構造になっているのか・・までは、想像がつかない。目をしばたたくと、こちらに気づいた花山院が振り向き、気恥かしそうに笑う。
「・・また、きまぐれな行動を、と、説教されそうだな・・。」
「いえ。お屋敷の内にございます。人目を気になさるようになどど、堅いことは申しません。風流を愛でていたならば、格別、都合の悪いこともないでしょう。」
「来ると、聞いていたのに、吾の姿が見えねば、女房たちが探しまわるであろう。そのあいだ、そなたを待たせることになる。」
実資は、笑みを浮かべる。帝位にあった方の気遣いとも思えぬな・・。随分、色々あって、このお方なりに苦労なさったのだと、心で、頷きながら。
「御懸念には及びません。今日は、取り急ぎ、奏上せねばならぬこともございませんので。」
「そうか・・。ならば、ここで、少し酒に付き合え。・・ここの藤を見ながら、日々の話など聞かせてくれ。」
「は・・。」
院が、女房達に、廊下の御簾を上げさせると、廂を花見の場所に用い、酒と肴が運ばれて来る。院と実資の前にそれらが置かれ、杯を取る彼らに、美しい女房が酒を注いでいく。最近、流行っているものなど、当たり障りない話題が流れていく。
その間、院は杯を重ねているがまったく様子が変わらない。それに比べて、実資は、少し顔が赤くなりかけている。あまり強くはないのだ。強いて酒を強要されることもなく、酌をする女房も心得ていて、杯も空いたらすぐ、次、ということはないけれど、酔いが、回ってきたのかもしれない。
花山院が、その様子を横目に見ると。
「無理しなくてもいいぞ。杯を置いて、話しに付き合うだけでも。」
「は・・。そういたします。」
平素、さんざん振舞いについて諌言してきた手前、醜態をさらすわけにはいかず、あっさり、実資は杯を置く。
花山院は、杯に注がれる酒を見つめながら、何気なく。
「そう言えば、ここでさっき女房たちが噂していた話だが・・。」
「顕光の右大臣の娘御の話ですか・・?」
先の女御とあえて具体的に言うのを避けたが。
「そう。先の承香殿の女御。」
実資が、わずかに眉を寄せたのを、横目に微笑し。
「よほど、噂になっているとみえる。先ほど、噂を耳にしたとき、そなたがうんざりした表情をうかべるほどにな。」
にやっと笑う顔が、目に入り、実資は、仕方なく苦笑を浮かべる。このお方、するどいところもお有りなのだがな・・・。あんな退位の仕方ではなく、もう少し、ふんばっていたら、もしかしたら、名君になっていたかもしれない。ただし、何とかと紙一重で、支える廷臣は、大変だったかもしれないが・・・。まあ、別に、どちらでもかまわんが、退位がなければ、妻とも一緒になることもなかったか・・と、心の中で、つぶやく。
「あえて、再びお耳に入れるほどのこともありますまいが・・さきほどの女房たちの噂の通りでございますから・・。」
実資は、今朝の五位の蔵人から始まる話をそのまま、花山院に聞かせた。
「なるほど。そりゃあ、そなたにも、多少は都合が悪かろうな。」
花山院は、酌をしていた女房たちを下がらせた。彼女たちが、いなくなってから、実資は、ひらきなおり、酒の酔いも手伝って。
「言っておきますが。私は、花盗人のように、こそこそ通ってものにしたわけではありませんから。・・まさか、今頃、かのお方をお捨てになったくせに、惜しいとかおっしゃいますな。他の方をずっと慕っておられて、失念しておられたでありましょう?かのお方が、どれほど傷ついておられたか・・。」
まずい・・酔いが廻り過ぎた。とまらぬ言葉に、実資は、気まずい表情になる。
花山院は、ぽかんと口を開けて、しばらく見ていたが、うれしそうな表情を浮かべると。
「置いて来てしまったこと、後悔はしていたのだ。婉子女王は・・従兄妹にあたる。叔父の為平親王は、父のすぐ下の弟。であるのに、帝位につくことはなく、ずっと世の片隅に追いやられたままであった。せめて、女御の父ともなれば、ふさわしい境遇に遇されると思って、入内を促したのだ。・・まだ、あどけなさの残る感じの方だったから、さすがに、恋というよりも、妹という感情に近い関係だったのだ。婉子どのも、兄のように慕ってくれたよ・・って、実資、これは、本当だぞ。吾は、世間から女あさりをしているとか言われるが、別れたあとのことは大概気にならないが、妹のように思う婉子どのの身の上は案じていた。」
という花山院は、夜中に突然出家を思い立ち、宮中を抜け出して、そのまま髪をおろした。それも、臣下に騙されて・・・。当然のことながら、入内していた女御は宮中に残されていたわけで・・。あの時、花山院の妃には、実資の従兄妹もいたが、もともと寵もうすく、父親や実弟のもとに、むしろ、さばさばした感じで、宮中を下って行った。だが、心の交流があったほうの女御の思いは・・・。それを思うと、理不尽な気持ちになる。
「・・・慰めることも、思いとどまっていただくことも出来ず、ふがいない女御であると・・自分を情けなく思っておられたようです。退出なさるとき、たまたま、涙をみてしまいました。まわりに、悟られぬように気を使っておられた姿が、痛ましくて・・。院を責めるつもりはございませんが、あの時の、様子は・・今でも心に焼き付いています。」
「・・・・・そなたの恋は、同情から始まったのか・・・。なあ、実資、もう一杯だけ、つきあえ。」
花山院は、実資の杯に手ずから、酒を満たした。
「・・・すまん。人を恋う心ばかりは、己でもどうしようもないものだものな。あの当時は、堅物で、小うるさい奴と頭から思い込んで半ば遠巻きにしていたが、こうして近くつきおうてみれば、そなたは、公平で、それに情の深い一面もあると気付いた。婉子女王も、そなたのような男に巡りあって、幸せであったろうよ。」
「・・・・・・。」
花山院の短い治世の間、実資は蔵人の頭の任についていた。つまり、嫌でも、毎日、事務的に顔を合わせていたということだが、実資が避けられていたことにより、互いに踏み込んだ関係には至らなかった。蔵人の頭といえば、天皇の秘書官の筆頭で側近であるはずなのに、信頼関係は築けず終ってしまった。
その当時、見えなかった人の姿が、相いれない部分も含めて、互いのありようがよくみえるとは、皮肉なものだ。
花山院が、手に持つ杯を差し出した。
「あの剛腕な兼家にも、容易に従わぬそなたに気付いていたら、何かが変わっていただろうか・・・。」
今となっては、兼家の息子道長の一人天下の状態になりつつあるが、あの当時は、それが覆る要素がいっぱいあった。兼家は、それを承知していたので、次々と、微に入り細に入り執拗に、ゆさぶりをかけていた。人の世の理を時に失念してしまうほどの、大胆さを持つ花山院は、一方で、歌を詠む風流心を静かに見つめる繊細な心も持ち合わせている。
繊細な心がもっとも弱っている時を狙って、ここぞとばかり、兼家は、いたぶっていたと思う。それが、半年も同じ状態が続けば、たとえ、手をさしのべたのが、その男の子息のひとりであったとしても、うっかり失念して、出家という逃げの手を掴んだとしても、この方なら、おかしくはないかもしれない。・・・・・おそらく、ひとりぐらい味方の臣下を増やしたからと言って、持ちこたえられたかどうか・・・7・3で、勝ちは3ぐらいか。
実資は、差し出された杯に酒を注ぐ。
「御代があのまま続いていたら、どんな情勢になっていたかと、うっかり、見てみたい気はしていますが。」
「うっかり・・とな?ははは・・・。」
花山院が、腹の底から笑い声を出す。
「その状態で、上の信頼を勝ち得たとしたら、小言を言い続けることになりますからな。早く老けてしまっていたのではないかと思われます。・・うっかりというのは、まあ、少し自分でも意外という意味ではなく、その姿を想像してしまったからです。しかし、それでも、見てみたい気がすると・・。けれど、茨の道でしょうな。上も繊細な心に心労が重なることは目に見えてわかります。」
にやり。実資も笑う。こういう踏み込んだ心情が言えるようになるなんて、思いもしなかった。
『夜もすがら消えかへりつるわが身かな涙の露に結ぼれつつ』
(夜通し今にも消えてしまいそうだった私は、涙の露にぬれて・・・花山院)
花山院は、ぽつんと歌をつぶやき。気恥かしそうにしている。
「・・それもそうよなあ。無粋な臣下から、圧迫されて・・ううっ。まあ、その者ももう、この世にはおらんが、受け継ぐ奴は、まだ、宮廷にうろうろしておる。ああ、無粋といえば、顕光も、子のいない女御だったのだから、表沙汰にせず、こっそりと人目の少ない場所へでも移してやればよかったのに・・。」
「・・・・・・・・・・・。」
「散るは必定なればこそ、だ。咲ける花をわざわざ、散らすようなまねをすることはない。」
「・・・それは同感でございますな・・。」
花山院が、頷き、ふと視線をめぐらせ、庭先の松に絡んだ藤を目を細めてしばらく見つめていた。
「この花は、姿も美しいが・・甘い香りも印象に残る。花の香に惑わされた心は、姿が見えなくなったあとも、いつまでも・・・なあ・・記憶に残るよ。恋の情趣に乾杯だ。無粋な輩を笑ってやれ、花よ。」
自らの手に持つ杯を、花の方へ掲げ、くいっと残っていた一杯を花山院は飲み干した。
実資も、手酌で少しだけ杯に酒を注ぎ、飲み干す。・・・理解したくはないのだがなあ。
いつのまにか、このお方の心根もわかるようになった。とりわけ、今日は、この花の香りのせいか。やれやれ・・思いの外、酔いがまわってるとみえる。実資は、ここで醜態を晒す前に辞去しようと、院に、暇を告げる。
去り際、呼び止められて。
「頼みがあるのだが・・・。」
「何でございますかな。」
「今度の我が許で行われる歌合(うたあわせ)だが、内輪だけでと準備していたのを、どこからか、左府が聞きつけて、参加するつもりであるらしい。・・来ないで欲しいと、伝えて欲しいのだが・・。」
「それは、また、難題。・・・まあ、あちらの顔をつぶさないように、伝えてみましょう。」
「いつも、足労をかける。」
「では・・失礼いたします。」
相手の心情に添うて心をつかんで、最終的に自分の頼みごとをきいて貰う。・・もしかして、院は、政治的駆け引きも、ちゃんと出来るのではないか?やれば、出来る・・なんて、出来の悪い子を持つ親の心理みたいだ。ちょっと不遜な考えか。
実資は、廊下をふりかえり、遠くになった花を見つめた。
不思議と、手ごたえがあり、悪い気はしない。
・・それとも、この漂う花の香のせいか・・・。
はるか懐かしい花の姿を思い出し、首を横に振る。いや、そればかりとも言えまい・・と、心のなかで呟いて。
そっと、歩を進めてその場をあとにした。
おわり