時の泉庭園

小説は、基本、ハッピーエンド。
話は、最後まで出来上がってからUPなので、全部完結済み。

(^◇^)・・・みん兎

月に哭く 6

2011-09-05 15:48:25 | 酔夢遊歴
翌日、明るくなって憶のもたらした私信(てがみ)を読んだ李白の顔に、驚きが広がった。
 憶の師匠、楊賢弟からのものは、消息をうかがう、いつもの内容だった。
だが、もう一通の、王維からの物は・・・。
「・・生きてる・・?」
 古き友、王維が、もたらした報は、晁衡(ちょうこう)の無事を伝えるものだった。
晁衡(ちょうこう)の、国に帰る為の、船は、嵐に遭い、一度は海の底に沈んだものと思われていたのだが、南方へ漂着して、助かったのだ。南へ流されていく船は、だいたい、福州のさらに南、現在のベトナム辺りまで流されることが、多く、ヘタをすると、国境を越えてしまい、その為、帰国もままならないこともあるが、晁衡(ちょうこう)たちの船は、幸運なことに、ぎりぎり、唐の領内、安南に流れついた。長安へも、帰路が確保されていた。
 王維は、唐の中枢にいる役人なので、いち早く、その報を知ることができた。一方、漂泊の身の李白には、知るよしもなく、彼が友を偲び、哀悼の詩を詠んだことを聞き及んだ、王維が、気を利かせて、ちょうど、李白を訪ねる、という人に託して、報をもたらしたのだ。
 李白は、その奇跡の報をもたらした、憶の肩を叩いたり、白髪混じりの、大きな男が、子供のように、無邪気に小躍りしながら、大喜び。
ついに、悲しみでキレたか・・と、内容を知らない、憶は、不審な表情で彼を窺っている。喜びで、いっぱいの李白は、そんな憶のことはお構いなしだ。
空を仰ぐ。
「天よ・・・。」
 奇跡とは、驚きと、斯くも、うれしい興奮をもたらすものか・・・!
詩人の彼でも、それを言い表す、適切な言葉は、すぐには、出て来そうもない。
驚きに満ちたこの、喜びも、それまでの悲しみも、友を思う心。
李白が、先に詠った悲しみの詩は、以下のとおりだ。

     
      哭晁卿衡       晁卿衡を哭す

     日本晁卿辞帝都  日本の、晁卿、帝都を辞す
     征帆一片繞蓬壺  征帆、一片、蓬壺を繞る
     明月不帰沈碧海  明月、碧海に沈み、帰らず
     白雲愁色満蒼梧  白雲愁色、蒼梧に満つ

     (日本の、晁衡(ちょうこう)殿は、長安に別れを告げ、
      国を発った、船は、蓬莱を巡り、
      明月のような男は、碧海に沈み、国に帰ることはない。
      白雲が、悲しみが満ちるように、蒼い空を覆っているよ。)

                           おわり








伝説の人、李白の出てくるお話を書いてみました・・。
李白の詩は、有名ですが、生涯は謎に満ちています。西域で生まれ、四川で育ち、若い頃、遊侠の士を気取り、仙人にもあこがれたとか。玄宗に仕えていますが、科挙を受けたわけではなく、人のつてで、翰林院に勤めたが、それも、ほんの数年で、讒言により、投獄。すぐに赦されているようですが、朝廷へ戻ることなく、諸国放浪へ。安氏の変の時は、玄宗の息子の、軍師やってたり・・。けれども、それがもとで、また、投獄、以後は、表舞台にでることはなかったようですが、元気に、あちこち巡っていたようです。
ほとんど謎に満ちて・・という生涯が、ミソですね。
取り敢えず、完結ですが、李白のお話は、まだ他にも、書きたいのがあるので、
追加した、「酔夢遊歴」というカテゴリーに、加えて行けたらなあ・・なんて思ってます。

アクセスありがとうございます。みん兎 <(_ _)>


月に哭く 5

2011-09-05 15:46:29 | 酔夢遊歴
晁衡(ちょうこう)が、もう半分諦めていた帰郷を、あらためて決意したのは、あの時ではなかったか。李白自身も、晁衡(ちょうこう)のくれた言葉に、背中を押されたように、あれからすぐ、放浪生活へ
と入った。天と地の間ある限り・・と、こうして、気の向くまま、各地を訪れている。



今、李白は、知り合ったばかりの青年と、追悼の、杯を重ねている。
彼は、こんなふうに、出遭った、気の合うたくさんの人と、束の間笑い、飄飄と生きてるのが、性にあってるのだと、しみじみ実感している。

それでも、知己を失うのは、寂しい。

危険を承知で、船に乗り込んだ友を思う。
魂は千里をかけるというから。深い海の底にその身は沈んでも、きっと・・。
晁衡(ちょうこう)よ、今頃は、故郷の月を見ているか・・と、すぐ傍の枝にかけた布を見上げる。
藍の色に染められた、布は、ざっくりとした織でありながら、見る程に惹きつけられる色合いをしている。
これを渡された時、「我が国にしかない色合いです。ずいぶんとこの色彩に、慰められた。お守り代わりでした。貴殿には、必要ないかもしれませんが。」笑って、李白にくれたのだった。
藍の色は、李白の目の色に似ていた。
あちこち出掛けて、出会いの多い人生でも、心が、共鳴しあえる者に出会えることは少ない。李白と、晁衡(ちょうこう)には、月と酒。
そして、月を詠んだ、という、外国の歌の、格別の、思い出が残った。
「なあ、友よ。故郷の景色に飽いたら、たまには、この国にも、やって来いよ。海を越えるのなんか、もう、危険でも何でもなかろう。夢の中でも、月を肴に、酒を酌み交わそうじゃないか。」
 ぽつりと、言葉がでる。
 そんな李白を、黙って思い出話につきあってくれた、憶が、何とも、もの問いたげな顔をしている。
「どうかしたか?」
「いえ・・月が輝いたのは、女の人が応えてくれたのだとして、二回目の、大きく見えたってのは、何なんですかね・・・。」
 憶は、しきりと首をひねって、大真面目に、考えている。
李白は、あっ・・と、口を半分開けて呆れてる。
「そりゃ、募り募った、望郷の思いに、月が共鳴してくれたのだろう・・?」
「・・ああ、なるほど。」
 憶は、頷くと、岩の上に、置いたままになっていた杯の酒を、湖に向かって注いだ。
「会ったことはないけれど、これも、何かの縁。晁衡(ちょうこう)どの、私からの杯も、受けて下さい。太白星どの、自分ばっかり飲んでないで、ほら、晁衡(ちょうこう)どののために、もっと注いで。」
 ぐう・・・・。寝息が聞こえて来て、座ったまま、憶は寝てしまった。
「やれやれ、酔っぱらっていたのか。あの師匠にして、この弟子ありだな。ま、こいつが付き合ってくれた、お陰で、落ち込まずに済んだか。」
 李白は、ちょっと驚き、やがて、破顔して。
「好(いいさ)! 天地の間、皆、我の故郷なり。わしは、そうして生きて行くぞ。だが、どんなやつでも、百年に満たない人生さ。どこで生きようとも、どこで死のうとも、決めるのは己自身。友よ。貴殿の選択も、間違いじゃないさ。」
 がばっと、一気に酒壺の酒を飲み干す。
満足げに、頷いて、ひょい・・っと、その場から、下りると、岩にもたれて眠った。




月に哭く 4

2011-09-05 15:43:29 | 酔夢遊歴
その頃、李白は、讒言により、役人を追われ、宮廷には復帰できず、失意の日々を送っていた。当然のことながら、彼を訪ねる者は少なくなっていた。
晁衡(ちょうこう)は、そんな数少ないうちの、一人であった。
ちょうど、今の漂泊の旅に出ることに決めた頃だ。
連絡をしたわけでもないのに、何と言うこともなく、ふらりと晁衡(ちょうこう)はやって来た。
 その日は、美味い酒を手に入れたから・・といって、酒を手土産にやって来た彼と、また、月を肴に飲んだのだ。李白が、旅に出ると告げると、分かっていたかのように、晁衡(ちょうこう)は頷き、「風は、一つ所に留まれるものではないから・・。」と、傷心を慰めるように、李白の杯に酒を注ぐ。そんなふうに言われて、李白も、自分自身、腑に落ちたといおうか、納得しきれていない部分があることにも気づいた。
 風か・・なかなか良い言葉をかけてくれたな。それこそ、目指していた人生じゃないか・・。李白は、若い頃、遊侠を気取って、放浪したことがある。親友の隠者の、仙人のような生活にあこがれもした。心に湧いた志を切り捨てられず、朝廷に仕えることになったものの、もともと、自由気ままがあっているので、窮屈な生活に辟易もしていた。彼なりに、我慢はしてきたけれど・・そう、きっぱりと捨て去ればいいじゃないか。そう思うと、最早、失意はどこかへ消えてしまった。
風が生じる・・・。李白は、体の中を一塵の風が、吹き抜けるのを感じた。
 笑みが生まれ、機嫌良く、返杯した李白。
晁衡(ちょうこう)の目から見た彼は、いつもの、飄飄とした雰囲気を保ったままだった。それを裏付けるように、いつもの如く、酒を飲むと、しぜんと詩を詠んだ李白。確かに、落ち込んでいるように見えたのだが、気のせいだったのか・・。失意の日々を送ってるかと思いきや、まるで、気にもしない快活さを失わないようすに、安心したように、晁衡(ちょうこう)も静かに飲み始めた。
しばらく、李白の詩に、耳を傾けていたが、ふと。
「言霊が宿る・・・。」
と、李白にはわからない言葉を呟く。李白の、訝しげな目を見ると。
「ああ、すみません。今のは、国の言葉です。人が発した言葉は、必ず現実に影響する・・というか、そんなふうに考えるので、大和の国には、軽々に、言葉を使うことは忌むべきことだという考えがあります。それと同じ発想から、わが国も独自の、詩があるのですが、優れた歌には、言霊が宿る、と言われています。優れた歌人が詠んだ詩が、山に掛った雲をはらったという話もあるくらいです。・・この国には、それを言い表す言葉はないですよね。」
 李白は、ちょっと考え。
「音や言葉には、場を清め、邪を祓う力があるというやつか?」
 と、推量してみる。李白は、若い頃、仙人修行をしたことがあり、この手の、知識も持っていた。それに対し、晁衡(ちょうこう)は、もどかしい顔つきをしている。
「・・そうですね。源流は、同じところからかもしれませんが・・悪しき言葉を使っても現実になると思われているので、少し、違ってはいますが・・。」
「うん、なるほど・・何となく、想像がつくな。」
「場を清めるためだけでも、音や言葉が、力を持つなら、この国の言葉にも、やはり、言霊・・は、宿る、のでしょうね。」
 晁衡(ちょうこう)が、李白の詩を聞いていて、言霊が宿っている、と、思ったのだと、言った。
「・・そりゃ、最大の賛辞だな。空の月の機嫌を損ねたら、一つ、酒の肴が欠けてしまうからな。結構結構。」
「おべっか使うつもりは、ないのですよ。ただ、何となく、言葉が浮かんだのです。今日の月は、故郷の空を思い出させてくれたので。」
 気恥かしそうに笑うと、酒をあおる晁衡(ちょうこう)。
「月など、どこで見ても同じだろう?貴殿のは、郷愁が、そうさせてるのではないか?」
 見せてくれる表情は違うが、満ち欠けする月は月だ。いきなり、四角く、突拍子もない形に見えたりはしない。
 晁衡(ちょうこう)が首を横に、振る。
「郷愁かもしれませんがね。夜の闇で、はっきりと色彩が、区別しづらいせいか、月は時々、故郷の、それを思い出させてくれるのです。反対に、昼の景色は・・駄目ですね。大陸は、どこも、砂の気配がして・・・。あ、駄目だと言ってるわけではないんです。ただ、遠い故郷を偲べるものがなくて・・。」
「乾いてる・・というなら、長安は西域の入り口だから、そうだな。だが、江南の方はどうだ?水郷が多いから、瑞々しい景色ばかりだぞ。」
「行ってみたことはありますが、やはり、色彩が違う。もっとこう透明で、緑の色が青みがかってて・・いや、帰りたいだけかもしれませんがね。」
「帰りたいか・・。」
 李白は、頷くと、晁衡(ちょうこう)の杯に酒を注ぐ。
「国の威信を高めるために・・と思って、この国で役人になり、しゃかりきになってやってきましたけれど、幾歳重ねても、いえ、重ねるごとに、気持ちは高まっていくものですね。」
 帰りたい、といって、簡単に帰れるものでは、なかった。国に帰るには、ひとたび海が荒れれば難破する危険の多い海を越えてゆくしかない。比較的安全に渡れる朝鮮半島からの、海は、他国をまたいで行くことになり、政治的情勢もあり、そこまでの陸路も安全ではない。そんなこともあって、この国に留まり、かれこれ何年になろうか・・。
「郷愁か・・・。故郷の家を出てすぐは、心細かったが、年と共に思い出さなくなったなあ・・いや、家族には会ってるからかもしれんが。」
 離れていても、親兄弟家族と、連絡はとれる。李白は、そう思う。もっとも、彼は、天地があれば、どこへでも・・・といった気質なので、気にならないのかもしれないが。
「それじゃ、その故郷の景色とやらを詳しく聞かせてくれ。貴殿が一番みたいものは?どこかへ出かけた折に、わしも、似た景色を探しといてやろう。」
「・・・ありがとう。」
 晁衡(ちょうこう)は、くしゃっと、顔を歪めて、情けないような顔になった。
「?」
 首を横に振り、慌てて笑顔をつくり、泣き笑いのような顔になる晁衡(ちょうこう)。
彼も、李白と年は変わらず、不惑という年齢を、とっくに、いくつか過ぎているのに。
友を慰めに来た立場でありながら、こんな幼い子のように心もとない顔を友の前に晒すなんて・・晁衡(ちょうこう)は、自分でも情けなく思っていた。
同時に、身の内にじんわりと、温かみが、沁みていくのを、感じていた。
 失意の中であっても、友の飄飄とした雰囲気は、変わらず、逆に自分の方が励まされている。彼のこの人となりは、この大陸を吹く強い風が、造り上げたに違いない・・と。
遥か西域から、大量の砂を空へ上げ、この、大きな国の果てまで運んでくる、強い風。
そんな強い風にさらされても、李白は、悠然と笑っていそうだ。
「貴殿のような人に出会えるなら、乾いた景色も悪くはないかもしれません・・・。貴殿に倣って、天と地の間、どこでも故郷・・と、もう少しがんばってみるとします。」
 清々しい顔で、告げる。
 李白は、ぽかんと、口を開けていたが。
「わしは、そんなふうに見えるのか。・・天と地とは・・これは、大きくて、おもしろそうな人生じゃないか。うん。ありがとう。ありがとう。」
 若い頃から、あちこち放浪したことのある李白は、機嫌良く、自身が見て来たあちこちの景色のことを語って聞かせてくれた。
「・・・それじゃ、私からもひとつ。」
 湿っぽい気持ちは、忘れて、晁衡(ちょうこう)も、詩人である友の、興味をそそる、故郷の美しい景色を口にした。
 ひとつ、李白の杯に酒を注ぐ。
「唐の国の、長安のような富める都には、敵わないですが、その代わり、秋の実りの季節のあと、錦秋に染まる姿は、そりゃあ、すばらしい景色なんです。秋は、先に、山々に囲まれた田に、波打つ金色の穂。風に揺れて、辺り一面、金色のさざ波が立つ景色は、想像しただけでも、知らず笑顔になりませんか?その次に来るのが、山々や、野にあふれる紅葉。こっちじゃ、紅葉は黄色が多いですけれど、故国では、赤い。金色のあとにくる、赤。冬のくるほんの少しの間の華やかな彩、自然の織りなす錦と言って、いいものでした。」
 唐の国の、紅葉は、銀杏の黄色などが目立つ。赤の好きな、この国の人間らしく、李白は、想像して、顔を綻ばせた。
「そりゃ、錦のようで、華やかでいいなあ。」
 にっこり、頷いて、晁衡(ちょうこう)は続ける。
「稲刈りの頃には、都に住む役人も、ほとんどが、休みを取ってね。自分の田へ収穫に行くのですよ。」
「ほおう、役人も、自ら稲刈りをするのか?貴殿も、田へ入ったことが?」
「ええ、もちろん、ありますよ。大事なことですからね。人は使いますが、貴族と言われる人々でも、ほとんどが里と都を往復して、自分の治める土地を、ちゃんと自ら、管理してます。」
「ふむ。文化は、唐には及ばんが、そりゃあ、見習うべきことだなあ。民たちの声を、肌に感じているのとそうでないのとは、違うものだ。唐では、若い頃、志のあった者でも、大官になってしまうと、変わってしまう者は、多い。指図一つで事足りてしまうから、狭い宮中の派閥ばかり気にして、浮きあがった存在になってしまうのかもしれん。」
 正義感もあり、物事に頓着しない剛毅な彼を、今後、権力掌握の邪魔になる芽だと警戒したのは誰だったか・・・。
讒言ひとつで、宮廷を追われた、李白が言うと、実感がこもっている。
「・・・・・・・。」
「なかなか良さそうな国じゃないか、晁衡(ちょうこう)。もっと、話してくれ。あ、そうだ。貴殿の見たいと言っていたのは、その、実りの季節か?」
「ああ、いいえ。一番は、他にあります。月の出ている景色だから、きっと、見たら、貴殿も気に入りますよ。」
 晁衡(ちょうこう)は、ちょっと杯に口をつけ、酒を一口飲む。
窓から、見えている月を見上げて、目を細める。

 あまのはら ふりさけみれば 春日なる
    三笠の山に 出でし 月かも

 国の言葉で、朗詠する、晁衡(ちょうこう)。先ほど、彼の言っていた自国の詩だと、李白にも分かった。水が澱みなく流れていくような調子で、詩というよりも歌だ。
「あまのはら・・・」
 晁衡(ちょうこう)が二度目に歌った時だ。
 月だ。・・・・・。
 李白は、思わず目を擦りたくなった。
 空の、月が、大きく見えた。黄色い色が大きく膨張して・・・。美しい。美しけれど、あり得ない。そんな、はずはない。
 晁衡(ちょうこう)の様子を伺うと、彼は何も気づいていないようだ。
 どくどくと、心臓が波打つ。
 三度め。
晁衡(ちょうこう)が歌う、気配を見せると、李白は、ごくっ、と、つばを飲み込み、身構える。
 三度めの歌は・・・・。
 月は、変わらなかった。普通の景色だ。窓越し、塀越しに見える、向こうの山の上に、美しい面。だが、歌が終わると、ほんの少し、光が不自然に揺れた気がする。
きらりと濡れたように輝いた。・・・ようだが。
「貴殿の言っていた、言霊、という言葉・・・わかったぞ。」
「え?」
 どうも、彼は、気付いていないようだ。
李白は、歌を聞いていた間に起こったことを、話した。
「あれは、きっと、貴殿が心を込めて歌ったからだな。」
 晁衡(ちょうこう)は、驚きと悦びの混じった表情になる。
「あなたのように、詩句を自在にあやつる才能のある人は、別だが、人が一生に一度でもそのような歌をつくれたら、幸運なことだ。そうか、私にも・・。」
 李白は、自分の杯の酒を零してしまっていることに、気が付き、手酌で酒を継ぎ足しながら。
「最後に、山の上に、きらりと光った月。貴殿を待っていてくれる女人(ひと)が、応えてくれたのではないか・・・?」
「・・・大陸に渡ると決まった時、妻には、あとは好きにしていいと言って出て来たのですが・・・。」
 もちろん、戻ってこれる証が、なかったからだ。それぐらいの覚悟があって引き受けた役目だ。けれど、人は、あっさりと情を断ち切れるものでもない。
 晁衡(ちょうこう)は、しばし、仲麻呂と呼ばれていた頃の、自分を思う。
 夜道を妻のもとへ急ぐ途中見た、山の端に、顔を出した月を思い出す。
李白など、この国の人間には、また、驚愕すべき、習慣といわれそうだが、大和の国では、若い夫婦が同居することは、あまりない習慣だ。いや、他のこの国の人はともかく、どうして女にもてるのか、未だに、両手に花よの、状態の、李白なら、喜びそうな、習慣ではあるが・・・。
恋しく、想う妻のもとへ、夜道を夫が通うのが普通だ。
懐かしい、その時を、仲麻呂になって、辿ってみる。
なだらかな山の上に輝く月を見ながら、野を越えて、妻のもとに向かう夜。池のほとりに通りかかって、ふと、輝く水面に、山の上にある月の影が映ってるのに気付き、足を止めた。夜の気配のなかに、風の音、虫の声、緑の匂い・・闇に塗り込められてわからない色彩さえ感じられ、すべてが、繊細な印象を放っている。かそけき音に、心を揺らす感動は、故郷にしかないものだ。そう、あの時、足をとめてしまい、鏡に映ったような、水面の月の影が、ゆらゆらっと揺れて、寂しげに揺れたのが、待ってる女人の白い面のように感じられて、慌てて、今度は一層、歩を進めたのだった・・。
晁衡(ちょうこう)は、しばらく目を閉じて、蘇るなつかしい故郷の匂いを感じていた。
「いつか、きっと。帰ろうと思います。」
 珍しく強い目の色をした友に、李白は、黙って頷くしかなかった。

月に哭く 3

2011-09-05 15:41:09 | 酔夢遊歴
あの時も、そう・・。こんなふうに、美しい月を相手に、飲んでいた。
李白は、一人、静かに飲んでいたのだ。そこへ、通りかかったのが、晁衡(ちょうこう)だ。
「こんな所で、酒盛りを・・?」
 晁衡(ちょうこう)は、開いた口が塞がらぬような顔で、見ている。
そこは、宮中の、翰林院(かんりんいん)から程遠くない場所・・。つまり、自分達の、職場だからだ。もちろん、宮廷なのだから、酒の出る宴も、どこかでやることはあるのだが、ここに勤める役人が勝手に飲んだくれて、通り道で引っくり返っているのは、いかがなものか。
加えて、調子こいた若者ならいざしらず、自分と同じく、四十は越えていようかという、壮年の男だ。
晁衡(ちょうこう)が、呆れて見ている、李白のようすは、すでに出来あがった酔っぱらいだ。半分寝そべっている姿は、どこの無頼漢だという感じだ。
そういう晁衡(ちょうこう)は、挙措正しく、礼儀正しい佇まい。普段から、温顔くずさぬ佇まいと、人からも認識されている。東海の、未開の地と思われている島国からやって来ても、科挙に合格した、努力家を絵に描いたような・・と、李白は認識していた。
彼らの所属する、翰林院とは、特に、学問に優れた者や、文人を召し、詔勅などの起草を司る役所である。唐代の翰林院は、李白のように、科挙を受けなくても、文人として優れた人物なら任じられることもあり、後の宋代のように難関を突破した者の中でも、特に上位の者だけがなれる、エリート官僚という感はないが、帝の側近く召されることの多い部署であり、当然、それに相応しい人物の集まりのはずなので、晁衡(ちょうこう)のような、真面目な人柄の人物ばかりと考えるほうが妥当だ。
人通りは絶えているとはいえ、今、通り道にごろんと寝そべって、一杯やってる李白は、役人の着る衣装に身を包んでいても、豪放磊落、何処から見ても立派な・・・、市井の無頼漢だ。彼は、細かいことには頓着せぬ性格、気が向かなければ、どこかで飲んだくれて、出仕も忘れているような男なので、水と油、李白と晁衡(ちょうこう)は、お互い顔と名前は、知っていても、親しく、話したことはなかった。
「やあ。そんな目くじらたてるなよ。」
 酔っぱらいに、ありがちなことだが、矢張り、李白も絡んだ。
「いえ、こんなところで飲んでも構わないのか、と、私は疑問に思っただけです。どうも、こちらの習慣には、あかるくなくて・・。」
 晁衡(ちょうこう)の、対応は、あくまで、温和で生真面目だ。
その顔を、李白は、口を開けてぼおっと、穴のあくほど、見てしまった。
確か、李白と同じ、年の頃のはずだが・・。
李白は、大柄で、いかにも無頼漢な雰囲気は、親爺くささ満点。それと比べると、小柄で細身、いかにも文官といった雰囲気のせいだろうか、晁衡(ちょうこう)は、李白の目からみると、青年っぽく映った。ふうん、始皇帝が不老を求めて、人を、遣わした、東海の島国から来たせいだろうか・・と、皮肉な目を向け。
「・・いや、こんな真夜中に、誰も来ないだろう。人が行き来する時間までに移動すれば、済むことだろう。ここが、一番、月が綺麗に見える場所なんだ。誰も通らんのに、一杯やらないなんて、もったいない話だ。・・と、思ったのだが。」
「あ、そういうことですか。」
 晁衡(ちょうこう)は、にっこり笑い、肯く。詩人である、その心を理解した。
おっと、意外に思う李白。
李白も肯くと、寝転んでいた体を起こすと、晁衡(ちょうこう)を手招する。
「どうだ。晁衡(ちょうこう)どの、貴殿も一杯ぐらい、付き合わんか?」
「では、少しだけ。ご相伴にあずかりましょう。」
 流暢だが、まるで、論語の、教科書でも読んでるような抑揚だ。
李白は、晁衡(ちょうこう)がこの国の人ではないのだと、再認識する。
 晁衡(ちょうこう)は、李白の前に挙措正しく、正座していた。
李白の差し出した杯を、何の気もなくそのまま受け取ると、酒を受けて、呑んだ。それを見て、内心、李白は、おおっと、また、相好をくずす。話のわかりそうな奴だ。
杯は、無造作に、包むということもせず、李白の懐から出て来た。衛生的であるかどうか怪しいそれを、晁衡(ちょうこう)は、拭うこともなく、使った。
折り目正しいが、神経質な奴ではなさそうだ、と、思い。
「・・そういえば、東海の海の向こうの国から来たのだったな。何と言ったか・・。確か、隋の煬帝の頃、親書を送り、日いづる処の天子より、日のしずむ処の天子へ・・と書いて、逆鱗に触れた話があったな。」
 と、とりあえず知っている知識を披露する。
「この国からみると、東の国ですからね。日の本の国、あるいは、大和の国とでも、言っていただけるとありがたいですが、こちらでは、倭の国と言われてますね。」
 温顔を崩さないままだが、晁衡(ちょうこう)の目は、注意深く李白を見ている。
異国の人間が持つ、警戒心。それと気づき、李白は、己の言葉が礼を失するものだったと認識する。李白の酒を受け取った人物だ。同じ、人間として、敬意は払わねばならない。
倭という語は、背が曲がった、背の低い人物。矮小の矮と同じ意味で、使われる。
つくりに、委という字があり、これは、他人のなすままに任せる、という意味などが含まれる字で、どうしても、隷属的な意味を連想してしまう字である。
言葉を解さない外国人ならいいが、知っていれば、腹の立つ言葉だろう。と、わかっていても、こんなふうに考える、唐の国の人間は、ごく希だ。が。
「ふ・・。倭という字は、蔑称だものな。誰だって、故郷を、そんなふうに言われたくないわな。」
 李白の言葉に、晁衡(ちょうこう)は目を丸くしてみている。
 驚いた。そんなふうに言ってくれる人があるなんて・・と、その目が語っていた。
 李白は、やおら晁衡(ちょうこう)に顔を近づけ、自分の目を指差しながら。
「わしの目を見て見ろ。」
「はい・・?」
「何色に見える?」
「・・・・・・・。」
 意図が分らず、それでも李白の気迫に負け、彼の目を注視する晁衡(ちょうこう)。暗くて、判然としないが、真黒な目の色ではない・・ような気がする。
首を傾げていると。
李白は、思い出したように、肯く。
「あ、暗くて、微妙な色までは、わからんか。昼間でも、ちょっと行き遭うだけじゃ、気がつかれんものな・・。すまん。」
「あ、いいえ。ひょっとして、貴殿の目の色は、青・・ですか。」
 しげしげと男の顔をのぞきこむ趣味はない。晁衡(ちょうこう)は、今まで気づかずにいた事実に、目を丸くした。李白を、彫りの深い容貌をしてる、とは、思っていた。かといって、混血だと一見して判る程ではないが・・・。
唐の長安は、西域の入り口にも近く、その為、胡人など、混血も多く、眼の色が、青い者を見かけることなど珍しくはない。晁衡(ちょうこう)は思い当たって、推測してみた。
「光彩の色が少し青みを帯びている程度だがな。爺さんだか、婆さんだったか、西域の血が入っていると聞いた。」
 李白は、四川の出身と聞いていたが、生まれたのは西域なのだそうだ。
この男も、異端なのだ、と、晁衡(ちょうこう)は、思う。
 李白がそう言うと、晁衡(ちょうこう)は、わかった、と、頷く。
 東アジアでは、漆黒の髪に、漆黒の瞳が、一般的な人種だが、彼らの住む、唐の長安は、金髪碧眼の人たちの国、西域への入り口だ。国際都市で、異国との交易も盛んでもある長安は、異国人や、混血も珍しくない。
そんな都を築いた、唐の人々は、異国の文化も受け入れる度量があるが・・・。その実、この国の人は、自国が一番優れているからこそ、色んなものが集まって来るのだと思っている。大きく広い心で、周辺の国々も、受け入れる。もちろん、そこには、武力的背景も含まれるが、文化的に交流するからこそ、一流の証なのだと思っているのか。
ともかく、自国が世界で中心の国なのだ。・・・と、晁衡(ちょうこう)は、思っていた。
まわりの国は、辺境の、未開の民族だ的な考え方を、疑問に思いもしないのが、この国の人々だと、認識していたので、李白の言葉は、晁衡(ちょうこう)を驚かせた。受け入れてはくれるが、故郷に対する自尊心があればこそ、温和な彼でも、時々、腹の底でむかっとする言動に遭うこともある・・と。そんなふうに思っていたのに。
驚きは、心に小さな、つむじ風を送りこんだ。晁衡(ちょうこう)は、爽快な風を連想し、平素、心から、外したことがない警戒と言う名の幕を外した。
李白は、違う。西域の異民族の血が混じっているせいか、あるいは、単に、常識に捕らわれない性格なのかもしれない、やんわり言った晁衡(ちょうこう)のこだわりも、あっさり肯定してくれたのだ。こんな人は、珍しい。いや、大きく受け入れるとは、本当は、こういうことなのかもしれない。どんな相手の顔も、さらりと立ててくれる。
破顔一笑。晁衡(ちょうこう)の顔が、晴れた空のようになる。見えない壁が、一気に無くなる瞬間だ。
「もう一杯、頂いてもいいですか?」
 気ままな詩人の心に、付き合ってくれる者も、また、多くはない。
二人は、意気投合し、親しくなるには、そう時間がかからなかった。
その時、もちろん・・と、李白は、応じ、共に、月を肴に酒を呑んだ。
 たまたま、行き遭っただけの出会いだった。
けれど、共鳴する相手というものには、なかなか出会えるものではない。
李白は、詩人。とりわけ、月が好きだった。晁衡(ちょうこう)も、教養人として、詩を嗜み、山の端を照らす月が好きだといった。

 時々、そうやって月を見上げて、杯をかわすようになったのだが、ある日。

月に哭く 2

2011-09-05 15:37:58 | 酔夢遊歴
「ここは?」
 鏡のように清んだ水。向こうに、水の中を進む道がある。湖の狭くなったところを道が分断している。手前は、湖というより小さな池だった。道の向こうには、楼閣がある。そのずっと向こうに低く隆起した丘がみえた。
美しい場所だが。・・・・・。こんな時間に、急いでくる必要があるのか?
「痩西湖じゃ。大きな西湖のニセモノみたいな名だが、眺めはなかなかのものだろう?」
 不思議そうな顔をしている、憶の耳に、よっぱらい親爺の声が聞こえた。
親爺は、目を細めて風景を見た後、きょろきょろと辺りを見回し、木の根元に大きな岩があるのを見つけ、すたすたと足早に、寄って行く。
「どれ。」
 ひょいと、身軽に岩に飛び付く。
 唖然としている憶を、人の悪い笑みを浮かべて、手招きする。
「どうだ。一緒に酒を飲まんか?」
 からかわれたのか。憶はむっとしながら。
「いえ。今日中に、師匠の友人を訪問しなければならないので、私はこれで失礼します。」
 くるりと背を向け、立ち去ろうとする、憶の背を、瞬時風が押した。あっと、思った。風ではなく人が脇をすり抜けたのだ。気付いたその時にはもう、目の前に、爺さんが立っていた。臨戦態勢をとる隙もなかった。殺気はしなかったのだ。・・・が。憶の口がへの字に曲がり、またしても、むっと、しながら、今度は睨みつける。
 若者の恫喝など意に介さないように親爺は、楽しそうに笑ってる。憶の脇をすり抜ける時、奪った物を見せびらかしがら。
「まだまだ、だ・・。隙だらけ。師匠のようになるには、余程、がんばらんといかんのじゃないか。お前さん、良い奴なんだがのう・・どんな時でも、油断は禁物だ。」
「なっ・・」
 体の中で、いかりが沸騰し、憶は拳を握りしめ・・・だが、爺さんの言葉にひっかかりを覚え、怒りが少し冷める。
「師匠のように・・とは、知ったふうなことを。」
 気持ちは冷めていて、怒りに操られることはないが、腹の虫はおさまらない。憶の状態は、そんなふう。言葉が、すぐには出てこない。
そんな憶の目に、爺さんが、こくりと首を振り頷いたのが映る。
「楊賢弟は、人柄も優れた人物だ。弟子も、腕はまだまだだが、まあまあの人物を選んだようだな。」
「え・・・?」
 賢弟とは、義兄弟など、親しい間柄で使われるものだ。弟と言ってるるからには、この親爺が兄ということになろうか。年齢的には、確かに年上だ。いやいや・・そんなことではなく。・・・・・!師匠と親しいということだ。もしかして・・・と。
 いきなり言い当てられた師匠の名に、憶が、口をぱくぱくさせながら驚いているのを見て、親爺は、心底楽しそうだ。大笑いしながら、牌玉とともに憶の腰にぶら下がってる、小さな瓢箪型の飾りを指さす。
「それは、一門の者が、身に付ける物だろう?」
「・・・・・。」
 憶は肯く。爺さんも、肯く。やっぱり・・・・・か?と、憶の心の声。
「確か、底の部分の見えにくい所に師匠の名があるはずだと、さっき寄り掛かったときに確かめた。わしは、李白。」
「あ・・では、師匠のご友人の、太白星どの。失礼しました。私は、万憶と申します。師匠から私信(てがみ)を預かってきました。」
「信(てがみ)。おお、久しぶりに消息が聞けるな。ふむ。」
 李白は、うれしそうに私信を受け取りながら、首を傾げて、湖の方を見た。
「や・・もう月が出るぞ。暗くなって、どのみち読めないから、明日開くとするか。憶、急ぎのものではないな?ところで、ふたつあるが・・」
「はい、取り立てて急ぐものではないと師匠はおっしゃってました。もう一つは、中身は知りません。師匠と出掛けた折、途中、係り合いになった王維という人から、こちらに来るなら、太白星どの、にと、偶然託けられたものです。」
「おお、王どのか。元気か?」
王維は、李白が官人だった頃からの古い友人だ。
「はい。お元気です。揚州に太白星どのを訪ねると言ったら、羨ましがられました。また、一緒に呑みたいとおっしゃってましたよ。師匠は、酒の相手だけは遠慮したいと申されてましたが、いつかまた、剣を携えて旅をしたいと。」
「楊賢弟は、相変わらず、下戸か。わしも、漂泊の旅は好むところだ。気が向いたら、な。」
 李白は、剣を憶に返すと、ひょいっと、岩の上に飛び乗る。憶を手招きし。
「万憶どの・・といったな。」
 親しみを込めて、賢弟などど呼んではいるが、李白と、憶の師匠は、同門の相弟子というわけではない。父と敬うべき師匠の兄なら、憶にとっても、伯父と敬う存在であるが、そこのところは微妙なので、まず、李白は、自分を訪ねて来た客人として、敬称をつけたようだ。この国では、直接、名を呼ぶのは、親か、それに相当する、目上の者しかいない。それ以外の親しい間柄なら、字(あざな)という、呼び名が存在する。こちらを使用するのが一般的だ。仕事上の上司など、目上であるが、普通は、姓に役職などをつけて呼ぶ。憶にも、承志という、字がある。姓と名しか告げていなかった。
「あ、憶でいいです。」
 同門ではなくても、先程見せた動きは、称賛すべき使い手であると認識した。実際、親子以上に年も、離れているので、かまわない、と思っていた。
師匠の義兄なら、別に呼び捨ててくれても、構わない、という意味を込めた、憶の言葉に、機嫌良く李白が肯く。
「ふんふん・・字は?」
「承志といいます。」
「・・では、承志。酒に付き合え。師匠と同じで下戸じゃないよな?・・いや、それでも、いい。話を聞いてくれるだけでいい・・。」
 ふいに語尾が小さくなる。豪快と思われた、李白の寂しそうな雰囲気に、つられて肯き、憶も岩の上に上がった。ひょい。憶が座ると、李白は懐をさぐり、ふたつの杯を出す。
ひとつは憶の前に、もう一つは、湖がのぞめる、開いた場所に。杯は、土色をした、底に丸みを帯びた、深さのある、大きめの物だ。
それから、着ていた上着をぬぐと、開いた場所に置いた杯の上に突き出ていた木の枝に引っ掛けた。
 そうすると、李白は、下に着ている白の丸襟の袍衫だけになり、無造作に髷を、巾で包んだだけの格好になった。時折、湖を渡って来る風に白い衣を揺らめかせ、岩の上に、白髪交じりの人物が、酒壺片手に、座っている。
まるで仙人のようだ。・・・・・・。
「ああ月が、もう、向こうの丘の上に見えるぞ・・。何と言っていたか・・。」
 訝しげな顔で見ている憶に、李白は提げて来た酒壺を掲げてみせる。
憶は軽く肯き、手にした杯を前に出す。とくとくとく・・静かに注がれる音を聞きながら、黙って李白のすることを見ていた。とくとく・・。開いた杯に酒をそそぐ。そうしてそれを片手で掲げ、もう一つの手は酒壺を掲げ、木に架かった上着のほうへ高く掲げる。
「あまのはらふりさけみれば春日なる みかさの山に出でし月かも」
 どこの国の言葉だろうか・・憶にはわからない、まじないのような言葉を李白は大声で叫んだ。
「乾。」
李白が、手にした杯の酒を湖の方へ向かって、投げた。
「お前さんは、江南の月では不満かもしれんがのう・・生きていればこそ、感動を口にすることもできるものを・・危険を冒しても見たかったのだな、きっと・・。」
 目じりに盛り上がった涙の粒。大の男が、隠しもせずに、涙を流し、ずずっと鼻をすする。杯に、もうひとつ酒を注ぐと、側に、静かに置いた。ことっ・・。辺りが、あまりにも静かなので、音がむなしく聞こえる。
李白は、それから、手にした酒壺から、直接、ぐぐっと一杯やった。しばらく、ぐいぐいと飲んでいたが、やがて気が済んだのか、酒壺を脇に置き、黙って座っている憶に。
「この間、船出を見送った、友の船が、沈んでしまった。長安にいた頃の友なのだが、彼が見たがっていた、故郷の景色とは、こんな感じではないか、と思い立って・・追悼のつもりでここへやって来たのだ。」
「・・長安。では、王維どのとも知り合いですか?」
「もちろん。彼も、役人だった。晁衡(ちょうこう)と名乗っていたが、真の名は・・何と発音したかな・・?」
 李白は、しばし考えていた。
「そう、安倍仲麻呂・・だ。東海の島国からやってきた男だ。」
 また、まじないのように連なった言葉だ。
東海の島国の情報を、憶は頭の中で探ってみる。
「東海の・・って、顔に刺青してたとかいう・・?未開の国からやってきて、科挙に合格したのですか?」
 憶は、目を丸くしている。李白は、笑い。
「そりゃ、大昔の話だ。今は、衣服も、政治制度も何もかも、唐の国の文化が浸透しとるらしいぞ。これは受け売りだが、唐の文官として立派に通用しとった、晁衡(ちょうこう)どの、のような者もいる。間違いはなかろう・・。」
「へえ・・。その晁衡(ちょうこう)さんを偲ぶために、今日ここへ?」
「ああ。」
 李白は、答えて、湖の上の月を見上げた。
つられて憶も、月を見る。目に映った月は、丸く、黄色い色。暗くなった空に、色彩を加えていた。遠くのなだらかな山の影は、暗くなった空よりも、濃く。空と境界線があいまいな湖は、月に照らされて、時折、さざ波をたて、ゆらゆらと湖面が、光る。風が吹いて、近くの木にかけた衣が、影のように、はたはたと、大きく小さく揺らめいた。
「この衣に使った布は、彼の国で織られた物だ。別れの挨拶に訪ねたら、故人がくれた・・」
ちょうど、風が吹いて、衣が、ぱたぱた・・と、音を立てて揺れる。
故人を埋葬する時、立てる、旗みたいだ、と。きっと、追悼のための旗なのだ・・と、憶は思う。彼と同じように、旗を見上げているはずの、李白を見ると、彼は、月を見上げていた。
李白が、ふと、思い出したように憶を振り返ると、その口から、ぽつりぽつり・・思い出話がこぼれる。わしは、これでも、朝廷に仕えたことがあったんだ・・と。
なつかしそうな、遠くを眺めるような目をして、李白は、ぐっと、手に持った酒壺を、月の出ている空へ、掲げる。

月に哭く 1

2011-09-05 15:24:20 | 酔夢遊歴
柳の緑が風に揺れている。
ふうわりと、細い優美な線を描いて、枝が動くのを、目は、捉えた。
枝は、川面を撫でるように揺れて、ファサッ・・・。
鮮やかな緑の枝が、大きく横に靡いて空を掃く。
小船の上から、憶は、その、瑞々しい緑と、向こうの蒼い空を見上げ、その美しい色の取り合わせに、顔を、綻ばせた。
 今、小舟が進む、水面は、人口の水路だ。
水路脇には、隙間ないくらい、白い壁の家々が立ち並んでる。
舟は、今、まあるい赤い提灯を店先に掲げた場所を過ぎてく。
水路に向かって大きく軒の開いた、店の額に憶は、何となく視線をやり、隣の、煮たきの煙の立ち昇る竈や、その隣の、水路の水を使って、洗濯をするスペースをとった、生活をのぞかせる、住宅の裏側を物珍しげに眺めている。
町の人の生活の息使いが伝わって来そうな雑多な景色は、ごちゃごちゃした景観になりそうなものだが、白い壁や、屋根の瓦の色が同じせいだろうか・・美観が損なわれることもなく、統一感のある一枚の絵のような景色になっている。
雑多な気配は、目を楽しませるアクセント。
船上からは、水路を中心に、数々の絵のような風景が過ぎていく。

 憶は、はじめて目にする揚州の風景を物珍しげに見ていた。

話に聞いていたとおりの、美しい、水郷だった。
ここ揚州は、水郷といわれ、もともとあった小さな川や、整備して付け替えた川が縦横に地を走り、馬で大地を行くよりも、船で往来することの盛んな地域だ。
長安の京に住む人々からすると、揚州など、江南の地は、瘴難の地といわれているが、それは、水があふれているゆえに、湿気が多く、気温も高く、それが、北からの人間には、病をもたらすものだと思われていたからだ。けれども、一方で、その湿気は、木々や大地に潤いを与え、瑞々しい色を与え、風光明媚な景観をもたらしていた。
豊かな水に輝く土地柄のせいだろうか。瑞々しい緑あふれる風景の中にいると、自分も清流の中で洗われたような気分になる。
どこか砂色の、乾いた長安の景色とは、まるで違う風景だ、と。

小舟の上で、しきりと過ぎゆく景色にきょろきょろ首を巡らす憶に、船頭が、満足げに頷く。

「あんた、揚州ははじめてかね?どうだい、船の上から町の見物っていうのも、おつなもんだろう。どうだい、他にも色々案内しようか?」
 瘴難の地と言われるわりに、訪れる人は多い。隋代に造られた、北と南を結ぶ、大きな運河が、江南の地に人を運んでくる。豊かな水が、作物の実りを促し、その売り買いのための商人達の行き来が、町を豊かにし、田舎には違いないが、文化的にも豊かな地域だ。
 船頭は、憶がのんびり、見物しているようなので、商人ではないとふんで、観光案内の話を持ちかけたのだ。
商人たちなら、こんなのんびりした雰囲気ではないだろう。

彼は、身につけているのが、丈の短い衫に褌子(ズボン)と、その辺の農民と同じような、簡素な格好ではあったが、こざっぱりと汚れていない。
剣を携え、髪も、きちんとまとめている。
青い色を基調とした服装は、蒸し暑さの中で、爽やかな印象を与えるように選んだのだとすると、やはり、それなり金銭は持っていそうだ、と。
背筋の伸びた居住いから、文化人、あるいは、遊侠の士かもしれないが・・ともかく、こんな若いうちから、のんびり旅を楽しめるのだから、金に苦労していない、と、ふんだのだろう。

 田舎だと思ってたが、商売っけあるじゃないか・・憶は、苦笑し、首を横に振る。
「いや。人を訪ねる予定があるから、始めに言った、渡し場のところまででいいよ。実は、この船に乗るまでも、あちこち珍しげに見てまわったので、遅くなってしまったんだ。」
「あいや~、そりゃ、残念。とっときの景色を見損ねたね。でも、この辺り流してるんで、気が向いたら、探しとくれよ。・・そいじゃ、大急ぎで。」
 船頭は、こぐ速度を上げ、すいすいと水路を行き、あっと言う間に、渡し場に着いた。
 憶は、目を丸くして、肩を竦める。
「ありがとう。ちょっと多いが、急いでくれた手間賃な。」
 渡し場に降りて、道を訪ね、そこからは徒歩だ。
急いでいると言いながらも、憶の歩みは、何だか、ゆったりしていた。

 日暮れ前につけばいいや・・と歩いていたら、田の畔道にひっくりかえっている親爺を見つけた。

 酔っぱらい親爺か・・・。大丈夫かなあと、通り過ぎる時、憶は、のぞく。
 呆れたことに、昼間っから大酒飲んで、道端で大いびきだ。
 と。突然、よっぱらい親爺は目を開け鷹と思うと、むくっと起き上がる。酔っ払いは、白い丸襟の袍衫、上に袖のない藍の色の、丈長の上着を羽織っていた。この暑いのに、上着なんか着ている。憶は、目を丸くしてる間に・・・・・・。

「あ・・ちょっと。おいおい、大丈夫か・・・。」
 よっぱらい親爺は、よろよろと千鳥足で、歩を進める。
「・・・・・・。」
 何か呟いたようだが、不明瞭で、憶には聞き取れなかった。

思わず、寄って行って、耳を傾けたら、よっぱらいと目が合う。

にや。・・・・・・・。白い歯を見せて、笑うその顔は、何となく迫力がある。

「あ・・、手を貸しましょうか・・?」

 迫力負け・・というか、つい、手を差し伸べると、言ってしまった。

よっぱらい親爺は、側面の髪は、ほとんど、真っ白だ。
いくつくらいだろうか。
親爺と形容したが、爺さんと言ってもいいくらいな年齢なんじゃないだろうか・・。

仕方なくといった様子だが、そもそも、年寄りに不親切にすることなど出来ない性質の彼は、どちらにしろ、手を差し伸べただろうが・・。

機嫌良く頷くと、よっぱらい親爺が、がっしっと、憶の肩に腕をまわし掴まる。

・・・意外な膂力だ。本当に酔っぱらってるのか?

 いぶかしげな顔。驚いている憶に。
「いやあ。すまんな。行きたいところがあるのに、足元が覚束なくて・・」
 よっぱらい親爺が、豪快に笑う。
張りのある力強い声だ。ますます年齢不詳だ。憶は思う。

「これから、どちらに行かれるのですか?」
「おお、そうそう。早くしないと月の出に間に合わん。」
「は?月?」
「うむ。是が非でも間に合わせたいのだが、生憎、足が言うことをきかん。おっとと・・。」
 言いながら、前へ進もうとして、足をふらつかせる。
 赤らんだ顔。酒臭い息。やっぱり、こりゃ、そうとう呑んでるなこの爺さん。
と。
憶は、あっさり納得し、ふらつく上体を支えてやった。

「さ、親切な若者よ。行くぞ。」
「はいはい。」
 やれやれ、杖のかわりか・・。めんどくさい奴に係ってしまった。
それでも、憶は、言われるままに、爺さんの行く方向へ進んで行く。
よっぱらい親爺は、機嫌良く歌を歌ったり、道々、他所者の、憶の為に、この辺りの風光明媚な場所やら、酒と料理の美味い店やら、教えてくれた。気がいいのか、抜け目ないのか・・何やら、わからない親爺だ。
やがて、湖のそばへ出た。