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「主の洗礼」のお祝い日。
イエス様が洗礼を受けられたお祝い。
クリスマスはご生誕だった。
「神の子」
「神でありながら神であることに固執すぜ、人間となった。」
神が人間となった。でも、何故、洗礼を受けなければならなかったか?
「人間となった」「奴隷となった」「十字架上のイエス」、
人間と同じ立場に立とうとされた。
上から見下して、「回心せよ」でなく、わたしたちと同じ目線で。
威張ってでなく、人間の悲しみ・苦しみ・喜び・楽しみを体験されていった。
そうして初めて理解出来る。
イエス様のなさったことは、同じ立場に立つこと。
「understand」、同じ所に立つ。そうして初めて理解出来る。
今日の洗礼の意味をじっくりと理解していきたい。
洗礼者ヨハネは、「わたしこそあなたから洗礼を受けなければ」と。
でも、わたしたちと同じ立場に立ちたいため、洗礼を受けられた。
その時、聖霊が鳩の様にイエスの上に留まった。
「わたしはあなた方に洗礼を授ける。」「火と聖霊によって授ける。」
わたしたちの中から変えられる。
エゼキエルに、
「石の心を取り除き、肉の心を与える。その方こそが、メシア・救い主。」と。
「わたしたちの心を、赤く・熱く・暖かい心に変えてくださる。それ方こそが、
キリスト・メシア。」
火と聖霊によって。わたしたちの中から変えられる。
洗礼はタイトルではない。生まれ変わる。reborn。新しく生まれ変わる。
洗礼は名前ではない。本当にわたしたちの中から変えられていく。
それが洗礼。
中から変えられていく。新しく生まれ変わる。
そして、イエスが洗礼を受けられた時、
「これはわたしの愛する子、彼に聞け。」
それは、神がわたしたちに呼びかけておられる。
神の御心に適う者、神の御旨を生きる者、それがイエス・キリスト。
神はわたしたちを愛しておられる。御ひとり子をお与えになった程。
だから、神に向って、「御望みを生きます」と宣言する。
「これはわたしの愛する子、彼に聞け。」
それは、神である御父と御子なるイエス様の会話。
洗礼によって、神の子供となる。生まれ変わる。新しい人間となる。
心したいものです。
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写真は、駒ヶ根。また、最後3枚が巨大!
説教はカトリック駒ヶ根教会にて。伊藤神父様。
飯田は集会祭儀なので、「追っかけ」て行きました。
ミサの「追っかけ」!
(それは、南信地区共同宣教司牧委員会で、伊藤神父様から、
言われていたこと。
司牧して頂ける方々の現代の日本の現状を見たとき、信者として。)
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一緒に祈ってください。
「主よ、わたしたちの教会に聖霊の息吹を送って、わたしたちの中から、
司祭・神父・神学生の召し出しが少しでも多くあるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン。」
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