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東日本大震災3年 「きっと帰してあげるよ」不明の妻捜すため潜水士に 宮城・女川の高松康雄さん

2014-03-14 | 事件・ニュース
 東日本大震災から3年という時間が流れても、行方不明者家族の執念に変わりはない。宮城県女川町の高松康雄さんの妻は津波にのまれ、行方は分からない。冷たい海の中で、じっと迎えが来るのを待ち続けているのだろうか。「この手で見つけてやりたい」。自らを奮い立たせ、57歳で初めて本格的に海に潜る決断をした。(森本充、石井那納子)

 桃の節句を翌日に控えた2日、石巻市の狐崎(きつねざき)港。春の訪れはまだ遠く、小雨の中に雪が混じる。水温6度。ウエットスーツに身を包み、20キロを超える装備を背負い、海に飛び込んだ。

 2月に潜水士の国家試験をパスして以降、初めての沖に出ての練習。きちんと勉強してきたはずだが、なかなか沈まない。体の使い方はぎこちない。

 およそ15分後。インストラクターの指導で、ようやく潜れた。そこには、想像していたものとは少し違う世界が広がっていた。がれきのようなものは辺りには見当たらず、「穏やかな海に戻っていた」。かすかな安心感を得た。

 ただ、笑みは出てこなかった。「海の中でも着実に震災の記憶がなくなっていく」。不意に悲しみがこみ上げてきた。妻は、どこにいるのか。「もっともっと練習しなきゃ」

 7つ年下の祐子さん=当時(47)=とは、お見合い結婚だった。おとなしそうな印象とは違い、いろいろと話題づくりをしてくる人柄にひかれた。彼女に誘われ、2人でよくドライブに出かけ、映画もたくさん見た。1男1女を授かり「人並みの幸せ」を2人で味わってきた。

 あの年は、定年を迎え、新年度からバスの運転手として再就職する前の落ち着いた時間を過ごしていた。「これからは、また、のんびりドライブや旅行でも楽しもうね」。2人でそう話をしていた矢先に、東日本大震災が起きた。

 義母の病院に付き添った帰路、揺れに襲われた。祐子さんはパート先の女川湾近くの銀行の支店。高台の自宅は無事で、妻の様子を確かめようと支店に向かったが、がれきに阻まれ、断念せざるを得なかった。

 支店の目の前は山で、中腹には4階建ての病院もある。遠くからでも病院の明かりは確認でき、無事を信じて疑わなかった。だが、病院に妻の姿はなかった。避難者らに聞けば、行員らは2階建ての支店屋上にいて流されたという。希望は打ち砕かれた。

 「どうして山に逃げなかったんだ」。今でも、悔やみ続けている。

 震災前は、仕事から帰宅すると、2人で杯を交わすのが楽しみだった。娘らの近況を話し、祐子さんが好きな韓国の歴史ドラマを見て笑いあった。その日常は戻らない。「帰ってきたときが、一番、寂しさがこみ上げますね」

 周囲では、酒の力に頼る遺族の話も聞くが、「自分は負けない」と常に前を向き続けている。その理由が1台の携帯電話にある。

 ピンクの携帯。祐子さんのものだ。支店のほぼ真下から見つかった。震災1週間前に買ったばかりで、楽しそうに操作していた。唯一戻ってきた妻のもので、どうせ津波で駄目になっていると思い、墓に納めた。

 昨年3月、墓の改修で取り出し、ふと電源を入れてみた。ほとんど傷のない液晶画面に光が差した。画面をたぐると、自分宛ての届かなかった一通のメールが残っていた。

 《津波凄(すご)い》

 送信の時刻は、午後3時25分。足元まで津波が迫っていたはずだ。「不安でどうしようもなかったでしょうね」。胸が詰まり、絶対に見つけてあげたいという思いを強くした。それから、およそ1年。潜水士の国家資格を得て、捜索への第一歩を踏み出した。

 携帯電話には、届かなかったメールの直前に、祐子さんが送った、もう一通の記録もある。

 《大丈夫?帰りたい》

 その画面を見つめた目が和らいだ。「きっと帰してあげるよ」


 なんとももの悲しい話ですね。