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tiandaoの自由訳漢詩

ティェンタオの自由訳漢詩 王維60ー64

2009年01月11日 | Weblog
 王維ー60  
   双黄鵠歌送別        双黄鵠の歌 送別
      
  天路来兮双黄鵠   天路(てんろ)より来りし双(つがい)の黄鵠
  雲上飛兮水上宿   雲上に飛び 水上に宿る
  撫翼和鳴整羽族   翼を撫(ぶ)して和鳴(わめい)し 羽族を整うるも
  不得已         已(や)むを得ず
  忽分飛         忽ち分かれ飛ぶ
  家在玉京朝紫微   家は玉京(ぎょくけい)に在って 紫微に朝するなれば
  主人臨水送将帰   主人は水に臨んで 将(まさ)に帰らんとするを送る
  悲笳嘹唳垂舞衣    悲笳嘹唳(ひかりょうれい)として 舞衣(ぶい)垂れ
  賓欲散兮復相依    賓(ひん)は散ぜんと欲して 復(ま)た相い依る
  幾往返兮極浦     幾たびか極浦(きょくほ)を往返(おうへん)して
  尚徘徊兮落暉     尚お落暉(らくき)に徘徊(はいかい)せり
  塞上火兮相迎     塞上(さいじょう)に火ありて相い迎え
  将夜入兮辺城     将(まさ)に夜ならんとして辺城(へんじょう)に入る
  鞍馬帰兮佳人散    鞍馬(あんば)は帰りて 佳人は散じ
  悵離憂兮独含情    悵(ちょう)として憂いに離(かか)り 独り情を含めり

  ⊂訳⊃
          天上の路からやってきたつがいの黄鵠(こうこく)
          雲の上を飛び 水上に宿る
          翼を撫ぜて鳴きかわし 互いに励まし合うが
          よんどころなく
          別れてしまう
          玉京山に住み 天帝に仕える身であれば
          主人は水辺に佇んで 帰ろうとする人を送る
          芦笛は悲しげに鳴り 舞の衣(ころも)は力なく垂れ
          客は去ろうとして   また寄り添う
          いくたびか  遠くの汀まで往きつもどりつ
          夕陽の中で まだためらっている
          塞(とりで)では火を燃やして迎えてくれ
          夜になろうとするころ返境の城に入る
          旅人は帰ってしまい  佳人は去りゆき
          憂いに沈み  ひとり悲しみに包まれている


 ⊂ものがたり⊃ 王維は中書省を辞任しますが、だからといって帰農することもできません。そのときたまたま母崔氏の一族で崔希逸(さいきいつ)という人が河西節度副使になって涼州(甘粛省武威県)に使府を置いていました。王維はこの人の辟召(へきしょう)を受けて河西節度使の節度判官になります。王維の中央における官途は三年足らずでまたも挫折し、十月には長安を発って涼州に赴きます。
 ところがここに、一首の不思議な詩があります。この詩では「兮」(けい)を多用して楚辞風に粉飾し神話的にぼかしてありますが、王維は赴任に際してひとりの女性をともなっていたようです。しかし、やむを得ない理由があって途中で別れ、長安にもどしたようです。王維は自分は朝廷に仕える身であるから、いっしょには住めないと言っているようです。
 後半八句のうち、はじめの四句は二人が別れようとして別れがたくためらっているようすです。しかし結局は別かれて、王維は夜になろうとするころ涼州の城に入り、塞では火を燃やして迎えてくれました。
 王維はこのとき三十九歳。もともと風采にすぐれた美男子でしたので、三年近くの右拾遺のあいだに慕い寄る女性があったのでしょう。王維は宿舎に着いてからも憂いに沈み、悲しみに包まれていたと詠っています。

 王維ー62   
   涼州郊外遊望        涼州郊外遊望

  野老才三戸     野老(やろう)  才(わずか)に三戸
  辺村少四隣     辺村(へんそん)に四隣(しりん)少なし
  婆娑依里社     婆娑(ばさ)として里社(りしゃ)に依り
  簫鼓賽田神     簫鼓(しょうこ)して田神(でんしん)に賽(さい)す
  洒酒澆芻狗     酒を洒(そそ)ぎて芻狗(すうく)を澆(ぬ)らし
  焚香拝木人     香を焚(た)きて木人(ぼくじん)を拝す
  女巫紛屢舞     女巫(じょふ)  紛(ふん)として屢々舞えば
  羅襪自生塵     羅襪(らべつ) 自(おのずか)ら塵(ちり)を生ず

  ⊂訳⊃
          農家がやっと三軒だけ
          辺境の村  近くに家もない
          普段着で  やしろに集まり
          笛や鼓(つづみ)を鳴らして田圃の神を祭る
          藁でつくった犬に酒をそそぎ
          香をたいて木像を拝する
          袖を翻して巫女(みこ)が舞い
          舞うたびに  足もとから塵が湧く


 ⊂ものがたり⊃ 王維が涼州に着いたのは開元二十五年(737)の冬十一月でした。すこし落ちついてから、王維は涼州の郊外に出かけて里社(りしゃ)の祭りを見物しました。この祭りは魚山の神女祠の祭りを思い出させたかもしれませんが、辺境の村の村祭りはわびしいものでした。王維はかえって沈んだ気分になったでしょう。

 王維ー63   
   送岐州源長史帰       岐州の源長史が帰るを送る

  握手一相送     握手して一たび相送り
  心悲安可論     心悲しければ 安(いずく)んぞ論ずべけん
  秋風正蕭索     秋風 正(まさ)に蕭索(しょうさく)として
  客散孟嘗門     客は孟嘗(もうしょう)の門より散ず
  故駅通槐里     故駅(こえき)は槐里(かいり)に通じ
  長亭下槿原     長亭(ちょうてい)より槿原(きんげん)に下らん
  征西旧旌節     征西(せいせい)の旧き旌節(せいせつ)は
  従此向河源     此(ここ)より河源(かげん)に向わん

  ⊂訳⊃
          握手して君を見送る
          その悲しみを  どのように語ればいいのか
          秋風が寂しく吹きはじめ
          人々は孟嘗君の門から去っていく
          昔なじみの駅亭は槐里に通じ
          駅々をたどれば  槿原に着くのだ
          残された征西節度使の旌旗は
          ここから河源の地に向かうであろう


 ⊂ものがたり⊃ ところが王維が涼州に赴任した翌年、開元二十六年(738)の五月に崔希逸が亡くなってしまいました。崔希逸はかつて門下省か中書省の散騎常侍(従三品)をつとめたことのある太っ腹の人で、幕下に多くの客を集めていました。それらの人々も崔希逸が亡くなると一人二人と去ってゆきます。秋になって涼州の源長史も故郷の岐州(陜西省扶風県)にもどることになり、王維は送別の詩を贈りました。王維は残された旌旗を掲げて「河源」(黄河の源、西域の意味)に向かうと強がりを言っていますが、帰心矢のごとくであったと思われます。

 王維ー64    
   使至塞上          使いして塞上に至る

  銜命辞天闕     命を銜(ふく)んで天闕(てんけつ)を辞し
  単車欲問辺     単車(たんしゃ)  辺(へん)を問わんと欲す
  征蓬出漢塞     征蓬(せいほう) 漢塞(かんさい)を出で
  帰雁入胡天     帰雁(きがん)   胡天(こてん)に入る
  大漠弧煙直     大漠(たいばく)に弧煙(こえん)直(なお)く
  長河落日円     長河(ちょうが)に落日円(まどか)かなり
  蕭関逢候騎     蕭関(しょうかん)で候騎(こうき)に逢えば
  都護在燕然     都護(とご)は燕然(えんぜん)に在りと

  ⊂訳⊃
          勅命を奉じて  宮城を辞し
          ひとり車を駆って辺境に向かう
          転蓬となって  漢の塞を出ると
          飛ぶ雁は  北の胡地へと帰りゆく
          果てしない砂漠に  ひとすじの狼煙が昇り
          黄河は悠々と流れ まるい夕陽が沈みゆく
          蕭関で   斥候の騎馬に逢い
          都護は今  燕然山に陣するという


 ⊂ものがたり⊃ 長安へ去る友人を見送る日々でしたが、開元二十七年(739)には王維自身も長安にもどることができました。王維は御史台(ぎょしだい)察院の監察御史(正八品上)に任ぜられたのです。旧職の右拾遺よりは二品階上ですから昇格しての帰任ということになります。
 長安にもどった王維は、さっそく西北方面の視察に派遣されます。詩はそのときのものですが、王維の意気込みが先の涼州ゆきとまるで違うのが読み取れます。王維は蕭関(甘粛省固原県)まで来たとき、斥候の騎馬小隊に出会いました。戦のようすを尋ねると、都護は燕然山に布陣しているという。燕然山は後漢の竇憲(とうけん)が匈奴に大勝利を博した山で、遥か北の砂漠の向こうにあります。唐代の勢力範囲からすると離れていますので、この詩が漢に時代を借りた辺塞詩(へんさいし)であることがわかります。当時の辺塞詩のなかでは秀作のひとつと言えるでしょう。