王維ー66
漢江臨汎 漢江に臨汎(りんはん)す
楚塞三湘接 楚塞(そさい)は三湘(さんしょう)に接し
荊門九派通 荊門(けいもん)は九派(きゅうは)に通ず
江流天地外 江流(こうりゅう)は天地の外(そと)
山色有無中 山色(さんしょく)は有無の中(うち)
郡邑浮前蒲 郡邑(ぐんゆう) 前蒲(ぜんぽ)に浮かび
波瀾動遠空 波瀾(はらん) 遠空(えんくう)を動かす
襄陽好風日 襄陽(じょうよう)の好風日(こうふうじつ)
留酔與山翁 留(とど)まりて山翁(さんおう)と酔わん
⊂訳⊃
楚の要害は 瀟湘(しょうしょう)の流れに接し
荊門の山は 長江の九流に通じている
漢江の水は この世とも思えぬほどに美しく
山の色は 有と無のあいだで霞んでいる
郡城の街は 前方の岸辺に浮かび
遠くの山は 波間に揺れて映っている
襄陽の地は まことに好ましいので
とどまって 山簡の翁と一緒に酔おう
⊂ものがたり⊃ 王維は西北方面に出張した翌年の開元二十八年(740)に、同じ御史台の殿中侍御史(従七品上)に昇格します。その仕事として知南選(ちなんせん)に選ばれ、黔中(けんちゅう)都護府に派遣されます。長安から黔中(湖南省沅陵県付近)へ行くには襄陽(じょうよう)を通るのが道筋ですので、途中、襄陽にいる孟浩然を訪ねました。
実は張九齢が荊州大都督府の長史に左遷されたとき、孟浩然は張九齢の幕下に採用され荊州に行っていたのですが、この年の二月に張九齢が亡くなったので襄陽にもどっていたのです。十年振りに孟浩然と再会した王維は、当然、張九齢の死を悼み、政事の現状などを話題としたことでしょう。
詩は襄陽に滞在中、漢水に舟を浮かべて遊んだときの作品と思われます。「山翁」というのは晋の山簡のことで、襄陽に勤務して遊び暮らしたという故事がありますので、孟浩然を山簡にたとえて一緒に酔いましょうと、酒興の挨拶を詠っているわけです。
王維ー67
登辨覚寺 辨覚寺に登る
竹径従初地 竹径(ちくけい)は初地(しょち)従(よ)りし
蓮峰出化城 蓮峰(れんぽう)に化城(けじょう)出(い)ず
窓中三楚尽 窓中(そうちゅう)に三楚(さんそ)尽き
林上九江平 林上(りんじょう)に九江(きゅうこう)平らなり
軟草承趺坐 軟草(なんそう)は趺坐(ふざ)を承(う)け
長松響梵声 長松(ちょうしょう)に梵声(ぼんじょう)響き
空居法雲外 空居(くうご)す 法雲(ほううん)の外
観世得無生 世を観(かん)じて無生(むしょう)を得たり
⊂訳⊃
竹林の小径は 仏道のはじめであり
蓮峰の間に まぼろしの城が出現した
三楚の景観は 僧院の窓に収まり
樹林の向こうに九江の湖(うみ)が広がる
草は坐する者を軟らかに受け止め
松の梢は読経のように鳴りわたる
法雲の上に 心を空にして観照すれば
生死を超える境地に達した
⊂ものがたり⊃ この詩の辨覚寺(べんがくじ)はどこにあった寺かわかっていません。詩の内容からして洞庭湖の近くにあった寺と推定できます。黔中(けんちゅう)に向かうときか、帰るときに立ち寄ったと思われます。
この詩には仏教的な高度の観念が折り込まれており、仏教による悟りの境地が表現されていますので、詳しく理解しようとすると多くの注釈が必要です。この詩の仏教的境地の深さから、もっと後年の作ではないかと思われるくらいですが、王維が洞庭湖畔を通過するのはこのときだけと推定されますので、張九齢の死にあって、王維のこれまでの仏教に対する研究が、ここで一気に結実したものと思われます。
「無生」は王維がこの後もよく用いる仏教語で、厳密な理解には仏教の法理による解説が必要であり、専門書には詳しく説明してあります。ここでは「生死を超える境地」と通俗的に訳しておきました。
王維ー68
哭孟浩然 孟浩然を哭す
故人不可見 故人 見るべからず
漢水日東流 漢水 日に東に流る
借問襄陽老 借問(しゃもん)す 襄陽の老
江山空蔡洲 江山に 空しく蔡洲(さいしゅう)ありと
⊂訳⊃
旧友に もはや会えない
漢水は 日々東に流れているのに
襄陽の老人に お尋ねしたい
詩人のいない江山に 蔡洲だけがなぜにあるのか
⊂ものがたり⊃ 黔中(けんちゅ)での仕事を終えて長安にもどる途中、王維が再度、襄陽(じょうよう)に立ち寄ると、思いがけないことに孟浩然は背中に疽(そ)を患ってすでに亡くなっていました。享年は五十二歳です。王維は驚くとともに、友の死を悼んで詩を作りました。この詩には「時に殿中侍御史たり知南選として襄陽に至りて作有り」の題注がありますので、襄陽での作品であることがわかります。詩中の「蔡洲」は漢水の流れにある中洲で、三国魏の曹操の遺跡の地として有名でした。詩人がいて詠ってこそ山水の美も意味があると、王維は孟浩然の死を悼むのです。
王維ー71
送劉司直赴安西 劉司直の安西に赴くを送る
絶域陽関道 絶域(ぜついき) 陽関(ようかん)の道
胡沙与塞塵 胡沙(こさ)と塞塵(さいじん)と
三春時有雁 三春(さんしゅん) 時に雁(がん)有り
万里少行人 万里 行人(こうじん)少なし
苜蓿随天馬 苜蓿(もくしゅく)は天馬(てんば)に随い
葡萄逐漢臣 葡萄(ぶどう)は漢臣(かんしん)を逐(お)う
当令外国懼 当(まさ)に外国をして懼(おそ)れしむべし
不敢覓和親 敢(あえ)て和親を覓(もと)めざれ
⊂訳⊃
地の果て 陽関への道は
胡地の砂塵と辺塞の塵に満つ
春というのに 季節はずれの雁が飛び
果てしない道を 旅する人はまれである
だが 苜蓿(うまごやし)は天馬と共にもたらされ
葡萄は 漢の使者といっしょに入ってきた
異国には国の威力を示すべし
みだりに和睦を求めてはならぬ
⊂ものがたり⊃ 天宝のはじめ、王維は安定した生活を送っています。冒頭(王維1 20年11月13日)に掲げた「元二の安西に使いするを送る」(渭城の朝雨…)の詩も、このころの作品でしょう。王維は生涯に多くの送別の詩を作っていますが、ほとんどの作品が制作年次不明です。このころの作品が多いと考えて、二三つづけて掲げます。
詩題にある「劉司直」は経歴不明の人ですが、元二と同じく「安西」に使者となって赴いたのです。このころの安西都護府は現在の新疆ウイグル自治区庫車(クチャ)にありましたので、ずいぶん遠くへ旅することになります。王維は先輩官吏として訓戒を垂れているようです。
王維ー72
送韋評事 韋評事を送る
欲逐将軍取右賢 将軍を逐(お)うて右賢(ゆうけん)を取らんと欲し
沙場走馬向居延 沙場(さじょう)に馬を走らせて居延に向かう
遥知漢使蕭関外 遥かに知る 漢使 蕭関(しょうかん)の外
愁見孤城落日辺 愁えて見ん 孤城 落日の辺(へん)
⊂訳⊃
将軍に従って 右賢王を捕らえようと
砂漠に馬を走らせ 居延関に向かう
遠くにいてもよく分かる 任務を帯びて蕭関の外
君は孤城の落日を 愁いの眼(まなこ)で見るだろう
⊂ものがたり⊃ この詩の「韋評事」も経歴不明の人で、王維の友人でしょう。詩は辺塞詩の形式を踏んで時代を漢に借りています。「右賢」(ゆうけん)は匈奴の右賢王のことで、北から南をみて右翼を掌握している部将です。「居延」(きょえん)は現在の甘粛省酒泉の北にあった居延関で、右賢王に対峙する漢代の城塞です。「漢使」は公務で地方に出る者をいい、必ずしも使者とは限りません。
漢江臨汎 漢江に臨汎(りんはん)す
楚塞三湘接 楚塞(そさい)は三湘(さんしょう)に接し
荊門九派通 荊門(けいもん)は九派(きゅうは)に通ず
江流天地外 江流(こうりゅう)は天地の外(そと)
山色有無中 山色(さんしょく)は有無の中(うち)
郡邑浮前蒲 郡邑(ぐんゆう) 前蒲(ぜんぽ)に浮かび
波瀾動遠空 波瀾(はらん) 遠空(えんくう)を動かす
襄陽好風日 襄陽(じょうよう)の好風日(こうふうじつ)
留酔與山翁 留(とど)まりて山翁(さんおう)と酔わん
⊂訳⊃
楚の要害は 瀟湘(しょうしょう)の流れに接し
荊門の山は 長江の九流に通じている
漢江の水は この世とも思えぬほどに美しく
山の色は 有と無のあいだで霞んでいる
郡城の街は 前方の岸辺に浮かび
遠くの山は 波間に揺れて映っている
襄陽の地は まことに好ましいので
とどまって 山簡の翁と一緒に酔おう
⊂ものがたり⊃ 王維は西北方面に出張した翌年の開元二十八年(740)に、同じ御史台の殿中侍御史(従七品上)に昇格します。その仕事として知南選(ちなんせん)に選ばれ、黔中(けんちゅう)都護府に派遣されます。長安から黔中(湖南省沅陵県付近)へ行くには襄陽(じょうよう)を通るのが道筋ですので、途中、襄陽にいる孟浩然を訪ねました。
実は張九齢が荊州大都督府の長史に左遷されたとき、孟浩然は張九齢の幕下に採用され荊州に行っていたのですが、この年の二月に張九齢が亡くなったので襄陽にもどっていたのです。十年振りに孟浩然と再会した王維は、当然、張九齢の死を悼み、政事の現状などを話題としたことでしょう。
詩は襄陽に滞在中、漢水に舟を浮かべて遊んだときの作品と思われます。「山翁」というのは晋の山簡のことで、襄陽に勤務して遊び暮らしたという故事がありますので、孟浩然を山簡にたとえて一緒に酔いましょうと、酒興の挨拶を詠っているわけです。
王維ー67
登辨覚寺 辨覚寺に登る
竹径従初地 竹径(ちくけい)は初地(しょち)従(よ)りし
蓮峰出化城 蓮峰(れんぽう)に化城(けじょう)出(い)ず
窓中三楚尽 窓中(そうちゅう)に三楚(さんそ)尽き
林上九江平 林上(りんじょう)に九江(きゅうこう)平らなり
軟草承趺坐 軟草(なんそう)は趺坐(ふざ)を承(う)け
長松響梵声 長松(ちょうしょう)に梵声(ぼんじょう)響き
空居法雲外 空居(くうご)す 法雲(ほううん)の外
観世得無生 世を観(かん)じて無生(むしょう)を得たり
⊂訳⊃
竹林の小径は 仏道のはじめであり
蓮峰の間に まぼろしの城が出現した
三楚の景観は 僧院の窓に収まり
樹林の向こうに九江の湖(うみ)が広がる
草は坐する者を軟らかに受け止め
松の梢は読経のように鳴りわたる
法雲の上に 心を空にして観照すれば
生死を超える境地に達した
⊂ものがたり⊃ この詩の辨覚寺(べんがくじ)はどこにあった寺かわかっていません。詩の内容からして洞庭湖の近くにあった寺と推定できます。黔中(けんちゅう)に向かうときか、帰るときに立ち寄ったと思われます。
この詩には仏教的な高度の観念が折り込まれており、仏教による悟りの境地が表現されていますので、詳しく理解しようとすると多くの注釈が必要です。この詩の仏教的境地の深さから、もっと後年の作ではないかと思われるくらいですが、王維が洞庭湖畔を通過するのはこのときだけと推定されますので、張九齢の死にあって、王維のこれまでの仏教に対する研究が、ここで一気に結実したものと思われます。
「無生」は王維がこの後もよく用いる仏教語で、厳密な理解には仏教の法理による解説が必要であり、専門書には詳しく説明してあります。ここでは「生死を超える境地」と通俗的に訳しておきました。
王維ー68
哭孟浩然 孟浩然を哭す
故人不可見 故人 見るべからず
漢水日東流 漢水 日に東に流る
借問襄陽老 借問(しゃもん)す 襄陽の老
江山空蔡洲 江山に 空しく蔡洲(さいしゅう)ありと
⊂訳⊃
旧友に もはや会えない
漢水は 日々東に流れているのに
襄陽の老人に お尋ねしたい
詩人のいない江山に 蔡洲だけがなぜにあるのか
⊂ものがたり⊃ 黔中(けんちゅ)での仕事を終えて長安にもどる途中、王維が再度、襄陽(じょうよう)に立ち寄ると、思いがけないことに孟浩然は背中に疽(そ)を患ってすでに亡くなっていました。享年は五十二歳です。王維は驚くとともに、友の死を悼んで詩を作りました。この詩には「時に殿中侍御史たり知南選として襄陽に至りて作有り」の題注がありますので、襄陽での作品であることがわかります。詩中の「蔡洲」は漢水の流れにある中洲で、三国魏の曹操の遺跡の地として有名でした。詩人がいて詠ってこそ山水の美も意味があると、王維は孟浩然の死を悼むのです。
王維ー71
送劉司直赴安西 劉司直の安西に赴くを送る
絶域陽関道 絶域(ぜついき) 陽関(ようかん)の道
胡沙与塞塵 胡沙(こさ)と塞塵(さいじん)と
三春時有雁 三春(さんしゅん) 時に雁(がん)有り
万里少行人 万里 行人(こうじん)少なし
苜蓿随天馬 苜蓿(もくしゅく)は天馬(てんば)に随い
葡萄逐漢臣 葡萄(ぶどう)は漢臣(かんしん)を逐(お)う
当令外国懼 当(まさ)に外国をして懼(おそ)れしむべし
不敢覓和親 敢(あえ)て和親を覓(もと)めざれ
⊂訳⊃
地の果て 陽関への道は
胡地の砂塵と辺塞の塵に満つ
春というのに 季節はずれの雁が飛び
果てしない道を 旅する人はまれである
だが 苜蓿(うまごやし)は天馬と共にもたらされ
葡萄は 漢の使者といっしょに入ってきた
異国には国の威力を示すべし
みだりに和睦を求めてはならぬ
⊂ものがたり⊃ 天宝のはじめ、王維は安定した生活を送っています。冒頭(王維1 20年11月13日)に掲げた「元二の安西に使いするを送る」(渭城の朝雨…)の詩も、このころの作品でしょう。王維は生涯に多くの送別の詩を作っていますが、ほとんどの作品が制作年次不明です。このころの作品が多いと考えて、二三つづけて掲げます。
詩題にある「劉司直」は経歴不明の人ですが、元二と同じく「安西」に使者となって赴いたのです。このころの安西都護府は現在の新疆ウイグル自治区庫車(クチャ)にありましたので、ずいぶん遠くへ旅することになります。王維は先輩官吏として訓戒を垂れているようです。
王維ー72
送韋評事 韋評事を送る
欲逐将軍取右賢 将軍を逐(お)うて右賢(ゆうけん)を取らんと欲し
沙場走馬向居延 沙場(さじょう)に馬を走らせて居延に向かう
遥知漢使蕭関外 遥かに知る 漢使 蕭関(しょうかん)の外
愁見孤城落日辺 愁えて見ん 孤城 落日の辺(へん)
⊂訳⊃
将軍に従って 右賢王を捕らえようと
砂漠に馬を走らせ 居延関に向かう
遠くにいてもよく分かる 任務を帯びて蕭関の外
君は孤城の落日を 愁いの眼(まなこ)で見るだろう
⊂ものがたり⊃ この詩の「韋評事」も経歴不明の人で、王維の友人でしょう。詩は辺塞詩の形式を踏んで時代を漢に借りています。「右賢」(ゆうけん)は匈奴の右賢王のことで、北から南をみて右翼を掌握している部将です。「居延」(きょえん)は現在の甘粛省酒泉の北にあった居延関で、右賢王に対峙する漢代の城塞です。「漢使」は公務で地方に出る者をいい、必ずしも使者とは限りません。