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tiandaoの自由訳漢詩

ティェンタオの自由訳漢詩 王維55ー59

2009年01月06日 | Weblog
 王維ー55   
   上張令公          張令公に上(たてまつ)る

  珥筆趍丹陛     筆を珥(はさ)みて丹陛(たんぺい)に趍(はし)り
  垂璫上玉除     璫(たま)を垂らして玉除(ぎょくじょ)に上る
  歩簷青琑闥     歩簷(ほえん)すれば青琑(せいさ)の闥(たつ)
  方幰画輪車     方幰(ほうけん)たるは画輪(がりん)の車
  市閲千金字     市(し)には千金(せんきん)の字を閲(えつ)し
  朝開五色書     朝(ちょう)には五色(ごしき)の書を開く
  致君光帝典     君を致して帝典(ていてん)を光(かが)やかせ
  薦士満公車     士を薦(すす)めて公車(こうしゃ)に満たしむ
  伏奏廻金駕     伏奏(ふくそう)して 金駕(きんが)を廻らせ
  横経重石渠     経(けい)を横たえて石渠(せききょ)に重し
  従茲罷角抵     茲(こ)れより角抵(かくてい)を罷(や)め
  希復幸儲胥     復(ま)た儲胥(ちょしょ)に幸すること希なり
  天統知堯後     天統(てんとう) 堯(ぎょう)の後たるを知らしめ
  王章笑魯初     王章(おうしょう) 魯(ろ)の初(しょ)を笑う
  匈奴遥俯伏     匈奴(きょうど)は遥かに俯伏(ふふく)し
  漢相儼簪裾     漢相(かんしょう)は簪裾(しんきょ)儼(げん)たり
  賈生非不遇     賈生(かせい)は不遇に非(あら)ず
  汲黯自堪疎     汲黯(きゅうあん)は自(おのずか)ら疎なるに堪う
  学易思求我     易(えき)を学びては我に求むるを思い
  言詩或起予     詩を言えば或いは予(よ)を起こす
  常従大夫後     常に大夫(たいふ)の後(のち)に従わば
  何惜隷人余     何ぞ 隷人(れいじん)の余(よ)なるを惜しまん

  ⊂訳⊃
          耳に筆をはさんで宮廷に出入りし
          冠の玉を鳴らして宮殿の階を上る
          歩廊を進むとやがて青瑣の門
          四角い幌は天子の乗る画輪車
          市場には千金の価値ある書を並べ
          朝廷では五色の詔書をご覧になる
          天子を輔けて法典に光をあたえ
          有能の士を推薦して公用を満たす
          天子を諫めて無用の出駕をとどめ
          経典を講じて石渠閣に重きをなす
          以後 宮廷の雑技の遊びは廃され
          儲胥の離宮へのお出ましも稀になった
          皇統が聖帝堯の裔(のち)であることは明白となり
          王者の徴(しるし)は魯国の故事も笑止の沙汰となる
          匈奴は遥かにひれ伏し
          宰相の衣冠は厳然として威厳がある
          漢の賈誼(かぎ)ほどの有能の士で不遇の者はおらず
          汲黯は疎遠にされても安心しているでしょう
          易は私の方からお願いするようにと示しており
          詩については お話し相手になれると思います
          私は常に 閣下に従っていくつもりです
          例え奴僕の端であろうと ご奉公を厭うものではありません


 ⊂ものがたり⊃ 妻を亡くした王維は田園の閑居にも意味がなくなり、母や弟妹をかかえて生活にも困窮する面があったのでしょう。妻の三年の喪があけると、張九齢を頼って再び官途につく運動をはじめました。張九齢は王維より二十一歳の年長で、開元二十一年(733)に五十六歳で中書侍郎(正四品上)同中書門下平章事に任ぜられ、宰相になりました。翌年の四月には中書令(正三品)に昇進しています。王維の詩題は「上張令公」となっていますので、張九齢が中書令になった開元二十二年(734)四月以後に出されたことがわかります。
 五言古詩は書信(手紙)と考えてよく、詩は張九齢の勤める宮廷のようすからはじまり、その学才と功績をほめる言葉で埋めつくされています。相当に難しい言葉を使って、文才の高いことを示していますが、これが当時の仕来りとして礼儀にかなった献詩の書き方であったのでしょう。
 王維はこのとき三十六歳になっており、詩人としては有名でしたが若くはありません。張九齢は詩人としても『曲江集』を残すほどの人物で、都に集まる文人たちの面倒見もよかったので、王維も頼りにしたのでしょう。
 最後から五句目までは張九齢の功績に対する称賛の詩句の連続ですが、最後の二聯、つまり後の四句目から、易の卦によると王維の方から申し出てお願いするべきであると出ていることを述べ、詩についてはいささか話相手になれるでしょうと自信のほどをみせています。最後に閣下に従って国につくすつもりなので、奴僕の端にでも加えてほしいとへりくだっています。

 王維ー57   
   献始興公           始興公に献ず

  寧棲野樹林     寧(むし)ろ野樹(やじゅ)の林に棲まん
  寧飲澗水流     寧ろ澗水(かんすい)の流れに飲まん
  不用坐良肉     用いず  良肉(りょうにく)に坐して
  崎嶇見王侯     崎嶇(きく)として王侯に見(まみ)ゆることを
  鄙哉匹夫節     鄙(いや)しい哉  匹夫(ひっぷ)の節(せつ)
  布褐将白頭     褐(かつ)を布(き)て将(まさ)に白頭ならんとす
  任智誠則短     智に任(まか)せては  誠(まこと)は則ち短く
  守仁固其優     仁を守らば  固(まこと)に其れ優なり
  側聞大君子     側(ほのか)に聞く 大いなる君子(くんし)は
  安問党与讎     党と讎(しゅう)とを安問(あんもん)す
  所不売公器     公器(こうき)を売らざる所
  動為蒼生謀     動けば蒼生(そうせい)の為に謀(はか)るのみと
  賎子跪自陳     賎子(せんし) 跪(ひざまず)いて自ら陳(の)ぶ
  可為帳下不     帳下(ちょうか)と為(な)る可しや不(いな)やと
  感激有公議     感激す 公議(こうぎ)有るに
  曲私非所求     曲私(きょくし)は求むる所に非(あら)ず

  ⊂訳⊃
          むしろ野生の林に棲もう
          谷川の流れの水を飲もう
          上等の料理のために
          王侯の機嫌を取るようなことはすまい
          それこそ匹夫の節というべきで いやしいことだ
          野良着を着て老いる方がむしろ良い
          智恵に任せてしまっては 誠が足りず
          仁を守ってこそ 優れた人と申せましょう
          聞くところによれば 閣下は大いなる君子で
          考えの相違に関係なく 安らかな態度でお尋ねになる
          公(おおやけ)の地位を  私利に用いず
          行いはすべて民のためになさるとか
          私は跪いて 閣下に申し上げました
          部下として  使っていただけるかどうかと
          いま公議によって召し出され 感激にたえません
          もとより私曲を図るようなことは絶対にいたしません


 ⊂ものがたり⊃ 王維は士籍からもはずれていたようですので、官に復するには相当の困難があったと思われます。王維が張九齢の推薦によって中書省右拾遺(うじゅうい・従八品上)を拝命したのは、出願して一年ほどたってからでした。詩題が「献始興公」となっているのは、張九齢が開元二十三年(735)に始興県伯に任ぜられたからです。県伯というのは爵位であって、中書令の職に変わりはありませんので、張九齢は王維を自分の部下に採用したことになります。
 この詩には「時に右拾遺を拝す」という題注がついていますので、任官の謝礼として献じたものです。はじめに自己の生活信条を述べて、職務に清廉な良吏であることの覚悟を述べています。
 右拾遺(うじゅうい)という職は品階は高くありませんが、常に天子の側近にあって朝政の欠をおぎなう職務であり、進士に及第した者の誰もがなりたがる清官(せいかん)です。王維は感激して私曲を図るようなことは絶対にいたしませんと誓っています。被推薦者に非違があると、推薦者も罰せられますので、「帳下」としての約束をしたのです。こうして三十七歳の王維の新しい官途がはじまります。

 王維ー59   
   寄荊州張丞相        荊州の張丞相に寄す

  所思竟何在     思う所は竟(つい)に何(いず)くにか在る
  悵望深荊門     悵望(ちょうぼう)すれば荊門(けいもん)深し
  挙世無相識     挙世(きょせい) 相識(そうしき)無く
  終身思旧恩     終身 旧恩を思う
  方将与農圃     方(まさ)に将(まさ)に農圃に与(したが)い
  芸植老丘園     芸植(げいしょく)して丘園に老いんとす
  目尽南無雁     目は尽(つ)きて南に雁(かり)無し
  何由寄一言     何に由(よ)ってか一言(いちげん)を寄せん

  ⊂訳⊃
          私の思うお方は   どこに行ってしまわれたのか
          遥かに遠い荊州を 悲しみとともに思いやる
          この世のどこにも  通じ合える人はなく
          とこしえに   ご好意がしのばれる
          今こそまさに  畑仕事に従い
          作物を植えて 丘の畑で朽ち果てよう
          見渡すかぎり 南に飛ぶ雁の姿はなく
          何をたよりに  思いを伝えたらいいのだろうか


 ⊂ものがたり⊃ 王維の中書省勤務がはじまった開元二十三年(735)に、李林甫(りりんぽ)が礼部尚書同中書門下三品に任ぜられ、宰相の列に加わりました。李林甫は皇室の支脈につながる門閥官僚で、理財に明るいことから頭角をあらわしてきましたが、知識人である進士出身の同僚を毛嫌いしていました。
 そのころ張九齢は進士系官吏の指導者的立場にいましたので、李林甫から目の敵にされ、開元二十四年(736)の十一月に張九齢は尚書右丞(正四品上)に格下げされ、宰相を辞任させられました。かわって宰相の列に加わったのは李林甫の推薦する牛仙客(ぎゅうせんきゃく)です。
 ところが、翌開元二十五年(737)に御史台の監察御史(かんさつぎょし)で周子諒(しゅうしりょう)という者が牛仙客を弾劾し、その文中に不適切な語があったとして、逆に周子諒のほうが杖刑に処され、さらに瀼州(じょうしゅう)に流されることになりました。その途中、周子諒は藍田(らんでん)で亡くなりました。殺されたのかもしれません。
 周子諒は張九齢が推薦した官吏であったので、張九齢も連座の罪に問われ、荊州大都督府の長史に左遷されることになりました。大都督府の長史は次官で従三品の高官ですが、荊州(湖北省江陵県)という地方官に追い出されたことになります。
 王維は憤慨しかつ悲しんで、荊州の張九齢に詩を送りますが、張九齢がこんなになってしまったのでは、王維も職にとどまっていることはできません。

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