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漢詩を楽しもう

tiandaoの自由訳漢詩

ティェンタオの自由訳漢詩 王維1ー4

2008年11月13日 | Weblog
 ☆あいさつ――「ティェンタオの自由訳」は漢詩の訓読と現代語の自由訳を併載し、訓読に馴染みのない人にも分かりやすくイメージの湧く訳詩をこころがけました。今回から盛唐の詩人「王維」(おうい)を取り上げます。100首ほどで生涯の変転をたどります。なお今回、短い詩は数首をまとめて一回とし、長い詩は分載していたものを一つにまとめて読みやすくなるように編成変えをしました。(2016.1.1)

 王維ー1  
   送元二使安西        元二の安西に使いするを送る

  渭城朝雨浥軽塵   渭城(いじょう)の朝雨(ちょうう)    軽塵(けいじん)を浥(うるお)し
  客舎青青柳色新   客舎(かくしゃ)  青青(せいせい) 柳色(りゅうしょく)新たなり
  勧君更尽一杯酒   君に勧(すす)む 更に尽くせ 一杯の酒
  西出陽関無故人   西のかた陽関(ようかん)を出(い)づれば故人(こじん)なからん

  ⊂訳⊃
          渭城に朝の雨が降り  軽塵もしっとり

          客舎の柳青々として   気持ちも新しい

          さあ  飲みたまえ    もう一杯…

          西のかた陽関を出れば 語り合う友はいない


 ⊂ものがたり⊃ この詩はとても有名な作品で、知っている人は多いと思います。しかし、この詩が王維の作品であると知っている人は少ないかも知れません。というのは、王維の詩は生涯のあいだにたいへん変化していて、王維という人の詩の一般的なイメージと違うからです。実はこのことは唐代も同じで、人々は王維の作品と知らずに、この詩を口ずさんでいたと思われます。
 この詩は「陽関三畳」(ようかんさんじょう)などの別名で呼ばれていた唐代の流行歌で、送別会の宴席などで吟唱されていました。三畳というのは三回重ねて歌うことで、四句のうちあとの三句を二回ずつ繰り返して歌う場合と、最後の一句だけを三回繰り返して歌う場合がありました。前者はにぎやかに送ることに重点があり、後者は別れを惜しむことに重点を置くことになるでしょう。送別会のはじめには前者で座を賑やかにし、最後は後者でしんみりしたのかも知れません。それほどの流行歌でした。
 詩中の「渭城」は長安の西北にあった咸陽の街の雅称で、そこを流れる渭水に渭橋が架かっていたことから渭城と詩的に呼んだのです。唐代では西に旅立つ人を見送る場合、渭橋まで送るのが常でした。最後の句の「故人」についてはご存じの方も多いとおもいますが、唐代では親しい友人、心おきなく語り合える友の意味で用い、亡くなった人のことではありませんのでひとこと。

 王維ー2  
   題友人雲母障子    友人の雲母障子に題す

  君家雲母障     君が家の雲母(うんも)の障(しょう)
  持向野庭開     持(じ)して野庭(やてい)に向かいて開く
  自有山泉入     自(おのずか)ら山泉(さんせん)の入る有り
  非因彩画来     彩画(さいが)に因りて来(きた)るに非ず

  ⊂訳⊃
          君の家の雲母の屏風

          持って帰って  わが家の庭に向けて開く

          山水の景が   屏風に映っているが

          絵を描いたからではなく ひとりでに入って来たのだ


 ⊂ものがたり⊃ 現代でも同じと思いますが、名を成すほどの詩人は若いころに多くの詩を書いています。しかし、詩人としての自覚が高まると、若いころの稚拙な作品は破棄されてしまいます。王維は九歳のときから詩をつづったと言われるほどの早熟な少年でしたので、多くの若年の作があったと思いますが、ほとんど残っていません。そのなかで幾つかの詩について「時年十五」という風に制作年を注記して残しています。掲げた詩はその最もはやいもので、題注によると十五歳のときの作品です。
 この一見単純にみえる詩を、王維はなぜわざわざ残しておいたのでしょうか。それは王維の後年の詩作の理念が、はからずも十五歳のときのこの詩に現れていたからだと思います。転結句(三句、四句)がそれで、自然の存在に対していると、招きもしないのに自然のほうから自分の心にひとりでに自然が入ってくるという思想です。
 なお、第一句(起句)は相手の「障」(屏風)をほめる言葉で、ほめるのは気に入ったからくれないか、という意思表示になります。王維は屏風をもらって家に持って帰り、「野庭」(自分の家の庭を謙遜していったもの)に向けて開いたら、庭の築山や池が屏風の雲母で飾った部分に映っていました。王維はそのことを詩につづって屏風のお礼のつもりで友人へ贈ったのでしょう。

 王維ー3   
   過秦始皇墓        秦の始皇が墓を過ぐ

  古墓成蒼嶺     古墓(こぼ)は蒼嶺(そうれい)を成し
  幽宮象紫台     幽宮は紫台(しだい)を象(かたど)る
  星辰七曜隔     星辰(せいしん)を七曜に隔(へだ)て
  河漢九泉開     河漢(かかん)を九泉(きゅうせん)に開けり
  有海人寧渡     海有れど人は寧(なん)ぞ渡らん
  無春雁不迴     春無ければ雁(がん)は迴(かえ)らず
  更聞松韻切     更に松韻(しょういん)の切なるを聞けば
  疑是大夫哀     疑わる 是れ大夫(たいふ)の哀しめるかと

  ⊂訳⊃
          墳丘(ふんきゅう)は山のように大きく
          墓室(はか)は帝王の宮殿に擬す
          星座を日月五星の間にちりばめ
          銀河を九泉の地下に開く
          海はあっても人はどうして渡れようか
          四季がないので雁も帰る時がない
          松風のせつせつと鳴る音(ね)を聞けば
          五大夫の松  哀しむ声かと思われる


 ⊂ものがたり⊃ 王維は蒲州(ほしゅう)で生まれ、十五歳まで蒲州で育ちました。蒲州は現在の山西省西南部にあり、河套(オルドス)を北へ迂回したあと南流する黄河が、東へ屈折する地点の左岸にあります。王維の家は代々州の司馬(次官)を勤める家柄で、父親の王処廉(おうしょれん)も汾州(山西省汾陽県)の司馬でした。唐代の州は数県を管轄する地方行政機関で、大きな県城(中国では県は日本の市や町に相当する基礎的な地方自治体)に州府を構えていました。だから王維の家は地方官の家柄と言っていいでしょう。
 王維は十五歳の秋に蒲州を発って、勉学のため長安に出ました。蒲州から長安まで西に百六十㌔㍍ほどあります。その途中、秦の始皇帝陵のそばを通って作ったのが掲げた詩です。この詩にも「時に年十五」の題注があり、王維が特に残した詩です。
 始皇帝陵の内部を見た人はいまもいませんが、『史記』などの書に記述されているので、水銀で川や海を造り、天井には星座がちりばめられて豪奢なものであったことはよく知られています。十五歳の王維は、死後の王墓の無意味な贅沢を批判しています。なお、詩の最後の句に「大夫」とありますが、「大夫」は五大夫のことで秦代の官位です。始皇帝が泰山で封禅の儀を行ったとき、生えていた松に五大夫の爵位を与えたという話は『史記』に出ています。

 王維ー4  
   九月九日憶山東兄弟    九月九日山東の兄弟を憶う

  独在異郷為異客   独り異郷に在りて異客(いかく)と為(な)り
  毎逢佳節倍思親   佳節に逢う毎に倍々(ますます)親(しん)を思う
  遥知兄弟登高処   遥かに知る 兄弟(けいてい)の高きに登る処
  遍挿茱萸少一人   遍く茱萸(しゅゆ)を挿(かざ)せど一人の少なきを

  ⊂訳⊃
          故郷を離れ  異郷でひとり暮らしていると

          節句の度に  肉親のことを思い出す

          兄弟たちは  茱萸をかざして丘につどうが

          一人だけ欠けているのを 遥かに遠く偲ぶのである


 ⊂ものがたり⊃ 王維が十四歳の時の先天元年(712)八月に、唐の第六代皇帝玄宗が即位しました。杜甫はこの年に生まれていますので、王維より十三歳年少ということになります。その翌年、王維が上京した年の七月に玄宗は叔母の太平公主一派を粛清し、則天武后の残存勢力を一掃しました。そして十二月に開元と改元して新政を明らかにしました。玄宗の開元の盛世のはじまりです。詩には「時年十七」の題注がありますので、上京して二年後、開元三年(715)九月九日の作ということになります。
 この二年間、王維は長安のどこかの寺の宿坊に滞在して勉学に励んでいたと思われます。唐代では書巻は筆写が基本ですので、学生が利用できる本は主として寺院にありました。勉強をするには寺院に下宿するのが一番だったのです。
 九月九日は重陽節(ちょうようせつ)で、中国では兄弟や親しい友人が小高い丘に登り、菊の花びらを浮かべた菊酒を飲み、粽を食べて健康を祈ったものです。茱萸(「ぐみ」の一種)の枝をかざすのも、辟邪薬用の効果があると信じられていたからです。王維には弟四人のほか妹もいましたので、長安で二回目の重陽節を迎え、故郷が懐かしくなったのでしょう。
 この詩のいいところは王維の優しい人柄がにじみ出ているところですが、詩としてすぐれているのは転結句(三句、四句)です。「遥知」(遥かに知る)の二語によって、王維の思いは遥かな故郷に飛んでいきます。そして自分一人(いちにん)だけが故郷の重陽節の集まりにいないことを際立たせるのです。情景はいきいきと描かれ、詩人としての才能がなみでないことが分かります。

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