杜甫ー24
兵車行 兵車行
車轔轔 馬蕭蕭 車 轔轔(りんりん) 馬 蕭蕭(しょうしょう)
行人弓箭各在腰 行人(こうじん)の弓箭(きゅうせん) 各々腰に在り
耶嬢妻子走相送 耶嬢(やじょう) 妻子 走って相送り
塵埃不見咸陽橋 塵埃(じんあい) 見ず 咸陽橋(かんようきょう)
牽衣頓足攔道哭 衣(ころも)を牽き 足を頓して道を攔(さえぎ)って哭し
哭声直上干雲霄 哭声(こくせい) 直ちに上って雲霄(うんしょう)を干す
道旁過者問行人 道旁(どうぼう) 過ぐる者 行人(こうじん)に問えば
行人但云点行頻 行人但(た)だ云う 「点行(てんこう)頻(しき)りなり」と
或従十五北防河 或(あるい)は十五より北のかた河(か)を防(ふせ)ぎ
便至四十西営田 便(すなわ)ち四十に至って西のかた田(でん)を営む
去時里正与裹頭 去く時 里正 与(ため)に頭(こうべ)を裹(つつ)み
帰来頭白還戍辺 帰り来たって 頭白きに還(ま)た辺を戍(まも)る
辺庭流血成海水 辺庭(へんてい)の流血 海水と成(な)るも
武皇開辺意未已 武皇(ぶこう) 辺を開く 意(い)未だ已(や)まず
君不聞漢家山東二百州 君聞かずや 漢家(かんか)山東(さんとう)の二百州
千邨万落生荊杞 千邨(せんそん)万落 荊杞(けいき)を生ずるを
縦有健婦把鋤犂 縦(たと)い健婦の鋤犂(じょり)を把(と)る有りとも
禾生隴畝無東西 禾(か)は隴畝(ろうほ)に生じて東西(とうざい)無し
況復秦兵耐苦戦 況(いわ)んや復(ま)た秦兵の苦戦に耐うるおや
被驅不異犬与鶏 駆(か)らるること 犬と鶏に異(こと)ならず
長者雖有問 「長者(ちょうじゃ) 問う有りと雖(いえど)も
役夫敢伸恨 役夫(えきふ) 敢(あ)えて恨みを伸べんや
且如今年冬 且(か)つ今年(こんねん)の冬の如きは
未休関西卒 未だ関西(かんせい)の卒を休(や)めざるに
県官急索租 県官 急に租(そ)を索(もと)むるも
租税従何出 租税 何(いず)く従(よ)り出でん」
信知生男悪 信(まこと)に知る 男を生むは悪(あ)しく
反是生女好 反(かえ)って是(こ)れ女を生むは好(よろ)しきを
生女猶得嫁比隣 女を生まば 猶(な)お比隣(ひりん)に嫁するを得るも
生男埋没随百草 男を生まば 埋没(まいぼつ)して百草に随(したが)う
君不見青海頭 君見ずや 青海(せいかい)の頭(ほとり)
古来白骨無人収 古来(こらい) 白骨 人の収(おさ)むる無く
新鬼煩冤旧鬼哭 新鬼(しんき)は煩冤(はんえん)し 旧鬼は哭(こく)し
天陰雨湿声啾啾 天陰(てんいん) 雨湿(うしつ) 声啾啾(しゅうしゅう)
⊂訳⊃
兵車はぎしぎしと進み 馬は哀しげに嘶く
兵士は弓矢を それぞれの腰に帯びる
父母や妻子は 必死に追いすがり
舞い上がるほこりのために 咸陽橋も見えないほどだ
上着に縋り足をばたつき 道を遮って泣き叫ぶ
その声は 空に上って雲を突き刺すほどである
通りかかった男が 兵士に問うと
「召集令が ひっきりなしで」と答えるだけ
聞けば 十五の時から北の黄河で敵を防ぎ
四十になっても 西の地で屯田兵のままという
郷里を出るとき 里正が元服の頭巾を巻いてくれ
帰れば白髪男を また辺境の守備に駆り立てる
国境のあたりは 流れる血で海のようだというのに
皇帝の領土の野心は いまだ鎮まる気配もない
耳にしているだろう わが関東の二百余州は
いずこの村里も 雑草が生い茂っている
健気な女たちが 鍬や犂で耕しても
作物は田圃のあちこちに生えて ものにならない
かてて加えて 関中の兵士はがまん強いと
犬や鶏のように 戦場に駆り立てられる
「ご老人のせっかくのお尋ねですが
出役の恨みは 語りつくせるものではありません
そのうえ今年の冬などは
関西の兵が まだ帰還もしないのに
役人は 厳しく租税を取り立て
いったいどこから 絞り出せるというのでしょうか」
男の子を生むのはよそう 女の子の方がまだましと
世間で言うのはもっともなこと
女の子なら まだしも近所に嫁にやれるが
男は戦場の土に埋められ 名もない草の仲間となる
君見ずや 青海のほとり
古来 白骨 人の収むるなし
新しい死者は悶えて怨み かつての死者は泣き叫び
降りつづく陰雲のもと 鬼哭は啾々と満ちわたる
⊂ものがたり⊃ 杜甫が妻子を連れて洛陽にもどったころ、玄宗は外征に力を入れるようになっていました。西方で吐蕃(チベット)が勢力を増し、唐の西域への交易路を侵すようになったからです。
安西副都護の高仙芝(こうせんし)は遠く西方に兵をすすめ、将軍董延光(とうえんこう)は吐蕃の石堡城(青海省湟源県付近)を攻めました。しかし、董延光の軍は吐蕃に敗れて敗走しましので、こんどは河西節度使の哥舒翰(かじょかん)が六万三千の大軍を率いて再度石堡城を攻め、多数の犠牲者を出して落とすことができました。
杜甫はそんななか、再度長安に出てきました。洛陽にいても、人々の目は西を向いていて、任官の機会からは遠ざかり、気分は滅入るばかりです。天宝九載(750)には長子宗文(幼名熊児)も生まれ、一家は四人になっていました。
長安に着くと、西征の兵馬の列が連日のように都門を出て西に向かっています。杜甫も人ごみにまじって、それを見にゆきました。「兵車行」(へいしゃこう)は杜甫の社会詩の最初の名作とされています。三十四句の大作、全部を掲げます。
はじめの十句は出征兵士を見送る家族でごったかえす咸陽橋頭のようすです。「道旁 過ぐる者」は杜甫自身のことで、兵士のひとりに尋ねると、答えは「点行頻りなり」でした。召集令がひっきりなしだというのです。唐代の兵制は、このころまでは農民からの徴兵が維持されていました。農家の正丁が兵役の義務を負っていたのです。杜甫がさらに問うと、四十歳を過ぎたその兵士は、十五歳のときから戦に駆り出され、いままた辺境の守備にゆくところだと言います。
詩中の「武皇」は漢の武帝のことで、漢に時代を借りて皇帝の領土への野心のために兵士の血が流されていると詠います。そのために村々の畑は雑草が生い茂り、留守の女たちが耕しても作物はものにならないと、荒れた農村のようすを語ります。この部分は作者である杜甫の意見と考えていいでしょう。
この詩は歌行(かこう)という形式で、七言を主としていますが、一句の語数に制約を加えていません。一句五言の部分は兵士の語り口を強調するものでしょう。兵士は農作も満足にできないのに税金は厳しく取り立てられ、納める手立てもありませんと訴えます。そして「信に知る 男を生むは悪しく 反って是れ女を生むは好しきを」と有名な五言の二句を置きます。女の子なら近所に嫁にやれるが、男の子は戦場の土となって消えてしまうというのです。
最後の四句は唐代の当時から人口に膾炙しており、古来から名句とされているものです。杜甫は中間を口語をまじえた会話体でつずりながら、前後は漢詩本来のみごとな詩句で締めくくっています。
詩中に「青海の頭」とありますが、青海(ココノール)のほとりにあった石堡城をさしているのは明らかです。友人の高適(こうせき)は河西節度使哥舒翰の幕僚として吐蕃との戦争に参加していますので、杜甫は戦場の悲惨なようすをつぶさに耳にしたと思います。杜甫は戦場に行ったわけではありませんが、戦争の悲惨を人民の側から詩に取り上げ、名作として仕上げました。
杜甫ー28
貧交行 貧交行
翻手作雲覆手雨 手を翻せば雲と作(な)り 手を覆(くつがえ)せば雨
紛紛軽薄何須数 紛紛(ふんぷん)たる軽薄 何ぞ数うるを須(もち)いん
君不見管鮑貧時交 君見ずや 管鮑(かんぽう) 貧時(ひんじ)の交わりを
此道今人棄如土 此の道 今人(きんじん) 棄てて土の如し
⊂訳⊃
掌を上に向けると雲となり 下に向ければ雨となる
あちらこちらの軽薄さは 数え切れないほどだ
見たまえ 貧しいときの管仲と鮑叔牙の交わりを
今の人は あの徳を泥土のように棄てて顧みない
⊂ものがたり⊃ 「奉儒守官」を人生の目的とする杜甫は、任官の機会を得られないまま四十歳になっていました。天宝十載(751)正月に、杜甫は延恩匭(えんおんき)に「三大礼の賦」とそれに付した表(上書)を投じました。延恩匭というのは、大明宮の東西南北、四つの門に設けられた投書箱で、一般の民が天子に意見を述べるものです。杜甫は直接天子に訴えて、自分を知ってもらおうと投書に頼ったのでした。
「三大礼の賦」は玄宗の政事を礼賛するものでしたので、天子の目にとまったらしく、杜甫はほどなくして集賢院待制(しゅうけんいんたいせい)に任じられました。集賢院は宮中の図書寮ですが、待制というのは御用掛り候補といった意味です。順番が来れば選考・登用の機会が与えられるという程度のものです。それでも、杜甫は期待しましたが、春が過ぎても夏が過ぎても呼び出しはありませんでした。杜甫は自分が当てにしている人の好意というものが、いかに当てにならないものであるかを、しみじみと知ることになります。
詩題の「行」というのは歌という意味で、転句は八言になっています。杜甫は人々の言行不一致を絶妙な比喩を用いて詠っています。「管鮑 貧時の交わり」というのは、春秋時代の有名な故事ですので、ご存じの方が多いと思います。杜甫は斉の鮑叔牙と管仲のような麗しい人の道は、いまは棄てて顧みられなくなったと嘆くのです。
兵車行 兵車行
車轔轔 馬蕭蕭 車 轔轔(りんりん) 馬 蕭蕭(しょうしょう)
行人弓箭各在腰 行人(こうじん)の弓箭(きゅうせん) 各々腰に在り
耶嬢妻子走相送 耶嬢(やじょう) 妻子 走って相送り
塵埃不見咸陽橋 塵埃(じんあい) 見ず 咸陽橋(かんようきょう)
牽衣頓足攔道哭 衣(ころも)を牽き 足を頓して道を攔(さえぎ)って哭し
哭声直上干雲霄 哭声(こくせい) 直ちに上って雲霄(うんしょう)を干す
道旁過者問行人 道旁(どうぼう) 過ぐる者 行人(こうじん)に問えば
行人但云点行頻 行人但(た)だ云う 「点行(てんこう)頻(しき)りなり」と
或従十五北防河 或(あるい)は十五より北のかた河(か)を防(ふせ)ぎ
便至四十西営田 便(すなわ)ち四十に至って西のかた田(でん)を営む
去時里正与裹頭 去く時 里正 与(ため)に頭(こうべ)を裹(つつ)み
帰来頭白還戍辺 帰り来たって 頭白きに還(ま)た辺を戍(まも)る
辺庭流血成海水 辺庭(へんてい)の流血 海水と成(な)るも
武皇開辺意未已 武皇(ぶこう) 辺を開く 意(い)未だ已(や)まず
君不聞漢家山東二百州 君聞かずや 漢家(かんか)山東(さんとう)の二百州
千邨万落生荊杞 千邨(せんそん)万落 荊杞(けいき)を生ずるを
縦有健婦把鋤犂 縦(たと)い健婦の鋤犂(じょり)を把(と)る有りとも
禾生隴畝無東西 禾(か)は隴畝(ろうほ)に生じて東西(とうざい)無し
況復秦兵耐苦戦 況(いわ)んや復(ま)た秦兵の苦戦に耐うるおや
被驅不異犬与鶏 駆(か)らるること 犬と鶏に異(こと)ならず
長者雖有問 「長者(ちょうじゃ) 問う有りと雖(いえど)も
役夫敢伸恨 役夫(えきふ) 敢(あ)えて恨みを伸べんや
且如今年冬 且(か)つ今年(こんねん)の冬の如きは
未休関西卒 未だ関西(かんせい)の卒を休(や)めざるに
県官急索租 県官 急に租(そ)を索(もと)むるも
租税従何出 租税 何(いず)く従(よ)り出でん」
信知生男悪 信(まこと)に知る 男を生むは悪(あ)しく
反是生女好 反(かえ)って是(こ)れ女を生むは好(よろ)しきを
生女猶得嫁比隣 女を生まば 猶(な)お比隣(ひりん)に嫁するを得るも
生男埋没随百草 男を生まば 埋没(まいぼつ)して百草に随(したが)う
君不見青海頭 君見ずや 青海(せいかい)の頭(ほとり)
古来白骨無人収 古来(こらい) 白骨 人の収(おさ)むる無く
新鬼煩冤旧鬼哭 新鬼(しんき)は煩冤(はんえん)し 旧鬼は哭(こく)し
天陰雨湿声啾啾 天陰(てんいん) 雨湿(うしつ) 声啾啾(しゅうしゅう)
⊂訳⊃
兵車はぎしぎしと進み 馬は哀しげに嘶く
兵士は弓矢を それぞれの腰に帯びる
父母や妻子は 必死に追いすがり
舞い上がるほこりのために 咸陽橋も見えないほどだ
上着に縋り足をばたつき 道を遮って泣き叫ぶ
その声は 空に上って雲を突き刺すほどである
通りかかった男が 兵士に問うと
「召集令が ひっきりなしで」と答えるだけ
聞けば 十五の時から北の黄河で敵を防ぎ
四十になっても 西の地で屯田兵のままという
郷里を出るとき 里正が元服の頭巾を巻いてくれ
帰れば白髪男を また辺境の守備に駆り立てる
国境のあたりは 流れる血で海のようだというのに
皇帝の領土の野心は いまだ鎮まる気配もない
耳にしているだろう わが関東の二百余州は
いずこの村里も 雑草が生い茂っている
健気な女たちが 鍬や犂で耕しても
作物は田圃のあちこちに生えて ものにならない
かてて加えて 関中の兵士はがまん強いと
犬や鶏のように 戦場に駆り立てられる
「ご老人のせっかくのお尋ねですが
出役の恨みは 語りつくせるものではありません
そのうえ今年の冬などは
関西の兵が まだ帰還もしないのに
役人は 厳しく租税を取り立て
いったいどこから 絞り出せるというのでしょうか」
男の子を生むのはよそう 女の子の方がまだましと
世間で言うのはもっともなこと
女の子なら まだしも近所に嫁にやれるが
男は戦場の土に埋められ 名もない草の仲間となる
君見ずや 青海のほとり
古来 白骨 人の収むるなし
新しい死者は悶えて怨み かつての死者は泣き叫び
降りつづく陰雲のもと 鬼哭は啾々と満ちわたる
⊂ものがたり⊃ 杜甫が妻子を連れて洛陽にもどったころ、玄宗は外征に力を入れるようになっていました。西方で吐蕃(チベット)が勢力を増し、唐の西域への交易路を侵すようになったからです。
安西副都護の高仙芝(こうせんし)は遠く西方に兵をすすめ、将軍董延光(とうえんこう)は吐蕃の石堡城(青海省湟源県付近)を攻めました。しかし、董延光の軍は吐蕃に敗れて敗走しましので、こんどは河西節度使の哥舒翰(かじょかん)が六万三千の大軍を率いて再度石堡城を攻め、多数の犠牲者を出して落とすことができました。
杜甫はそんななか、再度長安に出てきました。洛陽にいても、人々の目は西を向いていて、任官の機会からは遠ざかり、気分は滅入るばかりです。天宝九載(750)には長子宗文(幼名熊児)も生まれ、一家は四人になっていました。
長安に着くと、西征の兵馬の列が連日のように都門を出て西に向かっています。杜甫も人ごみにまじって、それを見にゆきました。「兵車行」(へいしゃこう)は杜甫の社会詩の最初の名作とされています。三十四句の大作、全部を掲げます。
はじめの十句は出征兵士を見送る家族でごったかえす咸陽橋頭のようすです。「道旁 過ぐる者」は杜甫自身のことで、兵士のひとりに尋ねると、答えは「点行頻りなり」でした。召集令がひっきりなしだというのです。唐代の兵制は、このころまでは農民からの徴兵が維持されていました。農家の正丁が兵役の義務を負っていたのです。杜甫がさらに問うと、四十歳を過ぎたその兵士は、十五歳のときから戦に駆り出され、いままた辺境の守備にゆくところだと言います。
詩中の「武皇」は漢の武帝のことで、漢に時代を借りて皇帝の領土への野心のために兵士の血が流されていると詠います。そのために村々の畑は雑草が生い茂り、留守の女たちが耕しても作物はものにならないと、荒れた農村のようすを語ります。この部分は作者である杜甫の意見と考えていいでしょう。
この詩は歌行(かこう)という形式で、七言を主としていますが、一句の語数に制約を加えていません。一句五言の部分は兵士の語り口を強調するものでしょう。兵士は農作も満足にできないのに税金は厳しく取り立てられ、納める手立てもありませんと訴えます。そして「信に知る 男を生むは悪しく 反って是れ女を生むは好しきを」と有名な五言の二句を置きます。女の子なら近所に嫁にやれるが、男の子は戦場の土となって消えてしまうというのです。
最後の四句は唐代の当時から人口に膾炙しており、古来から名句とされているものです。杜甫は中間を口語をまじえた会話体でつずりながら、前後は漢詩本来のみごとな詩句で締めくくっています。
詩中に「青海の頭」とありますが、青海(ココノール)のほとりにあった石堡城をさしているのは明らかです。友人の高適(こうせき)は河西節度使哥舒翰の幕僚として吐蕃との戦争に参加していますので、杜甫は戦場の悲惨なようすをつぶさに耳にしたと思います。杜甫は戦場に行ったわけではありませんが、戦争の悲惨を人民の側から詩に取り上げ、名作として仕上げました。
杜甫ー28
貧交行 貧交行
翻手作雲覆手雨 手を翻せば雲と作(な)り 手を覆(くつがえ)せば雨
紛紛軽薄何須数 紛紛(ふんぷん)たる軽薄 何ぞ数うるを須(もち)いん
君不見管鮑貧時交 君見ずや 管鮑(かんぽう) 貧時(ひんじ)の交わりを
此道今人棄如土 此の道 今人(きんじん) 棄てて土の如し
⊂訳⊃
掌を上に向けると雲となり 下に向ければ雨となる
あちらこちらの軽薄さは 数え切れないほどだ
見たまえ 貧しいときの管仲と鮑叔牙の交わりを
今の人は あの徳を泥土のように棄てて顧みない
⊂ものがたり⊃ 「奉儒守官」を人生の目的とする杜甫は、任官の機会を得られないまま四十歳になっていました。天宝十載(751)正月に、杜甫は延恩匭(えんおんき)に「三大礼の賦」とそれに付した表(上書)を投じました。延恩匭というのは、大明宮の東西南北、四つの門に設けられた投書箱で、一般の民が天子に意見を述べるものです。杜甫は直接天子に訴えて、自分を知ってもらおうと投書に頼ったのでした。
「三大礼の賦」は玄宗の政事を礼賛するものでしたので、天子の目にとまったらしく、杜甫はほどなくして集賢院待制(しゅうけんいんたいせい)に任じられました。集賢院は宮中の図書寮ですが、待制というのは御用掛り候補といった意味です。順番が来れば選考・登用の機会が与えられるという程度のものです。それでも、杜甫は期待しましたが、春が過ぎても夏が過ぎても呼び出しはありませんでした。杜甫は自分が当てにしている人の好意というものが、いかに当てにならないものであるかを、しみじみと知ることになります。
詩題の「行」というのは歌という意味で、転句は八言になっています。杜甫は人々の言行不一致を絶妙な比喩を用いて詠っています。「管鮑 貧時の交わり」というのは、春秋時代の有名な故事ですので、ご存じの方が多いと思います。杜甫は斉の鮑叔牙と管仲のような麗しい人の道は、いまは棄てて顧みられなくなったと嘆くのです。
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