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秋田県横手市増田町 千葉建築のブログ

秋田県の県南、横手市増田町の工務店、(有)千葉建築のブログです。
よろしくお願いいたします。

積み重ねと継続

2016-08-08 09:09:51 | スポーツ
8月8日(旧暦7月6日 干支=壬戌 九星=五黄 六曜=赤口)


おはようございます。横手市増田町の工務店、千葉建築です。

昨日、横手市では37度を記録しました。

私もお昼まで、横手公園の「よこて冒険王」というイベントの手伝いを少しばかり行いましたが、バーベキューイベントのため、炭火で気温はそれに上乗せされる形となっていました。


14時に打ち合わせがあったため、増田に戻りましたが、帰りにアップルロードを通って平鹿のまぐらトンネルの温度表示板をみると、「39」の数字が。

オートバイの空冷エンジンから吹き出る熱気、太陽から照り付ける日差しは、容赦なく人間の思考能力を低下させるものでした。

ビールを飲みたくなる欲求をぐっとこらえ、家に着いてシャワーを浴び、着替えて外出しました。


さて、先ほど、とてもうれしいニュースが入ってきました。

MLBフロリダ・マーリンズのイチロー選手が、コロラドでのロッキーズ戦でフェンス直撃のスリーベースを放ち、MLB通算3000本安打を達成しました。

27歳のときに、オリックス・ブルーウェーブからメジャー移籍したのち、シーズン安打記録262本などの歴史に名を残す記録も生み出すなど、我々の感覚がマヒするくらいすさまじいキャリアを積んでいきました。

3000本安打、500盗塁の記録は、MLB史上でも7人しかいなく、イチローがいずれメジャー殿堂入りはほぼ間違いないとまで言われています。


イチローの凄さを語るにはおこがましいかもしれませんが、彼の最も凄いところは、ケガに強いことだと思っています。

スポーツ選手は、多かれ少なかれケガを持ち、痛みと付き合いながら競技を行っているケースがほとんどかと思います。

自分の記憶では、イチローが故障者リスト入りしたのは、第2回WBC(ワールドベースボールクラシック)ののちに、胃潰瘍で外れたくらいで、骨折やじん帯などのケガによるものはなかったと思います。


常に注目され、話題にのぼるという、自分の置かれている立場をしっかりと理解して、プロ意識を高く持つこと。

それが自己管理につながって、常にベストのパフォーマンスを出せるようにすること。

他の仕事においても、まったく見習うべき姿勢だと思います。


イチロー選手は1973年生まれ、今年43歳になります。

彼の同年は、MLBではニューヨーク・メッツのコロン投手、日本では横浜DeNAベイスターズの三浦大輔投手。

コロンはイチローとともにメジャー最年長選手で、三浦選手もプロ野球最年長選手であります。


三浦選手の横浜は、今日現在セリーグの3位につけており、横浜ベイスターズ時代からの悲願であるクライマックスシリーズ出場も狙える位置にあります。

三浦選手は長い現役生活を、大洋ホエールズ以来ずっと横浜一筋で続け、現在は投手コーチも兼任しています。

1998年の横浜日本一の記憶は、個人的にはよく覚えていますが、それ以来横浜は厳しいシーズンを多く過ごしています。


今期は広島カープも優勝に近い位置にいて、どちらにも声援を送りたい気持ちがあります。

トップレベルの選手のひのき舞台。

プロ野球もそうですし、昨日開幕の高校野球、そしてリオ五輪。

いずれも、積み重ね、継続してきた人たちの競い合いです。

そうした人たちの力になれるよう、声援を送りたいと思います。


補助金やローンなどのご相談も承ります。
お問い合わせ先

有限会社 千葉建築

〒019-0701 秋田県横手市増田町増田字伊勢堂南6-4

電話 0182-45-2325 FAX  0182-45-2304
携帯 080-1837-5342

mail kchiba@poem.ocn.ne.jp




リオと甲子園、それから

2016-08-05 08:46:15 | スポーツ
8月5日(旧暦7月3日 干支=己未 九星=八白 六曜=先負)


おはようございます。横手市増田町の工務店、千葉建築です。

今朝も晴れ、暑い一日が始まることに期待と不安が渦巻いています。

なるべくエアコンのかかっているところを転々とできるように、段取っていきたいと思います。


いよいよ、ついに、間もなく。

リオデジャネイロオリンピックとそれに続くパラリンピックが開催されます。

開幕に先立って、この時間、すでに男子サッカーの試合も行われています。

日本の初戦の相手、ナイジェリア代表もようやく現地入りしたそうで、早くも波乱の展開が予想される大会となりそうです。


また、明後日7日からは、全国高校野球甲子園大会も開催されます。

待ちに待った季節が始まり、プロ野球だけでなく、スポーツ漬けになりそうな毎日が続きそうです。


野球といえば、東京五輪の追加種目に、野球とソフトボールが復活したというニュースがありました。

また、空手とともに、スケートボード、サーフィン、スポーツクライミングなど、新しい競技も加わることが決定され、これらのスポーツにもこれから注目が集まりそうです。


スポーツで盛り上がれることは、最もわかりやすい楽しみの一つかと思います。

私も、もう少し減量と体のケアをしながら、そうした楽しみに積極的に参加していきたいと思います。

補助金やローンなどのご相談も承ります。
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2倍2倍

2016-07-16 06:17:00 | スポーツ
7月16日(旧暦6月13日 干支=己亥 九星=一白 六曜=赤口)


おはようございます。横手市増田町の工務店、千葉建築です。

今朝は晴れの朝となりました。

そろそろ梅雨も明ける時期となってきたかと思いますが、まだ雨予報もあります。


雨が上がると、アブラゼミの合唱とともに、蒸し暑さが立ち込めます。

このブログを書いている事務所は、隣が神社のため、セミのライブのアリーナ席といった感があります。

何を言っているのかわからないと思いますが、きっと暑さのせいでしょう。


漢同士のガチンコ勝負。

暑い夏の風物詩。

大相撲の名古屋場所が行われています。


大相撲を生で見たことはまだありませんが、結果は気になってチェックしています。

白鵬をはじめ、3人のモンゴル出身の横綱の壁は大きく、ようやく琴奨菊が日本人優勝力士となったものの、期待される日本人横綱の誕生はなかなか難しくなっています。

個人的には、強ければ国籍や人種など関係ないと思っていますが、どうしても日本人が優勝、横綱が出てほしいという方は、多くいらっしゃると思います。


元横綱・朝青龍から、モンゴル出身力士が当たり前になっていますが、かつて外国人力士といえば、アメリカ・ハワイ勢でした。

横綱に曙、武蔵丸がいて、大関に小錦と、巨漢を生かしたスケールの大きな取り口は今でも記憶にあります。

その先駆けとなったのは、関脇・高見山でした。

今日は、1972年に高見山が外国人(外国籍)力士として、初めて幕内優勝を成し遂げた日であり、「外国人力士の日」という記念日となっています。


高見山大五郎、本名渡辺大五郎は、1944年6月14日にアメリカ・ハワイ州のマウイ島の出身で、元々の名はジェシー・ジェームズ・ワラニ・クハウルアといいました。

陸上・アメフトなどのスポーツ経験を経て、高砂(元横綱・前田山)にスカウトされ、1964年の3月場所に初土俵を踏みました。

それから引退まで、足掛け20年にわたって土俵に上がり続け、優勝1回、最高位は東関脇と、外国人力士のパイオニアとして活躍しました。

特に、幕内連続出場1231回は歴代1位の記録であり、現役寿命の短い相撲という競技において、40歳目前まで現役を続けるなど、ケガに負けない体の強さは、群を抜いたものがあったようです。


外国人で初の力士ということで、様々な苦労もあったようです。

入門当初は日本食やちゃんこなどが食べられず、ケチャップをかけて食べたり、股割り稽古のきつさに「目から汗が出た」と言ったこともあったそうです。

しかし、日本人と結婚して帰化し、現役引退後は年寄・東関を襲名して相撲協会に残り、小錦や曙などの外国人力士、高見盛などの人気力士の親方として、後進の指導に当たるなど、大相撲の国際化に大きく貢献しました。


さらに、高見山の風貌や明るい性格は、多くの人に愛されました。

200キロの巨体に、「プッシュ!プッシュ!」を信条とした突き相撲の豪快さ、金星12個を誇る横綱戦の強さなどもさることながら、長いもみあげをたくわえ、テレビCMにも引っ張りだこになるなど、人気力士の一人でもありました。

昭和天皇は高見山の引退に際し、「なぜ辞めたのか、残念だったろうな」とおっしゃられ、それを聞いた高見山は涙を流しながら、「もったいないです」といったそうです。


高見山の引退は1983年。

私は小さい時でしたので、高見山の相撲はあまり記憶にありません。

しかし、高見山あるいは東関親方の布団のCMは、とても好きでした。


独特のしゃがれ声で「2倍!2倍!」と連呼し、にっこり笑う姿。

人気力士はその後も出てきますが、記憶に残る力士に挙げる方は多いかと思います。

ちなみに、高見山のあの声は、のど輪を激しく受けてつぶれたものであり、かつては聞きほれるほどの美声であったそうです。


外国人力士と日本人力士がぶつかると、どうしても日本人に声援が大きくなるようです。

正直、個人的にその風潮は嫌いです。

相撲は神事や儀礼という面もありますが、荒々しい魂の象徴でもあり、強さが前提にあるものだと思っています。

これ以上この話をすれば、ますますブログが長くなりそうなので、次の機会にしたいと思います。

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世界格闘技の日

2016-06-26 07:32:30 | スポーツ
6月26日(旧暦5月22日 干支=己卯 九星=三碧 六曜=友引)


おはようございます。横手市増田町の工務店、千葉建築です。

今年は梅雨らしい梅雨というか、雨が例年と比べて強いように思います。

日本各地でところによっては非常に激しい雨となったり、農作物の生育に影響が出てくる恐れもあるので、十分な警戒が必要となりそうです。


昨日は、長嶋茂雄の天覧試合の話でした。

長嶋茂雄は1936年2月20日生まれですが、この2月20日にはもう一人偉大な人物の誕生日になっています。

それは、アントニオ猪木です。


アントニオ猪木こと猪木寛至は、1943年2月20日に神奈川県横浜市で生まれ、13歳のころに祖父や兄弟らとともにブラジルへ移民します。

コーヒー農園での過酷な労働のかたわらで、砲丸投げに熱中し、陸上選手として大会に出ていたところ、ブラジル興業で訪れていた力道山の目にとまり、そのままスカウトを受け、1960年に日本プロレスにてデビューを果たします。

この同日にデビューした新人には、元巨人・大洋の投手であったジャイアント馬場がいました。


彼が大型スター候補として期待されていたのに対して、猪木は力道山の付け人として身の回りを世話し、時に厳しい仕打ちを受けました。

1963年、巨星・力道山が急死し、日本のプロレスは大きな危機を迎えます。

1966年、猪木は先輩の豊登と東京プロレスを立ち上げますが、わずかな間に倒産、再び日本プロレスへ戻り、馬場とタッグを組んで日本プロレスの2大エースとして活躍します。

しかし、1971年に猪木は日本プロレスから追放処分を受けてしまいます。


翌1972年、猪木は新団体「新日本プロレス」を旗揚げし、それに次ぐ形で馬場も日本プロレスを退団、「全日本プロレス」を立ち上げ、2人のエースは2団体の代表となりました。

馬場の全日本プロレスが、アメリカのバリバリの大物レスラーを招聘し、スケールの大きい試合を行う一方で、猪木の新日本プロレスは大物を呼べず、興業は苦戦していました。

その中で、タイガー・ジット・シンやスタン・ハンセン、ハルク・ホーガンなどの名の知られていない外国人レスラーを発掘して育て、特にシンと猪木の遺恨マッチは、新日本プロレスに大きな関心を与えるきっかけとなりました。


また、プロレスこそ最強の格闘技として、異種格闘技戦を行い、各国の大物格闘家との試合はそのたびに大きな注目を浴びることとなりました。

中でも、先日亡くなったプロボクシング・ヘビー級王者モハメッド・アリとの対決は、世界中に衝撃を与えるものとなりました。

今日は、1976年に「猪木対アリ」が行われた日として、今年からは認定された記念日となりました。


キンシャサの奇跡で、フォアマンからヘビー級のタイトルを奪取したアリは、そのビッグマウスでこう言いました。

「東洋人でだれか俺に挑戦するやつはいないか」と。

それに、猪木は名乗りを挙げます。


一人の無名の日本人プロレスラーの挑戦は、ばかげたものとして相手にされませんでした。

しかし、猪木はミュンヘン五輪柔道無差別級・重量級金メダルのウィリアム・ルスカに勝利するなど、自身のアピールを強引に行い、アリに交渉のテーブルにつかせるまでになります。

この時点で、猪木・アリ戦は、絵空事でなくなっていました。


1976年6月16日、ボクシング世界ヘビー級王者モハメッド・アリが、羽田空港へ降り立ちました。

猪木との格闘技戦は、ほぼ実現のものとなり、日本のプロレスファンの熱狂はうなぎのぼりとなりました。

6月20日、後楽園ホールで公開スパーリングが行われ、猪木のその真剣なしぐさに、アリは「これはエキシビジョンでない」と警戒し始めました。


6月26日。

ついに世界が注目する、世紀の一戦が日本武道館で始まりました。

ゴングが鳴ると、猪木はアリの足元をめがけて滑り込みながら蹴りを放ち、あおむけに寝転んだままアリの方へ足を上げ、蹴り込むタイミングを見計らいます。

アリは猪木に立ち上がれとグラブを振り、猪木はその後も幾度も低い体勢でアリの足を蹴り込みながら、リング中央に寝ころびます。


ボクシングとプロレス。

両方の派手な技の攻防はほとんど見られず、会場も、テレビ中継も、ボクサーの立ち姿とレスラーの寝姿のにらみ合いをずっと見続ける形となりました。

やがて、3分15Rの試合終了のゴングが鳴り、世紀の一戦は幕を閉じました。


こうした試合が行われた背景には、アリサイドの「猪木のレスリング」を警戒し、ほとんどのプロレス技が禁じられたルールであったことが大きいとされています。

その中で猪木はアリに64発のキックを放ち、アリの足に重傷を与えて入院させ、猪木もまた足を骨折するなど、両者の激戦のダメージは大きなものでした。

しかし、派手な両者のぶつかり合いへの期待は裏切られ、引き分けに終わった猪木・アリ戦は、世紀の凡戦として酷評されます。

猪木サイドにはマッチメイクにかけた莫大な借金が残る一方で、猪木と新日本プロレスの名は世界へと広まり、パキスタンの英雄アクラム・ペールワンとの格闘技戦や、ヨーロッパ遠征への道筋へとつながっていきました。


猪木・アリ戦は失敗したとされる一方で、猪木の異種格闘技路線は、その後のUWFやシュート・ボクシングなどの設立に大きな影響を与え、既存のプロレスの選択肢を広げる形となっていきました。

大山倍達の極真空手の流れをくむ正道会館ではK-1が立ち上がり、プロレスのリングに空手・キックボクシング競技者が上がる道筋を作りました。

その中で、アメリカで行われたUFCでは、プロレスラーやキックボクサーらを抑えて、ブラジリアン柔術のホイス・グレイシーが優勝し、その後も日本ではヒクソン・グレイシーが高田延彦や船木誠勝を破るなど、プロレス界にとってグレイシーはトラウマに等しくなっていました。


その中、2000年5月に行われたPRIDEグランプリ決勝戦において、ホイスと桜庭和志の一戦が時間無制限の特別ルールで行われました。

柔術道着を着たホイスは、得意の寝技に持ち込むようにリング状にあおむけになり、対する桜庭は立ち姿勢でホイスの隙を伺います。

ホイスが猪木、桜庭はアリのような状態で膠着したと思えば、今度は桜庭がホイスを攻めていきます。

桜庭はホイスの道着の裾をつかみ、左の太ももに強烈なローキックを放ちます。

あるいは、寝ているホイスの顔面をめがけて、桜庭は踏みつぶすようにキックを放つなど、予想もしない攻めを繰り出していきます。

やがてホイスの動きは止まり、試合は6R90分が終わって、両選手がリングサイドへ下がりました。

7R開始前、ホイスサイドからリングへタオルが投入され、桜庭の勝利がコールされました。


この試合は、東京にいるときにPPVでリアルタイムで観ていました。

とんでもないものを観た気がして、異常な興奮状態となっていたと思います。


現在では、一時の総合格闘技ブームも終わり、またプロレスもかなり細分化されたことから、テレビのゴールデンタイムで観る機会もめったになくなりました。

しかし、観客の前で鍛え上げた肉体同士がぶつかり合い、互いのプライドをかけて技を出し合うという戦いは、観る者に感動と興奮を与えてくれるものだと思っています。


怪我や痛みを抱えながらも、激しいトレーニングで体を作り、毎日観客のためにリングに上がり、相手の技を受けきって己のパフォーマンスを誇示するプロレスラーの姿には、いつも尊敬の念を感じています。

実際の試合会場に行くと、打撃で肉体を打つ音や、リングマットにたたきつけられる音、観客の息をのむ音や拍手と歓声、スポットライトのまぶしさなど、テレビでは味わえない魅力がたくさんあります。

後楽園ホールにも、久々に行きたくなりました。

語りだせばきりがないので、そろそろ閉じたいと思います。

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天覧試合

2016-06-25 06:20:48 | スポーツ
6月25日(旧暦5月21日 干支=戊寅 九星=四緑 六曜=先勝)


おはようございます。横手市増田町の工務店、千葉建築です。

昨日のイギリスのEU離脱は、衝撃的なニュースでした。

これについては後日、記事にまとめたいと思います。


プロ野球もセパ交流戦が終わり、再び両リーグの戦いが昨日から始まりました。

交流戦では、やはりパリーグの強さが際立ち、6位までにパリーグ5球団が入り、中でもホークスが好調を維持して勝率1位で終わりました。

セリーグでは、唯一カープが3位に入り、リーグ首位としてこれからの戦いが注目されます。


そうした盛り上がるニュースの中で、私の応援するチームは交流戦最下位、リーグ最下位を独走し、胃の痛みは増しています。

そういう時だからこそ、応援を送って、一つでも勝利を喜べるようにしたいと思います。


さて、プロ野球は数々のスターを生んできました。

王貞治のホームラン868本、金田正一の400勝など、超えるのがほぼ不可能な記録を持つ選手らもそうですが、あるいは北海道日本ハムファイターズの人気に火をつけた新庄剛志や、日本一阪神タイガースの助っ人ランディ・バースなど、記憶に深く残る選手らもそれに数えられるものといえます。

その中で、プロ野球のスターといえば、やはり長嶋茂雄の名前が多く上がるでしょう。


私はジャイアンツでの現役時代はもちろん、引退後すぐに監督となった第一次長嶋監督時代は知らず、1993年から2001年までの第二次長嶋監督時代はリアルタイムで見ていた世代ですので、東京六大学のスター時代やV9時代といってもピンと来ないところがあります。

しかし、当時はまだ野球といえば大学野球から、プロ野球に多くのファンを呼び込んだという功績を聞くと、やはり偉大であったかと思います。

日本シリーズV9は、ジャイアンツが1965年から1973年まで成し遂げた、今では想像を絶する記録ですが、この時代の4番打者として、3番の王との「ON砲」は強烈なインパクトとともに、日本の高度経済成長期時代の象徴とみなされる選手であったと思います。


チャンスに強い打撃だけでなく、守備や走塁で観客を喜ばせたり、三振ですら絵になるというプレースタイルは、ジャイアンツファンにとっては自慢のスターであり、アンチ巨人でも「読売は嫌いだが長嶋は別」という人すらいるほどです。

常に注目され続ける対象であり、長嶋もパフォーマンスや結果でそれに答え、伝説といわれる数多くのエピソードも生まれました。

長嶋が「ミスタープロ野球」と呼ばれるのも、今日あった試合の影響が大きいかと思います。


長嶋が立教大学からプロ入りして2年目の1959年6月25日、東京・後楽園球場では大阪タイガースとのナイトゲームが開催されました。

この試合は、開始前から異常な緊張感があったとされます。

なぜなら、プロ野球史上初めて、天皇・皇后両陛下が試合を直にご観覧になる「天覧試合」であったからです。


先発は、タイガースが「精密機械」小山正明、ジャイアンツは後に監督になる藤田元司とのエース対決で、試合は両チームが点を取り合う展開となりました。

7回にジャイアンツが王のホームランで4対4に追いつくと、タイガースはリリーフに新人の村山実を送ります。


同点のまま9回に入った時点で、時計は21時を指していました。

両陛下が試合をご覧になる時間は、21時15分まで。

延長に入ると、両陛下は帰られます。


9回裏、先頭打者は長嶋。

村山の全力投球は、カウント2-2まで長嶋を追い込みました。

村山の次の投球は、内角高めの直球。

その渾身のボールを、長嶋は打ち返します。


打球は高く上がり、そのままレフトスタンドのポール際へ。

長嶋はバッターボックスから少しだけ一塁方向へ進み、打球の行方を見ながら少し立ち止まり、やがて大歓声とともに再びダイヤモンドを駆け回りました。

対する村山は膝に手をあてて、がっくりしたように頭を下げました。


天皇陛下は、打者とスタンドの両方を繰り返し見ながら、試合が劇的な形で終わったことを知りました。

このとき、時計の針は21時12分。

天覧試合の幕引きは、長嶋のサヨナラホームランで飾られました。


試合後、村山は「あれはファウルだ」といい、生涯にわたってその主張を曲げませんでした。

一方の長嶋は、生涯にわたって印象的な試合に、この天覧試合を挙げたといいます。

両者はこの時より、ライバルとして数々の名勝負を繰り広げることとなりました。


余談ですが、この試合から30年後の1989年6月25日、甲子園球場でのジャイアンツ戦において、岡田彰布がビル・ガリクソンからレフトポール際へ逆転満塁本塁打を放ち、村山監督の30年越しのリベンジを果たしたという話もあります。

このときのジャイアンツの監督は藤田監督。

いろいろな因縁と共通項から、村山監督が解放された気がしたのかもしれません。


当時のプロ野球は、職業野球とよばれ、大学野球と比べて地位も人気も低かったといわれます。

しかし、天覧試合以降は、プロ野球の人気があがっていき、戦後の復興から高度経済成長という時代とともに、人々の熱狂を呼び込むものとなったといわれます。

この時代の野球をリアルタイムで見た世代の話を聞くと、うらやましい気持ちにもなります。


長嶋を直に見た世代は、あこがれの存在として彼を挙げ、それを追いかけてプロとして活躍する姿を見て、またあこがれる次の世代が出てくる。

長嶋ですら、彼のあこがれは初代ミスタータイガースの藤村富美男ですし、巨人・ヤンキースで活躍した松井秀喜は掛布雅之、バースにあこがれたといいます。


現在のプロ野球では、そのままMLBに行くことも珍しくなくなりましたし、なかなかスター選手がずっと日本にいることも少なくなったように思います。

ただ、今でも大谷翔平選手や山田哲人選手のような、見ていてワクワクする選手は数多くいます。

来週はこまちスタジアムで、ヤクルト対巨人戦もあります。

当然、チケットは手に入れていますので、楽しんできたいと思います。

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