goo blog サービス終了のお知らせ 

みちのくの放浪子

九州人の東北紀行

もったいなき世

2017年01月11日 | 俳句日記

 何事もなければの話ですが、やはり平成は30年で区切りのようですね。それはそれで

私たち庶民は素直に喜んで新しい年号を受け入れたいものです。その次の年が新陛下の

下でのオリンピック、この3年は退屈する暇はないほどに皆さん忙しい年月になるでしょう。

 

 さて昨日、御皇室についてのそもそも論が欠けていると書きましたが、合理主義の

認知バイアスが蔓延している今日では、そもそも論を公の場(有識者会議)で議論する

には時間が足りないと判断したのですね、ことは「この国のかたち」に関わることですから。

 それに、この「クニ」では大御心を忖度することは恐れ多いとされてますから、そのことに

従ったまでだということです。

 

 では、天皇のご存在と大きく関わる「この国のかたち」とは何ぞや、と、いうことになると

あの司馬遼先生も明確な回答を記されてはいません。古くは、本居宣長や新井白石、山崎闇斎

等の神道研究者、空海や慈円などの仏教徒、今日では小堀桂一郎先生や武光誠先生、

その他の枚挙に暇の無いほどの研究者、哲学者、思想家の皆様が肯定的お立場で論じられて

いますが、これでいきましょうと言う極まりはないようです。それはそうでしょう、異次元の霊性と

かかわる問題なのですから。

 

 私は私なりに、昨日述べましたような生まれ育ちをしていますから、私なりの解釈で尊崇の

念を持って接しています。読者の皆様がお付き合いして頂けるのであれば、追々ご披露申し上げ

たいと思います。

 キーワードは、「アニミズム・トーテミズム」「縄文時代」「神道」「仏教」、そして「地政学」

さらにレヴィ・ストロ-スの「野生の思考」です。日本人はすごい国民ですよ。

 

一月十一日(水) 曇りのち小雪

      6:00  起床、鏡開きのぜんざいを食す。

      8:00  川へ、アイにパン屑を与える。

     10:00  帰宅、PCに向かう。

     12:00  安倍川餅のあと散歩。

     13:30  帰宅、午睡

     14:00  起床、原稿

     18:00  夕食

     19:00  ブログ

         < さりとては もったいなき世に 生まれけり >  放浪子


言霊の国

2017年01月10日 | 俳句日記

 昨日は、年齢の区切りについて書きました。

 今朝は、天皇の生前譲位に伴う年号の改定について産経新聞がスクープしたとラジオから

流れていました。中村草田男は「降る雪や 明治は遠く なりにけり」と詠みましたが、私は昭和

生まれ、昭和も遠くなりました。平成も近いうちに区切られるのですね。時の移ろいを感じます。

 

 陛下の譲位のことだけに、政府も委員会の知識人も慎重に協議しているようですが、私には

そのコメントや他の学者、文化人の意見がどうもピンときません。

 

 私の父方の実家の床の間には、明治・大正・昭和三代の御影が掛けられていましたし、母方

の曽祖父、祖父は二代に亘って、里の八幡様の宮総代を務めていましたので、宮家のことは

自然と身に染みて、上京すれば当然皇居に参詣したものです。普通の日本人なのですから。

 

 そんな私がピンとこないのには訳があります。譲位問題は憲法や皇室典範に規定された

ことがらですから、慎重に論議されるのは勿論です。ですが、憲法改正の論議と同じように

そもそもの部分にふれることなく、条文の解釈と改正の方法論ばかりに拘泥して、国民には

実に分かりにくい話し合いになっています。皇室とは何なのか、歴史的に国民との関わりは

どうだったのかと言う本質論が抜け落ちているのです。

 

 以前にもこういう事がありました。女系天皇についての論議です。上記のような育ちですから

ある程度は学習したこともあります。70年安保の時分には学生でしたから、より勉強しました。

論壇誌も読みました。天皇制の是非を問う議論では過激な文章が飛び交います。しかし擁護

派の中でさえ議論そっちのけの誹謗中傷ばかりでした。実にみっともない。

 

 日本は、「言霊」により守られた国です。それ故に幾多の国難を乗り越えて世界に認められる

平和国家になったのです。これからもそうであって欲しいし、そうあるべきです。

 長くなるので、今日はこの位にしておきます。また書きます。

 

一月十日(火) 晴れ

     6:00 起床、天気晴朗、風すこぶる強し。

     7:00 朝食

     9:00 風治まる、川へ。

    10:00 帰宅、室内掃除の後、読者と交信。

    13:00 風呂

    15:00 調べもの

    17:30 ブログ

 

      < ことのはの 霊さきはひし 今朝の春 >  放浪子     


成人式

2017年01月09日 | 俳句日記

 午後からは晴れ間が覗きましたが、式のある午前中は冷たい雨でした。新成人には

気の毒でした。しかし、人生には雨風が付き物、ドンマイ・ドンマイと言っておきましょう。

 

 ただ、こちら東北では彼らの多くが(その後の移入者を除いて)中学生の時に3.11を

経験しています。「艱難汝を玉にす」とは言うものの、ローカルニュースのインタビューでは、

この五年間(震災の翌年は自粛されました)毎年のように被災の想いを尋ねられています。

もういいだろうという思いがしないわけでもありません。人によっては傷口に塩を塗られる

ような思いをされた子もいるでしょう。けなげに答える若者の姿にこちらの胸が痛みます。

する方も、される方も、視る方も、メディア取材とは難しいものです。

 

 昔ならば12~13歳で、男子は元服の儀。冠あるいは烏帽子を着けて大人となりました。

ことがあれば初陣にもでかけました。

 女子は髪上げ式あるいは裳着(もぎ)の式で、髪を束ね後ろに垂らし、腰紐を結んで

嫁ぐ日を待つことになります。

 

 いずれにせよ20才の区切りは明治の徴兵年齢の遺物ですから考え直してもよいのでは。

現代は子供の時代が長すぎる気がします。不思議なもので年代ごとの区切りは気分を変えます。

それに子供の時間が長いから高齢者と呼ぶ年齢も75歳からとする説は、健康年齢を考えると

頷ける気もしますが、年金の給付年齢を引き上げる為の伏線であるならば姑息ですね。

 

 選挙権は、18歳からとなりました。少年法も年齢引き下げの方向に向かっています。

ならば、成人は18歳からとした方が心の構えからしてもメリハリがあってよろしいのでは。

そして、高齢者は古来稀なる70歳から。これできまりです。

 

 ちなみに光源氏は12歳で元服しました。それからの彼の一生は紫式部に聞いてください。

 

 一月九日(月) 雨のち曇り

      6:30 起床、散歩は中止

      7:00 朝食

      9:00 資料整理

     12:00 昼食

     13:00 連絡作業

     17:00 ブログ

 

    < けなげなる 誓い叶へよ 成人日 >  放浪子

 


那須の雪峯

2017年01月08日 | 俳句日記

 五日は深夜の年始で起き明かし、六日は義憤に熱くなり、昨夜は昨夜で深夜までPCに

向かい、今朝は4:30に起きて5:00からの「こころの時代」を一時間視て、朝のおつとめ

(祝詞奏上と読経)を済ませると、その儘おむすびを携えて阿武隈川へ向かいました。

 予報は曇りでしたのが思いもよらず快晴でしたので、心も軽く身も軽くチャリをとばし、

土手の柳に声を掛け昇る朝日に会釈をすると、アイが水路で待っていました。

 チャリを立てるももどかしく、弁当袋を手に提げて、水路の縁を川岸へ、向かえばアイが

水かきを、フルに動かし後ろから、グア・グア・グアとついてきます。

 腰を下ろせばそそめきて、おにぎり取出し口含み、プゥーとそれをば河原に、吹けばたちまち

アイ寄りて、夢中に黄色いくちばしで、飯粒一つ一つを余す残らず食べました。

 私も、おにぎりを頬張りながら南の彼方に目をやると、白く冠雪をした那須の峯々が神々しく

朝日を照り返しています。

 美しい、実に麗しく輝いています。こんな那須は今まで見たことがありませんでした。

冬晴れの真っ青な空を背景に、稜線の一筆一筆が押し出されるように銀色に光っているのでした。

これが北国ならではの光景なのでしょう。

 もし、3.11が無かりせば一生見ることの無い情景でした。

 

一月八日(日) 午前中快晴、午後くもり、夕刻から小雨

     4:30 起床

     5:00 「こころの時代」(谷本清牧師と娘さんの話、広島原爆秘話)啓発される。

     7:00 川へ、アイと朝食。キチ君が加わる。

     8:30 帰宅、睡魔どうにもこうにも仕方なく寝る。

    14:00 再起床、三日分の寝不足を取りもどす。直ちに風呂。

    15:30 正月飾りを安積様へ納めに行く。

 

     < 草まくら 九品浄土の 那須の雪 >   放浪子

    

 

 

 

 

 

 


馬頭観音の七日堂

2017年01月07日 | 俳句日記

 昨日の日記に「如寶寺の鐘が響いた」と書きました。今日はそのお寺の縁日です。

 如寶寺(にょほうじ)は、郡山市の名刹の一つで、会津を中心として東北一帯に仏の教え

を広めた徳一大師が建立したといわれています。その切っ掛けとなったのは安積の長者

虎丸(郡司)が、大同二年(807年)時の平城天皇から馬頭観音像を下賜され、これを

お堂に納めたことに始まります。前年、徳一大師は、会津磐梯に国の文化財史跡として

指定されている慧日寺(えにちじ)を開基(寺を開く)しました。それから次々と30もの寺院

を建立していきます。そのうちの一つがこのお寺といわれます。これらの寺は開基の年が

明らかな寺院としては、東北で最古の類とされています。

 藤原家に生まれながら、しかも遣唐使の一員となって本場の仏教を学んだにも拘らず

都の仏教界に疑問を持った徳一大師は、雲水(各地を放浪しながら修行する僧)となって

東北各地に布教を続けました。ところがその乞食(こつじき)がなにゆえ突然にそれだけの

大教団を率いることになったのでしょうか。出自と徳望もさることながら、大師が山岳宗教

である密教を極めていたところに原因があるようです。

 大同元年(806年)磐梯山が大噴火をしました。その6年前には富士山が噴火しています。

さらに797年には南海地震が発生した可能性を地質学界が指摘しています。南海ですから

あきらかに都は大きくゆすられたのでしょう。そして、富士、磐梯山と続きます。大自然の怒り

を恐れる朝廷は、北の山と大地の鎮めを大師に命じられたのではないかと思われるのです。

 郡山市は、観光資源として街をあげて「采女祭り」を開催しています。「采女」とは諸国の

才色兼備な女性を官女として召し抱える風習です。諸国の人々には地元を誇れる出来事

でもありました。ところが郡山ではその出来事が悲恋物語となりました。詳しい内容は長くな

りますのでのちに譲りますが、この風習も807年に禁止されたのです。思うに朝廷は神の前に

襟を正したのではないでしょうか。こう考えると歴史を読むのが楽しくなります。

 このように災害と政(まつりごと)の間には面白い符号が散見されます。磯田道史先生も

そのことに気付かれていました。そしてお書きになった「天災から日本史を読みなおす」という

ご本はそれらの符号を書かれたものですが、主題は3.11の直後だけに防災・減災に結び付け

るものでした。しかも天正の大地震から以降のものでしたので、今自分で調べているところです。

 馬頭観音は、馬の守護仏として崇められてきました。東北は古来より名馬の産地として知

られていますし、農耕には欠かせないパートナーですので、下賜されたことも頷けます。

インドの古典仏教では、あらゆる衆生を六道輪廻の苦から救うとされていたようですから、

厳しい東北の生活から救済するという意味合いも含まれていたのかもしれません。

 観音様を収めた七日堂の前には、善男善女が長蛇の列をなしていました。露店も沢山

でていました。古くからの祭りの光景は心が和みます。日が落ちかけてきました。

 皆様が幸せでありますように祈りながら帰るとしましょう。

 

一月七日(土) 晴れ

     7:00 起床、朝食を済ませ、ランドリーへ。

    10:00 帰宅、PCに向かう。

    15:00 七日堂の縁日へ。

    16:30 帰途

 

    < 帰依仏の 賑わいゆかし 七日堂 >  放浪子