みちのくの放浪子

九州人の東北紀行

馬頭観音の七日堂

2017年01月07日 | 俳句日記

 昨日の日記に「如寶寺の鐘が響いた」と書きました。今日はそのお寺の縁日です。

 如寶寺(にょほうじ)は、郡山市の名刹の一つで、会津を中心として東北一帯に仏の教え

を広めた徳一大師が建立したといわれています。その切っ掛けとなったのは安積の長者

虎丸(郡司)が、大同二年(807年)時の平城天皇から馬頭観音像を下賜され、これを

お堂に納めたことに始まります。前年、徳一大師は、会津磐梯に国の文化財史跡として

指定されている慧日寺(えにちじ)を開基(寺を開く)しました。それから次々と30もの寺院

を建立していきます。そのうちの一つがこのお寺といわれます。これらの寺は開基の年が

明らかな寺院としては、東北で最古の類とされています。

 藤原家に生まれながら、しかも遣唐使の一員となって本場の仏教を学んだにも拘らず

都の仏教界に疑問を持った徳一大師は、雲水(各地を放浪しながら修行する僧)となって

東北各地に布教を続けました。ところがその乞食(こつじき)がなにゆえ突然にそれだけの

大教団を率いることになったのでしょうか。出自と徳望もさることながら、大師が山岳宗教

である密教を極めていたところに原因があるようです。

 大同元年(806年)磐梯山が大噴火をしました。その6年前には富士山が噴火しています。

さらに797年には南海地震が発生した可能性を地質学界が指摘しています。南海ですから

あきらかに都は大きくゆすられたのでしょう。そして、富士、磐梯山と続きます。大自然の怒り

を恐れる朝廷は、北の山と大地の鎮めを大師に命じられたのではないかと思われるのです。

 郡山市は、観光資源として街をあげて「采女祭り」を開催しています。「采女」とは諸国の

才色兼備な女性を官女として召し抱える風習です。諸国の人々には地元を誇れる出来事

でもありました。ところが郡山ではその出来事が悲恋物語となりました。詳しい内容は長くな

りますのでのちに譲りますが、この風習も807年に禁止されたのです。思うに朝廷は神の前に

襟を正したのではないでしょうか。こう考えると歴史を読むのが楽しくなります。

 このように災害と政(まつりごと)の間には面白い符号が散見されます。磯田道史先生も

そのことに気付かれていました。そしてお書きになった「天災から日本史を読みなおす」という

ご本はそれらの符号を書かれたものですが、主題は3.11の直後だけに防災・減災に結び付け

るものでした。しかも天正の大地震から以降のものでしたので、今自分で調べているところです。

 馬頭観音は、馬の守護仏として崇められてきました。東北は古来より名馬の産地として知

られていますし、農耕には欠かせないパートナーですので、下賜されたことも頷けます。

インドの古典仏教では、あらゆる衆生を六道輪廻の苦から救うとされていたようですから、

厳しい東北の生活から救済するという意味合いも含まれていたのかもしれません。

 観音様を収めた七日堂の前には、善男善女が長蛇の列をなしていました。露店も沢山

でていました。古くからの祭りの光景は心が和みます。日が落ちかけてきました。

 皆様が幸せでありますように祈りながら帰るとしましょう。

 

一月七日(土) 晴れ

     7:00 起床、朝食を済ませ、ランドリーへ。

    10:00 帰宅、PCに向かう。

    15:00 七日堂の縁日へ。

    16:30 帰途

 

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